恋、煩う。

「いいよな、女は。少し愛想よく笑ってりゃ、気に入られて気づけばその年で役職持ちだもんな」

妬み嫉みに恨みつらみ。全ての負の感情を綯い交ぜにした煮凝りのような黒目に、こちらへの情なんてひとかけらもありはしない。
そこでようやく気付いた。やっと理解した。
今の私は、妻でも、恋人でも、同期でもなく。
彼の自尊心を、劣等感を煽る、ただの化け物でしかないのだと。

「──……」

何か言おうとして、でも何も言葉にならなかった。
私の昇格を、素直に喜んでくれなくなったのはいつからだっただろう。
今にして思えば、恋人だった時期からお祝いの言葉を口にする彼の表情に、多少の陰りがあったように思う。
ただ笑っていただけで昇進できたわけじゃ無い。今の地位は真面目に努力してきた結果だと自負しているし、楽しいことばかりでも無かった。
だけど、初めてぶつけられた暴力的な力が。こちらの身を燃やすような心無い言葉が。
想像していたよりもずっと痛くて、何も言えなかった。

息苦しさに喘ぐ私を暫く鋭い眼光で睨みつけていた泰明は、ふと、その瞳から一切の感情をそぎ落とすと、突然興味を失ったかのように私を掴み上げる手をほどいた。
そして床に落とした缶を拾い、背を丸めながら気だるげにソファーへと戻っていく。
掻きこむように息を吸いながら、小さく咳を零し、その反動で目尻から涙が生れ落ちる。
それが、息苦しさから解放された安堵から来るものなのか、彼への恐怖心から来るものなのか、もう、私には分からなかった。




「え……沙織さん?」

パチン。軽い音と共に、瞼の外側が明るくなる。
いつの間にか沈んでいた意識をゆっくりと揺り起こすと、柔らかい光を纏う丸い瞳が、こちらを見下ろしていた。

「ごめん、私……」

身を預けていたソファーから体を起こしながら、寝起きで回らない呂律を動かす。
あの後、気づくと松崎くんのアパートまでやって来ていて、私は彼から貰った合鍵を、今日初めて使ったのだ。
いつの間にか日が暮れていて、随分と長い時間眠っていたんだなと思う。

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