恋、煩う。

「……そろそろ帰らないと」

そんな時間も刹那の間に終わりを告げ、私は自らの手で幸せな時間に終止符を打った。
ほんの一時間半程度の時間。この時間が永遠に続けばいいのに、と、揺蕩うような時間の終わりには、いつも詮無いことを夢想してしまう。
ソファから立ち上がろうとした手に、引き留めるように大きな手が重なった。暗褐色の双眸が、じっとこちらを見透かすように見つめている。

「ずっとここに居てもいいんですよ」

彼は、いつもそう言う。
無責任な言葉だ。だけど、もし私がその言葉に縋ってその通りにしても、彼はきっとその広い心で受け止めてくれるのだろう。それが分かるから、余計に苦しかった。掴んでも、引き寄せても、許されると分かっている手を自らの意思で振りほどくのは、泣きたくなるほどに痛い。
だからもう、誘惑しないでほしいのに、いつでもやわらかく温かな愛情で包み込んで、私のことを第一に考えてくれる彼は、これに関しては私の気持ちを汲もうとしなかった。それどころかきっと、折れてしまえとすら思っているのだろう。静かに燃える暗い虹彩がそう訴えていた。

「そういう訳にはいかないでしょ」

一瞬、詰まった言葉を飲み下して、冗談めいた声で返す。
そして今度こそ彼の手から抜け出して、立ち上がると鞄を肩に掛けた。そうすると彼も困ったような、少し拗ねたような表情で立ち上がり、さらっと私の鞄を奪い取る。

「送ります」

ぽん、と私の頭を軽く叩いた彼がそのまま横を過ぎ、玄関へと向かっていく。

「甘やかされてるよなあ……」

無意識のうちにぽつりと呟いた言葉は、「沙織さん?」と首を傾げながらこちらを振り向いた彼の仕草で搔き消えてしまうのだった。



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