【一部】倉敷柚子葉の浮世事情【完結】

肆ー三


 旅行の全貌を語りだす志恩と優月さん。
「今回のサプライズは、お前らの交際十年を記念して”熱海旅行”に決めてたんだ。中々予約が取れなかったんだぜ。参加者は倉敷家と八童家、楢野家と明神家、まあ所謂、”倉敷家派”の旧家が揃ってるってことだ。他の旧家は全員熱海のホテルに向かってる。葉月、帰ろうとしても無駄だからな?」
「ってことよ、葉月。旅費や宿泊代、その他もろもろの費用は八童家と倉敷家が払ってくれるわ。それに、実は呪いを抑制する”血清”も数日分は用意してたの。だから、絶対に帰らせないわよ」

 あまりの出来事に愕然とするしかなかった。

 志恩と優月さんのサプライズにより、俺と結衣ママは熱海の高級ホテルに泊まることとなった。

 江ノ島から車を走らせて数時間が経過。
 海沿いの有料道路を車が進んでいき、対向車が放つ前照灯の光が途切れた頃だったと思う。
 長時間の運転や俺の我が儘に振り回された事もあってなのか、結衣ママは疲れ果てていたらしく、泥のように眠っていた。

 代わりに車を運転していた明神さんは、「眠った方が良い。どうせなら後部座席に移ったらどうですか?」と俺に言い、トイレが併設してある脇道で車を停める。

 結衣ママを後部座席に残し、俺と明神さんはトイレ向う。

「一旦、ここで休憩しよう。どうせ先にホテルへ着いたところで嫌な気分を味わうかもしれない。トイレを済ませておきなさい」
 明神さんはそう言ってトイレの壁に寄りかかり、携帯電話を弄り始めた。

 何かに絶望したような明神さんの態度。彼は肩を落として壁に寄りかかり、頭を抱えていた。

 赤いネクタイを緩めた彼は、神に祈るように手を合わせて夜空を見上げている。
「明神さん。どうしたんですか?」
「ああ柚子葉さん。トイレは済ましましたか?」
「今は平気みたいです。多分、ホテルに着いてからもでも大丈夫かもしれません。それより、明神さんの体調の方が悪そうですけど」
「そうですね。実はこの熱海旅行、私は行くつもりがなかったんです」

 冷たい空気が脇道に吹き込み、ポツポツと雨が降り始める。
 
 旅行前、明神さんは”ある仕事”に専念しなければならなかったらしく、その仕事を放ったまま旅行に参加したので、旅行中はずっと仕事のことが頭から離れないらしい。
 それほど重要なものではないと言っていたが、明神さんの様子を見た限りでは重要なものだと思えてしょうがなかった。

 海沿いに作られた待避所ということもあってか、海から潮の香りを乗せた夜風が漂う。その直後、通り雨だったものが豪雨に変わった。
「仕事ですか。それだと気が抜けないですよね」
「ですね。実は昼間、水族館で仕事を済ませようとしたんですよ」
「ああ、もしかして私と結衣ママが邪魔しちゃったってことですか? そうだとしたら本当にごめんなさい」
「柚子葉さんのせいではないですよ。気にしないでください」

 俺はパーカーのフードを被り、明神さんと一緒に車へ戻る。彼は再び運転席に乗ったが、俺は後部座席で寝ている結衣ママの隣に座った。

 結衣ママの金髪から漂う甘い香り。人間が発するものとは思えない程、彼女の髪から漂う香りは甘くて愛おしさを感じ取れた。

 多分、彼女が実の母だからそういう風に思えたのかもしれない。

 眠っていた結衣ママを起こさないように腕を抱きしめたが、彼女は既に起きていたらしく、俺の体を抱き寄せてきた。
「ねえ結衣ママ」
「大丈夫よ柚子葉。今ね、不思議な夢を見たの。柚子葉が女子高生になって、寝坊したの。それでね……」

 記憶の中で見る夢。結衣ママが見た夢だと、俺は普通の女子高生として生活しているらしく、家にはスーツに身を包んだ皐月の姿やエプロンを着た自分がいたという。

 多分、いや、多分じゃない。結衣ママが見たという夢。
 それは、”ただの夢”でしかなく、彼女が思い描いた空想でしかないはず。

 事実、この記憶の海に飛び込む前の現実では、皐月は仕事に追われていて殆ど家には帰らない。
 それに、「普通の女子高生」というもの。俺は保健室登校の”普通ではない女子高生”だ。結衣ママが見ていたという平々凡々な普通の女子高生ではない。

「なかなか皐月お父さんが帰ってこなくてね。柚子葉と一緒に晩御飯の準備をしていたの」
 結衣ママはそう言って俺の手のひらを握り締めた。

 記憶の海に潜る時の注意その一。
 ”自分が未来からきた人物だと自主的に言ってはいけない”こと。

 喉まで上がってきた、「俺は未来から来た柚子葉だよ。学校にはあまり通えてないけど、心配しないでね」という言葉。

 俺は結衣ママが望んだような普通の存在にはなれなかった。
 神経質で引っ込み思案な性格、優しくされてしまえば誰にでも尻尾を振るような情けない存在。

 水族館にいた女子高生が言っていた通り、俺はもしかしたらクラゲのような無価値な存在なのかもしれない。
 
 ここから一年後の未来、俺は赤鬼に霊魂を奪われるし、それが原因でなくとも積極的に人と関りを持とうとしなかった。

 言いたくても言えないし、言ったとしても失望させるだけ。だから、俺は喉まで上がってきた思いを飲み込んだ。
「結衣ママ、こんな娘に育ってごめんなさい」

 そう言って俺は用意されていたブランケットを被り、眠りについた。

 それから数十分後、俺は肩を揺さぶり声を掛けてくる結衣ママに気づき、目を覚ました。
「どこーここ」
「柚子葉、見て見て凄いわよ!」

 結衣ママが伸ばした指を辿っていくと、そこには”熱海〇〇ホテル”というパネルが建物に張り付いていた。

 どうやら志恩が言っていたことは本当だったようだ。
 
 志恩の話によると、ホテルの最上階層を”八童家”の名義で貸し切りにしたらしく、八月七日までの二泊三日、俺たちはこのホテルで過ごさなければならないらしい。

 結衣ママは興奮や喜びのあまり、黄色い声を上げながらフロントを走り回っていた。
 
 フロントに近づき、俺は結衣ママの代わりに部屋のカードキーを受け取る。部屋番号は1701号室。番号からすると、俺たちが泊まる階層は十七階層の全てであるようだ。

 流石は八童家とだけ言える。
 どこから資金を調達しているのかは解らないが、いや、解からない方が良いのかもしれない。

 資金源が何であったとしても、俺と結衣ママは最上階の一室へ泊まることになった。

 志恩が江ノ島で言った通り、最上階層には”倉敷家派”と呼ばれる旧家の人間がうろついている。恐らく、今回の旅行の考案者である八童家がホテルに着くのを待ちわびていたのだろう。

 徘徊する人物たちに目を凝らして見ると、シゲシゲや千代子お祖母ちゃんの姿、志恩の実の妹である八童藤乃の姿もあった。

 その他にも俺の父、倉敷皐月が認知した子供の姿や母親の姿があり、所謂、腹違いの兄や姉といった者たちも旅行に参加しているようだ。

「残念ね。皐月は忙しくて手が離せないみたい」
 コーンアイスを片手に持った結衣ママ。彼女はそう言いながらアイスを食べ続けていた。

 自分の夫が不在のままだというのに、結衣ママはそんなに気にしていないようだ。
 もちろん、俺も彼女と同じ思いを抱いていた。

 倉敷皐月という人間は多くの側室を抱きかかえたクソ野郎だ。あんな奴、居ない方が丁度いいまである。
「ねえ結衣ママ、今日の夜ご飯はどうするの?」
「うーん。多分、みんなと一緒に食べないといけないかも。八童家の人たちだけでもいいから、挨拶しにいかない?」
「わかった。挨拶はするけど、食事は部屋で済ましたい」
「仕方ないわね。オッケーよ。じゃあ、着替えたら行こうか」

 寝室に置かれた分厚いベッドへと荷物を置き、俺と結衣ママはホテルが用意してくれた館内着に着替える。
 部屋から出た直後、何かに腹を立たせていたのか、皐月が倉敷家に迎えた二人目の側室の女性が現れた。

「どうしたんですか。○○様」
「どうしたもこうしたもないわよ! 倉敷結衣、身の程をわきまえなさい! なんであなた達が一等室なのよ!」
「見苦しいですよ○○様。部屋なんてどこでも一緒じゃないですか」
「こんなの納得できない。皐月は何処なのよ? 結衣、貴女知ってるんじゃないの?」
 第二夫人の○○さん。彼女は自分の部屋のグレードが気に食わないらしく、結衣ママに突っかかってきた。

 それからブツブツと小言ばかりを並べる○○さん。だけど終始、結衣ママは何食わぬ顔で彼女の小言を聞き続けていた。

 何を言っても動じない結衣ママ。彼女はずっと○○さんの事を哀れむような目付きで、いや、我が儘を言い続ける子供をあやす母のような柔らかな目付きで見つめ、○○さんが言い終えるまで見守っていた。

 そんな結衣ママに腹が立ったのか、一呼吸ついた○○さんは、動じない結衣ママにビンタを放とうとする。
 しかし、彼女のビンタを警戒していたのか、結衣ママは彼女が振りかざした腕を握り、発狂する○○さんの親密距離にまで迫った。

 息づかいや吐息が聞こえる親密距離。結衣ママは彼女の懐に忍び込み、何かを耳打ちした。
 
「○○様、皐月の気を惹きたいのは皆――です。でも、気を惹けないからと――浮気するのは善行だと思えませんよ」
 結衣ママが言った。

 ○○さんが恐れるような何か。
 ここからでは良く聞こえなかったが、○○さんが恐れているような後ろめたい何かを知っているらしく、結衣ママは○○さんの手のひらを両手で包み込んだ。

 ほんの僅かだが、「皐月にバラしちゃいますよ」という言葉が聞こえた。どうやら結衣ママは○○さんの弱味を握っているらしい。
 それから数秒もせず、○○さんは廊下を振り返って踵を返した。

「ねえ柚子葉、ビックリさせちゃってごめんね」
 結衣ママはそう言って俺に手をさしのべる。

 どうして結衣ママは○○さんの弱味を知っていたのだろう。○○さんと結衣ママには殆ど接点がない立場だ。
 結衣ママという存在は、倉敷皐月が最後に妾として迎い入れた最後の妻。第二夫人である○○さんに口を利けるような立場でもないし、その他の妾たちとも関係は持っていなかったはず。
 
 あったとしても、倉敷家の屋敷内で顔を合わす程度だし、それほど関わりを持っているようにも思えなかった。俺の知らないところで会話をしているのなら、結衣ママが○○さんの秘密を知っているのも納得できる。

 いや、納得できないか。わざわざ自分自身が不利になるような事を○○さんが喋るようにも思えない。
「うーん?」
「どうしたの柚子葉」
「ねえ結衣ママ。どうして○○さんの秘密を知ってたの?」
「あれ? 柚子葉には教えてなかったっけ。実は結衣ママは”超能力者”なの。触れただけで相手の心を読み取れるんだ」

 結衣ママはそう言って膝を抱えてしゃがみ込み、俺の手のひらを強く握りしめた。その直後、俺の胸ポケットに入れていた”天狗避けの御守”から指先へと電流が流れる。

 彼女の能力を拒絶するように流れた電流。
 本当に結衣ママは超能力者なのだろうか。
 
「あら、静電気かしら。それじゃあ挨拶に行きましょう」
 彼女はそう言って廊下を進み始めた。俺は置いて行かれないように後を歩く。
 
 結衣ママは自分を”心が読み取れる超能力者”だと言っていたが、それは本当なのだろうか。その能力が本当であれば、○○さんの弱みを握るのも容易い。
 だけど、納得できないこともある。

 彼女が”触れた相手の心を読み取れる”のだとしたら、俺が未来から精神だけを過去に潜らせたことも知っているはずだ。
 心を読み取れる条件が”相手に触れる”というものであれば、結衣ママは俺と何度も手を繋いでいるから俺の心を読める。

「どうしたの柚子葉。八童家の人たちに挨拶しに行きましょう」
 触れただけで”相手の心を読み取れる”という能力。もしも彼女の能力が本物であるならば、俺は結衣ママさえも警戒しなければならない。

 過去の記憶に戻る際の注意点その三、”黄泉の国の鬼との戦闘は避ける事”。

 鬼たちの出現条件が解からない以上、記憶の海の人物たちに存在を明かしてはならない。
「何でもないよ。さっさと挨拶に行こう」

 それから俺と結衣ママは、八童家や楢野家、明神家や狭間家といった倉敷家派の次代当主たちの元へと向かった。
< 36 / 44 >

この作品をシェア

pagetop