【一部】倉敷柚子葉の浮世事情【完結】

壱ー五


 トウモロコシ畑に足を踏み入れる。
 一株一株の高さが俺の身長を上回り、そのせいで方向感覚が鈍くなり、俺の口の中が乾いていく。

 思わずシゲシゲの為に用意した水筒を見る。
「少しだけ飲んでおこう」

 閉じ切った封を開ける。
 水筒の飲み口から麦茶が体内に流れ込んだ。

 炎天下のトウモロコシ畑を見渡す。
 どこまでも続いていく一本道を睨み、雲1つない青空を見上げ、乾ききった地面を見下ろす。
 
 株の間に作られた小道を歩いていけばいい。ただ、それだけなんだ。
「大丈夫だ。今は真っ昼間。それに鬼避けの護符も持ってる。妖怪に会うことはないはず」

 そう自分自身に言い聞かせる。何度も何度も。

 トウモロコシのヒゲが頬をかすめながらも、一歩ずつ前に進む。
 
 普通の高校生なら、すぐにシゲシゲに追いつけるかもしれない。
 
 だけど、俺は普通の高校生ではない。
 保健室通い。保健室登校。呼び方はなんでもあると思うが、引きこもりには間違いない。

 数分、数十分は歩き続けたのかもしれない。そこで俺の体力が尽きた。
「もう歩けない。ったく、シゲシゲは何処に行ったんだよ」

 倉敷家の広大な敷地内に存在するトウモロコシ畑は、あくまで倉敷家の一画に存在する畑でしかない。
 無論、シゲシゲが管理する作物はトウモロコシだけではない。

 一ヘクタールはあるのかもしれないトウモロコシ畑を歩き続ける。
 株の間に作られた一本道を歩いていくと、十字路に到着した。
「シゲシゲは何処に向かったんだろう」

 再び水筒に手を伸ばし、麦茶を飲む。
 水筒の麦茶は半分を切っていた。
 
 十字路をまっすぐ進んだ。
 いずれは、この広大な畑を管理しなければならない。

 特に進学を考えてなかった俺は、将来はお祖父ちゃんの家に住もうと思っている。
 そもそも学校に通っている訳ではなかったから、勉強なんてできない。

 この小さな町。河口町という小さな町が、俺の居場所になる。
 そんなことを思っていると、数十メートル先から誰かの声が聞こえた。

 背丈まで伸びたトウモロコシ畑は、俺の方向感覚を鈍らせている。
 声に導かれるよう畑へと入っていき、聴覚を研ぎ澄ませた。
「柚子。こっちだ。こっちに来い」との声が聞こえた。

 やっと追いついたと思い、再び水筒の麦茶を飲む。
「シゲシゲ。もっと大きな声でお願い」
「柚子……柚子」
 
 額から流れる汗をジャージの袖で拭い、声のする方へと進んでいく。
「こっちだ柚子。こっちにこい」
「聞こえてるって! そんなにあせんなよ……」
「早くしろ! 柚子に見せたいものがある」
「なんだよ見せたいものって。どうせトウモロコシだろ! ここに来るまでに何本も目に入ったよ。あ、それと、持ってきた麦茶だけど、ほとんど飲んでやったからな」

 徐々にシゲシゲの声が近くなる。
 背丈まで伸びるトウモロコシの株をかき分ける。そこにはシゲシゲの後ろ姿があった。

 農作業帽子で顔を覆ったシゲシゲの姿が目に入る。
「なあシゲシゲ。見せたいものってなんなんだよ」
「ほれ、”使い鴉”じゃ。倒れてたんでな、世話をしてあげてたんだ」

 こちらを振り向くシゲシゲを目で追う。
 彼が抱きかかえていた(からす)には、見覚えがあった。

 鉄のネームプレートを首からぶら下げている鴉。
 きゅうりが好きそうな鴉。まあそれは俺が勝手にそう思ってるのだけかもしれないけど。

 シゲシゲが抱きかかえていた鴉に近づき、頭を撫でてあげる。
「こんにちは、ヤタ君。君はやっぱりトウモロコシ派だったんだね」
「なんだ。コイツと知り合いなのか?」
「まあな。コイツの名前はヤタ君。昨日の昼に助けてあげて、夜にも助けてあげた。俺はコイツに2回、恩を着せてる」
「そうか。馬鹿に人懐っこい鴉だと思ったが、そういう事だったのか」

 ヤタ君の喉に手を当てる。猫とまではいかないが、喉がゴロゴロ震えているのがわかる。

 人懐っこくてバカ……アホで、可愛い鴉。

 俺の知り合いだと理解してくれたらしく、シゲシゲは鴉を抱きかかえさせてくれた。
「ごめんなシゲシゲ。麦茶を持ってきてやったんだけど、途中で飲んじゃって、ほとんど空っぽだ」
「ああ。そのことだが――」

 背負っていたカゴを地面に下ろすシゲシゲ。
 敷き詰められたトウモロコシに手を突っ込む。抜き取った手のひらには、大きな水筒が握られていた。
「すまんな柚子」
「なんだよ。持ってたんなら先に言ってくれよ」
「まあそんなことを言うな。千代ちゃんが心配してるだろうし、柚子は先に帰っとれ」
「えーここまで来てやったのに、手ぶらで帰らせるつもりかよ」
「なんじゃ。またお小遣いが欲しいのか?」
「要らねえよ、そんなもの。とりあえず麦茶を分けてくれ。帰る途中でぶっ倒れたらこまるし」

 頭をグイっと後ろに下げるシゲシゲ。水筒を抱きかかえ、身悶えるような気持ち悪い動きをしている。

 良い歳した八五歳の爺さんがする動きじゃない。明らかに幼気な女の子がする動きだった。
 シゲシゲは麦茶を分けたくなかったようだ。それなら仕方がない。

 踵を返すようにシゲシゲの方向から後ろに振り返る。
 微笑むシゲシゲの姿が、目に浮かぶ。

 ホッと溜息をつくシゲシゲ。彼が油断していると思い、俺は微笑みながらシゲシゲの方へと振り返る。
「残念だったなシゲシゲ。水筒は貰っておくぜ」
「な、いつの間に――」

 右腕から浮かび上がった俺の霊魂は、腕の形を成して、シゲシゲの水筒を掴み上げていた。
 
 十年前の九月二十日。
 赤鬼である鬼童丸から霊魂を奪われた俺は、その数週間後から、ある能力が使えるようになった。
 
 肉体に宿る霊魂の半分を奪われたこと。
 そのことで俺の体に残った半分の霊魂は、自由自在に体から出入りするようになった。

 実体化する幽体離脱のような能力。
 それが俺の”浮世離れした日常”だ。
 
 シゲシゲや千代子お祖母ちゃんの話によると、赤鬼に霊魂の半分を奪われたことにより、俺の霊魂は不安定な状態に陥ってしまったらしい。

 本来ならば、死期が迫った人間や奇怪な体験をした人物にしかできない芸当だという。
 この能力に気づいたとき、俺の退屈な常世は、浮世へと変わったと確信した。

 幽体となった腕を引き戻し、手のひらに水筒を握る。
「これは貰っておくぜ、シゲシゲ!」
「こら! むやみに、その力を使うな!」

 シゲシゲは、浮世離れした幽体離脱という能力の使用を心配しているらしい。
 
 だけど、この能力は俺にとって必須な存在。
 特別な人間として扱われる唯一の手段。
 俺という不確かな存在を、この常世に留めておく大切な力だった。

 トウモロコシ畑を駆け抜ける。トウモロコシの穂先や絹糸が頬をかすめる感覚。

 俺は生きている。生を実感していた。

 シゲシゲに見つからぬよう、株の間にできた小道から外れる。
「おーい柚子! 何処にいったんじゃ!」
「こっちだよ!」

 小道を通るシゲシゲの姿が目に入る。それを目で追う。

 安堵の息が漏れる。その時。背後から物音がした。
 葉がカサカサと音を立てるのが聴こえる。音のする方へと視線を送る。

 何かがいる。俺やヤタ君、シゲシゲ以外の何か。
 聴覚を研ぎ澄ませる。
「…………」
「おーい! 柚子!」

 畑の中を突き進むシゲシゲの姿が目に入った。
「なんだよ、シゲシゲか。脅かしやがって……」
「どこにいるんじゃ! 柚子!」
「こっちだよ、シゲシゲ」
「なんじゃ、そんなところにおったのか」

 シゲシゲの声のする方へと突き進み、シゲシゲと対面する。
「あれ? カゴはどうしたの?」

 シゲシゲの背中に目を向ける。そこにはさっきまで背負っていたカゴがなかった。
「重くて置いていったんじゃ。それより柚子、はやく屋敷に戻るぞ」

 熱中症予防の農作業帽子で顔を覆ったシゲシゲ。持っていた鎌を小道の方に向ける。
 そこには、確かにトウモロコシを敷き詰めたカゴが置いてあった。
 
 それから俺は、シゲシゲと一緒にトウモロコシ畑を突き進んだ。
 前を先導するシゲシゲの後ろをついていく。

 ヤタ君を抱いていた俺は、前を歩くシゲシゲに呟く。
「なあシゲシゲ。やっぱり、お前も”ボイン”が好きなのか?」
「ボイン? ああ、千代子に見られたピンク本の話か」

 小道を通り抜ける風が、俺とシゲシゲの体をすり抜けた。
 
 ほんの一瞬、時が止まったような気がした。
 
 倉敷家のトウモロコシ畑は、一ヘクタール強ある。ここからでは屋敷が小さく見える。
 
 額から流れる汗が冷たく感じた。

 ヤタ君を抱いていた腕に力が入る。
 前を歩き続けるシゲシゲに向かって呟く。
「なあシゲシゲ。今日の柚子って可愛い?」
「お前、頭でも打ったのか?」

 こちらを振り返るシゲシゲ。顔を覆っていた農作業帽子を手に持ち、近づいてくる。
 
 俺は思わず息を呑む。
 そこには、いつものシゲシゲの笑みが紛れもなく存在していた。
「打ってねえよ。それより、さっさと千代子お祖母ちゃんのところに戻ろうぜ」
「そうじゃな。千代子も待ってるだろうし、早く屋敷に戻るか」

 カーっ。と、一声鳴くヤタ君を抱きしめる。
「なんだ。腹でも減ってるのか?」

 コクリとうなずくヤタ君に、小さく微笑む。
 屋敷まで十数メートル、数メートルの距離まで近づく。
 
 もう少しで、俺の”浮世”が”常世”へと戻る。
 
 胸の鼓動音に気づかれないよう、ジャージに縫い付けられた鬼避けの護符に手を当てる。
 冷え切った指先に力を込め、俺は立ち止った。

 平然を装うしかなかった。
「なあシゲシゲ。千代子お祖母ちゃんのどこに惚れたの?」

 立ち止った俺の方を振り返るシゲシゲ。
 顔を伏せるように地面を見ていた俺は、覗き込むように、しゃがんだシゲシゲと目が合う。
「そりゃあ、もちろん。千代子のボインが――」

 シゲシゲの言葉を遮るように、俺は呟いた。
「ねえ”葉月兄さん”どうして俺を置いて行ったの」
「……」

 シゲシゲは、そっと農作業帽子を被りなおした。
「何を言ってるんじゃ柚子葉。ワシは葉月じゃないぞ」
「嘘ついてんじゃねえよ。シゲシゲはなあ! 千代子お祖母ちゃんを呼ぶときは、”千代ちゃん”ってしか呼ばねえんだよ!」

 俺の大きな叫び声は、屋敷にまで届いたようだ。

 屋敷までの一本道を遮るように座るシゲシゲ。
 その後ろには、俺の叫び声に気づいた本物のシゲシゲが佇んでいた。

 帽子を被り、しゃがんでいた男は、小さく呟いた。
「さすがは沙華(さはな)姫の生まれ変わり、といったところですね」

 十年前の感覚が蘇る。
 恐怖で指先に力が入らず、足先に力が入らず、全身に力が入らなくなる。

 まただ。また”沙華姫”と言われた。
「俺は、俺は倉敷柚子葉だ。沙華姫なんかじゃない」
「その反応。そう反応すると”玉藻前様”が仰っておりました」

 誰だ。玉藻前って。
 
「走れ柚子!」
 恐怖で動けなかった俺は、シゲシゲの声に反応して体を動かした。
 
 偽物のシゲシゲの横をすり抜けようとする。その時。シゲシゲの偽物が覆っていた農作業帽子から顔が見えた。

 間違いない。葉月兄さんだ。

 男の顔は、紛れもなく葉月兄さんの顔をしていた。

 襲われると思った俺は、転びながらも屋敷の庭園に飛び込む。でも、シゲシゲの偽物に足を引っ張られた。
 
 鎌を振り下ろす男の姿が目に入り、もうだめだ。と思った俺は、目を瞑る。
 だが、一向に鎌は振り下ろされなかった。

 恐る恐るシゲシゲの偽物を見上げる。
 そこには、伏見衣裳に身を包んだサングラスを掛けた志恩の姿があった。

 鎌を錫杖で受け止める志恩。
 薙刀を担いで駆け寄るシゲシゲ。
 金砕棒と化した物干し竿を片手に持つ千代子お祖母ちゃん。

 俺の足を掴んでいた男は、「状況が悪いな。出直させてもらおう」と呟き、足から手を離した。
 シゲシゲの偽物は、トウモロコシ畑に姿を消した。

 一瞬の、あっという間の出来事だった。
 
 俺は志恩に近づく。
「志恩。てめえ――今まで何やってたんだよ」
「待たせたな柚子葉。あんだけきゅうりを食わせられたら、恩を返さなきゃならねえよな!」
「志恩。お前、もしかしてヤタ君なのか?」
「何言ってんだ! コイツはただの式神だ。何度も合図を送ってたのに、気づかなかったんか?」

 抱きかかえたヤタ君を目で追う。
 そこには困り果てたヤタ君の姿があった。

 合図? 合図って何のことだ?
 
 志恩がなんの事を言ってるか考えたが、思い当たる節がなかった。
「意味が分かんねえよ。なんなんだよ合図って!」
「ほら、窓ガラスを小突く音が、モールス信号みたいだったろ? あれを仕込むのには、何年も掛かったんだぞ!」
 
 俺は耳を疑った。
 確かにヤタ君の突き方には一定の間隔があった。だけど、それがモールス信号だなんて理解できるか!
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