政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
私はリンドバルク侯爵邸の廊下に立ち、目の前の肖像画を見上げていた。

そこには先代侯爵とその妻が描かれている。

描かれたのは侯爵夫妻の結婚直後。今から三十年前。

その一年後伯爵夫人は二人の息子であるルイスレーンを出産した。

それからさらに二年後、夫人が二人目の子どもを妊娠中に病で亡くなり、三年前に侯爵が馬車の事故で亡くなった。

侯爵家では主が結婚すると夫婦で肖像画を飾るため、二人の肖像画の横には一人息子である夫と私の肖像画が飾られる筈だ。

しかし、夫は遠征中のため肖像画を描く時間もなく、ここに肖像画が飾られるのはもっとずっと先になるだろう。

マリアンナ曰く、夫はこの肖像画の先代侯爵に似ているということだ。

とすれば、かなり男前の部類に入るのではないだろうか。

目鼻立ちのはっきりしたいかにも武人といった面差し。引き結んだ口元は意思の強さがうかがえる。

侯爵の髪色はダークブロンドで、夫人は明るいアッシュブロンド。その息子である夫は父親の髪色を継いでいるらしい。

瞳の色は肖像画ではわからないが、母親の瞳の色に似ているらしい。と言うことは、明るい色なのだろう。光の具合で見え方が変わるらしく、覗き込んだ人がいないので何色とは言い難いということだ。

「奥様ならじっくり見ることができるかもしれませんね」

妻ということで誰よりも近しい存在だと言っているのだろうが、そんな日が来るのかどうかも怪しい。

目覚めてから何度か医者の診察を受けたが、記憶を失くしたこと以外はいたって健康という診断結果だった。

最初、私を腫れ物のように扱っていた使用人たちも、記憶喪失以外は特に変わりのないことがわかると、だんだんと接し方が変わってきて、今では普通に使用人と主の距離感を保っている。

表向き、私は記憶を失くしているだけだと思われている。如月愛理の記憶があることは周囲には黙っている。
タダでさえ記憶喪失という特殊な状況で、前世だかわからないが他の人間の記憶があるなど、場合によっては多重人格ととられかねないからだ。

ほうっとため息を吐いて下を向く。ずっと肖像画を見上げていたので首が疲れた。

「奥様、そろそろお部屋に戻りますか?」

少し離れたところに立っていたメイドのマディソンが心配して声をかけてきた。
刃物で自分を傷つけようとして以来、マリアンナが私に付けているメイドだ。

「そうね……付き合わせてごめんなさい、マディソン」
「いえ、私のことはお気遣い無用です。大変なのは奥様ですから……記憶を失くされて、旦那様もずっとお留守でお寂しいでしょう」

「……寂しい……」

マディソンの言葉に夫がいなくて私は寂しいのだろうかと考えていた。

どんな姿かも思い出せず、結婚式の翌日には遠くへ行ってしまった人を、クリスティアーヌはどう思っていたのだろう。

自室に戻って自分の部屋にある書き物机に座って考える。

最初に私が目覚めたのもこの部屋だった。

ここは侯爵家の女主人に宛がわれる部屋で、大きな寝台とクローゼット、書き物机と椅子、読書をしたり昼寝をしたりできる長椅子に応接セット等が揃えられていた。

書き物机には引き出しがついていて、その中のひとつに私は手を伸ばして開けた。

そこにはいくつかの手紙の束が入っていた。
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