政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
「大変な時に申し訳なかったね」

応接室の黒いソファに向かい合わせに座る加賀が申し訳なさそうに言う。
由梨はゆっくりと首を横に振った。

「いえ……。こちらこそ、わざわざ来ていただいて申し訳ありませんでした」

メッセージにもっと早く気が付いていればと思う。

忙しい彼に時間を割いて寄ってもらったことがただ申し訳なかった。

「あの、こちらです。室長にそのまま渡していただけるとわかると思います」

茶封筒を差し出すと彼は頷いて受け取った。

その彼を見ながら由梨は少し居心地が悪いような気分になる。

まさか彼が一人で現れるとは思っていなかったからだ。

もちろん車には運転手が待機している。
でも普段の外出なら蜂須賀を伴っていることがほとんどなのに。

とはいえ、どうして一人なんですか、とは聞けなかった。

「社長に、お線香をあげさせてもらいたいと思ったんだが」

加賀が言う。
律儀な人だと由梨は思った。

忙しい中、彼は通夜にも告別式にもちゃんと出席していたというのに。

もしかしたら彼が自ら書類を取りに来たのは、このためだったのだろうか。

「……お骨は、東京の本家に帰ってしまったんです。すみません」

由梨は小さな声で謝った。

「そう」

加賀はそう言って、しばらく沈黙してから口を開いた。

「それは……寂しいね」

由梨は思わず唇を噛む。

息を止めてお腹にぐっと力を入れた。そうしていないと、涙が溢れてしまいそうだったからだ。

父のお骨は告別式後すぐに東京へ帰されてしまった。
すべては親戚たちの都合なのだ。
そもそも告別式をこの街でやること自体も彼らは大反対だった。東京からわざわざここまで来なくてはならないから。

でも出席するであろう北部支社の関係者のことを考えて我慢した。
だから告別式が終わってすぐに、四十九日は絶対に東京でやると言ってお骨は本家に持って帰ってしまったのだ。

その決定に由梨の気持ちは少しも聞いてもらえなかった。

たとえお骨になったとしてもそばにいたいという由梨の願いはまったく聞き入れられなかったのだ。

いつものことだといくら自分に言い聞かせても、寂しいという気持ちはどうしようもない。
それを不意打ちのように言い当てられて、由梨は返事をすることもできなかった。

うつむいて、涙ぐんでしまっていることを隠すのが精一杯だ。
なにも言えない由梨の代わりのように加賀がまた口を開く。

「あまり気を落とさずに、というのは無理だろう。だが困ったことがあったら言ってくれ。力になるよ」

おそらくは社交辞令でしかない彼の言葉を由梨は虚しい思いで聞く。
父が亡くなってから、このような言葉をかけられたのははじめてのことだったからだ。

東京から血のつながった親戚がたくさん来たというのに、誰も由梨に対して温かい言葉をくれなかった。

由梨の方もそれを期待していたわけではないけれど、こんな風に由梨を気遣う言葉をくれたのが、まったく関係のない人物だったことが由梨の孤独を象徴しているようだ。

これから自分はあの親戚たちの中でたったひとりで生きていかなくてはならないのだ。

「ありがとうございます」

暗澹たる思いで由梨は答える。
加賀が頷いてまた口を開いた。

「それから君の勤務についてだが、今週いっぱいは休みにした」

由梨は顔を上げた。

「え……? でも……」

会社の規定どおりなら、由梨の忌引は明日までであるはずだ。
今日は月曜日だから今週いっぱい休むとしたら、三日も多く休みをもらうことになる。
それについて加賀が穏やかな口調で説明をする。

「急なことだったからね。君のお父さんも、君も特殊な立場だし、やらなくてはいけないことはたくさんあっただろう。それに、こういう時は少し経ってから疲れが出るものだ。今週いっぱいはゆっくりする方がいい。仕事の方は心配しなくて大丈夫だから」

労わるように彼は言う。
その言葉を、由梨は素直に受け止めることができなかった。

「……ありがとうございます」

小さな声でそう言ってまたうつむいた。

北部支社の秘書室に所属しているとはいえ、もともと由梨は父についてここへきた社員で、仕事内容も父のサポートが主だった。
つまり父亡き今、会社にいる意義はなくなったというわけだ。

会社を実質的に動かしている加賀が、由梨たち親子を邪険に扱ったことはない。
でも気を遣わなくてはならない存在だということは確かで、疎ましく思っていても不思議ではない。

今このタイミングで由梨に休めと彼が言うのは、もう会社には来なくていいというメッセージなのだろうかという卑屈な考えが頭に浮かんだ。

「じゃあ、そろそろお暇するよ。大変な時に申し訳なかった」

そう言って加賀は立ち上がる。

由梨も彼に従って、門のところまで彼を見送る。外は相変わらず風が強く吹いていた。

「わざわざ来ていただいたのに、お焼香もしていただけなくすみませんでした」

黒い車のそばまで来て、由梨は改めて彼に詫びる。
加賀が振り返り、穏やかな眼差しを由梨に向けた。

「いや、君が心配でもあったからね。顔を見られてよかったよ」

そして少し考えてから、由梨を真っ直ぐに見た。

「月曜日、待ってるよ」

そう言って由梨が答えるより先に、冷たい風に少しクセのある髪をなびかせて、彼は車に乗り込んだ。

黒い車が坂を降りていくの見つめながら、由梨はキュッと唇を噛んだ。
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