『政略結婚は純愛のように』番外編集
花火大会
ドーンドーンと花火が上がる音が街に響いている。
由梨は加賀家のリビングから夜空に散る大輪の花を眺めていた。
市内の中でも高い場所にあるここからは、少し小さいけれど打ち上がる花火がよく見えた。
この日のために秋元と一緒に選んだ紫陽花模様の浴衣を着て、花の髪飾りをつけて、普段よりも少し入念にメイクをして。
自宅からひとりで花火を観ているというのに、着飾っているのにはもちろんわけがあって……。
ドドドーン!
ひときわ、大きな音を立てて、連続で色とりどりの花火があがり、一瞬街が昼間かと思うほど明るくなる。
「フィナーレかな……」
由梨がそう呟いた時——。
「ただいま」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、スーツ姿の隆之が帰ってきていた。
「隆之さん、おかえりなさい」
「今のでおしまいか、ごめん……」
鞄と手にしていた紙袋をテーブルに置いて由梨のところへやってきた彼は、申し訳なさそうに静かになった夜空を見上げる。
由梨は首を横に振った。
「仕事なんですから、仕方がないですよ」
本当は今夜花火大会の会場へふたりで行く予定だったのだ。
今日は土曜日。隆之は朝から仕事が入ってはいたものの夕方までには帰ってこられるはずだった。でも途中、トラブルが起きたようで花火大会が終わるまでに帰ってこられなかったのだ。
「隆之さん、お疲れさまです」
なおも申し訳なさそうにする隆之に由梨は言う。
花火大会に彼と行けなかったことは残念だが仕事ならば仕方がない。
むしろ、間に合わないという連絡が入ったのは随分前だというのに、浴衣姿のままでいた自分を申し訳なく思った。
由梨としては、たとえひとりでリビングからだとしても花火を観るなら浴衣のままで……と思っただけのだが、彼にしてみれば由梨が楽しみにしていたことが目に見えてわかってしまい罪悪感を覚えるのだろう。
「浴衣のままでごめんなさい。着替えていればよかったかな……」
うつむいてそう言うと、隆之がにっこりと笑って、由梨を腕の中に閉じ込めた。
「なんで謝るんだ。浴衣姿の由梨を見られて俺は嬉しいよ」
そう言って由梨の頬にキスを落とした。
「な、ならいいですけど……。でも思ったより早く帰れたみたいでよかったです」
「まあね。深刻な事態にならなくてよかったよ。ギリギリ花火大会に間に合うかと思ったけど、車が混んでて無理だった」
はじめに連絡をもらった時は、今日中に帰られるかどうかわからないという話だった。内容までは知らないが彼が抱えるトラブルは会社にとっては一大事、深刻な事態にならずに収まったというなら、社員である由梨としても安心だ。
「よかったです」
「そうだ、今日の件の相手方が土産をくださったんだ。由梨の好きな日本酒だ、後で一緒に飲もうか」
「わ、嬉しい!」
ふたりして彼の鞄が置いてあるテーブルのところへ戻る。受け取った紙袋から日本酒を取り出した由梨は、あるものに気がついて呟いた。
「お酒と一緒に線香花火が……」
隆之がシャツの襟もとをくつろげながら口を開いた。
「そういえば、夏の間キャンペーンで配ってるって言ってたな。少しだけど、奥さんとどうぞって」
そしてリビングの向こうの庭に視線を送る。
「せっかくだから今からやる?」
「やりたいです!」
思わず由梨は大きな声で答えてしまう。そしてすぐに頬を染めた。子供みたいにはしゃいでしまったのが恥ずかしかった。
どうやら、花火大会へふたりで行けなかったことを、自分で思っていたよりも残念に感じていたようだ。
夜も昼もなく忙しく働く彼と由梨がふたりで出かける機会はそう多くない。結婚してからも数えるほどしかないのだから。
夜空に咲く、大輪の花は綺麗だった。
ふたりで観ることは叶わなかったけれど、忙しい日々の中のひとときの夏の夜の余韻に、もう少し浸っていたかった。
「すみません、はしゃいじゃって……。花火なんてもう何年もやってなかったから……」
言い訳をするように由梨が言うと、隆之が由梨の頭をそっと撫でる。そして柔らかく微笑んだ。
「着替えてくるよ」
パチパチと音を立てて、オレンジ色の火花が散る。由梨はそれを幸せな気持ちで見つめていた。
さっき夜空に散っていた花とは比べ物にならないくらいひかえめな花。でもさっきの花火よりも綺麗に思えるのが不思議だった。
花火越しに隆之が由梨をじっと見つめている。
「綺麗だ」
甘い響きを帯びたその声音に、頬が熱くなるのを感じて由梨は目を伏せる。彼は花火のことを言っているのだ、と自分自身に言い聞かせた。
「火花の形が変わっていくのが不思議ですよね」
頬の火照りに気づかれないように由梨が言うと、彼は手元の線香花火に視線を送る。そしてその存在に初めて気がついたかのような表情になった。
「ああ、まぁそうだな。それにしても何年ぶりかな、手持ち花火をやるのは」
「私も久しぶりです。もしかしたら子供の頃以来かも。学生時代に、友だちと集まってやろうって言ったりしてたけど、夜の外出はいい顔されなかったから、結局毎年参加できなくて……」
「学生時代か、そういえば俺も誘われたかな。だけど暑いのは苦手だし、騒ぐのも嫌いだから断ってた。でも由梨となら、なんでもやりたいと思えるのが不思議だな」
そう言って隆之はまた由梨をじっと見つめる。大好きな彼の瞳に、由梨の胸に温かいものが広がった。
……今夜のことはきっとずっと忘れない。
そんなことが頭に浮かんだ。
花火をふたりで観られなかったという残念なはずの出来事が、こんなにも特別で幸せなことに思えるのが嬉しかった。
彼の存在が、自分の世界を特別なものにしてくれる。由梨にとって彼と一緒に過ごす時間は、いつだってたくさんの色に彩られているのだ。
線香花火が白い煙を残して消えても由梨の中の温かな想いはそのまま胸に残っていた。
「由梨、愛してるよ」
近づく隆之の視線に、由梨はゆっくりと目を閉じた。
由梨は加賀家のリビングから夜空に散る大輪の花を眺めていた。
市内の中でも高い場所にあるここからは、少し小さいけれど打ち上がる花火がよく見えた。
この日のために秋元と一緒に選んだ紫陽花模様の浴衣を着て、花の髪飾りをつけて、普段よりも少し入念にメイクをして。
自宅からひとりで花火を観ているというのに、着飾っているのにはもちろんわけがあって……。
ドドドーン!
ひときわ、大きな音を立てて、連続で色とりどりの花火があがり、一瞬街が昼間かと思うほど明るくなる。
「フィナーレかな……」
由梨がそう呟いた時——。
「ただいま」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、スーツ姿の隆之が帰ってきていた。
「隆之さん、おかえりなさい」
「今のでおしまいか、ごめん……」
鞄と手にしていた紙袋をテーブルに置いて由梨のところへやってきた彼は、申し訳なさそうに静かになった夜空を見上げる。
由梨は首を横に振った。
「仕事なんですから、仕方がないですよ」
本当は今夜花火大会の会場へふたりで行く予定だったのだ。
今日は土曜日。隆之は朝から仕事が入ってはいたものの夕方までには帰ってこられるはずだった。でも途中、トラブルが起きたようで花火大会が終わるまでに帰ってこられなかったのだ。
「隆之さん、お疲れさまです」
なおも申し訳なさそうにする隆之に由梨は言う。
花火大会に彼と行けなかったことは残念だが仕事ならば仕方がない。
むしろ、間に合わないという連絡が入ったのは随分前だというのに、浴衣姿のままでいた自分を申し訳なく思った。
由梨としては、たとえひとりでリビングからだとしても花火を観るなら浴衣のままで……と思っただけのだが、彼にしてみれば由梨が楽しみにしていたことが目に見えてわかってしまい罪悪感を覚えるのだろう。
「浴衣のままでごめんなさい。着替えていればよかったかな……」
うつむいてそう言うと、隆之がにっこりと笑って、由梨を腕の中に閉じ込めた。
「なんで謝るんだ。浴衣姿の由梨を見られて俺は嬉しいよ」
そう言って由梨の頬にキスを落とした。
「な、ならいいですけど……。でも思ったより早く帰れたみたいでよかったです」
「まあね。深刻な事態にならなくてよかったよ。ギリギリ花火大会に間に合うかと思ったけど、車が混んでて無理だった」
はじめに連絡をもらった時は、今日中に帰られるかどうかわからないという話だった。内容までは知らないが彼が抱えるトラブルは会社にとっては一大事、深刻な事態にならずに収まったというなら、社員である由梨としても安心だ。
「よかったです」
「そうだ、今日の件の相手方が土産をくださったんだ。由梨の好きな日本酒だ、後で一緒に飲もうか」
「わ、嬉しい!」
ふたりして彼の鞄が置いてあるテーブルのところへ戻る。受け取った紙袋から日本酒を取り出した由梨は、あるものに気がついて呟いた。
「お酒と一緒に線香花火が……」
隆之がシャツの襟もとをくつろげながら口を開いた。
「そういえば、夏の間キャンペーンで配ってるって言ってたな。少しだけど、奥さんとどうぞって」
そしてリビングの向こうの庭に視線を送る。
「せっかくだから今からやる?」
「やりたいです!」
思わず由梨は大きな声で答えてしまう。そしてすぐに頬を染めた。子供みたいにはしゃいでしまったのが恥ずかしかった。
どうやら、花火大会へふたりで行けなかったことを、自分で思っていたよりも残念に感じていたようだ。
夜も昼もなく忙しく働く彼と由梨がふたりで出かける機会はそう多くない。結婚してからも数えるほどしかないのだから。
夜空に咲く、大輪の花は綺麗だった。
ふたりで観ることは叶わなかったけれど、忙しい日々の中のひとときの夏の夜の余韻に、もう少し浸っていたかった。
「すみません、はしゃいじゃって……。花火なんてもう何年もやってなかったから……」
言い訳をするように由梨が言うと、隆之が由梨の頭をそっと撫でる。そして柔らかく微笑んだ。
「着替えてくるよ」
パチパチと音を立てて、オレンジ色の火花が散る。由梨はそれを幸せな気持ちで見つめていた。
さっき夜空に散っていた花とは比べ物にならないくらいひかえめな花。でもさっきの花火よりも綺麗に思えるのが不思議だった。
花火越しに隆之が由梨をじっと見つめている。
「綺麗だ」
甘い響きを帯びたその声音に、頬が熱くなるのを感じて由梨は目を伏せる。彼は花火のことを言っているのだ、と自分自身に言い聞かせた。
「火花の形が変わっていくのが不思議ですよね」
頬の火照りに気づかれないように由梨が言うと、彼は手元の線香花火に視線を送る。そしてその存在に初めて気がついたかのような表情になった。
「ああ、まぁそうだな。それにしても何年ぶりかな、手持ち花火をやるのは」
「私も久しぶりです。もしかしたら子供の頃以来かも。学生時代に、友だちと集まってやろうって言ったりしてたけど、夜の外出はいい顔されなかったから、結局毎年参加できなくて……」
「学生時代か、そういえば俺も誘われたかな。だけど暑いのは苦手だし、騒ぐのも嫌いだから断ってた。でも由梨となら、なんでもやりたいと思えるのが不思議だな」
そう言って隆之はまた由梨をじっと見つめる。大好きな彼の瞳に、由梨の胸に温かいものが広がった。
……今夜のことはきっとずっと忘れない。
そんなことが頭に浮かんだ。
花火をふたりで観られなかったという残念なはずの出来事が、こんなにも特別で幸せなことに思えるのが嬉しかった。
彼の存在が、自分の世界を特別なものにしてくれる。由梨にとって彼と一緒に過ごす時間は、いつだってたくさんの色に彩られているのだ。
線香花火が白い煙を残して消えても由梨の中の温かな想いはそのまま胸に残っていた。
「由梨、愛してるよ」
近づく隆之の視線に、由梨はゆっくりと目を閉じた。