キミは海の底に沈む【完】

令和8月1日


鏡の向こうの私の目の下にはクマができていた。昨晩、あんまり眠る事が出来なかった。
だけど、カレンダーを見る限り私は昨日のことを覚えていたし、記憶は消えていなかった。


『いつでもいいから会って話がしたいです』


朝に送ったのに、潮くんからはすぐに『分かった』と返事が来た。


『8時ぐらいに行く』


今の時刻は7時30分。
昨日、いっぱい考えた。
私の出した答えは間違っているのかもしれない。だけど潮くんを大切にしたいっていう思いは、変わりはない。

出かける準備をしていると、お母さんが「どこかに行くの?」と聞いてきた。
私は「潮くんと会ってきます」と返事をした。
お母さんは何も言わなかった。

8時5分前、私は1階のエントランスで潮くんを待った。しばらくしてすぐに潮くんはエントランスに入ってきた。

私の姿を見て、少し驚いた顔をしていた。


「待ってたのか?暑かっただろ?」


と、私の心配をしてきて。
4日ぶりなのに、とても久しぶりに会うような気がした。──会いたかったと、つい、口から零れそうになった。


「話が、あって」

「うん」

「わたし…」

「ここは暑いから、向こうの影で話そう」


潮くんに言われ、頷いた私は、潮くんの後を追った。その時、手に違和感がした。今日、潮くんの癖がない。私の手を握ってこない。


マンションの外に出た。
暑かったものの、木の影ができているベンチに座れば、風が吹きとても涼しかった。


青い空──…。


「わたし、」


昨晩考えていたことを言おうとした時、「凪は、」と、潮くんが言葉を被せてきた。

潮くんが私を見る目は、悲しそうだった。


「俺と別れたい?」


別れたい…──
そんなの、返事は決まっている。


「別れません、そういう気持ちは、考えてません…」


私の言葉に、安心の表情をする潮くんとは、まだ手が繋がっていない。


「私まだ、潮くんのことを好きとか、そういう気持ちがまだ分からないんです…」

「うん」

「でも、潮くんと一緒にいたい」

「うん」

「一緒にいたいけど、また潮くんを悲しませるんじゃないかって、思ってしまう」

「…うん」

「悲しむ顔を見たくないのなら、このまま、離れた方がいいのではって、思ってしまって…」

「……」

「でも、」

「…凪」

「潮くんとずっと、手を繋いでいたいです…」

「…手?」

「私のわがままだって、分かっているけど…」

「……」

「潮くんとずっと、手を──…」


恐る恐る潮くんを見つめれば、少し照れたような潮くんがいた。


「…藤沢は? あいつと付き合うって…」

「那月くんは私と付き合いません、これからもそういう関係には絶対ならないです」

「……」

「那月くんはとても友達思いのいい人でしたよ」


潮くんは何かを言いたげにしたけど、私が笑っているからか、那月くんのことに関しては何も聞いてこなくて。


「じゃあ、これからも、俺は凪のそばにいていいのか?」


これからもそばに。
いてほしい。
たけど、


「私は、これ以上悲しませたくない。私が忘れていることの絶望感を、潮くんに合わせたくない」

「…離れたいって?」

「私…、いっぱい考えて」

「うん」

「記憶が無くなった根本的な理由を解決すれば、この私の、記憶喪失は無くなるんじゃないかって」


潮くんは何も言わない。
きっと、私の言いたいことが分かったらしい。
潮くんの顔色が変わった気がした。


「那月くんが言っていました、思い出さないように、潮くんは必死に守ってるって」

「──」

「事故の日、何があったのか」


私は本当に、頭部が当たり、記憶喪失になったのか。


「海に、溺れた理由──…」

「藤沢に聞いたのか?」

「潮くん…」

「ダメだ」


いつも優しかった潮くんが、私の提案に拒絶した。


「また、記憶を失うかもしれないから?」

「違う」

「那月くんにも言われました、でも、解決するには、私がその事を思い出さないと…。ずっと記憶が無くなるかもっていう怖さが…」

「違う、凪に、凪に思い出してほしくない」

「…潮くん、」

「藤沢にどこまで聞いたか分からない、でも、思い出して欲しくない…」

「どうしてですか? 記憶喪失が治るかもしれないのに。那月くんからは私が溺れて記憶喪失になったと聞きました。それって頭部に当たったわけじゃないってことでしょう?」

「……俺の口からは言えない、これは凪のお母さんにも関わることだから」


私のお母さん…?


「凪の気持ちは分かった、でも、事故の日何があったか、今の俺は言えない…」

「……」

「正直、俺は思い出して欲しくない」

「泣きわめいたから…?那月くんが言ってました、プールに落とした時、泣いてずっと謝っていたって…」

「……」

「潮くん、私はもしかして、」

「…凪」

「頭の衝撃で記憶喪失になったからじゃなくて、忘れたいっていう気持ちが強くあったから記憶喪失になったんじゃないですか?」


潮くんはずっと難しい顔をしていた。潮くんの顔が、言うか言わないか迷っているようだった。けど、言わないと思った。潮くんは私をとても大切に思ってくれているから。
もう、昔と違って傷つけることはしない…。


「那月くんに、なんで言った?って怒らないでください。那月くんは…、潮くんのことを大切に思ってるいい人だから…」


私の言葉に、また難しい顔をした。


「…凪は知りたいのか?」


潮くんの真剣な声に、私は頷いた。
潮くんが私を見る。


「…この、10日間の記憶がなくなってもいいのか?」


10日間の記憶…。
昨日の那月くんの会話も、忘れるかもしれない。
潮くんと手を繋いで寝たことも、忘れるかもしれない。


「正直言うと、俺は嬉しかった。凪が過去のことを思い出さないで、これから先の事を覚えていくなら…、もうずっと幸せな時間を凪にあげられると思った」


幸せな時間…──


「過去を思い出して欲しくないのは、潮くんが虐めていたことじゃなくて、記憶喪失になった事故の事ですよね」

「うん──」

「幸せな時間は、これから先だけなの…?」

「……え?」

「潮くんといた過去の私は、幸せだと思っていなかった?」


潮くんが言葉を詰まらせた。
唇を、噛み締め。
──それでも、私の提案を拒絶するように顔を横にふった。


「幸せって、思ってくれた日はあると思う。──それでも、俺は凪が泣き叫んでたのを見た事があるから、事故の時のことは思い出して欲しくない」

「潮くんの言っていることは分かる、私の事を思ってくれてるんだって。だけど、」

「言えない」

「潮くん、」

「凪はもう苦しまなくていいんだ、これからはずっと俺が幸せにするから」


苦しまなくていい。
このままずっと。
何も思い出さないまま、潮くんと幸せに?


「でも、また、私は潮くんを忘れてしまうかもしれない。過去を解決しなくちゃ、私は…潮くんを忘れちゃう…。私は忘れたくないの…」

「ずっと俺がそばにいる」

「忘れないでって、私に言ったのは潮くんだよ」

「…だめだ、」

「どうして…」

「……」

「じゃあ、今から海に飛び込む、そうすれば思い出すかもしれない」

「凪っ」

「だって!私も潮くんの悲しい顔を見たくない!」



大声を出せば、目の奥が熱くなった。
涙腺がジワジワと、潤ってくる。
泣きそうな顔をしているからか、潮くんの手が私に伸びてきて、私はその手を重ねるように繋げた。


「私の記憶が無くなるほどの、酷い事故があったんだって、なんとなく分かる…」


私は潮の手を強く握りしめた。


「潮くんはさっき、幸せって思ってくれてた日はある思うって言ってたけど。それは酷い事故には勝たない?」

「凪…」

「『理科室、こっち』って、潮くん、私に手を伸ばしてくれたよね」

「…え──…」

「勝たない?」

「思い、出したのか…?」

「潮くんが、私を大切にしてくれた過去は、私が記憶喪失になるほどの嫌な記憶に勝たないのかな…」

「…っ、…」

「私は全部思い出して、心から潮くんに好きって言いたい──…」

「……なぎ…」

「この気持ちを忘れたくない」


潮くんの、繋げる力も強くなった。


「だから、教えてください、何があったのか」



潮くんは結局、私がどれだけ言っても教えてはくれなかった。「──凪のお母さんに許可なく言えない」と。
絶対に、その場では私に教えてくれなかった。

だから潮くんは今日の夜、私のお母さんと話をすると約束してくれた。
私の気持ちを受け入れてくれた潮くんは、ずっとずっと私の手を握ったままだった。


私が思い出した『理科室、こっち』というのを潮くんに詳しく聞かれた。他にも思い出したのはあるのかと。それだけしか思い出してないと言えば、潮くんは少しだけ嬉しそうな顔をした。


「それな?俺が、初めて凪を受け入れて大切にしようって思った日なんだ」


初めて…?


「だから、その時初めて手を繋いだ」


初めて手を繋いだ…。
あの場面が。
潮くんと初めて手を繋いだ日。
今ではこうして癖になるほどなのに。


「それを思い出してくれたのは、結構嬉しい…」


幸せそうに笑う潮くんに、私も心が暖かくなった。


「きっと、私にとっても嬉しい事だったんだろうなぁ…」







──その日の夜、潮くんとお母さんがリビングで1時間ぐらい話をしていた。
私は〝なぎのへや〟にいた。

お母さんが「ダメ」と言えば、潮くんは私に言ってくれないだろう。

お母さんに許可なく言えないと潮くんは言っていた。私自身、勘がいいのか悪いのか分からない。でも、お母さんの許可なく言えないっていうのは、きっと〝家族〟に関係のあるものだと思った。


どうして私は、気づかなかったんだろうか?

私には〝お父さん〟がいない。

もしかしたら、事故の時──…。


そう思えば思うほど、疑問が募った。だってこれまで潮くんとお母さんも〝お父さん〟とか〝父親〟とか、そういう単語は一切言わなかった。


潮くんとお母さんは何の話をしているんだろう?


──しばらくして、潮くんが部屋のノックと共に、顔を覗かせた。
潮くんの顔は、優しく笑っていた。
その顔は『YES』なのか『NO』なのか全く分からなくて。


どっちなんだろう。
分からない。
お母さんは、『YES』と言ってくれたのか。
それとも私を思って『NO』と言ったのか。


潮くんが口を開く。
不安になりながら答えを待っていると、部屋の中に入ってきた潮くんが、癖のように私の手を握った。


「なぎ」

「だめ、だった、…?」

「なんで泣きそうな顔してんの」


柔らかく笑う潮くんは、そのまま愛おしそうに私の頭を撫でた。


「だって…」

「凪?」

「……」

「夏休みだし、旅行でも行こうか」

「…え?」

「泊まりはだめだから、日帰りで」



優しく笑ってくれた潮くんは、お母さんがどんな返事をしたのか教えてくれなかった。




那月くんからメッセージが届いた。そのメッセージの中に文字はなかった。数枚の写真だった。合計で5枚。ぶれていて読めない文字があるけれど、見覚えのあるその写真にはどう見ても〝潮くん〟の文字が書かれていた。

その写真を眺めていると、今度はちゃんとしたメッセージが届いた。
『それだけしか撮ってなかった。川に落として悪かった』と。
この5枚の写真を撮ってから、私の日記を川に落としたらしい。
その写真は、水で汚れて読めなかった日記の1部の写真だった。




〝令和元年5月25日
潮くんから告白される
潮くんはとても優しくていい人
「ずっと一緒にいる」と
言ってくれた潮くんを信じようと思う
だけど私は信じることも覚えてないんだろうな〟


〝令和元年5月26日
私が記憶を失う病気なんて信じられない。
でも確かに覚えていない。
この日記は本当に私が書いたものなのだろうか?
潮っていう人が「好きだよ」と言ってきた。
記憶できない私を好きってどうなんだろう〟



1枚、2枚と見る。
どれも潮くんの名前があった。
その画像を見て、過去の私は凄く潮くんに大切にされていたんだなぁと実感した。



「どうした?」


スマホを見て笑っていた私に、ベットの中にいた潮くんが話しかけてきた。
なんでもない、と首をふる。
スマホを机の上に置き、潮くんに近寄れば、潮くんは手を差し出してくれた。
それが嬉しくて、私は笑っていた。


一緒の布団に入り、私は手を繋いだまま潮くんに「旅行、どこに行くの?」と、尋ねる。


「うん、まだ決まってない」

「日帰り?」

「かな」

「たのしみだな…」

「うん」


久しぶりに、2人で入る布団の中は暖かい。夏なのに熱くはなく、暖かい。
失礼かもしれないけど、那月くんじゃなくて、潮くんとこうしていると落ち着く。安心できる。


「…うしおくん」

「ん?」

「事故って…、家にいない〝お父さん〟に関係ある…?」


潮くんは、静かに、安心させるかのように笑うと私の頭を撫でた。




「それも、旅行の日にな」

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