合意的不倫関係のススメ
「お疲れ様です」
「お疲れ様」

閉店作業その他諸々を済ませ更衣室を出ると、外は酷い土砂降りだった。蒼は濡れずに帰っているだろうかと頭に浮かべながら、私は濃い赤色の傘を広げた。

信号待ちの間、なんとはなしに目の前の別館事務所を見上げる。外商部にはまだ灯がついていて、二條さんもそこにいるのだろうかとぼんやり考えた。

(…大丈夫かな)

彼は同期だし、全く気にならないと言えば嘘になる。女性関係の噂の真偽は分からないけれど、仕事に対して真摯だったことは事実だ。

どの外商部員よりも、二條さんは売場の人間に対して物腰が柔らかかった。それが偽りだったとしても、関係はない。彼のそういう対応に好感を持っていたのは、確かなのだから。

私は外商部から視線を逸らし、再び歩みを進める。その時、誰かが私の横を駆けるように通り抜けていった。

「二條さんっ」

その後ろ姿に思わず声をかけてしまったのは、彼が傘をさしていなかったから。全身ずぶ濡れで振り返った彼は、私を見て目を見開いた。

「三笹さん」
「傘は…」
「持って出るの忘れてさ」

二條さんの傍により、さしていた傘を彼の方に傾ける。大きく手を伸ばさないと、頭にぶつけてしまいそうだった。

「風邪引きますよ」
「ね、マジ寒いわ」
「すみません、引き止めて」

この土砂降りの中でよく二條さんだと気付けたなと、私は内心少し驚いていた。

「いや、丁度よかった。帰り際に悪いんだけどさ、ちょっとお願い聞いてくれない?」
「お願い、ですか」

これだけ悲惨な姿をした人を、そのまま放って帰る訳にもいかない。

二條さんのお願いを素直に聞き入れた私は、外商部の事務所に行き言われた通りの荷物を手に、軒下で雨宿りしていた彼に手渡した。

「ありがとう、本当助かった。これだけ濡れてると流石に中入り辛くて」
「これ、タオル使ってください」
「いや悪いって」
「平気ですから。二條さんが嫌でなければ」

雨が降ると予想される日は、フェイスタオルを持ち歩くようにしている。それがこんな形で役に立つとは思ってもいなかったけれど。

二條さんは私の手にあるタオルを何故かしばらく見つめ、観念したように手を伸ばした。

「じゃあ、ありがたく使わせていただきます」
「その位では意味がないかもしれませんが」
「そんなことないって、大助かり」

夜雨のせいで気温がぐっと下がりただでさえ冷えるのに、それだけ濡れていたら本当に風邪を引いてしまう。見ているこちらがはらはらしているというのに、二條さんはあまり気にしていない様子だった。

「引き止めてごめん。ありがとう」
「いえ。この傘も使ってください」

タオルの次に手渡したのは折り畳み傘。二條さんはそれを受け取りながら、ふっと笑みを溢す。

「どれだけ用意周到なの」
「そういう性格なんです」
「本当ブレないね三笹さんは」

愉しげに喉を鳴らした後、彼の表情が切り替わる。光を失ったかのようなその瞳が、いつかの自身と重なって見えたような気がした。

「三笹さんのその感じに、今は凄い救われる」
「……」
「聞いたんでしょ?俺がやらかしたこと」
「詳しくは知りません」

タオルでは拭いきれなかったらしい雫が、彼のこめかみから頬へと伝っていく。張り付いた前髪から覗く視線は、いつもの二條さんとは違っていた。

「いい気味だと思う?」
「思いません」
「…うん」

ほうっと溜息を吐いた、彼の吐息が微かに白く濁る。

「三笹さんの言葉は信じられるの、何でだろうなぁ」

頬を緩めた彼は、涙を堪えているように見えた。
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