夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

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 週が開けて水曜日、棚原の担当患者、佐々ハルミが来院した。若い頃は芸妓をしていたそうで、身だしなみにはとても気を遣うおしゃれな女性だ。八十歳になろうというお歳でも赤いスカートを着こなし、化粧も施して、いつもニコニコと来院する。名を呼ばれて中に入ってくると決まって言った。

『先生、今日も良い男ねウフフ』

 だがこの日のハルミはいつもと様子が違った。顔つきが険しく、左右の靴下の柄が違う。カーディガンのボタンは掛け違えており、化粧も中途半端だ。口紅などははみ出ている。

「大原さん、今日のハルミさん何だかおかしいです。着るものもお化粧も中途半端で顔つきがキツいっていうか」
 菜胡から聞いた大原が待合椅子にいるハルミの様子を見に行けば、確かにおかしいと戻ってきた。大原が聞いたことへの返事はなく、ただつらつらと言いたいことを口にしていたと。

 佐々ハルミも、南川由雄と同様に古くからここに通う人の一人だった。
 元芸妓という矜持が年寄り扱いされる事を拒み、頑なに息子からの同居の申し出を断り続けて一人で暮らしていた。
 毎週水曜、膝の治療とリハビリに来院していたハルミ。頭頂部で白髪をお団子に結い上げ、赤いエナメルの靴を履いてくる。ビーズで作ったのだとポシェットを斜めがけにし、杖をついて病院へやってきていた。

 そのハルミの異変だった。

 棚原への、良い男ね、とお決まりの台詞もなかった。だが帰る頃にはいつものように笑顔が見られ、会計のお金もきちんと払い、忘れ物をする事もなく、足取りもしっかりして病院を後にした。

 全ての診察が終わったあと、菜胡の淹れたコーヒーを飲みながら樫井が口を開いた。

「しかし、ハルミさんおかしかったね」
「やっぱり認知症?」
「んー、わかんないけど、ちょっと気をつけて見てあげないとだね……一人暮らしなんだよね?」
 大原が、そうだと答える。

「来週の様子次第では内科に相談するかな」
 樫井が唸りながら口にするが、棚原はハルミの家族がいれば彼らにも連絡すべきだと進言した。

「息子さんの連絡先ならカルテに書いてありました」
 菜胡が、少し前にハルミのカルテに携帯番号の書かれた紙が貼られているのを見たと言ったことで、ハルミの次回の様子次第では息子に連絡を取ろうという流れになった。

 一人の患者の事をここまで気にするなど、やはりここは患者との距離が近いのだと再認識をした。

 そうして迎えた翌水曜日。予約時間である十時になってもハルミは現れなかった。受付へ聞いても、まだ来ていないという答えに皆は嫌な予感がした。

 予約時間をはるかに過ぎた十一時半、受付から「一名、救急で診てもらいたい」と連絡が入った。菜胡へ診察室の扉を開放固定するよう指示をして、大原と二人で患者を迎えに受付へと走った。

 受付の前には車椅子に座り、顔をしかめて肩をしょぼくれさせているハルミが居た。おでこにハンカチを当てている。

「ハルミさん、どうしたのよ」
 大原が背中に手を当てながら声をかけた。見知った顔だと認識できたらしいハルミは笑顔を見せ、その手に縋ってきた。

「アタシね、病院に行こうと思って家を出たのよ、今日はほら樫井先生の日でしょ、そしたら玄関出たら転んじゃってね、知らない方が助けてくださったんだけど……知らないところに連れて来られちゃって。どうしようかしらって思ってたの、でもあなたが迎えに来てくれたじゃない? 良かったわ」
 傍に立つ棚原には一瞬目をやったが、大原の事しか見えていない様子に、棚原は一つの単語を思い浮かべた。

 車椅子で診察室に連れて来られたハルミの後から、棚原も診察室に入る。樫井と目が合って、首を横に振った。

「菜胡ちゃん、息子さんの連絡先を」
 樫井は菜胡に伝え、自身はハルミの前に座り声を掛けた。

「ハルミさん、僕だよわかる?」
 樫井が背を屈め、笑顔のハルミに声を掛ける。

「イヤだわ、樫井先生のこと忘れたりしないわよウフフ」
 いつもの笑顔で、いつもの喋り方だ。樫井の手を握り、家を出ようとしたら転んだ事を話し始めたハルミ。樫井はその話を聞きながら、ハルミの手を持ち上げ、肩関節を動かした。手を当てて、片方の手首を掴んでぐるぐると回旋させる。動きに異常はなく、次いで膝と足首に手を当てて股関節の動きを確認した。膝、足首も動かしたが、手首、足首、いずれも動くし、痛みで顔を歪めることもしない。骨は大丈夫そうだ。

 棚原はハルミに、これからする事の声掛けをした。

「おでこの傷の消毒をしますからね」
 骨折もしていなければ、おでこを盛大に擦りむいている他の外傷は見当たらなかった。ハンカチを退けて消毒薬を染み込ませた綿球を軽く当てる。

「あらやだ痛いわ、どうして? あなた何なさったの」
 消毒する棚原の腕を、険しい顔で掴むハルミ。転んだ事も覚えていなかった。

「ハルミさんね、さっき転んじゃったんだって。それでおでこを擦りむいたのよ。先生が消毒してくださったからもう大丈夫だからね」
 大原が棚原の腕を掴むハルミの手を取って、ゆっくりと話してやるが、大原の顔を見て、また先ほどと同じ事を話し始めた。埒があかない。もうこれは確定でいいだろう、樫井はカルテに「認知症疑い」と記した。

 ハルミの家族がいなければ、あるいは連絡がつかなければ入院させるところだが、電話したところ息子がこちらへ来ると言ったため、このままハルミを外来に留まらせた。

 十三時過ぎに到着した息子夫妻へ、樫井が事の次第を話した。彼らはショックを受けながらも、そうではないか、と感じてはいたのだと話してくれた。

「先週、自宅へ顔を出した時、部屋が散らかっていたんですよ。芸妓時代に着ていた着物や三味線も倒れていて……綺麗好きで、整理整頓は欠かさない母だったのに、かつての母の部屋とはまるきり違っていましたから、家内とも認知症なのかも、と話してはいました」
 車椅子に座り、息子と樫井の会話を聞いていたハルミと目が合うと、不思議そうな顔をして息子氏に話しかけた。

「あちらの方はどなた? 新しい先生?」
 棚原はじめ、ここにいる皆が、認知症だと確信した。菜胡と目があった。頭を小さく横に振る。
 
 その日、ハルミは息子夫妻が連れ帰った。
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