夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

2


 ある土曜日の午後、棚原が外来にやってきた。しつこい人がいて落ち着いて資料作りができないと聞いて、それなら、と奥の診察机を使ってもらうことにした。

 カーテンを引いてより集中できるように考えた。菜胡が診察室を出る時は扉の鍵を閉めた。居ない間に誰かが来て棚原の邪魔をしたらいけない。気をつけることはそのくらいで、それ以外はいつもの土曜日と同じく作業を淡々とこなした。

 ある程度作業を終える頃、少し疲れを覚えて座った。診察机に突っ伏して、もう少ししたらコーヒーを出そうかな、と考えていたはずなのに、気がついたら棚原の匂いに包まれていて、目の前に棚原の顔があった。

 ――え、どう……

 棚原の匂いがしたのは自身に白衣が掛けられていたからで、勤務中に眠ってしまった事に動揺したし、棚原の邪魔になってしまったのではと思ったが、集中できたと礼を言われて安心した。

 目が覚めてすぐ抱きしめてきた棚原が、何の夢を見ていたのかと聞いてきた。寝言を言ってしまっていたのだろうかと思いつつ考えてみたが、棚原の匂いに包まれていることしか覚えていなかった。代わりに、眠る前まで考えていた事を思い出した。

 自分のそばで落ち着くならその時間を増やしてあげたいし守りたい。家に帰れば奥様がいて癒されるだろうから、職場では自分が担えたらと提案した。

「土曜はいつも一人なので、集中したい時があったらまた来てください」
「いいの? 邪魔じゃない?」
 邪魔になどなるはずがない。棚原の時間を守りたいと思いつつ、本当のところでは、菜胡が棚原と居たいのだ。整形外科外来は廊下の突き当たりにあり、そこは出島のように孤立しているから、誰も来なければ本当に土曜の午後は一言も発せず終わるのだ。だから、どんな理由でも誰かが居てくれたら心細くない。

「毎週来ちゃう……可愛い」
 その言葉通り、棚原は毎週土曜の午後、整形外来に来た。樫井と共に来てお茶を飲んで帰るだけの土曜があれば、仕事を持ち込んでデータ作りをする土曜もあった。懇意にしている装具屋さんを呼んで打ち合わせをする土曜もあった。
 
 そんな中、棚原がここに居るのではと察した浅川が襲来した土曜があった。その時は棚原が仮眠をしに来ていて、まさに寝ている時だった。カーテンを引いて診察台のあるエリアの灯りを消してある。だから大丈夫だ、バレない。菜胡は緊張した。

「菜胡ぉ、棚原先生がどこにいるか知らないぃ?」
「知りませんけど……患者さんの用事ですか?」
「んーん、アタシが用があるの。本当に来てない? あのカーテンの向こうとか怪しぃ〜」
 こういう事には鋭い浅川。灯りの付いていないカーテンの向こうを指差した。

「あそこは午前中に注射に来られた方が休んでるんです、静かにしてください」
 声を落としても浅川は構わずしゃべる。

「ウソくさいなぁ〜菜胡は堅いからなぁ〜そんなんじゃ、一生、処女だよぉ?」
「いっ今は関係無いじゃないですか!」
「あははっ、またねー」
 ため息をついて扉を閉めて振り返ったら棚原が立っていた。

「やだなぁもう……恥ずかしい……」
 振り向けば、カーテンから出てきた棚原と目が合った。
 顔がひきつる。
 笑顔を見せるもんでもないし、かと言って泣く場面でもない。
 意図せずとんでもない事を聞かされた棚原の事を思うと気まずくなり背中を向けてしまった。すると背後から抱きしめられた。
 それはいつものように強いものではなく、ふわりとしたものだった。耳元で聞こえた「ごめん」に続いて、突如訪れた空虚感と不安に振り向けば、棚原が後退りをしてとても苦しそうな顔をしていた。

「あんな強引に……ごめん、怖がらせた」
 
 何を言われたのかわからなかった。一言も発せないうちに棚原は外来を出て行った。ただ遠ざかる足音を聞くだけしかできなかった。初彼の時と同じだと思った。一方的に目の前から居なくなられてしまった。まだ痣の事はなにも告げていないのに。そんなにも処女って重たくて面倒臭いんだろうか。

 菜胡の心にできた穴は、音を立てて大きく拡がっていく。ドクンドクンと耳にこだまする自身の鼓動も大きくなった。
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