夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

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 この日、浅川は準夜勤だった。

 午前中いっぱい眠っていて、昼を軽くつまんでから部屋でだらだらと過ごしていた。十六時からの準夜勤に備えて行動を開始した頃、いつもの相手の当直医から電話がきた。

『今日、当直なんだ。だから、あの話』
「……ああ、そうですね、わかりました」
 今日だ。胸がドキンとした。

 少し早いが病棟へ向かったところ、非常階段から棚原の声が聞こえた。「菜胡が足りない」と惚気が聞こえた。

 二人が想い合っているのでは、と気がついたのはいつだったろうか。

 毎週土曜の午後は姿を眩ます棚原を捜して、整形外科外来へ何度か行った。その度に菜胡は来ていない、知らない、と言った。だが確かに外来に居たと、浅川は今も思う。あの頃から距離は近付いていたのではないか。

 菜胡のくせに、隠し事をしていた。

 それが確信に変わったのは先日の車での様子だった。降りる間際にキスをしていた。しかもあの時間の帰宅で、菜胡は前夜、留守だった。これはもう男女の関係にある事は間違いなかった。

 だからこそ、だ。浅川は身震いした。

 後から来た菜胡に居場所を奪われた。移動になって少ししたら、遠距離恋愛をしていた彼から別れを告げられた。自棄になっていた。寂しくて、誰でもいいから心の隙間を埋めたくて、手ぢかなところで当直医のバイトにやってくる若い医師を狙った。

 菜胡よりも充実した生活なのだとアピールしてきたが、何を言っても動じない菜胡に憎たらしさが増した。自分に靡かない棚原に苛立ちも覚えだした。大抵の医師は笑顔で相手してくれるのに、棚原だけは浅川の目を見ず、ろくに話しかけもしてこない。自分に靡かない棚原への罰なら、菜胡を泣かせるのがいい。そう思うようになった。菜胡に、身の程を思い知らせることができて、棚原にも少なからずショックを与える事ができる。

 浅川は、堕ちていた。

 菜胡が憧れた浅川はもうどこにも居なかった。

 十六時、滞り無く日勤からの申し送りを受け、準夜勤としての仕事が始まった。集中治療室では定期的にバイタルチェックを行い、看護助手と共に夕食の準備をした。夜の検温と配薬などのほか就寝までに細々と仕事はあって暇では無い。ところが日勤者がほぼいなくなった十九時近く。帰ったはずのスタッフが戻ってきた。

「今夜の当直医は交代だって」
 彼女は息急き切ってステーションに入ってくるなり、興奮気味に小声で話してきた。帰ろうとしたら、裏口を出たところでトラブルが起きていたのだという。若い医師が女を追いかけて連れて行こうとしてたと興奮気味に話した。

「警察呼んだの?」
 手を洗いながら一人の看護師が反応した。浅川はさも興味がないふりをして、食後の薬の確認をしている。その手は震えていた。

「そこまではしないって棚原先生が」
「え、なんで棚原先生?」
「追いかけられてたのが棚原先生の彼女だったんだって、それで追いかけてたのが今夜の当直医。陶山先生も出てきて、めちゃくちゃ怒ってた。彼女は白衣を頭から被せられてたから誰かわかんないんだけどさ」
 看護助手のおばちゃんも興味深々でステーションにやってきた。

「えっ、けど先生って指輪してなかった? 不倫じゃん」
 そうだ、棚原は既婚者なのだ。だから棚原と菜胡に未来はない。どうなったって菜胡は――。

「んーん、なんかそれは彼女との婚約の証だったらしいよ?」
「あっなるほど、そういう事ね」

 ――婚約? 話がもうそこまで?

「浅川は何か知ってた?」
 知ってる。

「棚原先生の相手なら、整形外来の菜胡ですよ、石竹菜胡」
 手元から視線を移さず、冷静に言った。声に出してみると胸の痛みが増した。

「え、あの子? おとなしそうな子だよね、先生ああいう子が好みだったんだ……なんか安心」
「安心、ですか?」
 安心、という言葉が出てくると思わなかった。なぜあんな美人でもないグズの菜胡なんだと思う自分と同じ意見なのだと思っていたから驚いた。

「だってさ、遊んでそうなイケメンなのにああいう地味な子を選ぶって誠実な感じしない? 遊んでそうっていうのも周りの勝手なイメージで、本人はそんな事なくてそのイメージに悩まされてたかもしれないんだけどさ」
「遊んでそうっていうイメージで近づく女も居そう! そっちの方がバカな女だよね。そういうのに辟易してた時に、何にも害の無さそうな子が現れたら好きになっちゃうかも。癒しになるじゃん」
「あり得る〜、純愛じゃん」
 浅川は全身を強ばらせた。遊んでそうというイメージで近づいたバカな女は、自分だ。

 純愛だなんてバカバカしい。

「あ、それで当直が陶山先生に変更になったらしいから、それを言いに来たんだったわ。それじゃ、お先〜」
 少しの間賑やかしたスタッフが帰っていき、病棟はいつもの夜に戻った。夕飯の片付けをし、夜の検温の支度をしながら、食後の薬を配り歩く。お茶が欲しいと言われれば汲んできてやり、足が痛いという訴えにはあらかじめ出されている指示に従って頓服の薬を飲ませてやる。淡々と、業務に徹した。

 ――当直が陶山先生ということは、あいつ……!

 彼は失敗したのだ。棚原が出てきた時点がどの状態だったのかわからないが、警察を呼んでいないという事は未遂なのだろう。だから当直医も変更になった。

 時折乱れる心を落ち着かせながら、なんとか二十一時前には全ての患者の就寝の支度が整った。各病室の電気を消して歩き、ステーションへ戻っていた浅川は、看護部長の後ろ姿を見つけて足が止まった。その浅川の気配を感じたのか偶然か、看護部長はふいに振り向いた。

「あら浅川だったのね、準夜。お疲れさま。変わりない?」
「はい、変わりありません。消灯してきま――」
 視界の端に白衣が見えた。看護部長から視線をそちらへ遣れば、陶山が聴診器を首から下げてやってきた。いつもと変わらない表情に見える。

「整形の患者さんの様子を診にきたんだけど、どう?」
 ワゴンからカルテを取り出す。バイタルの変動、投薬の履歴や患者の訴え、心電図、レントゲンの所見等を確認していた陶山は、とてもさりげなく言ってきた。

「彼を唆したのは君か」
 声色が違った。硬く強い口調だった。

「な、んの事でしょう」
 検温に使っていた体温計や聴診器、血圧計をアルコール綿で拭きながら、陶山と視線を合わさず答えた。

「とぼけるな、彼から君に聞いたと証言は得ている」
「なら聞く必要ないじゃ無いですか」
 思わず言ってしまった。

「私は何も知りません」
 そんなやりとりをしていれば、陶山の院内携帯が鳴った。他の病棟からのコールだった。また来る、と言い残してその場は何とかなったが、顔をあげれば、二人のやり取りを遠巻きに見ていた看護部長と目があった。

 ――看護部長は、きっと知っている。

 サッと看護部長から目線を逸らし、業務に集中した。検温の記録と、この後交換がある点滴の確認、明朝分の採血リストなどの用意。手術直後の患者がいれば消灯関係なくバイタルチェックは行うし巡回も頻繁に行う。だがこの日は至って静かな夜だったから、ステーションに居る時間が長く、居続ける看護部長の視線が痛かった。
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