FOOLという名のBAR

第7夜 Summertime

 スコープの中に浮かび上がる標的。目の中に飛び込んで来るような感覚。
 太宰ミキオは躊躇わずトリガーを絞る。わずかな反動。
 エアーライフルのシリンダー内の圧縮したエアーが鉛の弾丸を弾き出す。
 スコープの中の標的は動いていない。
 打った瞬間にスコープの中の標的がぶれるようでは0.5ミリの十点圏は狙えない。
 距離は10メートル。標的の大きさは、直径45.5ミリから一点圏が始まり、30.5ミリの四点圏から黒く塗り潰されている。
 太宰はエアーライフルを台座へ置き、静かに息を吐き出した。左隅に据え付けられた望遠鏡を覗き込む。十点圏をぶち抜いていた。
 太宰は唇に浮かびそうになる微笑を抑える。このゲームはまだ中盤だ。喜ぶのはまだ早い。標的は全部で二十個。二百点満点で点を競う。残りは七発。ここまでは、九点が四発、残りは全て十点だ。
 太宰の体に緊張が走る。太宰はライフルのサイドレバーを引き弾丸を込める。大きく息を吸い込み、ライフルを構える。息を止めた。
 スコープ、両目を開いてスコープを視る。片目ではでは視点がずれるからだ。
標的・・・だめだ、合わない。標的がぶれている。黒い丸がくっきりしない。角度がずれている。わずかなずれ、数字にすれば0.13度の角度のずれで一点圏にさえ入らない。
 太宰は一度ライフルを外し、息を吐き出した。
 捨ててはいけない。納得できるまでトリガーに触れてはだめだ。
 ライフルを構える。
 スコープ、標的・・・だめだ、標的がぶれている。かすかな苛立ち。無意識に指がトリガーに触れた。
 暴発。
 スコープの中で標的が大きく揺れた。太宰は目を閉じ、息を吐き出した。
 七点。初歩的なミスを犯してしまった。わずか一点で順位は大きく変動するものだ。しかし諦めるのはまだ早い。まだ残りがある。残りの六発でこのミスを取り戻せばいいと自分に言い聞かせた。
 ライフルに弾丸を込め、構える。息を止める。プレッシャーと緊張が体の中を走る。心臓の鼓動が耳の奥で響く。
 意識が遠ざかっていくような感覚。目だけが異様に冴えて来る。この空間には太宰と標的だけしかいない。
 スコープ、視線、標的。
“来た!”
 と太宰は思った。標的が目の中に飛び込んで来るような感覚。
 トリガー。圧縮されたエアーが解放された。スコープの中の標的は固定されている。
 意識が浮上して来る。太宰は静かに息を吐き出した。
 十点。
 太宰の唇に不敵な微笑が戻る。次だ。周りの音が遠ざかる。スコープ、標的、トリガー。確かな手応えを感じた。
 最後の一発になった。
 太宰の中に凶暴なものが騒いでいる。それと同時にそれを抑える別の感覚もある。冷たい、凍てついた感覚だ。機械的に標的を打ち抜く、殺伐とした虚無な感覚。これが戦場の兵士の感覚なのかも知れない。太宰は躊躇わず、ライフルのトリガーを弾いた。

 太宰は標的を持って射撃場のロビーに戻った。
 雪乃があくびをして待っていた。戻って来た太宰を見て雪乃が手を振る。
「ミキオ、どうだった?」
 太宰は標的を雪乃に渡した。
「すごーい。みんな当たってるじゃない。こういうことだけはいつもすごいよね、ミキオは」
 太宰は百九三点だと言おうとしてやめた。雪乃は四点圏の黒い部分に弾が当たっていればそれだけですごいと思う女だ。暴発したあの一発がなければこの店のベスト三位に入れただろう。この成績ではぎりぎり十位内に入れたくらいだと太宰は舌打ちしたいのを堪えた。
 エアーライフル射撃場を出ると憂鬱な時間が始まる。太宰が充実していられるのはスコープの中に標的をとらえた時だけだ。
 太宰たちはファミレスで食事をした。雪乃のクラブの仕事まで一時間くらい時間があった。太宰たちは最近通い始めたバーに向かうことにした。


 ※     ※     ※


「真夏の夕暮れに風が吹き、昼間の熱い陽射しを思い出すような感覚、それをブラジルでSAUDADE(サウダージ)って言うそうだよ」
 と言ってあたしが作ったカクテル“SAUDADE ”を必ず最初に注文する雪乃とミキオは今夜も店を開けると同時にやって来た。
 ブラジルのピンガと呼ばれるカサーシャ51はラムと同じようにサトウキビから作る蒸留酒だが、ラムほど精錬されてなくて雑味が残っていて人間くさい。あたしはそんなカサーシャ51とライムジュースに真っ赤なグレナデンシロップを少々、それを氷ごとジューサーでミキシング。まるで大人のかき氷だ。
「沈む夕陽みたいな色ね、ママ」
「そうかい?SAUDADE、気に入ってくれて嬉しいよ」
 雪乃とミキオは、グラスを合わせる。
「うん、美味しいね、雪乃」
 と、いつも口数が少ないミキオも思わず言葉にするくらい美味しい。あたしのオリジナル・カクテルだ。
「SAUDADE…まるでミキオが私を想うような言葉・・・よね?」
「えっ?」って顔で彼女を見るミキオを小突いている雪乃。
 微笑ましいカップルだ。
「もう、秋だというのにお熱いこと」
 あたしが冷やかす。それも二人にとっては嬉しい言葉になる。
 二人は最初の一杯だけSAUDADEを飲む。
 その後は焼酎の烏龍茶割。
「カクテルばかり飲んでいられるほどリッチじゃないからね、私達。私とミキオは同棲していて、ミキオは昼間のアルバイト、私は夜、これからクラブでお仕事。生きていくためにね」
 雪乃がミキオと一緒に出かけられるのは夕方から午後八時くらいまでらしい。ミキオはひょろひょろとしていて力仕事は出来ないタイプだ。そうなるとアルバイトでは雪乃の夜の稼ぎの方が多いのだろう。だからミキオは雪乃に合わせて焼酎しか飲まない。本当はウィスキーが好きだと漏らしたことがある。優しい男、それがミキオだ。

 ピアノの音・・・♪  Summertime

 マリアのピアノはどこか気だるく、悲しい。
 この曲は子守り歌だとミキオが雪乃に教えていた。
 貧しいアフリカ系アメリカ人の女が赤ん坊を抱いて
『いつか、良いことがある・・・パパとママがいつも傍にいるから、だから泣かないで』
 と言った子守り歌なんだと雪乃に説明していた。でもそれを聞いているのかいないのか、そんな優しいだけが取り柄のミキオに退屈そうな顔をする雪乃。
 ミキオはどちらかと言うと物知りだ。何故、雪乃のヒモのような生活をしているのかあたしには分からない。

「雪乃ちゃんは、これから仕事だろ?」
 あたしがグラスの汗を拭いながら聞いた。
「ええ、ママ。今夜も酔っ払いの相手をしなくっちゃ。ねぇママ、聞いて。昨夜の客がスケベ男でね、鬼畜って奴」
「鬼畜かい?」
「そうなのよ、自分で俺って鬼畜なんだよって言うのよ。それでね、今まで必ず複数の女と付き合ってきて、一人の女じゃ我慢出来ないって、今までの女遍歴をダラダラ話すわけ。ゴミのように捨てていった女の話を」
「嫌な奴だね」
「最後はモテない男は嫌いだろう?だって」
「なんか昔、そんな歌があったね」
「モテない男は、いつまでたってもモテない・・・か」
 雪乃はミキオの顔を覗き込む。
「僕は、モテるよ・・・だって、僕は雪乃の彼氏だろう?」
「そうだよね、こんな可愛い彼女がいるものね」
 とあたしに冷やかさられて雪乃は柄にもなく真っ赤になった。

♪  Summertime

 いつか、良いことがある・・・二人のために信じてみたくなる。

「じゃミキオ、こんな可愛い彼女がいるって自慢にしなさいよ」
 ミキオは黙ってグラスを掲げる。雪乃が楽しそうに笑っている。
「ねぇ…ママ。ウィスキーのボトルを入れて」
「いいのかい?」
「うん、でも一番安いのね」
 ミキオはフォア ローゼスを選んだ。四つのバラが綺麗なボトルだ。
「ネームタグにはあなたの名前を入れるのよ、ミキオ、さあ書いて」
「いいのかい、雪乃」
「いいの!」
 ミキオはネームタグにペンを入れた。
“太宰”
 と苗字を入れたのを見て雪乃は勘定を済ませた。
「じゃあ私はお客さんと同伴があるから先に行くね」
「それって・・・鬼畜とかい?」
 ミキオが不安そうな顔をする。
「違うわよ、もっと大人しいお客さん」
 と、雪乃はごまかしたが多分、嘘だ。
「わかった。行ってらっしゃい、雪乃」
 ミキオが優しく微笑む。ミキオも嘘に気付いている。雪乃の背中を見送るミキオの目が悲しい。

♪  Summertime

 雪乃は鬼畜な奴と同伴なのだろう。妙な気配を雪乃はいつも垣間見せる。ミキオに追及させたいと思うのに、何も言わないミキオへのもどかしさからなのか。嘘をついた雪乃の背中になぜかこの曲が重い。子守り歌が何かを眠らせようとしているのだろうか・・・
 ミキオは、フォア ローゼスに掛けられたネームタグを指で持て遊びながら大好きなバーボンを飲んだ。
「ママも何か飲んで下さい」
「ありがとう。同じものを頂くわ」
「ママはもう、気付いているでしょう?」
 あたしは黙って自分のグラスを作る。
「雪乃の嘘をママなら気付いたはず・・・雪乃は鬼畜と飲みに行ったのです」
「仕事だろう?同伴は。ミキオは分かっているから黙っていたのだろう?」
 と言ってあたしはミキオの目を視ながらグラスを合わせた。
「雪乃は危険な男が好きなのですよ・・・いつも、そういう男に惹かれてついて行く・・・そして傷ついて帰って来る」
「嫉妬しているんだね、あんたも」
 ミキオはグラスを傾ける。
「もう、何度も同じようなことを繰り返しています。僕が不甲斐ないから」
「それじゃ何故、雪乃ちゃんはあんたに惚れたのだろうね」

♪  Summertime

 ミキオが、口を開こうとした瞬間、マリアのピアノが流れて来た。
 ミキオの中にいるものを眠らせようとするかのように。
「僕の危険な匂いを雪乃は本能で嗅ぎ分けているのでしょう?自分でも気づかずに」

あたしは黙ってミキオの目を視る。
「僕は、犯罪者なんです」
 ミキオは、あたしの視線を受け止めきれずに目を逸らした。
「ママはそれさえ気づいていたんだね?」
「まさか、そこまで私だって分からないよ。ただ、ミキオが大人しくて優しいだけの男じゃないと感じただけ」
「かなわないなぁ。ママには」
 ミキオは、ピアノの音に心を預ける。
『眠らせよう、僕の中のものを』
 と言うかのようにミキオはグラスを呷った。

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「僕らはまた流れて行くのだと思います。雪乃の浮気癖と僕の過去が同じ場所に長く留まることを許さないから」
「愚か者だね、あんた達もさ」
「だから・・・この店に引き込まれてしまったのかな?」
「この店の宿命かね・・・愚か者たちが迷い込んで来るのは」

♪  Summertime
「今夜、雪乃は帰って来ない・・・店が終わった後、アフターで飲みに行ったとか言い分けするんだと思います。そんな夜、僕はシチューを煮込むのです。ゆっくりと、じっくりと・・・」
「いろんな想いを放り込んでかい?」
「うまいことを言うなぁママは」
「それで、いいのかい?」
「えっ?」
「前に踏み出さないでいいのかい、流れて行くだけで」
 ミキオは、返す言葉を探している・・・でも何も言わなかった。

♪  Summertime
 ♪♪ いつか、いいことがある。だからおやすみ・・・

 ミキオはそんなことなど考えていない・・・ミキオはグラスを呷る。
 何を飲み込もうとしているのか・・・


※     ※     ※



太宰ミキオはアパートに帰らない雪乃を待ちながら、昼間は大好きなエアーライフルの射撃場に通い、夜はシチューを煮込んでいた。鍋の中に何もかもを放り込むかのように。
「いろんな想いを放り込んでかい?」
先日のユウコの声が蘇った。でも完全に溶けてしまうものなど有る筈がないと太宰は思う。
突然、フラッシュ・バックが太宰を襲った。
太宰の前に血だらけの男が見えた。太宰に手を伸ばす男の手を振り払った瞬間、アパートの扉が開いた。雪乃がいた。
「おかえり、雪乃。温かいシチューを作っておいたよ」
 咄嗟にいつもと同じ言葉を太宰は投げていた。
 雪乃の顔が見る見るうちに曇っていくのがわかった。そして、雪乃は何も言わず、扉を開けて飛び出した。扉が音を立てて閉まった。太宰は静かに息をついた。何を言えばよかったのか、何か別のことを言わなければいけないことは分かっていたのに、太宰は何も出来ずに唇を噛んだ。



 ※     ※     ※
 カウベルが鳴った。
 三日振りに雪乃が現れた。雪乃は扉を開けて入るなり
「飲ませて、ママ!強いお酒を」
 と言ってスツールで泣き伏せていた。
 あたしはミキオのウィスキーを出してオン・ザ・ロックを作った。
 雪乃はグラスを飲み干した。
「お代わりを下さい」
「無理して飲むのはよくないよ」
「息が詰まるの、ママ、優しいだけのミキオに」
「何があったのだい?」
「私・・・三日振りにミキオのところに帰ったの・・・ミキオは私に『お帰り、雪乃。暖かいシチューを作っておいたよ』って言うのよ!」

♪ ピアノ
♪ Summertime

 雪乃の中の何かが眠ろうとするように、ピアノの音に堕ちてゆく。
「私が他の男と一緒にいたことなど分かっているくせに」
「そういう愛し方しか出来ない男なんだね、ミキオは・・・それが悲しいかい?雪乃は・・・」
 と言ってあたしは雪乃の悲しい目を見つめた。
「何故、悲しいの?ママ。私・・・何故、悲しいの?」
「・・・女・・・だからかな」
「優しいだけの男なんて・・・馬鹿よ」
「お互い、傷口が開いたままにして、傷を見ないで自然に治るのを待っていちゃダメだよ」
「だけど、ミキオは私に心を開かない・・・ミキオの過去に何かあったことくらい、いつも一緒に居たら分かるわ」
「それが悲しくて、ミキオを裏切って、ミキオを傷つけるつもりが自分を傷つけるだけ。お前は聞いたのかい?」
「えっ?」
「ミキオが抱えている過去を。受け止めるために、ちゃんと聞いたのかい?」
「お前達二人は一度、良く眠って、目覚めたらゼロからやり直すか考える時なんだよ」

 そのための
♪ Summertime
 なのか・・・マリアの意図が分かった気がした。

 カウベルが鳴った。ミキオが立っていた。
「マリアのピアノは何かを眠らせて、忘れる振りをさせるためではなくて」
 静かにミキオが近づいて来る。
「ちゃんと立ち上がれるようにぐっすり眠れってことなんだね。ママが言うように」
 ミキオの手が雪乃の手を掴んだ。
「相変わらず、物知りね、ミキオは」
「Summertimeの詩の訳を探してみただけだよ」
「帰ったら、その詩の意味を聞かせてよ」
「詩だけじゃなくて、全部、ゼロから話そう、そして開いたままの傷口を治すんだ」
 ミキオが雪乃の手を引いた、力強く。
 カウンターに二つのグラス
 真っ赤な夕陽のようなカクテル。
 SAUDADE(サウダージ)

「失くしたものを想うような気持ちがSAUDADE(サウダージ)これを飲み干したら、二人が失くしたものを掘り返してごらん」
 ミキオと雪乃はグラスを飲み干す。

「ゆっくり、おやすみ」
 と言ってあたしは優しく頷いた。

♪♪ Summertime
 ♪♪ いつか来る朝・・・
  ♪♪ あなたが歌いながら立ち上がって
♪♪ 翼を広げ、そして空を掴むでしょう
 ♪♪ だけど、そんな朝が来るまでは・・・

 ここは、FOOLという名のBAR
 愚か者が静かに酔い潰れるための店

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