媚薬

笹野side


目が覚めたらきっと彼女はまた東京に戻ると言うたろう。
そうなれば、これで4度目のリターンになる。

事故にあった当時は、あまりに酷い惨状に、もう命はないだろうと覚悟を決めた。だが彼女は奇跡的に一命を取り留め、何ヶ月にも渡り何度もあらゆる手術を繰り返した。

2年間に渡るリハビリ、投薬の末、身体的には健常者と変わらないレベルまで状態を取り戻した。
だが彼女の脳には、なぜか24歳の大学生の時までの記憶しか残っていなかった。神経細胞が傷付き、弱まってしまったらしく、彼女は記憶に関する障害を持ってしまった。
なぜそうなったのか医者も原因の特定は難しいと言い、検査でも異常を発見できなかった。


何度説明しても自分は24歳の大学院生だと言いきる。周りは静かに見守るしかなかった。

生活能力も学力も普通の人と変わらない彼女に、なぜか現実を受け入れる理解力だけ欠乏していた。そしてそれは行動を伴い24歳当時に自分が暮らしていたアパートへ勝手に戻り、彼女は大学へ行き授業を受けようとした。

東京に戻ると、学生時代自分が始めたバーで、アルバイトをし始めた。

マスターは彼女の大学の友人、事故の知らせを聞いて駆けつけてくれた一人だった。
『PROBE』は彼女が美大の同級生と軍資金を出し合い、始めたバーだったが、そのメンバーの中に自分は含まれていないという新たな思い込みが発生していた。

彼女の記憶は歪曲され、マスターが自分と同じ年齢の友人であることを忘れている。
都合のいいように作り上げられた記憶の中では、かつての同級生は今の自分の大学の先輩という立場に置き換えられていた。


新しい記憶として大学に籍がないにも関わらず、自分は大学に通っていると錯覚し、見かねた大学時代の友人、神吉君が美術館などで講演を開く時、授業と称し彼女を招いてくれるようになっていた。

バーのマスターも彼女のアルバイトを快く引き受け、そっと見守る立場で今まで何度も繰り返す彼女の作り出された記憶に合わせて住む部屋も準備して協力してくれていた。

自分は学生として、大学へは行っているが、単位が取れているので、今は大学の学舎内での授業がないと彼女の中で決まっているようだった。大学に知り合いがいない事も気にならず、変だとも思わない。

アルバイトの接客に限っては、24歳の大学生だという立場を貫いていても、彼女の見た目が若いので、客は不思議に思わず受け入れられているようだった。

笹野は、何度も東京へ通い、今まで4年もの間、『PROBE』で夏と会話している。

自分の事を全く覚えていない妻を見るたびに、毎回つらい気持ちが込み上げる。

君は事故で記憶が混乱しているんだと説明しても、彼女は冗談として受けとめた。
皆で真実を伝え、強く説得にかかると彼女の頭の回路がおかしくなってしまう。

そしてまた、繰り返し24歳の大学院生を初めてしまうのだ。
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