僕の愛おしき憑かれた彼女
「お前ら、わかってると思うが全力だせよ」
谷口先輩が、スターターピストル片手に真面目な顔で言った。
「彰、緊張してんの?」
軽く太ももを、上げ下ろししながら、駿介が目を細めている。
「してねーよ。お前を負かすのが楽しみなだけ」
真っ青に晴れた空には、雲一つなかった。深呼吸を一つして、スターティングブロックに足をかける。
こんな風にちゃんと走るのは、生まれて初めてかもしれない。
谷口先輩が、スターターピストルを空に構える。
ーーーー耳を澄ます。もう一度深く呼吸して止める。
空を切る、乾いた音と共に俺は、蹴り出した。
勝負は一瞬だった。
感覚的には、ほぼ同時だった。俺と同じ位速い奴なんて、駿介が初めてだった。
「お前ら!素晴らしいぞ!」
パンパンパンと拍手をしながら、谷口先輩がこちらにやって来る。
息があがる。こんなに一生懸命走ったのは、小学校のリレーのアンカー以来かもしれない。
駿介も肩で、息をしながら太腿に両腕を置いて自身の影が映る、地面を見つめていた。
「タイムは?愛子くんからお願いしよう」
「三浦駿介、5.88秒」
愛子が.綺麗な顔で眉一つ動かす事なく、無機質に読み上げる。
「では、砂月くん」
「あ、はい。春宮彰、5.89秒」
「よっしゃーー!」
普段あまり感情を出さない駿介が、声を上げた。
「おおおお!!!二人とも素晴らしい!素晴らしすぎるぞ!!5.9秒をきってくるとは!!全国大会も夢じゃないな!ガハハハ」
谷口先輩のバカデカい声も.笑い声もなんだか他人事みたいに遠く、くぐもって聞こえた。
ーーーー0.01秒、俺は負けた。
「あ、彰……」
タオルを持ってきてくれた砂月から、目も見ずに受け取る。
「ごめん、負けた。顔洗ってくる」
砂月が、何か言いたげだったが、俺は遮る様にして目も合わさず、それだけ言ってコンクリ剥き出しの流し台に向かった。
蛇口を捻って、水道水に頭ごと突っ込んだ。
冷たい水を頭から被っても、まだ体は火照って、俺は奥歯を噛み締めた。
ーーーーマジで悔しい。こんなに勝ちたいと思ったこともなかったし、こんなに悔しいと感じたことは、今までなかった。
「俺の勝ち、砂月口説く権利獲得ー」
ニヤつきながら、隣の蛇口を上に向けて駿介が、水を喉を鳴らして飲む。
「……ふざけんなよっ!お前にとったら遊びだろ?他の女でやれよ!」
駿介は水を飲み終えると三角の蛇口を捻って、
俺を真顔で見つめた。
「……ふざけてねぇよ。俺は……アイツがマジで好きなんだよ。だから手段は選ばない」
真顔の駿介を見ても、マジで好きだとか、簡単に口にできる駿介に怒りが湧いた。
それは、砂月にきちんと伝える勇気のない、俺自身への怒りも含んでいた。