僕と結婚しても、傷つかない人を探しています。
坂崎と引き継ぎを済ませて退勤すると、外の空気は初夏の匂いを含んでいた。
 日も延びて、夕方の時間を過ぎてもまだ明るい。昼間降っていた雨はあがり、雲間から天使の梯子がおりている。
 温く肌にまとわりつく風は湿気でじめっと不快だけど、家に帰れば琴子さんが待っている。
 あまり待たせてはいけないと、水溜まりを避けながら停めた車まで急いだ。
 慣れきた新居までの道のり、街の風景。
 琴子さんから電車通勤と聞いて駅の近くで部屋を探したけれど、大きなスーパーが少しだけ遠い。
 「運動になるから」と、仕事帰りに駅から歩いて買い物に行ってくれている。
 パティシエールが力も使う重労働なのは知っいたのに、僕はそこまで頭が回らなかった。
 仕事以外では全く気のきかない自分が恨めしい。ちゃんと、もっと琴子さんのことを見ないと。
 マンションの駐車場に車を停めて、エレベーターで部屋のある階まで上がる。
 部屋のドアの前に立つ瞬間、今更ながら自分が人と暮らしている事実に驚く。
 中では琴子さんが僕の帰る時間に合わせて、食事の用意をきっとしてくれている。
 晩酌はしないけど、たまに琴子さんの勤め先で買ってきてくれたケーキを食べる。
 気を使って席を外そうとしてくれる琴子さんを引き留めて、僕はコーヒーをいれて二人でケーキを食べる。
 琴子さんは、ふふっと小さく笑う。
 理由を聞くと、「神楽坂さんがちょっと笑っているから」と返ってきた。
 気付かなかった。わからなかった。
 僕は、坂崎が言うように変わってきているのだろうか。
 そうだ、今日は坂崎にオーバーフェンスみたいだって言われたんだ。
 なんですか、それって、くつくつ笑い肩を揺らす琴子さんの姿が頭に浮かぶ。
 それを早く琴子さんに報告したくって、急いで鞄から鍵を取り出した。
 
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