泡沫の恋
付き合うということ

春野愛依side

春野愛依side

放課後になり小テストで追試になった人たちが2年4組に集められた。

教室に入ると、空いている席に腰かけて稲田が来るのを待つ。

8クラスある中で追試になったのは私を含めて10人ほど。

数学の稲田によると今回のテストは相当簡単なものだったらしく赤点をとった人間は基礎が全くできていないらしい。

同じクラスの子は遠い席に座ってしまったししゃべる相手のいない私が手持ち無沙汰になっていると、「ねえねえ」と隣の席に座った女の子が声をかけてきた。

声をかけてきたのは大きくてくりっとした目をした美少女だった。

確か、1組の涼森さん。身長はあまり高くないけど、細身で目を引く。胸下までのストレートの髪はサラサラでテレビのCMにも出られそうなほど綺麗だ。

「突然声かけてごめんね。私、A組の涼森いちかです。えっと……愛依ちゃんだよね?」

「うん。いちかちゃん、よろしくね」

「こちらこそ」

笑うと両頬にえくぼがでる。親しみやすい小動物のような可愛らしさが彼女にはあった。

「追試って同じ問題かな?稲田先生、何か言ってた?」

「稲田のことだから違う問題だと思うよ」

今までギリギリながら赤点をとったことはなかったから分からないけど、稲田のことだしそんなに甘くはないはずだ。

稲田は答えを導き出すまでの過程をとにかく大切にしたがる。

イコールの先の答えが同じならなんだっていいと典型的なO型の私は思う。ちなみに稲田はA型の超几帳面。

「そっかぁ……。今回の追試ダメだったら再追試だよね?」

「だと思うなぁ。稲田って厳しいからホント嫌だよ」

苦笑しながら言うと、いちかちゃんがわずかに視線を落とした。

「私は5組の稲田先生のクラスがよかったなぁ」

「え、どうして?稲田が担任だよ?」

他のクラスの子としゃべってても5組はやだって言う子が多いというのに。

「先生がっていうか……一緒のクラスになりたかった人がいるの」

「そうなんだ。え、誰?もしかして、好きな人?」

初めて言葉を交わした相手に聞くことじゃないと分かっていても、彼女のほわっとやわらかい雰囲気に押されついつい聞いてしまう。

いちかちゃんみたいな子を男子は好む。

仕草も声もすべてが可愛らしくて守ってあげたくなる。

話の流れでそう尋ねた瞬間、教室の扉が開いて稲田が入ってきた。

「こら、追試組!しゃべってる暇があるなら教科書を開け、教科書を!時は金なり!」

また始まったと心の中で苦笑する。

時間はお金と同じように貴重なものだから無駄にするなって意味らしい。

そのフレーズが好きなのか稲田の口から度々その言葉が飛び出す。

稲田は教壇に立ち追試の前に問題の解き方を一から説明し始めた。

さすがに再追試を避けたい私はシャープペンをギュッと握り、板書された問題をノートに写す。

しばらく集中して勉強に取り組んでいると、開けっ放しにした窓の外から大きな掛け声がした。

野球部か、それともサッカー部か……。

分からないけど、私の左手側にある南面のグラウンドに意識を奪われる。

今頃、賢人はグラウンドで練習してるのかな。会いたいな。しゃべりたいな。

またご飯食べに行きたいし、一緒にショッピングもしたい。

お揃いの物買ったり、休みの日はペアルックでデートだってしたい。

賢人とやりたいことは山ほどある。

「―ーの。春野!!」

名前を呼ばれて飛びかけていた意識が覚醒する。

ビクッと体を震わせて教壇の方へ目を向けると、稲田が苦々し気に私を見ていた。

「何考えてんだから知らないが、今は集中しろ!進学する予定ならこの部分は確実に押さえておかないとダメだ」

「は、はい……」

「勉強以外のことを考えるなとは言わない。だけど、今この時間は勉強する時間だ。分かったな?」

稲田は言いたいことだけ言うと、再びチョークを握り説明の続きをする。

……分かってるよ、そんなこと。

確かに勉強しながら賢人のことを考えられるほど私は器用でも頭のいい人間でもない。

小さく息を吐くと気持ちを切り替えて黒板を真っすぐ見つめる。

稲田は間違ったことを言っていない。

私が稲田を嫌いな理由はこれだ。生徒のことを見ていないようで稲田は案外しっかり見ていて、そして痛いところを突いてくる。

それが正論だから悔しくなって反抗したくなる私はきっとあまのじゃくだ。

一時間半にも及ぶ特別授業の末の追試で、ギリギリながらも合格を果たした私はほっと胸を撫で下ろす。

いそいそと帰る準備をしている私に近付くと稲田はトントンッと指で私の机を叩いた。

「春野、よく頑張ったな」

顔を上げると稲田は眼鏡をくいっと指でもちあげながらさらりと言った。

稲田は常に厳しいわけではない。

しっかりやればちゃんと褒めてくれるし、飴と鞭の上手な使い分けができたりもする。

「――愛依ちゃん、またね」

「うん、またね」

先に帰る準備を終えて席を立ったいちかちゃんに手を振ると、私はふふふっと得意げに胸を張った。

「先生。私って意外とやればできる女なんですよ」

稲田は心底楽しそうに微笑む。

「そうか。じゃあ、次の試験期待してるからな」

「え。嘘嘘。冗談ですって!」

「俺は冗談が通じないタイプの人間なんだ。授業中もたくさん当ててやるから徹底的に予習しておくんだな?」

調子に乗って余計なことを言って無駄にハードルを上げてしまったことを、今さらながら後悔したのだった。
< 31 / 63 >

この作品をシェア

pagetop