仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
忍び寄る影
「結婚祝いか、順調だな」
 向坂自動車役員専用の地下駐車場で、自分の車目指して歩いていた圭一郎は声をかけられて振り返る。立っていたのは従兄弟で向坂自動車常務の向坂和信だった。
 圭一郎が手している花束のことを言っているのだ。
「ああ……秘書室からだ」
 答えながら、圭一郎は警戒する。彼がこの地下駐車場にいるのが珍しいことだからだ。
 彼の家はさほど遠くはないが運転手付きの送迎を受けているはずで、その車はエントランスで彼を待っている。だから彼がここへ来る必要はない。
 一方で圭一郎は自宅までの短い距離を自分の車で自ら運転し通勤することにこだわっていた。
 ハンドルを握った時の高揚感、アクセルを踏み込んだ時のエンジンの反応……自動車会社の取締役という立場にいる以上、ドライバーとしての感覚を忘れないようにするためだ。
 だから圭一郎は毎日ここを通るが、彼と遭遇するのははじめてだ。
「部下に慕われる完璧な副社長か。……お前がいれば、向坂自動車の未来は明るいな」
 嫌味を言いながらコツコツと靴音を鳴らして近づいてくる男に圭一郎は言葉を返すことはしなかった。ふたりきりになると彼はいつもこうやって対抗心を剥き出しにする。相手にするのもバカバカしい。
「五菱との関係も再開させ、結婚もして。後継者はほぼお前に決まりだな。……どうだ? 嬉しいか?」
 向坂自動車ほどの巨大な企業を率いていく責務を背負うのに嬉しいもなにもないだろう、と圭一郎は思う。だが、口には出さなかった。挑発に乗って無駄に争うつもりはない。
 無視を決め込む圭一郎に和信は面白くなさそうに顔を歪めた。でもそこでニヤリと笑い、意味深な言葉を口にする。
「だが会長(じいさん)は、お前を正式に後継者とすることをまだ決めかねているようだぞ。親父が聞きかじった話では、圭一郎にはひとつだけ足りないものがあると言っていたらしい。リーダーとして致命的な欠点だそうだ」
 そこで和信は言葉を切ってにたにたと笑っている。今日彼がわざわざ地下駐車場まできて、圭一郎に話しかけたのは、このことを言いたかったからなのだ、と圭一郎は思った。
 実に嬉しそうだ。
 一方で今彼が言った言葉そのものには、圭一郎も興味をそそられていた。
 そのような話は初耳だ。父からも祖父からもそれらしいことはなにも聞いていない。
「……致命的」
 考えを巡らせながら呟くと、和信が弾かれたように笑いだした。
「ショックだろう? 小さい頃からお前は、じいさんのお気に入りだったからな。まさかそんな風に言われているとは思わなかっただろう!」
 圭一郎にわずかでもダメージを与えられたことが心底嬉しそうだ。
「それがなにか、お前は聞いたのか?」
 尋ねると、ニヤニヤとしながら口を開く。
「さぁ、どうだろうな?」
 聞いていないのだなと圭一郎は確信する。もし彼が知っていたとしたら、こんな風にもったいつけたりしないで、声高らかに言いふらしているはずだ。
 それにしても。
 なんだろう、と圭一郎は考える。
 ショックとまではいかないが意外な話だと思ったのは事実だった。
 小さい頃から圭一郎はお前は向坂自動車を背負って立つ男だと言われ続けて育ってきた。そのために祖父からはたくさんのことを教わった。今だって圭一郎がやることに厳しい指摘が入ることも少なくはない。
 その祖父が圭一郎にあえて言わないのは、言う必要がないということだろうか。
 あるいは言ったところでどうしようもない部分なのか……。
「とにかく、お前も完璧ではなかったわけだ。まだなにかないか、俺は必ず見つけ出してやる。さすがにいくつも欠陥があれば、じいさんもべつの後継者を探すだろう。そうだな……差し当たってあやしいのは……見合いを何度も延期した新妻あたりか?」
 突然話の矛先を澪に向けた和信に、圭一郎は花束を持つ手をギュッと握る。思わず反応してしまいそうになるのを必死でこらえた。敵に尻尾を掴まれるわけにはいかない。
 和信が面白くなそうに鼻を鳴らす。
「まぁいい。覚えておけ、俺がお前の上に立ったあかつきには、南米に飛ばしてやるからな。首を洗って待ってろよ」
 捨てゼリフを吐いて去っていった。
 その背中が見えなくなってから、再び圭一郎は自分の車に向かって歩き出す。乗り込み、すぐに発進させた。
 自宅のマンションへ向かう片道二車線の道路を流れるライトを見つめながら、和信が言った言葉について考えた。
 奴に目をつけられたのなら、澪の秘密がバレる日も近いだろう。当初予想していた通り、この件は圭一郎のアキレス腱となったというわけだ。
 ましてや祖父が言っていたという圭一郎の欠点と合わせて考えると、圭一郎にとって致命傷となりうる可能性がある。
 ——だがそれでも。
 澪との結婚を後悔するような気持ちは、自分の中をどう探しても微塵も浮かんでこなかった。たとえ時を戻せたとしても、自分は同じ道を選ぶと確信する。
 今圭一郎が恐れているのは、向坂自動車の後継者としての地位を失うことではなく、澪の隣にいられなくなることだった。
 彼女を失うことなど考えられない。
 だからこそ、まずい状況なのは確かだった。社会的地位は取り戻せたとしても、人の心はそうではない。この件が明るみになることで澪が傷つくことだけは避けたかった。
 逆境に負けず、強く生きてきた澪。少なくとも今は圭一郎と穏やかな家庭を築きつつある。
 完全なる政略結婚だからゆえ、まだはっきりと言葉にしたわけではないけれど、圭一郎は彼女を愛している。そして彼女の方も圭一郎に特別な感情を持ちつつあるのは確かだった。
 このままいけば必ずふたり、幸せになれるだろう。
 もうこれ以上澪を悲しませることは、絶対にしたくなかった。
 ——そのためには、どうべきか。
 夜の街を流れるネオンを横目に見ながら、圭一郎は考え続けた。
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