終わりを願って恋が始まる。

最終話 終わりを願って恋が始まる。

村松遥と村松遥


 学校は冬休みに入ったらしく、塾では昼間から授業が行われていた。
 しかし今日も授業が終わると、村松遥はすぐに出ていってしまった。
 あの日以来、村松遥と話ができないどころか、目も合わせられない。以前はそれを望んでいたし、さらにその以前はこの状況が当たり前だったはずなのに俺はどうも気が落ち着かない。
 もし話ができたところで、俺が彼女に言えることはないのだけれども。
 小さくため息をついて、教材をまとめていると背後から女子生徒から声をかけられた。ばっと振り返るがそこに立っていたのは村松遥ではなかった。名前は確か、山本まり。

「先生ありがとね」
「なにが?」
「本当はクビにしてやろうと思ってたけど、遥のクセが戻ったからさ。もうちょっとだけ様子見てあげる」

 彼女はクビ、という部分を強調して言うと指先で机の縁をリズミカルに叩いた。

「でも、私の大切な友達に変なことしたら許さないから」

 そう言い切り、ふふん、と満足そうに教室を出ていく山本まりを俺は呆然と見送った。
 一体、なんのことだ?

 結局、なにもわからないまま夕方に塾は終わり、駅へと向かうとどこかからかピアノの音が聞こえた。音の鳴る方へ顔を向けるとわずかだが人だかりができている。
 いつもならそのまま通り過ぎるのに、俺はなぜかその音に誘われるように人だかりへと割って入った。
 すると、重厚感のある黒塗りのグランドピアノに向かって村松遥が座っているのが見えた。村松遥の視界には俺どころか、誰の姿も写っていないようで、ただひたすらに真っ白な鍵盤を叩いている。指から鍵盤へ、鍵盤から弦へ。村松遥の熱量は音となり、行き交う人々を魅了していた。
 それはきっと演奏の上手さもさることながら、彼女がピアノに向かう様子があまりにも楽しそうだからだっただと思った。


 私は冬の寒さを忘れるほど汗を滲ませ、ピアノに対しありったけをぶつける。
 あぁ、そうそうこの感じ。
 頭に浮かんだメロディを奏で、その音を聞いてまたメロディを思いつく。いつまでもこの楽しい音の輪廻に身を委ねていたい気持ちになる。しかし、音楽にはここぞという終わりがある。それ以上続けてしまえば音楽は単調でつまらなくなってしまうし、これまでの楽しかった音楽も台無しになってしまう。
 だから音楽は、美しく終わらせることが大切だ。
 私はここぞというタイミングで鍵盤を力強く押し素早く手を離す。音の余韻がピアノから抜けきると同時に、周囲からパチパチと手を叩く音が聞こえた。
 あ、こんなに人いたんだ。
 拍手を浴び軽く頭を下げながら立ち上がる、人だかりの奥の方に立つ荻野先生を見つけた。
 やっぱりいた。
 確信はなかったけど、ここでピアノを弾いていれば、荻野先生なら私の演奏を聞き流さず立ち止まってくれると思った。
 私は先生の前に立つ。
 どれほど時間が経っただろう。気がつけばすでに人だかりはすでに消えていた。
 ここに桜はない。まだまだ寒い冬でおまけに人が行き交う駅の構内だ。
 理想とは程遠いけど、それでもいい。私は小さく息を吸って、吐き出す空気に言葉を乗せる。

「先生、私と付き合ってください」

 私の告白に、荻野先生は顔色一つ変えない。
 そういうところが、やっぱり好きだ。

「どうして、俺のことが好きなの」
「一目惚れ、じゃ納得しない?」
「しない」

 そっか、と私は無意識に自分の太ももを指先で叩く。

「最初は現実逃避、かな。私の顔見て急に昔の好きだったやつに似てる、なんていう変な先生が単純に面白いなって思って。いろんな考えなきゃいけないことよりも先生のこと考える方が楽しかった」

 ぐぅ、っと顔をしかめる荻野先生を見て私は微笑む。

「無責任に好きだって言えて、それでも塾に来れば会える。私は、自分の寂しさを埋めるために先生を利用してたんだと思う。でも、謝らないよ私」


 村松遥はその言葉を最後におし黙った。俺はただ彼女の次の言葉を待つ。
 村松遥が謝る必要はない。なぜなら彼女の寂しさの原因は矢崎と俺だから。潤平のいうように離婚の原因は俺ではないのかもしれない。しかしそれは彼女にとっては関係がないことだ。
 矢崎と久しぶりにあった夜。俺がきちんと矢崎がすでに家庭を持っていることを受け入れ、あいつからの誘いをきちんと拒んでいれば、こんなことにはなっていなかったかもしれないのだから。
 しばらくして、村松遥は顔をあげる。

「でもね。今はもう色々関係なく、荻野先生のことが好きだから」

 そう言い切り、満ち足りた彼女の表情を見て、俺は瞬間的に胸の内が燃えるのを感じた。
 どうしてそんな顔ができる。どうして俺を責めない。どうして俺に好意を抱くことをやめない。
 なんとか心を落ち着かせ、俺は冷静に語る。

「まず俺は、女性を好きになれない。きみが未成年だとか、友人の娘とか以前に俺はきみの想いには答えられない。だからすぐに、諦めてほしい。俺は、自分のことを好きにならない相手を思い続けることがどれほど苦しいものか、知っているから」

 長年、矢崎との思い出とともに胸の中に蓄積していた黒い感情が言葉となって体の外に出ると、途端に虚しさが体を支配した。
 なんだ。俺が想い続けた二十年はこんな言葉にまとめられてしまうのか。
 あまりにもあっけなくて、バカらしくて、寂しすぎるだろ。
 鼻の奥がつんと痛み、目の淵に涙が溜まるのを感じた。俺は顔を上げポケットを触るが手応えがない。こんな日に限ってハンカチを忘れてしまった。
 溢れる涙を指先で拭っていると視界の隅で村松遥から白い布が差し出される。
 恥ずかしい、情けない、と思いながらもそれを受け取るとやけに重く、硬い。それは先日俺が渡したとっくに冷めきったカイロだった。

「……これ」

 間抜けに驚く俺を見て村松遥は笑い、またも言い切る。

「ありがとう先生。でも、諦めるタイミングは自分で決めるよ」


 私は振り返り、グランドピアノを見つめる。真っ黒で艶やかな胴体。鍵盤の綺麗な白。ピアノの音だけじゃない。ピアノそのものにたくさんの記憶が詰まっている。その記憶は私だけのものじゃない。私とパパの記憶だ。

「私がピアノを弾くとね、パパがすごく喜ぶの。それが嬉しくて、もっと喜んでほしくて、ピアノを弾き続けた。だけど、パパのことがわからなくなってピアノもやめてた。けどさ、……関係ないんだよ。いつだってピアノは弾けば楽しいし。パパがどんだけ最低でも、パパと過ごした時間は変わらない」

 パパは最低だ。私たち家族に対して許されない裏切りをした。だけど、パパの全てを私は否定したくない。
 だって、私の演奏を褒めてくれたパパだって、嘘じゃないから。
 私がパパにムカつく気持ちも、慕う気持ちも本当だ。許せるかはまだわからないけど、駅で会った翌日から、パパは私にこまめに連絡してくるようになった。
 私はパパから生まれたことを、パパに育てられたことを後悔したくないし、させてほしくないと心から思う。

「それに先生もさ」

 私は荻野先生の前に一歩踏み出し顔を見上げる。

「パパと過ごした時間は楽しかったでしょ。だって私も先生と一緒にいると楽しかったし」


 村松遥の笑顔を見て、俺は矢崎の笑顔を思い出す。
 そうだった。あいつはよく泣いて、よく笑うやつだった。
 当時から俺は男を好きになることに自分で勝手に存在意義とか、使命感とか、小賢しい後付けの理由を並べて正当化しようとしていた。だけど本当の理由は、あいつの泣いている顔ではなく、笑っている顔に惚れた、ただそれだけだった。

 村松遥は再び小さく息を吐き、胸の前で手をぎゅっと握る。

「先生、私と付き合ってください」

 彼女からの告白を聞き、俺はもう一つの気づきを得る。
 俺が村松遥を嫌いだと思っていた理由は彼女が矢崎に似ているからではない。
 自分の想いに正直で、後悔を恐れない強さを持つ村松遥のことがただ、羨ましいかったのだ。
 はぁ、馬鹿らしい。まるで子どもじゃないか。そうだ。俺はもうしばらく大人にはなれない。片想いは子どもしかいないらしいから。
 可笑しくて、内側から溢れ出る笑いをかみ殺しながら、俺は彼女に言い放つ。

「ごめん。俺、好きな人がいるから」

 そう口にして、初めて俺は矢崎のことを「好き」だと言ったことに気がついた。隠すことなく、恥ずかしげもなく、「好き」だと言うことでさらに矢崎のことが愛おしく思えた。
 なるほど。こういうことなのか。
 好きだと言うところから恋が始まるという村松遥が提唱する恋の定義はあながち間違いではないのかもしれない。

「そうですか」

 村松遥はそう言って笑った。悲しそうでもありながら満足げな物言いだった。

「私たちの恋が早く終わるといいですね」
「今始まったばっかりなんだけど」

 は? と首をかしげる彼女を見て俺は鼻から息を漏らした。

「ちなみに、恋の終わりの定義は?」
「結婚、とか。逆の場合だと他に好きな人ができるか、相手のことを嫌いになれば、ですかね」

 突然、ピアノの音が聞こえてきた。ピアノの方へ振り向くと小学生ぐらいの小さな女の子がおぼつかない手つきで鍵盤を叩いている。

「音楽と一緒です。終わることが大切です」

 村松遥は女の子の演奏に合わせて空中を指で叩きながらメロディを口ずさむ。この曲は確か『星に願いを』。
 駅の構内からロータリーを見ると夜の滲む夕空には星が一つ輝いていた。

「じゃあ俺は君の恋が早く終わることを祈るよ」
「私も、どうか先生の恋がちゃんと終わりますように」
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