S系外交官は元許嫁を甘くじっくり娶り落とす

「注意事項と担当の割り振りは以上です。では、今日もお客様に素敵な時間をご提供するよう、各々尽力してください。よろしくお願いします」


 母に続き、「よろしくお願いします」と私も皆と声をそろえ、丁寧に頭を下げた。

 フランス旅行から一年弱、もうすぐ二十六歳になる私は変わらずひぐれ屋で若女将の仕事をこなしている。

 四月上旬の今は桜柄の着物を着付けたり、宿泊客にはお着き菓子として桜や菜の花をモチーフにした練り切りをお出ししたりして、そこかしこで春を感じる日々だ。

 エツは元気でやっているだろうか。一応家に泊めてもらった時に連絡先は交換したけれど、お互いにやり取りはしていない。

 いざメッセージを送ろうとしても、なにも話題が出てこなくて結局やめてしまう。ひと晩一緒に過ごした上に、キスまでしたというのに……。その時間はあまりにも短い夢のようだったから、距離を置いていた時に逆戻りしてしまった感じ。

 彼を想うと胸が苦しくて仕方ないので、今日も仕事に邁進して余計なことを考える余裕をなくそう。金曜日だから予約も多いし。

 帯揚げの形を少し直し、よし、と気合いを入れて仕事を始めようとすると、母がなにかを言い忘れたらしく「ああ、それと」と皆を呼び止める。
< 67 / 245 >

この作品をシェア

pagetop