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 千真が下を向いて黙っていると、ぽん、と頭を撫でられた。旭かな、と思うが、違う。見なくてもそれがわかるのだと気づいて、涙が溢れてきた。

「辞めたいのを、無理に引き止める必要もねぇだろ」

「そうだけど、原因が解消したから、大丈夫かな、と思って」

 というか、ふたりの会話では、冴子と友美が犯人だという前提になっているのだが、どうして知っているのだろうか。
 おそるおそる聞いてみれば、どうやら圭樹が気づいてくれていたらしかった。

 二度目に千真が手を出されたとき、冴子が席を立ったのに合わせて、圭樹はあとをつけたようだ。そこで友美と千真が続けてトイレに入っていったのを見て、疑惑が確信に変わったらしい。

「まぁ、さすがに女子トイレに入るわけにもいかないし、目撃したわけじゃないんだけどね。でも、ちょっとつついたら、すぐに認めたから」

 存外、楽だったよ。旭はそういうが、果たしてそういうものなのだろうか。
 疑問は残るが、それ以上問いつめるわけにもいかず、千真は納得したふりをする。

「しばらくは有給も残ってるし、辞めるのはそれからでもいいんじゃない?」

「はい。ありがとうございます」

 腕とお腹は、常時痛みを訴えることはない。けれどときどき、そこに痕が刻まれているのだと主張するように、強い痛みに襲われる。忘れようにも、忘れることなどできそうもない。

「いろいろ、お世話になりました。私、これで失礼します」

「え」

 驚いて目を丸くしたのは、旭だけではない。駿介も一瞬、目を大きく見開いたあとで、ぐっと眉間に皺を寄せた。

「帰るの? 泊まれば? っていうか、ここに引っ越してきてもいいけど」

「いえいえ、そんな。とんでもないです」

 ただでさえ泊まったことも不本意なのに、引っ越してくるなんてもってのほか。自分を好きでもない人のそばにいるほど、つらいものはない。
 向こうに好意はないとはいえ、千真は違う。迫られたら拒めないのは判っているから、できれば近づきたくはない。

 千真が駿介とは目線を合わさないように反らしていると、旭はなにかを考えるようにして頭を掻いた。

「じゃあ、俺の部屋に泊まる?」

「え?」
「だめに決まってんだろ」

 旭の提案を食い気味に拒否した駿介は、少しばかり嬉しそうな顔をした千真を抱き上げる。わ、と短い悲鳴を上げて、千真は駿介の首に手を回した。

「2時間。それでケリをつける」

「……りょーかい」

 呆れたようにひらひらと手を振った旭は、そう言って駿介の部屋に消えたふたりを見送った。
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