ガーベラをかざして
真相
私は救急科まで足をのばし、偶然にも笹ヶ谷さんを発見。そばにいようと看護師や医者の制止を振り切って彼の手を握り、意識が戻るまで呼びかけた。 ...なんてことはなくて、普通にトイレに行って用を足してきた。そもそも行ったところでどの面下げて会えるのか。会うとしたら、あの人が回復して謝罪する許可をもらってからだ。

最後に見た笹ヶ谷さんは、血が滲むお腹を抱えて苦しそうにしていた。どうしてあの場にやって来たんだろう。それは秋永さんに聞けばわかるだろうけど、聞かなくてもわかることが一つだけある。私と関わってなかったら、こんな目にはあってなかった。 あの時タイミング良くパトカーだか救急車だかが来てくれたのは、近所の人が通報してくれたんだ ろう。あの女の人ーー水流井の奥さんはかなりの大声だったし、時間が時間だ。まだ寝ていた人が起きてしまい、何事かと様子を伺った可能性は十分にある。 それでなくても、新聞配達の人だとかランニングしている人だとかが目撃していたのかもしれない。どのみち近所の人たちには騒がしくしたお詫びをしなくちゃ。警察からも事情聴取とかあるんだろうな。母さんになんて言おう。

取り留めもなく色んなことを考えながら、秋永さんがいる診察室へと向かう。相談したいことは山ほどあるし、それ以上に休みたかったし。 戻ると秋永さんはいなくなっていて、雅樹さんだけが所在なさげに座っていた。ダウンコートを着ているからわかり辛いけれど、下はスウェットにサンダルだ。着の身着のままで来院したのだろう彼に声をかけると、すぐに立ち上がって深々と頭を下げてきた。

「雅樹さん、来ていただいて...」
「いえとんでもない。本当に申し訳ありませんでした」

丸イスに座るよう促すと、雅樹さんは視線を下に落としたまま座った。顔色は悪く、口開けたり閉じたりしている。私がベッドに横になると、自分の額に手を当て、言葉を選ぶようにゆっくりとこの事件の一端を語ってくれた。

ーー奥様はご実家に引き取られて、そこではずっと大人しくしてらっしゃったんですが、監視が緩んだ隙に逃げ出したんだそうです。使っていた部屋を調べると、お嬢様への恨み言が綴られた ノートが見つかって...うちに連絡してきました。同時に笹ヶ谷にもそっちに行ってないか電話し たそうです。 親父は慌てて笹ヶ谷さんと一緒にお嬢様と園島さんのアパートまで向かって...奥様がお嬢様を襲おうとしているのを見つけたと言ってました。 もっと警戒すべきでした。親父にもそう言われていたのに...、もっと気をつけていれば笹ヶ谷さ んだってこんな目には...。

最後のほうは力なく、か細い声になって何と声をかければ良いのかわからなかった。「あなたのせいじゃない」と言っても慰めにはならないだろう。どんな言葉も今の彼には通じない。だから話題をずらすことにした。

「...秋永さんのことで聞きたいことがあるんだけど」
「親父の?」
「私を両親に預けたのが秋永さんだって、母から聞いたの」
「親父がお嬢様を?」
「何か聞いてたりする?」

雅樹さんは首を横に振る。眉間にはしわが寄ったままだ。

「何も...その話も初めてです」
「そう...」

思えば秋永さんは良い人だけど掴みどころのない人で、何を考えているのかわからないところがあった。実父に連れられ初めて会った時、監視役なんだろうと思ってた。私が逃げ出したり良家の子女らしくない行動をしたら、実父に告げ口される。そう身構えてた。

そんなくだらない予想とは裏腹に、秋永さんは真摯に支えてくれた。それどころか生まれた時からお世話になっていたなんて...。あの人がいなかったら、私はどんな生活を強いられていたかわかったもんじゃない。

笹ヶ谷さんが酩酊した日や、実父に婚約破棄を突然言い渡された日も、秋永さんは冷静に、私の気持ちに寄り添って動いてくれた。今この時だってそうだ。水流井に睨まれてもおかしくないのに、こんなにも親身になってくれている。

「私にはあなたたちに...返しきれない恩がある」
「お嬢様、俺も親父も恩などー」
「むしろ、恨まれてもおかしくないことをしております」

落ち着いた、でもどこか乾燥した声が私たちにかけられた。 声がしたほうに顔を向けると、秋永さんが感情の読めない顔でそこに立っている。私は彼が言った言葉を理解できず、おうむ返しをしそうになった。

「どういうことだよ、親父」
「お前は向こうに...いや、お前も聞きなさい」

秋永さんは雅樹さんが持ってきた丸イスに腰かけた。まるで告解しようとする罪人のような顔をしている。けどここは教会ではなく病院の診察室の片隅だし、私や雅樹さんは神父でも牧師でもない。
それでも秋永さんの唯ならない雰囲気に飲まれ、私と雅樹さんは彼が話す内容に耳を傾けるしかなかった。
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