横浜山手の宝石魔術師
第一章 ラブラドライトの紡ぐ出逢い


それは短大卒業間近、イギリスで一人旅をした時のこと。

金糸のようなさらりとした美しい髪、時折グレーにも感じる青い瞳に優しげな笑みをたたえ、オレンジ色の夕日を背に彼は私の前に現れた。

まるで、昔話に出てくる王子様のように。

ロンドンの古びた骨董店で出会ったトレンチコートにスーツ姿の王子様は、何故か私に美しい輝きを放つグレーの石がついたペンダントをくれた。

今も胸に残る美しい思い出。

いつかまた、彼に出会うことが出来たのなら。




*********




みなとみらい駅からみなとみらい線に乗り各停で三駅、終点元町・中華街駅で降りる。

天井の高いホームに降りた多くの人は、中華街方面の出入り口に向かうが、反対の元町側へ。

何度もエスカレーターに乗り換え地上でれば歩道には「←JR石川町駅」「海の見える丘公園→」との案内板がある。

右に進み信号を渡ってまた右に曲がり、目の前には「谷戸坂」と刻まれた長方形の長い石が道の脇に立っていて、その先はかなり急な上り坂。


「本当に合ってるんだよね、こっちで」


相良朱音はそう呟くと、履き慣れないお洒落な靴を履いてきてしまったことを後悔しながらスマートフォンの地図を確認し、目の前の坂を上り始めた。

髪の長さは本来肩下くらいの黒髪ストレートだが、今日は緩くウェーブをかけているせいで、歩くたびにふわふわと髪が揺れる。

『クリーニング業発祥の地』と書かれた薄茶色の大きな石碑を見つけ、そう言えばクリーニング屋に出しっぱなしで取りに行ってないことを思い出した。

それもお急ぎ指定をしたのに一週間以上取りに行ってない。

間違いなくスタッフのおばさまに、毎日とってもお忙しいのねぇ、なんて嫌みを言われるのが目に見えるようで、朱音は遠い目をした。

実は先ほどまで、みなとみらいにある高層ホテルにあるレストランで、父親から勧められた男性と無理矢理見合いをさせられた。

初回から一対一、拷問である。

歳は朱音の10歳以上も上でどこぞの一流企業にお勤めらしいが、そんな会社に勤めているのにその歳で結婚していないあたり嫌な予感はしたが見事的中した。

その男のきつい香水と自慢話しと説教までしてくる自己中心的な性格に朱音は心底うんざりし、ずっと作り笑顔で乗り切ると、もう少しどこかご一緒にと言い出した男にこの後予定がありますのでと断って逃げてきた。

もちろん自分の分は自分で支払い済み。

恩着せがましく先にカードで支払ったようだが、きっちり計算した上で多めの額を無理矢理男の手に握らせた。

あれくらいの額で恩着せがましくする時点で、ケツの穴の小さい男だ。

生活が大変な朱音からすればあの額は小さくないのだが、よく考えれば何でお金を払ってまで我慢し続ける時間を味わったのかと思うと思い返すだけで腹が立ってくる。

食事途中に『せっかくのスープの香りも貴男の香水で消滅してますけどもしかして鼻炎ですか?』とか、『遙かに若い女に説教しないと満たされない自尊心とか惨めですね』とか、『だからその歳で結婚できないんですよ』等々言いたいことは沢山あったが、必死に我慢した自分を褒めてやりたい。

そんなこんなでとんでもなく心身が疲れた朱音は、その男と一緒に食べたはずのフレンチの味の記憶など無く、こんな拷問に耐えた自分にご褒美をあげなくてはと、素敵なカフェで美味しいデザートが食べられないのか、男と別れ人の賑わっている店が並ぶエリアに着いたと同時に無表情でスマートフォンで検索し、横浜元町洋館の中で素敵なカフェに大人気のお洒落な『生プリン』があるとの記事を読んで、私はプリンで心を浄化させるのだと、ただ無心にそこへと向かっていた。

坂を登り、急な階段を上りきれば平地になり、左を見れば『PORTHILL YOKOHAMA』という青いアーチの看板が出てきて、足下には『港の見える丘公園』という石の表示を見つけた。この奥がすべて公園のようだ。

この『港の見える丘公園』は横浜港を見下ろす小高い丘にある公園で、横浜ベイブリッジが目の前に、左側奥を見ればみなとみらいの高層ビルも一望でき、隣にあるイングリッシュローズガーデンは、薔薇がメインの美しい花壇が広がり、ベンチで休憩している人や、絵を描きに来たりと人気のスポットである。

そんな楽しげな公園の中に行きたい衝動を朱音は我慢し、スマートフォンの地図で現在地を確認しながら歩いて行く。

交番横の歩道を進めば、右側の緑豊かな場所は外国人墓地。

この周辺は時折マンションもあるものの、豪邸や洋館などがあって見るからに高級住宅地だ。

大きな木が生い茂る公園の奥に見えたのは薄いグリーンの壁に濃いグリーンの戸が見える洋館で、お目当ての『エリスマン邸』という表示を見つけ、やっと目的地に着いたと朱音は頬が緩みそうになりながらその洋館の入り口に入ろうとした時、すれ違った夫婦の会話が耳に飛び込んできた。


「あのカフェ三月末で閉店したのね。とても素敵だったのに残念だわ」


思わず朱音は振り返り、慌てるように洋館入口近くにある掲示板の前に走る。

そこには、『喫茶室閉店のお知らせ 3月31日をもちまして閉店となります』と無慈悲な紙が一枚貼られていて、朱音はその文章を読んだ後へなへなとその場にしゃがみ込んだ。

洋館に入ろうとしている人達がちらちら見ているのも気がつかずに。


「だめだ、今日はきっと厄日だ」


俯いたまま低い声で朱音は呟く。

素敵な洋館で素敵なプリンに舌鼓をうつことだけを楽しみに、靴擦れまで起こして坂を上って歩いてきたのに無駄に終わってしまった。

神様、私は何か悪いことでもしたでしょうか。

いえ、全く覚えが無いわけでは無いのですが、お金払ってまであのおじさんに頑張って付き合ったご褒美くらいくれても良いじゃ無いですか。

別にあの王子様にすぐに会わせて下さいと無理なお願いをしている訳でもないのに。

しばらく世の中の不条理やら神様への文句を心の中でひたすらしながら座り込んでいたが、すくっと朱音は立ち上がる。

こんな素敵な地域だ。他にも洋館はあるようだし、そうじゃなくても素敵なカフェの一つや二つあったっておかしくはない。

きっともっと素敵なところが、素敵なデザートがあるからここで食べられなかったんだ。

レッツ、ポジティブシンキング。

朱音は決意を新たに拳を握り、その洋館を背にして歩道に出た。


とりあえずふらふらとメイン通りを歩いてみれば、道路に面する豪邸には外国人の名前が出ていて、いかにここが外国人が多いのかわかる。

可愛らしい小型犬を散歩させているセレブのような外国人の奥様が出てきた脇道が気になって朱音はそちらに足を踏み入れた。

しばらく歩いて左側から目に飛び込んできたのは、美しい薔薇の咲き乱れる庭。

入口のアーチにはツタの薔薇が、まるでたわわな白い実を結んでいるかのように沢山の花で埋め尽くしている。

そこから奥に向かう小道の両端には黄色や赤など大輪の薔薇が、庭一面を豪華に彩っている。

庭の後ろには、濃いグリーンの壁で出来た洋館があった。

正面にある観音開きの白いドアから出てきたのは背の高い外国人の女性。

ゆるくウェーブのかかった長い金色の髪、地面までつきそうな紺色のロングワンピース、首元にはシフォンの花柄スカーフがふわりと巻いてあり、鈍くグレーに光るブリキのじょうろを傾け、ドア近くにある薔薇の鉢植えに水を注いでいる。

朱音はその姿に目を奪われた。

歩道からは横顔しか見られないが、美しい外国人の女性が薔薇に囲まれている姿は、金の豪華な額縁に飾られた絵のようで、思わず息をのむ。

チリリリン!


「わっ!」


歩道にいた朱音の真横をベルを鳴らして自転車が猛スピードで過ぎ去り、朱音は思わず塀にぶつかった。


「痛っ」


足に走った痛みに目線を下げれば、塀に絡まっていた薔薇のトゲで膝下あたりを切ったらしく、ストッキングは破れ赤い血がだらりとたれてきていた。

あぁ、だめだ、本当に厄日決定。

いくらポジティブシンキングにしようとも、怪我までしてはさすがに凹む。

慌ててしゃがみ込み鞄からティッシュをだそうとしたその時、朱音の身体に影が出来る。

顔を上げると、あの外国人の女性が驚いた表情で朱音を見下ろしていた。


『女神だ』


背後に日の光をまとうその女性は、恐ろしいほどに整った顔立ちで、まるで中世ヨーロッパ絵画に出てくる女神のように朱音は見えた。

なんとなく周囲に小さな天使も見える気がする。

疲れたよパトラッシュ。

もしかして自分は実は事故に巻き込まれ、天に召される瞬間なのだろうか。


「怪我をしているわ」


薄いピンクの艶やかな唇が動いて、落ち着いた声の日本語が聞こえてきた。

女神って日本語を話すんだなぁと、朱音はただ目の前の女神を見上げる。


「とりあえず中に入りましょう」


そういうと女神は朱音の鞄を持ち、しゃがんでいる朱音の手を優しく引っ張る。

外人だからかその手は大きく、誘われるように朱音は立ち上がれば、女神の身長は朱音より驚くほど高くて、なるほどもしかしてモデルさんかもしれないと見上げながら思っていたがやっと我に返った。


「い、いえ、大丈夫です。拭けば」


「行きましょう」


「はい」


朱音の言葉を遮るように女神が美しい笑みを浮かべてそう言うと、朱音は気がつくと承諾の返事をしてしまっていた。

もしかしてさっきまで神様に文句を言っていたので、日本の神様が仕方なく海外の女神を呼んだのかもしれない。

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