誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
 私をからかっている時の、多田さんの楽しそうな表情。
 中学生の頃、一度だけ担任の先生に相談しようとした時に見た、冷めた視線。
 立ち向かえない。
 あの現実と目を合わせることもしたくない。
 だから、逃げた。あの池に願いをかけて、願いは叶えられた。
 それの何がいけないの?
 それでいいって、思っちゃだめなの?
 余計なこと言わないで。
 惑わすようなことしないで。
 どうせ、あなたには何もできないんだから。波風を起こしたって何も解決なんかしないんだから。
 私のことなんて、ほっといてほしい……。
 すると不意に、男の子が石段を降りてきた。
 一歩一歩と近づいてくる彼に、なんとなく後ずさりしてしまう。今更ながらに感じる威圧感に、身の危険を感じるくらいの恐怖を抱く。
 なのに。
 なぜか、足が動かない。
 危害を加えられるかもしれないのに。
 自分の苛立ちを、ひどい言葉でぶつけられるかもしれないのに。
 なのに、動けないのは……。
 ……どうして?
 彼は私と同じアスファルトの上に立つと、眉間に皺を寄せたまま口を開いた。

「戦えなんて言ってない。あと……」

 そこまで言って、言葉を止める。
 そのままじっと見つめられた。眼球から頭の向こう側まで貫かれるんじゃないかと思うほどの、強い視線。そしてはっとする。
 私……。
 この目を、知っている……?
 そのまま、何秒、何分が過ぎたのだろうか。
 彼が急に手を伸ばし、私のブレザーの襟を掴んできた。
 え、と声を出す間もなく引き寄せられる。急に縮まる、彼との距離。
 殴られでもするのかと思わず歯を食いしばると、彼はいきなりブレザーの中へと手を入れてきた。
 内ポケットにある膨らみに手を伸ばし、それをさっと抜き取る。そしてまた距離を取られて、慌てて胸を触り、何をされたのか理解した。
 ——生徒手帳、取られた。

「……笠井、栞莉」

 ぱらりと中を開き、私の名前を確認される。
 取り返そうと、慌てて近寄った。

「ちょっ……! 返して!」
「おーおー、律儀に住所もスマホの番号も書いちゃって」

 顔が青ざめた。
 それは、万が一手帳を落とした時のためにとお母さんがメモ欄に書いたものだ。
 小学生じゃないんだからと落とさないよと言ったのに、無駄だった……どころか、このままじゃ悪用されてしまう。
 しかし手帳を取り返そうにも、男の子は手を上げて阻止しようとするのでどうにもならない。
 手が届いたところで、私の力じゃ取り返せる気もしないけれど。
 彼は逃げるように私から少し離れ、はじめて笑みを見せた。
 それは……なんだか、不敵な。
 戦隊ヒーローものの悪役のような、意地の悪い、笑い方だった。

「俺、植村(うえむら)。植村、(りく)

 自己紹介をされて、余計に混乱する。
 戸惑う私に、彼は畳みかけるように言葉を投げつけた。

「俺は、お前の呪いを消す」

 ……は?
 呪い、を……消す?
 何?
 何を言ってるの?
 理解できずに固まっていると、男の子——植村くんは、手帳をズボンのポケットにしまいながらさらに離れた。
 夕日が彼の背後に入り込み、彼の表情を黒く塗りつぶしていく。でも、光の中で彼がまだ笑っているのだけはわかった。
 夕日を背に、植村くんは街中に響き渡るような声で、全力で叫んだ。

「みんなに忘れられるなんて、そんなクソみたいなお前の呪い俺が消してやる。だからお前も、それを手伝え!」


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