誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
 外に出ると、通学路をさわやかな風が吹き抜けていった。
 秋のからりとした空気を感じながら、一人学校へ向かった。
 たった三十分早く家を出ただけで、登校する生徒がいなくなり随分と気分が楽になる。始業の時間まではまだまだあることを思い出し、少し通学路を外れてみることにした。
 四叉路を直角に曲がると大きな欅並木が現れて、それを鑑賞するためのベンチがちらほらと見える。
 そのひとつに腰を降ろすと、気持ちのいい日差しが斑点となって体中に降り注いできて、思考が冴え渡ってきた。
 いじめをどうにかする道……か。
 植村くんの言った、夢物語みたいな言葉を頭の中で唱えて、スマホを取り出した。
 〝いじめられたら〟と入力し、検索する。順々にサイトをタップすると、出てきたページには必ず〝親に相談〟という単語があって気が重くなった。
 親に相談。先生に相談。しまいには弁護士に相談、なんて単語も出てきて、そんなお金はないのにさらりと言いのけるウェブサイトに憎しみすら感じてしまう。
 簡単に言うんだから……。
 お母さんは、私が物心ついた頃には離婚していた。
 お父さんのことをお母さんは深くは話さないけれど、簡単に言うと付き合っている間に意図せず妊娠してしまい、逃げられてしまったらしい。
 それから、お母さんはがむしゃらに働いて私を育ててくれた。
 小さい頃から私はお母さんに「私もバイトする」と言っていたのに、お母さんは「バイトはいいからご飯作ってくれるとうれしいな」と言って私を働かせなかった。ひとり親だからと、生活費のために子どもを働かせたくなかったのだろう。
 そんなお母さんに、心配をかけたくない。
 いじめの相談なんかしたくない。
 これ以上、がんばってるお母さんの足を引っ張ることなんて、できない……。
 考えていたらいつのまにか時間が経っていて、道の向こうに歩く生徒たちの数が増えていた。
 慌てて学校に向かう。遅刻をしないのはお母さんに心配をかけないためのルールのひとつだ。着いたのは結局遅刻ギリギリの時間になったけれど、なんとか教室に滑り込んだ。
 でも、いつもガヤガヤと賑やかな教室がなぜかがらんとしていて、誰もいない。
 走ってきた疲れも相まって、ついぼうっと佇んでしまった。

「笠井さん」

 呼ばれて顔を向けると、廊下から教室を覗き込んでいる佐倉さんと目が合った。
 ノートとペンケースを胸に、どこかへ行く最中のようだ。
 でも今日の一時間目は担任の前田先生による現代文で、教室はここのはずなのに。

「次の授業、視聴覚室だって……。前田先生が体調不良で、急に変更になったの。朝のホームルームも省略されて、みんなもう行ったから」

 言われて、黒板に目を向ける。
 そこにはチョークの字が消されたあとがあった。
 多田さんがやったのだろう。私はいつも遅刻はしないけれど、ギリギリに教室に来ることが多いから、みんなが視聴覚室に向かったのを確認してからこっそり消したのだ。

「ありがとう」

 お礼を言うと、佐倉さんは私と一緒に行くでもなく、走って教室を出ていった。
 自分の席に鞄を置くと、そんな場合でもないのに誰もいない教室をじっと見つめてしまった。
 誰もいない空間はなんの危険もなくて安らげるのに、どこか寂しく感じてしまう。矛盾した感情が自分の中に存在しているのを感じる。
 やさしさに触れると、弱くなる。
 そんな自分を自覚しつつあった。
 何も知らなければ、無感情でいられたのに。今までずっとそうしてきたのに。
 植村くん、だけじゃなくて……。
 ……私は佐倉さんのことも、忘れたくない、と思う。



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