誰もいないこの世界で、君だけがここにいた



 彼と別れると、私は一人神社まで戻った。
 ふと振り返ると、勿忘(ワスレナ)の池は闇の中に沈んでいて、彼がそこにいるのかどうかは確認することはできなかった。
 これで、よかったのかな……。
 何度もその言葉が頭をよぎる。
 私の助言のようなもので、逆に彼を追い詰めてしまったかもしれない。
 呪いを解いてしまったことも、今後の生活にどこまで影響してくるのかわからない。
 私の決意はいつもぐらぐらと揺れていて、すぐに見えない不安でいっぱいになってしまう。
 でも、そうだ。
 こんな時は、思い出そう。

〝幸せになることからは逃げんなよ〟

 マイナスになってもいい。
 今より悪い状況になったっていい。
 そうなった時は、逃げて、逃げて、また前を向こう。
 いつか、小さな幸せを手に入れられるまで。
 私なりにいいと思える環境を掴めるまで。
 きっと、私を見ていてくれる人はいるから。
 だからもう我慢しないで、みんなに頼りながら、助けられながらでも、生きていこう。
 大丈夫……。
 石段を降り、街灯の続く住宅街に出た。
 人気はないけれど、明るくてなんだかほっとする。意味もなく怖かった無機質な光たちが、今は進む方向を導いてくれている。
 もうお母さんは家に帰っているだろうか。
 着信はないからまだかもしれない。早く帰ってご飯の準備をしよう。今日はお母さんの好きなオムライスでも作って、二人で好きな絵柄のケチャップをかけ合いながら、いつものようにくだらなくて楽しい会話をしよう。
 そんなことを考えながら駅前まで戻ってきた時。
 小さな街灯の下で、息を切らしている男の子を見つけた。
 この真っ暗な夜に、光り輝く金の髪。
 ぼろぼろのダメージデニムに、着古して襟がよれた花柄のシャツ。
 もう夜はとっくに寒いのに、上着を忘れたのか、コートの一枚も羽織っていない。
 私の、大切な、大切な……友達。

「……植村くん」

 信じられない気持ちで、彼の姿を見つめた。
 植村くんが顔を上げる。その視線はしっかりと私の目を捉えていて、彼が私を認識していることを物語っていた。
 ……呪いを解いた時、記憶も戻してくれたんだ。
 でも、この駅から植村くんの住む家は近いわけじゃないはずなのに。どうして今、ここに。
 池に住む彼が、あらかじめ呼んでいてくれたのだろうか。
 そう思ったのと同時に、植村くんが走ってきて、私の体を抱きしめた。
 とても逃れることなんてできない、強い力。一応他にも通行人はいるのに、お構いなしに、その腕を離さない。
 あまりの驚きに、うまく言葉が出てこない。

「あ、あの、どうし……」
「……ごめん」

 耳元で、植村くんが呟く。
 どうして謝られるのかわからない。
 だけど、久しぶりに感じる植村くんの体温に、不思議と涙が溢れた。

「ごめん……」

 彼がもう一度呟くのと同時に、頭の中に膨大な記憶が降ってきた。
 数えきれないほどの会話。場所。思い出。それらが固まりとなって、雨のように降り注いでくる。
 数が多すぎて、頭が処理できない。仏頂面の植村くんと、照れ臭そうに笑う植村くんの顔が交互に現れては消えていく。
 その光景を頭の中で眺めながら、ひとつだけわかったことがあった。

 ……あぁ。
 私。

 植村くんと、ずっと一緒にいたんだ……。


< 63 / 70 >

この作品をシェア

pagetop