乳房星(たらちねぼし)〜再出発版

【異邦人・その2】

(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)

1月29日からは、カナダ国内に滞在してお仕事をする予定である。

A班のメンバーたちは、カナディアン号(大陸横断特急)に乗って旅に出た。

1月30日は、ジャスパーで商談のお仕事の予定が入っている。

私たちは、移動中の列車の中で商談の資料を作るお仕事をしていた。

1月30日の朝6時頃のことであった。

私は、仕事の手を休めて車窓の風景をのんびりとながめていた。

窓の外からは、標高3954メートルのマウントロブソンが朝日に染まっている姿が見えた。

気がついたら、私は一晩中商談の資料を作るお仕事をしていた…

車窓の風景は、マウント・ロブソンからムース湖の風景に変わった。

バンクーバーからトロントまでの鉄道の営業キロは4446キロ…

世界では、シベリア鉄道に続いて2番目に長い営業キロ…

東京~博多間の新幹線4往復分の営業キロである。

所用日数は、バンクーバーからジャスパーまでが1泊2日で、バンクーバーからトロントまでが4泊5日である。

ちなみに、シベリア鉄道でウラジオストクからモスクワまでの所用日数が7~8日と最も長い所用日数である。

カナディアン号は、それについで2番目に長い所用日数である。

1月30日の夕方4時頃、列車がジャスパーの駅に到着した。

列車を降りたA班のメンバーたちは、駅の近くにあるホテルへ向かった。

ホテルに到着後、宿泊の手続きを取って、各自の部屋へ移った。

夕方6時頃、カルガリーからお越しになられた宝石商の主人と一緒にホテルのカフェテリアでお会いした。

ダイヤモンド鉱山の採掘権のリース契約の更新などの手続きを取ったあと、夕食を食べながら雑談をして過ごした。

1月31日の夕方5時頃、A班のメンバーたちはジャスパーの駅からカナディアン号に乗って、トロントへ向った。

2月4日は、トロントにあるモデルさん会社と売り子さん会社の関連のお仕事に取り組む予定である。

(ピーッ!!ゴトンゴトンゴトンゴトン…ゴトンゴトンゴトンゴトン…)

車窓の風景は、金色に染まっている麦畑の風景が辺り一面に広まっていた。

個室にいる私は、仕事の手を休めて、車窓の風景をゆっくりとながめながらネットウォークマンで1970年から1987年までの青春歌謡の歌を聴いて過ごした。

それから30分後に、トロントでの仕事に使う資料を作るお仕事を再開した。

2月4日の朝9時半過ぎに、4446キロの大陸横断の旅の終着駅のトロント・ユニオン駅に列車が到着した。

列車から降りたA班のメンバーたちは、駅でB班のメンバーたちと合流して、お仕事に取り組んだ。

カナダ国内の予定のお仕事は、2月7日の朝9時半頃に終了した。

カナダ国内の予定を終えたA班のメンバーたちは、トロント・ピアソーン国際空港から専用機が待機しているニューヨークJFK国際空港まで貸し切りの小型機に乗って行った。

B班のメンバーたちは、プリンスエドワード島へ帰って引き続き私のオルドビズ作りとメインの事業の運営に取り組む。

ニューヨークに到着したあと、A班のメンバーたちは、ニュース専門チャンネルのテレビ局へ向かった。

夜9時から、全米で一斉に放映されるディベート番組に私が生出演する予定である。

A班のメンバーたちは、夜7時にテレビ局に到着した。

受付で手続きを済ませたあと、楽屋へ移動した。

楽屋に入った後、私はビッグマックとブレンドコーヒーで晩ごはんを食べながら、討論番組で使う資料に目を通す。

夜8時15分にスーツ合わせをして、8時半にスタジオ入り…

その後、番組開始10分前まで書面に目を通した。

生放送開始10分前に、番組に出演するみなさまがスタジオに入った。

私は、生出演するみなさまと名刺のやり取りをしてごあいさつを交わした。

開始5分前に、所定の席について司会者の女性キャスターがお越しになるのを待つ。

番組に出演するメンバーは、お堅い人たちばかりである。

アメリカの経済界のリーダー・アメリカの上院議員・下院議員・カリフォルニア州知事・ペンダゴン(アメリカ国防総省)の報道官・アメリカ大統領補佐官・国務長官・ニュースタイムスの政治・軍事関連の記者・イギリスBBCテレビの記者…そして私・イワマツグループの総帥(総合オーナー)の合計30人である。

夜9時に、予定通りに生放送が始まった。

女性キャスターのごあいさつと出演するメンバーたちの紹介を経てディベートに入る。

ディベート開始直後から、私以外のメンバーたち29人が激しい英語のやり取りで繰り広げた。

私は、どこで入ればいいのか分からずに困惑した。

ディベート番組が終了したあと、A班のメンバーたちはテレビ局からダブルデッカーのバスに乗ってJFK国際空港まで折り返した。

空港に到着後、A班のメンバーたちは専用機に乗って、経由地のニースの国際空港まで向かった。

2月8日の午前10時頃、専用機がニースの国際空港に到着した。

それから80分後に、貸し切りの小型機に乗り換えてロンドンのルトン空港へ向かった。

ルトン空港に到着後、A班のメンバーたちは乗り継ぎ専用のロビーで休憩を取った。

それから120分後、A班のメンバーたちは乗り継ぎの小型機に乗って、エディンバラの国際空港へ向かった。

2月13日からの予定は、スコットランドでお仕事に取り組む。

2月13日の朝10時過ぎであった。

ところ変わって、エディンバラのニュータウン・クイーンズストリートにある関連会社のオフィスビルの中にある私の個室にて…

(ジー…パチパチパチ…)

私は、そろばんを使って帳簿のつけ間違いの有無を確認する。

夕方5時過ぎに、クイーンズストリートガーデンズの敷地にある水銀灯にポツポツと灯りが灯り出した。

それと同時に、通りの飲食店の灯りがポツポツと灯る。

通りを歩いている若いカップルさんたちや女の子同士のグループたちが、お目当てのお店へと向かっていた。

私は、バリスタで挽いたコーヒーをのみながら休憩する。

明日からは、外回りの仕事がたくさんあるので1日も休みがない。

休憩のあと、私は明日の準備を始めた。

2月14日から18日までの間、グラスコー~アバディーン~ウィック~インヴァネスと外回り営業のお仕事に出た。

2月18日の夕方に、スコットランドでのお仕事の予定が終わった。

A班のメンバーたちは、その日のうちに専用機に乗ってカザフスタンへ向かった。

2月21日からのスケジュールは、カザフスタン本社でお仕事に取り組む。

ところ変わって、アスタナ中心部のミラソヤン通りにあるカザフスタン本社のオフィスビルの中にある私の個室にて…

(ジー…パチパチパチ…)

私は、そろばんを使って帳簿のチェックをしていた。

午後3時過ぎであった。

私は、仕事が一息ついたのでアスタナのシンボルタワー・バイテレクへ行った。

バイテレクは、1997年にアスタナがカザフスタンの新しい首都になった記念に完成した地上105メートルのシンボルタワーである。

タワーの形は、東京スカイツリーとよくにている。

展望台にいる私は、碁盤目状の中心部の風景を見つめた。

街の中心部にイシム川が流れている…

中央公園が整備されている近代都市アスタナは、札幌や京都の都市《まち》の風景とよく似ていた。

私は、アスタナの中心部の風景をながめながらいろんなことを考えた。

2月22日から28日までの間、アクトへ~アティウラ~ベイネク~クズルオルダ~トルキスタン~アクトガイと外回り営業に出た。

2月28日に、カザフスタン本社の予定が終わった。

A班のメンバーたちは、専用機に乗ってモンゴル・ウランバートルチンギスハーン国際空港へ向かった。

アスタナを出発してから30分後に、専用機はセメイ(セミパラチンスク)の上空を飛行していた。

そこは、旧ソ連時代に使用された核兵器の実験場であった。

専用機の窓からおぞましい風景を見た私は、1986年に発生した恐ろしい原発事故が発生した時のことを思い出した。

かつて、原発需要《げんぱつ》でにぎわった都市《プリピャチ》は、今は森林と化していた。

あの悲惨な原発事故を思い出すたびに、胸がひどく痛む。
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