愛なんかな
1


他人なんて、どうでもよかった。関わるだけ時間の無駄だし、大して興味もない。別に友達なんていなくたって生きてはいけるし、実際そうして生きてきている。一生のうちに出会う人数なんて知らないし、心底どうでもいいと思っていた。そんなある日、唐突に彼女は現れた。ずっと視界の端には居たけれど、クラスメイトの1人にすぎなかった。話したことも無い彼女は、馴れ馴れしくて、ウザイくらい明るくて。初めは、心から嫌いだった。それなのに、いつの間にか人の心の中に居て居座って。まるでそこが元々の居場所だったかのように。気がついたら、僕は彼女に救われていた。能天気に僕の横で笑う彼女を失いたくないと思った。彼女と一緒にいたいと思った。

それは今でも、思っている。

僕は彼女のきっかけの本を、手に取った。もう、遅いかもしれない。読んだところでこの事実が変わるわけではないことも分かっている。けれど僕はこれを読まなければいけない。と、そんな気がする。気がしているだけ、なのかもしれないが。読んだら彼女のことが少しでも分かるかもしれないと淡い期待をしているからなのかもしれない。僕はまだ彼女のことを知らない。

1つ、言っておく。これは僕、佐川旭日(さがわあさひ)の物語なんかではない。彼女の、鈴原莉夏(すずはらりか)の物語だ。



「なぁ、スマホ睨むのやめて本読みなよ、ほ〜ん〜」
「うるさいな。本嫌いなんだってば」

通学中の電車の中。大多数の人がスマホと睨めっこしている中、僕の隣に座る彼女はその場に合わないボリュームで話すので、痛いほど視線が集まってくる。そんなことを気に留めない彼女は今日も本のページをめくる。僕には、本の何がいいのか、分からない。ただ活字ばかりが並んでいる何百ページにも渡るものを、読む気にはなれない。

「なんで本嫌いなのに、文芸部?」

口を尖らせてページをめくっていた彼女が、ハッとしたように言った。息を吐き出して、横目で彼女を見る。

「それは、君が無理矢理、」
「嫌なら辞めればよかったのに。1度やり始めたら最後までやり通すとこ、変わってないねぇ」

彼女が、のんびりとした口調でからかい気味に笑う。それに少しだけ顔をしかめる。君が僕の何を知っていると言うんだ。

「変わってない、って君とは、中学2年の時に会ったんだけど」

本に目線を落としたまま、彼女は言う。細い指がまた、ページをめくる。

「4年も一緒にいれば分かるよ」

よく本を読みながら会話ができるな。話している内容と読んでいる内容がごちゃ混ぜにならないのか。
いつもは馬鹿みたいにはしゃいでいるのに落ち着いた声で言うから、不覚にも大人びて見えた。本を持っているせいで、知的に見えるのもなんだか、ムカついてくる。本当は、単純で阿呆で子供っぽいのに。
彼女は学校では、文芸部所属、図書委員。そして、片手にはいつも本。そのせいでクラスメイトから ”知的な文学少女” だと思われている。とんだ勘違いだ。知的なんかではない。

「あっ、ほら、行くよ!」

駅に着いた途端本を閉じ、学校に行くのが楽しくて仕方がないとでも言うように軽い足取りで電車から降りる。学校なんて何が楽しいんだろう。それからくるりと回ると、彼女の周りを春が舞う。光のせいか、青く見えた。彼女はなんでもないように、明日の天気でも話すように言う。

「明日から入院だから、よろしくねぇ!」

その事は、去年の夏から分かっていたことだけれどやっぱり、実感が湧かない。目を逸らしたくなってしまう。逸らしたところでどの道、事実は変わらないけれど。

「何をよろしくなのか分からないんだけど」

彼女は、後天性の病気だ。高校1年の春に判明した。なんの病気なのかは僕は知らされていない。余命についても。ただひとつ、死ぬかもしれないということだけが現時点で僕が分かっている事だ。

「あーぁ、次はいつ来れるのかなぁ。私が戻るまで明日から1人で大丈夫?」

本当に心配しているのか、それとも単にからかっているだけなのかは分からないが、僕のことを何だと思っているんだ、こいつは。

「別に、大丈夫だよ。君と毎日登校してるのは君が可哀想だからだし。それに、会話をする友達くらいいるよ。僕を何だと思ってるのさ。それより君は、クラスのみんなにはなんて言うつもりなの?」
「うわぁ、酷い言い草だね。私はお前のことを素直になれない可哀想な奴だと思ってるよ。……そうだなぁ。普通に、病気で入院しますって言うよ?」

こいつ以外に僕のことを、お前呼ばわりする女子はいない。澄まし顔で随分酷いことを言う奴だとは思ったけれど、僕も言っているという自覚はあるのでお互い様だ。彼女はまた、なんでもないことのように言った。

「あっ、私がいない間の図書当番はお願いしていい?」
「なんで僕に頼むんだよ」
「さっき言ったでしょ?よろしくねぇって」

そういうことか。彼女はいつも、一言足りない。国語は得意なくせに、どういうことだ。

「……わかったよ」

それから彼女は、朝のHRで僕に言った通り明るく宣言した。クラス中ざわついて、彼女には哀れみの目が向けられた。同情もできないくせに同情したような目や、寂しくなるねという言葉。勝手だと思った。病気のことを何も知らないくせに。他人の痛みは所詮分からない。彼女の苦しみや痛みは彼女だけのもので、彼女にしか分からないはずなのに。本当に勝手だ。クラスメイトも、僕も。

次の日、僕の隣から彼女は居なくなった。彼女が居なくなったからと言って僕の1日は対して変わらない。電車に揺られ学校に行く。授業を受けてお昼ご飯を食べる。午後分の授業を受けたら、掃除をして放課。彼女は今頃、病院のベッドだろう。どうせ大好きな本でも読んでいるのだろうけれど、1人でいる時の彼女は、どんな表情なのだろう。僕は彼女の事を、何も知らない。

学校終わり、さほど遠くもないので病院に行った。ただの気まぐれだ。受付で彼女の名前を告げると、3階の左端の部屋だと教えられた。
彼女の名前が書かれたプレートのドアを2回ノックしても、返事がなかった。部屋に居ないのか、とも思ったけれど寝ている可能性もあるので覗けるくらいの隙間だけドアをスライドさせる。思った通り、寝ていた。起こしてしまわないように、ベッドサイドにある丸椅子に座る。備え付けテーブルには、文庫本が置いてある。彼女の寝顔を見る。ただ眠っているだけなのは理解していたけれど、途端に悲しくなった。なぜなのかは自分でも分からない。ただ、どうしようもなかった。

「………4年も一緒にいてあげてるんだから、なんの病気かくらいは知る権利あると思うんだけど」

するりと零れ落ちた。気にしていない風を装ってはいたけれど、多分1番気になっていたこと。少し強がりで言ったから上からになってしまった。彼女が自分から話すまでは、聞かないと決めていたこと。

「_ごめん、教えたくないや」

寝ていると思っていた彼女の声が聞こえて、焦った。それから彼女の返答に、胸が痛くなった。顔が見れない。
傷ついているんじゃないかと、怖かったけれど今更だ。僕はこれまで何度彼女のことを傷つけてきたのか分からない。

「あっ、見て!」

はしゃいだ声が聞こえた。見て、と言われその方向に目をやる。桜が舞っていた。彼女の病室からは、()(すく)む桜がよく見える。ここからは見えないが、子供のはしゃぐ声がするから、お花見でもしているんだろうか。それとも単に桜を見ているだけだろうか。

「桜は、強いなぁ」

独り言だったのかもしれないけれど、反応してしまった。彼女の言葉に興味があった。

「どういうこと?」

窓の方を向いていた彼女と、今日初めて目が合った。目を細めて、言う。

「踏まれるって分かっているのに、それでも咲き続けるなんて、すごく強いよ。私には、」

そこで、止まった。彼女がまた桜を見る。

「私にはそんな強さ、ないから」

彼女が、消えてしまいそうに見えた。桜が、彼女の命に感じて、どうしようもなく怖かったけれど言えなかった。言ってしまったら本当にそうなるんじゃないかと思った。僕はきっと、臆病だ。

「別に、強くならなくていいんじゃない」

きょとんとして、桜から僕に視線を移した彼女に言う。僕はしっかり目を合わせる。

「……君は君のまま、弱いなら弱いまま強くなればいい」

一瞬、ハッとした顔をして、それから柔らかく微笑む。少しだけ救われたような顔に見えた。

「そっか。ありがとう。……あ、そうだ。はい」

彼女が思い出したように差し出したのは、桜色の封筒。それを受け取る。彼女を見ると、にまぁと笑う。何だか、嫌な予感がした。まさかなと思いながらも、聞く。

「なに、これ?」
「何って、手紙だよ?文通しようよ」

まさかが当たり思わず、ため息が出た。酸素を吸い込む。

「今は、何時代だと思ってるの?スマホっていう文明の利器を使おうという気にはならないわけ?文学少女さん?」

彼女は、ゆっくりと微笑んで首を振る。それからその表情のまま静かに強く、言い切る。

「時代なんて関係ない。いくら優れた文明の利器があっても、私はお前と文通がしたい。返事は短くても、一言でもいいから。だから、」

少し、間を置いて軽く息を吸い込んで吐き出す。ただ呼吸をしただけなのだと、思う。

「だから、お願い」

ひとつだけ、僕は彼女の事で知っている事があった。彼女は、こうなると引かない。だから仕方なく、諦める。今度はため息ではなく、言葉を吐くために酸素を吸う。

「……活字読むの苦手だから、返事遅くなるけど」

僕の言葉に彼女は嬉しそうに笑った。

「うん!」



家に帰ってからご飯を食べてお風呂に入って、さあ寝ようとした時に思い出した。彼女から受け取った、桜色の封筒を開けた。2つに折られた紙が1枚入っていた。文頭は、問いかけから始まっている。

『やぁ、元気?私はね、元気!
お前はきっと、文通しようって私が言ったら嫌がるんだろうなって思う。それはもう全力でさ。でも私は、お前と普段話せなくなった分を紙の上で話せたらなって、そう思ってるよ。
それに、口だと言えない事でも紙の上だと言える事ってあるでしょ?私は、これでお前の本音が聞きたい。
お前は、傷つけないようにって怖がりすぎなんだよ。大体私はお前の事散々傷つけたんだから。怖がらなくていい。
お前が言いたいこと、これで伝えて。』

読みやすい字で、読みやすい文量で書かれていた。僕は、彼女に傷つけられた覚えなどない。逆だ。僕が、傷つけてきたはずなのに。とにかくこれなら、すぐに返事が書けそうだ。だけど僕は、手紙を書くようなものを持ってはいない。だからノートをちぎって、そこに書いた。




「やっほー!今日も来てくれたんだ〜」

病室に行くと、今度は寝ていなくて笑顔で迎えられた。ひらひらとこちらへ手を振ってそれから手招きをする。

「手紙の返事を、書いてきたから」

そう言って、鞄から引っ張り出した紙を渡す。目を輝かせていた彼女は受け取ってから口を尖らせた。まあ、そういう顔は予想がついていた。

「って、これノートの切れ端!?」
「それしか、ないんだよ」

予想通りの反応をする彼女に少し苦笑する。そんな僕を見て彼女は、クスッと笑って僕に何かを差し出してきた。見ると、淡い青色の便箋と封筒。用意周到だな。

「あげるよ。どうせ持ってないだろうと思って買っといてあげた。お返しは、これでよろしくねぇ」

代金を支払おうとする僕を彼女が笑いとばす。僕は生まれて、人からの贈り物を受け取るのは家族以外初めてのことだったので、慌てた顔をしていたんだろう。それがツボにハマったらしい。人の顔を見て笑うだなんて、失礼な奴だ。今度、鳩が豆鉄砲でも食らった顔をさせて思い切り笑ってやろう。そう思いながら僕は、それを受け取ってうなずいた。

「わかった。じゃあ、もう帰るよ」



「佐川(さがわ)ー!!」

教室でスマホをいじっていたら、後ろから声を掛けれた。成宮 琉詠(なるみや るうた)。僕とは性格が真反対の、別クラスにまで友達がいるような奴だ。

「んー」
「どう?文学少女は?元気?」

このクラスの大半は、彼女のことを ”文学少女” と呼ぶ。

「あー、元気そうに見えるけど。てか、行けばいいじゃん」
「え、お前ぇぇえ、何話したらいいかわかんねえんだよー!分かれよー!」

何も分からない。

「別になんでもいいだろ、学校であった事とか話せばいい」

クラスメイトなんだから、話すことはあるだろ。

「文学少女さんだぞ!?そんなのつまんねえだろ!?本の話とかしないと、つまんねえだろ!?」

小さく、本当に小さく溜息と化した息を吐き出す。いい加減、彼女が ”知的な文学少女” だと言う間違いを訂正しないと。全然知的なんかじゃない。大人びてなんかない。くだらないことで馬鹿みたいに笑う、普通の女子だ。

「いや、それなんだけど_」

訂正しようとしたところで、チャイムが鳴ったのでやめた。

「なぁんで、昨日来なかったのー!手紙!返事!書いて待ってたのにぃ!」

ほら、これのどこが ”知的” なんだ。まるで、お菓子を買ってと駄々をこねる5歳児みたいだぞ。手紙を持って僕が来るのをわくわくしながら待っている顔が目に浮かぶ。それにしても、入院をすると曜日感覚が無くなるのだろうか。ジトっとわざと彼女を横目で見やる。

「昨日は、誰かさんに押し付けられた図書当番があったんだよ、仕方ないだろ」
「誰かさんは余計だろぉ。まぁそれなら、仕方ない、許す。じゃあ、はい!」

僕は渡されたものを受け取ってカバンにしまう。

「それじゃあ」
「ちょ、待って待って!」

帰ろうとしたら、手首を捕まれ引き止められた。

「何!?なんなの!?なんでそんな早く帰るの!?嫌いなの!?まさか私の事嫌いなの!?」

面倒臭い。なんだそれ。メンヘラ気味の彼女か。

「待って!ごめんて!そんな面倒臭いみたいな目で見ないで!」

おっと、顔に出ていたらしい。

「何?」
「い、いや、あの、なんでもない」

なんなんだろう。そういえば、なんだか元気がないように見える。病気と何か関係があるのだろうか。思いついてみても、実際に声にはしない。代わりに、少しばかり遠回しに言ってみる。

「……そう。言いずらいなら手紙に書いてくれれば、ちゃんと、読むから」

僕なりに少し、気を遣ったつもりだ。彼女は、優しく微笑む。

「うん、ありがとう」


『お前、私のことが知りたいんだね。驚いたよ。
お前は私には興味が無いと思っていたから。
何から話そうか。ん〜、じゃあ私が本を読むきっかけになったことから話していこうかな。
私が本を読むようになったのは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでから。これを読んで、私は私になったの。
中学の頃に教科書に載ってたでしょ。ジョバンニとカンパネルラが出てくるやつ。
内容書くと長くなるから、1回読んでみて。私の、大好きな本なんだ。』

今度の彼女の手紙は、彼女が文学少女になったきっかけのことだった。いつからだろうと疑問に思っていたから、ひとつ、彼女の事を知れて良かった。
それにしても、僕の返事に文句が書かれていると思っていたのに一言もなくて驚いた。

「あはははははっ、なにそれぇ!」

翌日、彼女にそのことを伝えると思い切り笑われた。少し、恥をかいた。

「文句なんかないよ〜。一言でもいいって言ったでしょ?まぁ、返事が『僕は君のことが知りたい』だけなのは驚いたけどねぇ」

チラリとだけ僕を見て、そのままそっぽを向いてしまう。耳が、赤くなっているのが見えた。なんだか気まずくなってしまって僕は手紙を押し付けるようにして彼女に渡し、病室から出た。


2


彼女の病気が発覚したのは、高校1年の春。入学してから3ヶ月後のことだった。春頃から、頭が痛く、目眩がするからと言って休むことが多くなっていた。初めは、花粉症のせいだと思うと言っていたから、そうなのだろうと思っていたけれど、それにしてもあまりに長引くのでおかしい。そう思った親御さんが病院に連れていったところ、病気が発覚したらしい。

「あのさ、病気になった」

そう彼女の口から告げられたのは、7月に入ったばかりの昼休みだった。パンをくわえながら真剣な目で言われたのだから信じる他ない。それに、その時の僕は今の医学なら治るであろう病気なのだと思って安心していた。

「なんの病気?治るんでしょ?」

卵焼きを食べようと、箸で掴む。

「なんの病気かは秘密。気づくのがちょっと遅くてさ、進行もなんか早いみたいで、」

歯切れの悪い彼女の様子に正直戸惑った。それでもいつもみたいに笑うと思い、次の言葉を待つ。

「もしかしたら、死ぬかもしれないって」

ボトッと、何かが箸から落ちた音がした。多分、卵焼き。今日は上手くできたから早く食べたいのに、僕の体も思考も止まったままで、目の前の彼女を見ることしか出来ない。
死ぬ、?彼女が?

「あはははははっ、そんな顔をお前がすんなよ〜」
「………君は、悲しくないの」

ようやく動き出した体で、運良くご飯の上に着地した卵焼きをもう一度箸で掴み直す。彼女は、いつもみたいに呑気な顔でパンをかじる。それから咀嚼して飲み込む。

「んー、なんか悲しくないんだよね。実感が沸かないのかなぁ。自分が死ぬかもって、まだちゃんと脳が把握してないのかも」

自分の頭を指差しながら言うから、上手くできた卵焼きをやっと口の中で味わってから言う。
なるべく冷静に見えるように。きっと不安で仕方ない彼女を、少しでも安心させられるように。

「じゃあ、僕は受け入れるよ。君が死ぬかもしれないって言う事実」
「あっさりしてるねぇ。幼なじみが死ぬかもしれないって言うのにさぁ」
「腐れ縁だろ。君が受け入れられていないうちは僕の方で預かるって言ってるんだよ。君の小さな脳みそじゃあ、自分が病気だってことだけでいっぱいだろうから」

最後の一欠片を野菜ジュースで流し込んだ彼女が僕を睨むように目を細める。なんなんだ、本当のことだろうに。

「優しいのか意地悪なのかわかんないなぁ」
「どっちでもいいよ」

僕も、最後、1口分の白米を飲み込んで抹茶オレで口の中を満たした。幸せだ。よく他人から、ご飯と抹茶は合わないと言われるが好みなんて人それぞれだし、自分自身が幸せだと思えるならそれでいいだろうと思う。
お弁当箱を鞄にしまったところでチャイムが鳴ったので、僕らはそれぞれの席に戻った。



そういえば彼女は、そろそろ頭は追いついただろうか。自分が死ぬかもしれないという事実を受け入れられるくらいの隙間ができただろうか。その隙間ができた時、悲しいことを自覚して彼女は泣くのだろうか。
僕の記憶の上の彼女は、一切涙を零していないから彼女がどんな風に泣くのかもどんな顔をするのかも、僕には分からない。彼女は一体どんな風に泣くのだろう。幼い子供みたく声を上げて泣きじゃくるのだろうか。それとも声もあげずにただ静かに涙を零すのだろうか。


「やほー!」

僕が病室に入ると、彼女は文学少女らしく本を読んでいた。文庫本サイズでそんなに厚くも無いようだ。

「なんの本読んでたの?」
「お前は挨拶返してくれないよねぇ。……これだよ」

不服そうに頬を膨らませて言ってから彼女は、本の表紙を僕に向けた。その題名を僕は以前目にしたことがある。実際に手にとってページをめくったことは無いが、授業で1部分だけなら読んだことがある。

「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』……。手紙に書いてあったきっかけの本だっけ」

彼女は、お小遣いを貰えた子供みたいな顔で近づいてきた。

「わっ、覚えててくれたの!?嬉しいなぁ」

こんな事くらいで、そんな反応をされても困る。僕は物覚えのいい方だと自覚しているけれど、彼女にはそうは見えないのだろうか。
先程の顔のまま彼女は聞いてきた。大体予想はついていた事だった。期待に溢れた声で

「それで、読んだ?」

これ、と言いながら本を指す。僕は素直に首を振る。

「いいや、それがまだだよ。昔の本って言葉が難しくてあまり読もうという気にならなくて」

随分と言い訳がましいなとは思ったけれど事実なのだから仕方がない。僕が活字が苦手なことはもちろん、その中でも古文が全くもってできないことは彼女だって知っている。中学の時、彼女に何度も何度も古文を叩き込まれていた。それは試験の時に点を取る為に頭に入れ込んただけだから、試験後には抜け落ちてもう覚えてなどいないけれど。

「大丈夫だよ!現代風に書き換えられているから、少しずつならお前でも読めるはずだよ」
「……そう、じゃあ読んでみるよ」
「うん!じゃあ、読んだら感想教えてよ!」

丸椅子に座る僕の目の前に、彼女の小指が差し出される。

「約束!」

僕が彼女の細い小指に指を絡めると、ゆーびきーりげーんまーん!と上下に振った。

これで約束が成立した。

「今日これから本屋に寄ることにしたから、もう帰るよ。手紙、書けていたら貰いたいんだけど」

鞄の紐を肩にかけて告げると、枕元にあった桜色の封筒を僕に差し出した。細い指に挟まれた封筒を受け取る。

「あ、旭日(あさひ)」

家族以外に、何よりこれまで僕の名前なんかほとんど呼ばなかった彼女に、久しぶりに名前を呼ばれて驚く。
病室のドアに手を掛けようとするのをやめて、振り返る。彼女は、笑っていた。

「旭日、私が死ぬまで約束守ってね」



僕は帰りに本屋に寄って、『銀河鉄道の夜』を購入した。けれどすぐに読む気にはなれなかった。先程の彼女が、どうにも気にかかる。だって彼女は、泣いていた。音もなく、声も挙げず、笑いながらポロポロ零していた。まるで自分が泣いているという事実を知らないみたいだった。
彼女は、どうして泣いたのだろう。死ぬかもしれないという事実を受け入れたのだろうか。だから、死ぬまで。なんて言ったのだろうか。彼女が泣く時は声を挙げずにただ静かに涙を零すのだと知ることが出来た。また新しい彼女を知ることが出来た。だけど 僕は、こんな時まで彼女の事が分からない。


「なぁなぁ、佐川ー」

昨日の彼女の涙について考えていたら、成宮が話しかけてきた。

「んー」

まだ頭の中で考えていた僕は、随分と上の空な返事をしたと思う。そんな僕を気にするふうもなく成宮は続ける。

「噂で聞いたんだけど、お前文学少女と付き合ってんの?」
「はっ!?」

自分でも聞いたことの無い素っ頓狂な声が出た。
いやいや、なんでだ。確かに仲はよく見えるだろうし彼女はクラスにいる時僕以外とはほとんど話していなかったし、登下校も部活も僕とだったけれど。だからって、なんでそうなるんだ。
困惑する僕を他所に成宮はズイっと顔を近づけてくる。なんだかワクワクしているように感じる。

「なんでそんなことになるんだよ。アイツとはただの腐れ縁だよ」

そう伝えると、目に見えて肩を落とした。

「なぁんだよぉ……ほとんど毎日病院行ってるし、毎日一緒に登下校してたし、お前としか話さないから付き合ってると思ってたわ……」

まぁ、いつかは言われるかもと思っていたけど。本当に噂が立つとは思わなかった。根も葉もないような噂なんか立てて面白いんだろうか。 暇つぶしに僕らを巻き込まないでほしい。

「あ、そうだ。クラスのみんなからの寄せ書き。どうせ今日も病院行くんだろ?届けてくんない?」

寄せ書きなんて、いつの間に書いていたんだ。びっしり埋まってる。寄せ書きがびっしり埋まることなんて、あるんだな。いや、それよりも今日は、

「あー、いや、今日は_」
「あ、やべぇ。授業始まる。じゃ、よろしくな!」

またもや、授業開始の音に阻まれた。チャイム、ムカつく。
受け取ってしまったものは仕方がない。会いに行くのは怖いが、届けに行こう。

放課後、病室に入るなり彼女が謝ってきた。それも深々と頭を下げて。

「ほんっとにごめん!変なこと言っちゃって…」

言われた側だけでなく、どうやら言った本人まで気にしていたらしい。
僕はいつも通り丸椅子に座る。そして申し訳なさそうに頭を下げている彼女に言う。真剣な話はどちらかと言えば嫌いでは無いけれど、暗い話は苦手だ。

「いいよ、別に。それよりも、これ」

彼女は、おそるおそる頭を上げて自分の前にある物を見て、目を輝かせた。

「これって……寄せ書き!?皆から!?うわぁ、夢だったんだぁ」

しっかりと両手で受け取って 1人1人の言葉を読んでいくうちに、彼女はだんだん不機嫌な顔になっていく。
さっきまであんなに喜んでいたのに。

「……なにこれ、なんか皆よそよそしい!」

その事か。それは僕も思った。彼女宛てのものだから勝手に読むのもどうかとは思ったけれど、寄せ書きなど見るのが初めてだったので、多分少しはしゃいでいたのだと思う。

『どうか病気が治りますように』とか『また本を読んでいる姿が見たいです』とか。なんだかファンみたいだ。まあこれも彼女の自業自得だと言ってしまえば、そういう事になる。これまでの彼女は僕がいれば僕と話し、いなければ本を読んでいたのだから。

そのせいで、文学少女と呼ばれていることも僕と付き合っていると噂を立てられたことも彼女は知らない。彼女は周りのことに興味が無いのだと思う。

「今日さ、君と僕についての噂を聞いたんだ」

僕は今日成宮から聞かれたことを手短に話した。それに対して僕がどう答えたのかも。すると彼女は、これまで見た事ないくらい驚いた顔をして頬を染めた。どうやら彼女は純粋(ピュア)らしい。

「…ま、まあ、それが事実だからっ。お前と私はただの幼なじみ」
「だから、幼なじみじゃなくて腐れ縁だって_」
「いいじゃん。お前が腐れ縁だと思ってても私は、幼なじみだと思ってんの」

頬を染めたまま、真面目な顔をして言われた。まあ言い方の問題で対して変わらないからそういうことにしておく。

「あ、そうだ。まだ君の手紙読んでなくて、帰ってから読むから返事遅くなるよ」

帰り際彼女に伝えると、いつでもいいよ。と呑気に手を振られた。


『私さ、お前が私のきっかけの本のこと覚えてくれてたことが本当に嬉しいよ。ありがとう。
さてと、次は好きな星座の話をしよう。
お前は、天体に詳しかったっけ。分からないけど。私の好きな星は、ピストルスターって呼ばれてる。
小さな光しか私たちには降ってこないけど、とてもきれいな星なんだよ。
良かったら、調べてみて。』

3通目の彼女からの手紙は、感謝から始まっていた。
やはり、彼女から僕は人に興味が無いと思われているんだろうか。紙の上とはいえ、2回目の感謝はなんだか照れくさい。

僕は生憎、天体には興味が無い。夜空を見上げることはあったとしても、綺麗。の一言で終わる。だから星の名前なんて夏の大三角しか知らない。てっきり、彼女もそうだと思っていた。中学3年の天体のテストは彼女の方ができていなかったはずだし。
今度、どうして天体に興味を持ったのか、どうしてその星の事を知ることになったのか彼女に聞いてみよう。
彼女から勧められた本は、まだ読む気にはならないけれど、以前より活字が読めるようになったし書けるようにもなった。それはきっと、彼女との文通によってだろう。

「はい、手紙」

相も変わらずベッドの上で本を読んでいた彼女は、思い切り顔を上げた。

「今日は嬉しいことばっかりだなぁ」

そう言って笑う。嬉しいことばかり、と言うことは他に何かあったらしい。なんだろう。

「何かあったの?」
「ふっふっふー。聞きたい??」

何故かドヤ顔で言ってくるのにイラッとする。聞かなきゃ良かった。

「あーー!!待って!ごめんて!」

無言で踵(きびす)を返し帰ろうとした僕に、慌てたように彼女が言う。仕方ないから、聞いてあげることにする。

「何?」
「一時退院!できるって!」
「……ふーん、そうなんだ」

内心、すごく嬉しかった。それから、安心した。彼女は、もしかしたら治るかもしれない。死なないかもしれない。そんなことを思った。

「反応薄いなぁ、まあいいや。そういう事だから旅行、行こうよ!」

何を言い出すんだ、こいつは。いくら少し回復して一時退院する予定だとしても、旅行は無理だろ。何かあったらどうするんだ。死ぬ前の猫じゃないんだ。それに、お金だって。

「色々考えてるみたいだけどさ、安心してよ。旅行の許可はもうもらってるし、お金は全部私持ちだから!行くとこも決めてあるし!しっかり計画も立ててあるから!」

胸を張って言う。これじゃあ断れないじゃないか。

「もしかしたら最後の旅行になるかもしれないんだから、一緒に行ってよ」

恐ろしいことを、随分平気な顔で言う。死ぬまで。とか最後。とか、そういう事を言わないで欲しい。

「……分かった」

わはっ、と声を上げて彼女は笑った。

「どこに行きたい?行きたい場所ある?」
「って、決めてあるんでしょ?」
「決まってはいるけど。せっかくだしお前の意見も聞こうと思って」

僕は、行きたいところを考えてみた。遠すぎるのは嫌だけれど近すぎるのは旅行っぽくないし…。そこまで考えてから気がついた。今まで旅行に行きたいと考えたことが、まずなかった。

「…あー、特にないかな」
「なんだよぉ。せっかくの私の気遣いを無駄にすんなよぉ」

呑気な声でそう言われたから、素直に答えてみる。

「今までさ、旅行に行きたいと考えたことがないんだよ」

僕の答えに特に笑いどころはなかったはずだけれど、彼女は大声で笑いだした。

「あははははっ、なにそれぇ」
「…君の気遣いを無駄にしたことは謝るよ。旅行、君の行きたいところで構わない。何処なのかは当日の楽しみにとっておくよ。いつ行くの?」

僕の質問に、待ってました!とでも言うように言い放った。

「明日!」
「は?明日?」
「だって私には時間ないもーん」

まるでなんでもないみたいに言うから本当に困る。出来れば言ってほしくなかった。


翌朝6時。駅に着くと彼女はもう居た。麦わら帽子を被った彼女は僕を見るなり手を振ってきた。僕は楽しみにとっておいた事を聞く。

「朝から元気だね。そういえば、今日はどこに行くの?1泊?」

彼女は、無言で歩き出した。そして丁度来た電車に乗り込む。僕も後を続く。彼女の隣に少し間を開けて座る。
電車には僕らを除けば、サラリーマンがいるだけだった。真面目そうに見えるが、人は見かけによらないので案外真面目ではないかもしれない。真面目であってもそうでなくても、僕には関係ないが。

「鎌倉に行くよ。それから、日帰り」

隣からの声に思わず大声が出そうになった。いくら人が少ないとはいえそれはまずいだろう。

「だから、こんなに早くに行くのか。というか君、鎌倉好きだったんだね」

朝が早かった理由(ワケ)をやっと理解する。

「うん。紫陽花が好き」

一瞬、会話が成り立っているのか不安になったがそういえば鎌倉の紫陽花は、有名だしあじさい寺と呼ばれるところがあったな。と思い出す。

「そうなんだ。確かに、あじさい寺って呼ばれるところがあるけど今何月だと思ってるの?まだ5月の初めだよ。紫陽花なんてまだ」
「確かに、基本的には5月下旬に咲くことが多いけど私は紫陽花が咲く頃に生きてる保証ないからさ」

目の前が暗くなる。思考が停止していたんだと思う。なんて返したらいいのか分からずに戸惑っていると、不意にこちらを向いた。

「今日は、楽しもうね。使い捨てカメラ持ってきたから沢山写真撮ろうね」

そう言って笑う彼女に、僕はまだ戸惑いながら頷く。僕は自分が思っているよりも、繊細で素直な人間らしい。戸惑いを隠せない。隣で本を読む文学少女を横目で見て、悲しくなった。

「そういえばさぁ、読んだ?1ページくらいは」

何の事について聞いてきたのかすぐに理解した。

「いや、生憎まだ1文字も読んでない」

むぅっと頬を膨らませる。

「私が生きてる間に1文字くらいは読んでね」

なんなんだ。一時退院ができてせっかくの旅行で。さっきから、いや昨日から。なんだか様子がおかしい。気のせいではないはずだ。
それから、暫く電車に揺られ出発から2時間半後やっと目的地に着いた。北鎌倉駅をバックにまずは1枚撮ってから彼女はスキップ混じりに歩き出す。春が終わったばかりなのに、もう暑い。と言っても夏本番の時に比べたら涼しいが。これだと、帰る頃には少し汗をかいていそうだ。

「まずは、どこに行くの」
「北鎌倉に来たんだから、8分歩くよ!」
「意味がわからないんだけど。君は確か国語は得意だったよね」

彼女の後について行きながら、尋ねる。文がごちゃごちゃで理解ができない。それに、彼女はいつも一言足りない。

「朝ご飯でも食べるの?」

時計を見ると、朝食を取るにはちょうど良い時間の数字に針があった。彼女は僕の声なんか無視してスキップ混じりに歩き続ける。

「あ、お店あるよ」とか「暑くない?アイス食べようよ」とか言ってみても無視だったので、そこからは黙って彼女について行った。正直に白状しよう。僕は体力がない。疲れた。そして朝食をとっていないからお腹が空いた。

「ついたよ」

疲れて、下を向いて歩いていた僕は彼女の声で顔を上げなければ、彼女にぶつかっていたことだろう。それはそうと、目の前は寺だった。

「……めい、?つき、いん?」
「『明月院(めいげついん)』だよぉ。知らないの?」

顔を見なくてもバカにしたような顔をしているだろうから、絶対に見ない。

「……知らない、けど。なんだか綺麗な名前だね」
「正式には『福源山明月院(ふくげんざんめいげついん)』って言うんだよ。それ知ると、立派な名前だなぁってなるよねぇ」

確かにそう聞くとそう思うけど、なんか鬱陶しい。

「よく知ってるね…」
「えっへん!調べたからねぇ」

あぁ、言わなきゃ良かった。自分で、えっへん!とか言うか普通。

でもそこまでするなんて、よっぽど好きなんだな。

「それで?あじさい寺に来たはいいけど肝心の紫陽花は咲いてないみたいだよ」

紫陽花には差程興味はないけど、どれほど綺麗なのかは気になる。だけどやはりまだ時期ではないようだ。

「ちっちっち、旭日くん、ここは紫陽花が有名だけどそれだけではないのだよ」

蹴りを入れたいくらい鬱陶しい。

「…………何が有名なの」
「春は桜と梅だよ。初々しい気持ちになれる梅雨時は勿論紫陽花だよ。カエルが好き。夏は新緑でしょ。青々しくて心が洗われるような気持ちになれるよ。秋は紅葉。焼き芋が食べたくなるね。冬は雪。降り積もる雪は円窓から見ると幻想的なのさ!」

テンションが上がっているのか、いつもよりよく喋る。それにしても、随分調べたんだな。いちいち感想付きなのがなんだか腹が立つ。なんだよ、カエルが好きって聞いてねえよ。それに焼き芋が食べたくなるって。食いしん坊か。まぁ、分からなくもないけど。

「さてと、入ろっか!写真も撮りたいし!」

彼女に言われそれぞれ500円を払って、院内に足を踏み入れる。なんというか、青かった。正式には、緑なのだけれど青々しかった。桜が散ったばかりだからだろうか。

「ね、ね、撮ろ!」

新緑をバックにして写真を撮る。背景が緑だけなのは後(のち)にいい思い出になるだろうか。そんなことを考えていたら手を引っ張られた。

「円窓のとこ行こ!すっごい綺麗なんだよ!」

そう言って駆け出していく。腕を掴まれているせいで僕まで走らなければいけなかった。
彼女の情報通り、綺麗だった。雨が降った訳では無いのに光が葉に反射したみたいに部屋の中が緑がかっていた。

「ちょっと持ってて!」

使い捨てカメラを押し付け、円窓から外を覗き込む。
綺麗だった。円窓のせいだろうか、分からないけれど神秘的だったのは間違いない。気がつけば押し付けられたカメラで彼女を撮っていた。

上手く、撮れただろうか。現像が楽しみだ。

「どうしたの?突っ立って」
「綺麗だったから」

不意にこぼれたのは、それが本音だったからだろうか。よく、分からない。

「ね!綺麗だよねぇ」

彼女は、僕の言葉を違う意味で理解したらしく無邪気に笑う。僕はその姿もカメラに収めた。現像した後で怒られるだろうか。それともからかわれるだろうか。真っ赤になっている姿が想像出来てつい、笑う。

「なんか面白いことあったの?」

明月院を出て、駅に向かいながら彼女が聞いてきた。先程、僕が笑っていたからだろう。流石に、想像して笑ったなんて言ったら引かれる可能性があるので誤魔化す。

「いや、成宮が面白かったのを思い出してただけだよ」
「ふーん、そうなんだ」

興味を失くしたように、再び前を見る。クラスメイトに興味無いのだろうか。

「あ、ちょっと先歩いてて」

彼女が急に立ち止まりそう告げる。彼女のことだから迷うことは無いと思うけれど、どうしたのだろう。

「え、なんで?忘れ物でもしたの?」
「…いいから、先行ってて」

少し不機嫌な顔をして言われたので、それ以上は何も言わずに歩いた。彼女が追いつきやすいように意識的にゆっくり歩いた。
駅が見えた頃、彼女が追いついてくる気配がしないので振り返ってみた。

「………え」

絶句しなかった僕をいつか、褒めてほしい。振り返ったら友人が座り込んでいる状況なんて、少なくとも僕には声が出なくなる想像しかできない。頭が理解するより先に体が動いた。反射神経に感謝する。ありがとう、反射神経。

「おい!どうした!」

こんなに大声を出したのはいつぶりだろう。彼女に駆け寄る。座り込んで胸元の服を掴んでいる彼女は顔が真っ青だった。息をするのが苦しそうだ。

「……………………………大丈夫」
「帰ろう。歩ける?」

こういう時、僕は意外と冷静だと言うことが今分かった。差し出した僕の手を弱々しく彼女が振り払った。

「大丈夫だってば……」
「病気と関係があるの?薬は?」

僕の問いかけに彼女は反応しなかった。

「1つくらい答えなよ。こんなんでも僕は君が死ぬんじゃないかって毎日不安だし、でも今回一時退院って聞いてもしかしたら治るんじゃないかなんて淡い希望まで抱いたりして……こんなんでも…心配してるんだよ!」

僕にしては早口でそう、まくし立てた。何故だか泣きそうになった。早口で言ったせいで少しだけ息が切れていた。それだけではなく彼女を傷つけてしまったかもしれないという思いからでもあった。

「……ごめん」

小さく声がして、真っ青な顔をした彼女に抱きつかれた。そしてそのままの姿勢で続けた。

「……発作みたいなものだよ。……暫くすれば戻るから、それまでこのままでいてほしい…」

弱々しい声なくせに、抱きついてくる力が少し強いせいで僕は振り払えなかった。
その姿勢のまま1分経ったくらいで、彼女がパッと離れた。顔色はまだ少し悪いけれど呼吸は楽になったみたいだ。彼女の目は少し赤くて、それが酸素不足なのか泣きそうなのかは分からない。

「君さ、少しくらい僕を信用してもいいんじゃないかな。4年も一緒にいるんだから」

皮肉めいて口にしたけれど、本心だ。

「うん、そうだね。ありがとう」

あまりにも素直にお礼を言うから、なんだか照れた。ゆっくり立ち上がりながら続けて彼女が言う。

「心配かけてごめんね。お昼食べよっか」

そういえば、お腹が空いている。時計を確認すると12時近くになっていた。僕も立ち上がる。

「そうだね、お腹空いた。北鎌倉の名物は何?」

今度は、彼女と並びながら歩き出す。歩幅を彼女に合わせる。ゆっくりと歩きながら楽しそうに言う。

「ビーフシチューだよ!」

北鎌倉のビーフシチューは名物なだけあって美味しかった。彼女は同じく名物の、タンシチューを頼んだ。
元々、カレーよりシチュー派なのでとても嬉しい。

「ねえ!ビーフ美味しい?」
「うん、すごく」
「え、1口あげるから1口ほしい」
「嫌だよ。僕はタンは好きじゃない」
「でも私はビーフ大好きだよ」

図々しい奴だ。仕方ないから、1口あげた。

「んん!おいひい!」

ほっぺを両手で押さえている。ほっぺが落ちそうなくらい美味しいらしい。

「ねえ、お前さ将来は北鎌倉に住めばいいんじゃない?」

セットのサラダを口に運んでいると、横から将来の事について勧められた。

「ビーフシチューは確かに好きだけど、たまに食べるから美味しいんだよ」
「えぇー、好きな物は毎日食べても飽きないでしょぉ」

当然のことのように言い張る。

「流石に毎日食べてたら飽きるでしょ」

そう答えたけれど、ビーフシチューはやっぱり美味しくて食べ終わる頃には高校卒業したら住もうかとも考えたほどだ。割と、本気で。

昼食とデザートを食べ終えて、外に出てから尋ねる。

「これから、どうするの?」

お店に入ってから随分と時間が経っていた。次はどこに行くのかと尋ねたつもりだったのだけれど、彼女は悲観的な受け取り方をした。最近彼女は悲観的だ。

「さっきの話の続き?私は未来は見えないなぁ」

そんな話はしていない。僕は彼女と似て一言足りないのかもしれない。いや、言い方がややこしいのかもしれない。

「いや、違うよ。どこに行くのかを聞いたんだ」

ポンッと手を叩いて言う。

「あ、そっか。今が3時で、帰りの電車は5時発のに乗らないといけないから」

そこまで言って黙り込む。どうやら次行く場所を考えていなかったらしい。暫く黙ってそれから歩き出した。

「帰ろう」
「具合悪いの?」
「ううん。ちょっと早いけど行きたいとこあるんだぁ」

のんびりとした口調で、またスキップ混じりに駅へと向かった。少し待って、来た電車に乗り込む。席に座り本を読む彼女は、楽しそうで具合が悪そうには見えなかったけれど内心、ハラハラしていた。



彼女が降りると言って席を立ったのは学校の最寄り駅だった。最寄り駅のホームを踏んだ途端、安心感が体中を走った。通い慣れた駅だからだろうか。そんなことを考える僕を他所に彼女は、学校の方へと歩き出していた。慌てて追いかける。

「君の行きたいとこって、学校?この時間だと部活も終わってほとんど人は居ないと思うけど…」

前を歩く彼女の背中に言う。

「明日まで待てないんだもん」

明日?今日は日曜日で、祝日でもなんでもなくて急に曜日が変更されることがない限りは明日は月曜日だから…。

「明日は、学校だけど」

僕は学校に行かないといけないから、今日みたいに遊べないと伝えたかったのだけれど彼女は違う意味に捉えた。

「うん。一緒に行こうねぇ」
「一緒に……って、学校行くの?」

さも当然のように学校だけを見て言う。

「うん。1日だけ皆とまた授業受けたい」

彼女の事だから、もう先生には許可を貰っているのだろう。それに1人で過ごす訳では無いと分かってなぜだか安心した。

「あ、でもさっきも言ったけど」
「着いた着いたぁ」
「ちょ、聞いてるの?」
「きゃー!久しぶりだぁ」

全く聞いてくれない。
早速靴を履き替えて校舎に入っていく。彼女はふと立ち止まる。そしてなんだか懐かしそうな目をして笑う。久々の学校の空気感を体中で感じているのかもしれない。だが時刻は6時。あと一時間後には校舎が閉まってしまう。

「7時には学校閉まるから、何かするなら急いで」
「泊まるんだからゆっくりしようよ」

鼻歌混じりで階段を上がっていく。タン、タンとリズム良く音が響く。
「……は!?」

静かな校舎に僕の声が響く。そんな僕を彼女が笑う。なんだか楽しそうに見えた。
「あははははっ、いい声だねぇ」
「いやいやいや!何言ってんの!?」

先生に見つかるとか今はどうでもいい。意味が分からない。学校に泊まるとか何考えてるんだ。頭ぶっ飛んでるのか。

「え、学校に泊まるって言ってるんだよ?」
「分かってるよ、頭でもおかしくなったわけ?」
「うわ、ひどー!傷ついたぁ!」

笑いながら言うことなのか。いや、彼女のことだから分からない。本気で傷つけたかもしれない。

「あ、てかやばい!見つかる!ほら来て!」
「うわ!?」

僕の声でなのか警備員さんなのか先生なのか生徒なのかも分からないけれど、こちらに向かう足音が聞こえた。手を掴まれ、教室に駆け込む。こちらに向かっていた足音は部活終わりの生徒のものだった。けれどそのうち見回りの先生がやってくるはずだ。見つかるのも時間の問題だと思うけど。と思っていたのに見つからなかった。どうやら彼女は、隠れるのが上手いらしい。

「よぉし!存分に楽しむぞぉ!」

先生も警備員さんも学校にいなくなった頃、彼女が突然大きな声を出した。正直驚いた。教室の隅で身を寄せあっている状態で、距離もものすごく近いのに大声を出さないで欲しい。少しは僕の耳への心配があってもいいと思う。

「楽しむかどうかは置いといて、どうするの。寝るとことか食べ物とか。……寒いし」
「お、諦めた?」
「諦めたよ。君には敵わない」
「ふふん!そうだろう!」
「それで?どうするつもりなの?帰る?」
「お前、やっぱり諦めてないじゃん。寝るのは保健室でいいし、食べ物はまぁ一晩くらい……」

僕から目を逸らして、言う。そうなんだろうと思ったけど。嫌な予想が当たってしまった。まあ1食くらい抜いたって死ぬ訳では無いから良いけれど。

「……それなら、もう寝ようよ」

空腹のまま起きていたら辛いだけだし、起きていてもすることも無いし肌寒くなってきたから布団に篭もりたい。
一階端にある保健室の鍵は有難いことに開いていた。保健室の先生、不用心だと思う。電気をつけて2つあるうちの壁側を選ぶ。

「じゃ、おやすみ」

そう言ってカーテンを閉める。 何となく、彼女がいる方と逆に体を向ける。

「もう寝るのかぁ。じゃあ電気消すねぇ」
「うん」

残念がっているみたいだが、人の睡眠は邪魔しないらしい。有難い。カーテン越しに彼女の息づかいが聞こえる。

「私の話、聞いてもらえない?」

背を向けているのか、小さく声が聞こえた。けれど静かなのでよく聞こえる。まだ眠くはないので了承する。

「いいよ」
「私さ、自分が病気だって分かって死ぬかもって言われた時、不覚にもお前の顔が浮かんだの。可笑しいでしょ?頭なんか真っ白にならなくて冷静だった」

何を言い出すかと思ったら、反応に困ることだった。上手く言葉が見つからなかったのもあるけれど、彼女が言葉を求めていないような気がして黙っていた。

「隣でお母さんが泣いてても私は涙なんか出なくて、こういう時泣けないから変な子だって言われるんだなぁ。なんて呑気に考えてた。私はきっと、感情欠落者なんだと思う」

混乱していた。彼女は誰から言われたのだろう。そんな事を、僕は思ったことがなかった。彼女は明るくて馬鹿で能天気で阿呆で優しくて強くて。僕にはそんな印象しかなかったから余計に混乱した。

「私、昔から泣けない。涙は出るんだけど皆が泣くような所ではどうしても泣けなくてさ。そういう感情がない。涙が出ていてもどうして泣いてるのって、客観的に自分を見てる」

寝ようと思っていたのに 頭が、冴えてきてしまった。

「なぁ、お前も……変だって思う?」

声が微かに震えていることに怯えたような泣きそうな悔しそうな苦しそうなことに彼女は、気づいていないのだろうか。

僕は、カーテンを思い切り開ける。やはり背中を向けていた彼女は、弾かれたようにこちらを向く。顔が歪んでいた。やっぱり泣きそうな、怯えているような顔をしていた。僕は微笑む。

「1度も思ったことないよ」

彼女のそんな顔を見ていたくなかった。彼女のことを知ろうと思いながら、彼女の笑っている顔以外を見ようとしていないなんて勝手だ。

「そっかぁ、そっかぁ」

同じ言葉を繰り返しながら、安心したような顔をする。その顔を見て、僕も安心する。
あぁ、良かった。笑ってくれた。

「寝ようか。先生に見つからないように明日は、早く起きて一旦家に帰らないといけないから」

壁側を見るように布団に潜り、言う。時計の音が嫌に響いている。

「うん。そうだね。……私、お前と夜明けが見たいんだ。だから夜明け前に出よう」

その言葉に彼女には見えていないかもしれないが軽く頷く。異論は無かった。僕も彼女と夜明けが見たかった。
夜明けを見る想像をする時、隣にいるのは何故かいつも彼女だった。夜明けを見るなら彼女とが良かった。寒いのは嫌いだけれど彼女となら寒くても雨が降っていても何でも良かった。



3

翌朝、4時に起きて学校を出た。連続での早起きは案外苦でもなかった。薄らと明るくなってはいるけれど車通りは少ない。それから少し寒かった。駅に向かう途中にある橋の上から、夜明けを見た。水面が朝日に照らされてキラキラ輝いていた。一日の始まりなのに世界の終わりのように感じた。

「ねえ、カメラ貸して。撮ってあげる」

今度は、了承を得て彼女を写した。彼女はくるくると回ったり空を見上げたり楽しんでいた。そんな彼女を撮るのが僕も楽しかった。とにかく、夜明けに包まれる彼女はとても美しかった。
それから始発に揺られて、僕らは帰った。
家に帰るとまだ母親は起きていなくて、少し安心した。起きてきたら、ちゃんと説明をしよう。きっとすごく心配をかけたはずだ。


「え!?文学少女さん!?」
「は!?え、まじじゃん!なんで…」

僕と彼女は、いつもより早く登校した。そのせいか、変に注目を集めてしまった。

「皆、おはよう。お久しぶりです。一時退院できたから、今日1日だけ一緒に授業受けたくて…」

案の定、クラス中混乱していて先生まで混乱していた。先生には許可を貰っていなかったらしい。

「さーがわ!お前知ってたんだろ?」
「あぁ、うん。昨日言われたからね」

そう答えると成宮がニヤッとした。それから、結構大きな声で言う。わざとだ。

「やっぱ付き合ってんの?」

シーンと、静かになって彼女と俺にそれぞれ、視線が集まる。僕も彼女も無表情で顔を合わせる。

「いや、ただの腐れ縁だよ」

成宮が彼女を見る。彼女は、優しく微笑む。

「その通りだよ」

彼女の言葉でクラス中からの視線がなくなった。成宮も2人の口から聞いたので信じたのだろう。それ以上は聞いてこなかった。

それから、彼女の苦手な英語と日本史を受けた。3時間目は体育だったけれど体操着を忘れた彼女は、不服そうに見学をしていた。そうでなくても、見学だろうけれど。
順調に授業を受けお昼休みになった。いつもは僕の席にくっつけて食べる彼女が、突然立ち上がった。

「あの、皆をカメラに収めてもいいですか」

突然の発言に皆、動きが止まった。僕も予想していなかった。
10秒くらい動きを止めてから、皆口々に言う。

「え!全然いいよ!」
「なんか照れるなぁ!」
「よっしゃ、皆集まれぇえ!」

言うことは様々だが、皆笑っていた。いいクラスだなと、その時心の底から思った。

全体写真を撮ってから、彼女の「一人一人顔が分かるように撮りたい」という要望でそれぞれのグループで撮ることになった。
皆写真を撮られる時も、待っている時も笑顔だった。楽しそうだった。

「え、いや僕はいいよ。成宮だけ撮れば」
「いやいや、俺単体は酷いって!」

最後、カメラを向けられてそんなやり取りをしている間に撮られた。成宮だけを撮っていることを祈る。

「次は、君。僕が撮るよ」

そう言って、彼女からカメラを貰おうとしたら横から奪われた。成宮だった。

「なぁに言ってんだよ。俺が撮るから、並べや」

気さくな笑みを浮かべそう言う。

「いや、でも僕らはもう撮ったし」
「いや、制服姿では撮ってないから撮ろうよ」

そう言われたので、横に並ぶ。彼女が顔の横でピースをして笑う。そんな彼女を見て僕もつい微笑む。

「はい、撮れた」

その瞬間を撮られた。嫌な気はしなかった。

お昼休み残り15分。いつもは隣のクラスの奴と食べる成宮が、僕と彼女の机に向かい合わせるように机を移動する。

「飯、一緒に食ってもいい?」

彼女に聞いて笑う。彼女も微笑んで了承する。

「うん。多い方が楽しいしね」

それから、1番嫌いな数学を受けて彼女の好きな国語を受けて、意味が分からないと久々に埋まった窓際で愚痴を言いながら化学を受けた。そうして授業が終了し、玄関に続く階段に向かう。掃除をするためだ。
上からほうきをはく彼女を追うように雑巾をかけながら声をかける。

「嘘をつかずに教えてほしいんだけどさ、君はいつ死ぬの?」

なんて質問をしているんだ。と頭の中の僕が怒ってくる。彼女は、踊り場から僕を見上げた。

「……………………空が迎えに来たら、かな」

目を細めてそう言った。それから、ちりとりでゴミを集めながら続ける。

「いつになるかは分からないけど、覚悟はできてるんだ。私の命は今日だから」

妙に明るい彼女の声が、そんなはずはないと思うけれど遺言に聞こえた。そんなはずは無いと思いたかったのかもしれない。とにかく、嫌だった。



病院に戻った彼女から久しぶりに、メールが届いたのは、一時退院から1週間後のことだった。内容は、『手紙書いたから受け取りに来て』とのことだった。
学校終わり、彼女の病室に行くと呼び出した本人は居なくて、空っぽのベットの備え付けテーブルにいつもの封筒が置いてあった。彼女が戻るのを待とうと、丸椅子に座り待っていたけれど、1時間しても戻ってこないので手紙を受け取って帰った。

『旅行、楽しかったね。
お前には、心配して貰っちゃったからお礼にもう1回一時退院できたら、その時は海に連れて行ってあげる。
偉そうだ。とか言わないでよ?(笑)
夏になったら、花火見たいよね。
あぁ、そうだ。今回は好きな季節を教えるよ。
春も夏も秋も冬も好き!どれが1番なんて決められないけど、決めろってもし言われたら秋って答えるよ。
理由は、お前と会った季節だから。』

4通目の彼女の手紙は、僕の予想とは違う終わり方だった。
てっきり彼女は、春が好きなんだと思っていたけれど違うみたいだ。
僕は早速、返事を便箋に書く。今回も短くなった。

次の日、図書当番をしていたら中学の同級生が来た。

「あれ、佐川くん。図書委員だっけ?前は、文学少女さんがしてなかった?」

彼女の名前は確か、早柴 日愛(はやしば にちか)。僕の名前が1文字入っていたから覚えている。
高校では別のクラスになった早柴は、彼女の病気のことを知らないらしい。言おうか迷って、やめた。あまり、広めない方がいいだろうと思った。勝手な僕の判断だ。
適当な嘘で誤魔化す。

「そうなんだよ。彼女と交代してもらったんだ」
「へぇー、佐川くんって本嫌いなのかと思ってたよ」
「本は、嫌いっていうか苦手なんだけど、本特有の匂いは好きなんだ」

今度は、嘘ではなく本当だ。本の匂いは嫌いではない。
早柴は、納得したように頷いた。

「あぁ、わかるわかる。私もこの匂いが好きで良く図書館とか本屋さんとか行くもん。将来本に関する仕事したいくらい好き」

確か早柴は文章を書くのが上手かったはずだ。中学の頃作文で賞を取っていたような記憶がある。

「早柴、作家とか校閲とか向いてるんじゃない?中学の頃、作文で賞取ってたでしょ」

素直に思ったことを伝えると、早柴は照れたように笑う。

「あー、はは。実は夢なんだ。作家になるの。文章を褒めてもらえるのすごく嬉しいし。………それに私ね、言葉で人を救いたいんだ」
「言葉で人を………?」
「うん、そうだよ。言葉はね時として刃物にもなり得るの。けど同時に人を救うことが出来ると思う。一時的にかもしれないけどね」
「すごいね。早柴ならきっとなれるんじゃないかな」
「そうかな、ありがとう!」

僕にお礼を言って早柴は、図書室から出ていった。


翌日、書いた手紙を渡してから彼女にそのことを話すと目を輝かせた。

「早柴さんすごいねっ!もうなりたいものが決まってるなんて!」

彼女には、まだ夢がないからなのだろうか。

「それは、君の将来が確実ではないから?」

きょとんと阿呆な顔をして僕を見る。それから真剣な顔で「将来ねぇ」と呟く。その顔を見て、僕はホッとした。まだ諦めていない。生きることを諦めていない。

「将来のことは、皆同じだよ。私がお前より早く死ぬ可能性は100%では無い。事故にあっていきなりお前のが早く死ぬかもしれない。将来なんて、先のことなんて誰にも何もわかんないよ」

息を飲んだ。分かっていたことだ。誰かが亡くなったニュースを見て、僕もいつこうなってもおかしくないなと思っていた。なのに、人の言葉で言われたのは初めてで、鉛みたいに心にのしかかった。

「命は皆、きっと平等でさ病気でもそうじゃなくても、一緒なんだよ。人間いつ死ぬかわかんないんだから将来は確実じゃないよ」

決定的な言葉だ。体全体が重くなる。動かなくなる。体を鉛で包まれているようだ。
言葉が、喉の奥で死んでしまったみたいに出てこない。数分間、沈黙する。

「………っ」
息を吸い込んで、

「ありがとう」

吐き出した息と共に、声が出た。
彼女は、慌てた様子で手を顔の前で振る。否定するみたいに。

「えぇ!?いやいや、なんで!?どうしたの!?」

いつも素直じゃなくて、お礼なんか言わない僕がいきなり言ったからだろう。僕を、本気で心配してくれているらしい。
彼女は、とんでもないことを平気な顔してそれが当然だとでも言うように、言い放つ。
いや彼女にとってはそれが当たり前で、世界の全てなんだろう。

「ありがとう」

もう一度、今度は彼女と目を合わせて言う。彼女は予想通り照れたような顔をしたけれど笑って、どういたしまして。と返してくれた。

「あぁ、そうだ。これから1週間後テストがあるから終わるまでは来れない」

思い出した。今日はそれを伝えようと思って来たんだ。2年になって最初のテスト。前回の結果から落とすわけにはいかない。こんなんでも僕は割と頭がいい方だ。それに行きたい大学も決まっているから尚更だ。
ちなみに彼女も頭がいい。

「ふぅん。そーですか、そーですか。新しい彼女とデートですか」

何を言ってるんだ。前言撤回だ。僕が思っていたより頭は良くなかったのかもしれない。それに耳も。耳鼻科をすすめようか。

「テストだって言ってるだろ。それに僕はこれまで彼女なんていたことないよ」
「…………テストかぁ、もうそんな時期なんだね。じゃあ今日は、いつもより30分延長で!」

顔の前で親指と小指以外を伸ばす。

「カラオケじゃないんだからさぁ……まあいいけど」

たまには、いいかもしれない。という気の迷いで彼女の誘いに乗ってあげる。彼女は入院生活で人と話す機会が減ってしまったのかもしれないと思ったが、学校に通っている間も人と話しているところをほとんど見たことがない。意外と彼女はお喋りだったのかもしれない。

「やった!じゃあお互いの好きなものを言っていこう!」
「誰得なんだよ、それは。中身のない話は好きじゃないんだけど…」
「誰得でなくても、いいの。それに、時には中身のない話も大切なんだよ」

中身のない話が役に立つ時が果たしてくるのか。考えても仕方がない。彼女の方は爛々と目を光らせている。
彼女に促されて、僕から言っていくのかと自覚する。そう自覚したはいいけれど、僕は好きなものがほとんどない。後から、あーだこーだ言われたらとてつもなく面倒だから保険をかけておく。

「僕は、好きなもの少ないから君が知ってるのがほとんどだろうけど。……本の匂いが好き。写真を見るのが好き。朝の澄んだ酸素が好き。都会よりも田舎が好き」

彼女は、にぱっと弾ける。人の好きなものを聞いてそんなに、嬉しいのだろうか。そう思っていたら、ちゃんとそれには理由があったようだ。

「えへへ、知らないこと知れたなぁ」

顔をにやけさせて言う彼女に、僕は驚く。僕は勘違いをしていたのだろうか。

「え、言ったことなかったっけ」
「本の匂いのことと写真のことは知ってたんだけど。朝の澄んだ酸素とか、田舎の方が好きって言うのは初耳!初耳学だよ!」

どこかで聞いたようなチャンネルタイトルみたいなことを、得意げな顔で言う。彼女は僕のことを知っているものだと思っていた。そういえば僕は、彼女に知ってもらおうとしていなかった。

「じゃ、次は私ね!……んー、何がいいかなぁ。お前に言っていない、知らない私かぁ」
「僕は、君のことをほとんど知らないよ」
「え?そんなことないよ!私を何だと思ってるのさ」

相変わらず表情筋豊かな目の前の彼女は、コロコロ表情を変える。驚いた顔をしたと思ったら、今は呆れた顔をしている。僕はまた、勘違いをしていたのだろうか。彼女を過大評価しすぎていたのだろうか。彼女は僕のことを知っているはずだと思い込み、だから僕のことなんて話さなくてもいいと自己完結をして彼女のことを知ろうともしていなかった。と、それどころか目の前の彼女の話を聞いていなかったのだろうか。彼女は今までどんな表情で、どんな心情で話をしてきたのだろう。

「……人の後悔を傷にしない人だと思ってるよ」

実際、僕の後悔はこれからの彼女の行動や発言によって傷にはならないだろう。恥ずかしそうに頬を染める彼女を見て、微笑む。どうしてそういう顔をしたのか、自分でも分からなかった。ただ、そういう顔をしているんだという自覚はあった。次に彼女が口を開く前に、僕は彼女に僕の知らない彼女を教えてもらう。

「…君の番だよ。好きなものは何?」

彼女はまだ照れたような顔だったけれど、教えてくれた。紙の上での会話とは違う、彼女の声で聞く彼女のことだ。僕は慎重に、聞き零さないように耳を澄ます。柔らかい声が耳に届く。彼女は、耳あたりの良い声で、好きなものを羅列していく。半分知っていて、半分知らないことだった。

「天気雨、金平糖、かすみ草、本、自然の匂い、海、写真」

ほら、やっぱりだ。彼女は人の後悔を、絶対に傷にしない。優しい嘘を吐くみたいに僕の後悔など包み込んでしまう。
天気雨も本も海も好きなのは知っていた。そのことに驚く。彼女の言う通り、ほとんどとは言えないかもしれないが、僕は彼女のことを知っていたようだ。それは、彼女との文通のおかげだろう。なんだか、嬉しい。僕はずっと、彼女のことなど知らないと思っていたから。

「どう?案外、私のこと知ってたでしょう?」

僕の考えなんてお見通しみたいに得意げに笑う。わざとかと疑うくらい彼女は、優しい。彼女は人を傷つけない方法を知っているみたいだ。僕はこれまで、彼女に傷つけられたことがない。

「まあ、半分くらいは、知ってたよ。金平糖とかすみ草と自然の匂いと写真が好きなのは知らなかったよ。君甘いもの好きだったんだね、砂糖の塊って美味しいの?」

金平糖は、砂糖の塊というイメージしかない。見た目は星が落ちてきたみたいで可愛いとは思うけれど、それを食べようという気にはならない。彼女が金平糖を好きな理由は、星が好きだからというのも関係があるのだろうか。

「砂糖の塊って、酷い言い草だね!あんなに可愛いのに!」

可愛いのと、金平糖が砂糖の塊というのとはまるで関係がないように思えるが。彼女の中では関係しているのだろうか。大体、あんなに小さい瓶やら袋やらに入っていて、1粒1粒も小さいのに値段が高いように感じるのは僕だけなのか。中学3年生の修学旅行で女子が買っているのを見る度に疑問に思っていたけれど、未だに理解不能だ。

「確かに、可愛いとは思うけど……高くない?」
「あー、値段ね、可愛いからいいんだよ」

そういう問題なのか。彼女の中では、というより買っていた女子の中では。それが一般常識的な感じで流通しているのだろうか。少なくとも甘いもの好きではない僕には一生理解できないままだと思う。甘いもの好きな男子はどうなのだろう。彼女達同様、一般常識的な感じなのだろうか。生憎、僕が知る限りの周りの人間は甘いものが好きでは無いのでそれを確かめる術がない。今度、早柴にでも聞いてみようか。

「……そういえば自然の匂いってどんな匂いなの」

潮の匂いとか草の匂いとか色々な匂いがあるけれど、それら全てのことだろうか。彼女が窓を開けているのはそういう理由だからだろうか。
彼女は笑う。

「自然の匂いは自然の匂いだよぉ。潮も草も露も本も朝も夜も好き」

そうか。それほど深く考えたことも気にしたこともなかった。けれど、本当に色々な匂いがあるんだな。今度、露の匂いを嗅いでみようか。どんな匂いなんだろう。
へへっと軽く笑って彼女は僕を見る。僕は少し目を逸らす。

「そうだ。使い捨てカメラは確か君が持っていたよね。後、何枚撮れる?」

いい事を思いついた。いや、あまりいい事ではないのかもしれないが思いついた。阿呆みたいな顔で答える。

「後、15枚だよ。どうして?」

僕は、僕らしくない顔をする。得意げに笑う。思いついた言葉を音にしよう。彼女はどんな顔をするだろう。どんな言葉を言うだろう。
僕の顔を、目を見て待っている彼女の目を僕も見返す。そして、彼女の反応を想像する。

「明日の朝、潮と朝の酸素を吸い込みに行こう」

ああ、ほら。こういう顔をすると思った。思った通りだ。嬉しそうな、楽しそうな顔。僕は彼女のこういう顔を見ていたいんだ。勝手なことだけれど。
別にいいんだ。彼女が怒っていても泣いていても困っていても。どんな顔をしていても。別にいいんだけれど、それは彼女が居なくなるよりずっと、苦しい気がしてしまう。気がする、だけできっと彼女が居なくなることの方がずっとずっと苦しくて悲しくて、痛いだろう。

「じゃあ、明日の朝迎えに来て!一緒に抜け出そう!」
「うん、5時に迎えに来るよ。6時起床だったよね。それに間に合うように帰ってこよう」
「わかった。待ってるから、来てね?」

おねだりをするように、上目遣いでこちらを見上げてくる。そんなことをしなくても、僕は迎えに来る。口頭だろうが文面だろうが指切りだろうが、僕は約束は破らない。

「うん。来るよ、待ってて。じゃあまたね」
「うん!またね!」

5時に病室に行くのなら、4時半に起きよう。早起きは気持ちがいいから苦ではない。明日が楽しみなのは好きな酸素を吸えるし、彼女の笑顔を見られるからでもある。
もしも明日病院の人に見つかった時のために、謝る練習をしておこう。ベットの上の彼女は、今頃何を考えているのだろう。


ちゃんと4時半に目を覚ました。誰か褒めてくれてもいいと思う。顔を洗って、歯を磨いて、寝癖を直して。朝食は帰ってきてから食べればいい。母親が起き出す前に家を出よう。帰ってくる頃には確実に起きているだろうから、散歩とでも言おう。嘘ではないのだから誰も僕を咎めないでほしい。

「おはよ。来たよ」

彼女は個室だが、万が一の為に声を潜める。彼女は眠そうではあったもののちゃんと起きていた。褒めるべきだろうか。いや、僕は誰からも褒められなかったのだから、僕が今彼女を褒めたら不平等だ。それに彼女は起きていただけで寝癖はそのまま、顔もおそらく洗っていない状態だ。そこは僕より劣っている。褒めたら損していた。

「おはよぉ。パジャマでいいよね、じゃ行こっか」

にっこりと笑う彼女は、楽しそうだ。厚手とも言えないパジャマだけで行こうとする彼女を呼び止める。今は9月。昼間は気温が上がるけれど、早朝はまだ流石に寒いだろう。

「待って、それだけじゃ寒いと思うよ」

くるりと踵を返し、上着を羽織る。踵を返し上着をとって羽織るまで終始無言。怒ったのだろうかと心配していたら、そんなことはなくて彼女は笑顔で振り向いた。楽しみで仕方がないと言う顔。僕はこの顔が見たかった。

「行こっ」

軽く頷く。静かに病室を出て足音を潜める。各角に気を張りながら病院を抜け出す。抜け出せたからと言って一安心ではない。窓から見つかったら水の泡だ。そそくさと窓を気にしながら小走りになる。病院が見えなくなってきてから走るスピードを緩めて、歩きに変える。

「あはっ、海だぁ」

海なんて歩いて行ける距離にあるのに、久しぶりだからだろうか。気持ちが高揚する。僕の胸も僅かに弾んでいる。僕も彼女も潮と朝の酸素を肺一杯に吸い込む。冷たい空気が肺に流れて、一気に体を冷やす。上着を着てきておいて良かった。まだ世界が起きる前の世界。空気が新しくて、透明だ。
閉じていた瞳を開くと共に、海に光が反射し始める。擽ったいくらいの朝日が体を包み込む。

「ねえ、撮らせてよ」

波打ち際でパシャパシャとはしゃいでいる彼女に声をかける。朝日に包まれていて、妖精みたいだ。そんな彼女をカメラに収める。毎回、手が震えてブレていないかと心配になる。
9月の早朝5時。誰もいない静かな海は朝日に包まれて、世界に2人だけだと錯覚させた。このまま、世界が起きなければいい。静かで冷たくて暖かい世界に2人だけなら、良かった。けれど神様はいつも、平等に不平等を与える。




4

それから、テスト前1週間。テスト期間1週間と計2週間僕は学校と家を往復するだけの生活に戻った。
彼女からの連絡は相変わらずない。今日はテストが終わる日だから、放課後会いに行こう。僕への手紙もきっと書き終わっているはずだ。

「よぉ、佐川〜。今日はお見舞い行くの?」

自分の席で今日のテスト勉強をしていると後ろから、成宮が声をかけてきた。僕は国語を勉強しながら答える。

「うん。そうだよ」
「じゃあ、俺も着いてっていい?」

驚きだった。頭を抱える問題を放って、僕は成宮を見る。きっと目を見開いていたのだろう。成宮は焦ったように笑う。

「な、なんだよ〜!ダメだった?」

ダメなわけではない。彼女は、来る者拒まず去るもの追わず主義者なのだから。

「いや、じゃあ放課後一緒に行こう」

そう了承したところで予鈴のチャイムが鳴る僕は慌てて先程の問題を成宮に教えてもらった。

国語のテストは、意外にも埋めることが出来た。国語が苦手な者なら10人中9人くらいはわかってくれると思うが、筆者の考えを述べなさいという問いは埋まらなかったけれど。
筆者でもない限り、分からないだろ、こんなこと。

放課後、予定通り彼女の病室へと向かう。その途中で、聞きたくもないことを聞いてしまった。

「__さんですが、もう、長くないでしょう。今まで薬で進行を遅らせてきましたがそれももう、限界かもしれません。……覚悟を、しておいて下さい」

偶然通り掛かった部屋のドアが少し開いていたせいで最悪なことを聞いた。部屋から聞こえてきたのは、紛れもない彼女の名前と申告だった。恐らく中にいるのは彼女の主治医と、それから彼女のお母さんかお父さんのどちらかだろう。
素早く通り過ぎて、平常心を装い彼女の病室に入る。
隣にいる成宮もそうしてくれたので助かった。
正直、何か悪いことがあるんじゃないかってことくらいは予想がついていた。彼女のあの悲観的な言葉たちも、この間1時間待っても彼女が検査から戻ってこなかったことも。

心のどこか。喉に魚の骨が刺さったみたいにむず痒くて、引っかかっていたんだ。その正体かもしれないことを彼女の口以外から聞きたくなかった。

「ん、あれ。今日は成宮くんもいるんだねぇ。久しぶりぃ!」

彼女の使っている机にはやはり手紙が置いてあった。ペンも一緒に置いてあるから先程まで書いていたんだろうか。
僕はいつも座っている丸椅子をもうひとつ持ってきて成宮に勧める。

「………」
「ん、なになに。2人とも元気なくない?さては……テストの出来が悪かったのか!今日は国語だもんねぇ」

何故そのことを彼女が知っているんだ。僕はテスト前から来ていないからテストの日程は知らないはずだ。

「どうしてそのことを知ってるの?」

いつも通り言ったつもりが、声が震えていた。
ああ、そうか。僕はやっと彼女の死について向き合おうとしているのか。受け入れると言っておきながら全然受け入れられていなかった。ずっと逃げていたんだ。
だけど、もう、逃げられないところまで来ている。

「先生から聞いたんだよ。あの後、先生にテスト受けたいですって連絡したら他の先生とも話し合ってみるから。って。……それで一応日程が送られてきたけど、やっぱり無理だって言われちゃってさぁ」

無茶苦茶だ。一時退院の時のことを覗いて、入院してから1度も授業を受けておらずテスト範囲も分からないのにテストなんか受けられるはずがない。

「あ、てか。今日はどうしたの?成宮くん」

先程から石のように固まって口を噤んでいた成宮は、動揺を隠すにも隠しきれていない。目が泳いでいる。
それでも何とか彼女の方を見て、いつもよりぎこちない笑みを浮かべる。

「いやぁ、聞きたいことがあってさ!」

彼の変化に、目の前の彼女は気づいていないみたいだ。元気よく頷く。

「おぉ!いいよいいよぉ!何でも聞いて!」
「文学少女さんにとっての幸せは、やっぱり本を読んでいる時?」

どうしてこんな質問をするのか僕には理解できなかったけれど、彼には彼なりの思いというものが存在しているんだろう。
彼女は、僕の質問に答える時みたいに真剣な表情をして、幸せかぁと考える。成宮の質問通り、彼女の幸せは本を読むことだとばかり思っていたので、即答しないことに驚く。

「成宮くんの聞く、幸せって一般論の話は関係なくていいの?それとも関係あった方がいい?」

暫く考え込んでから、確認するように成宮に質問した。成宮は、後者だよと短く答える。

「私の幸せは、沢山あるよ。本を読むことは新しいことを知ることだからそれは幸せでしかないんだけど。でもそれが私の幸せかって問われたらそうでもなくて……」

つまりは、どういうことなのだろう。彼女の話は時々難しい。

「私の幸せはね、プリン一個分だよ。お金も財力もなくていい。コンビニで売ってるプリン一個が私の幸せに繋がってる。幸せ一般論派の人達からしたら、そんなことがとか言われちゃうのかもしれないけど……幸せは求めすぎるのは良くないし、誰かと比べられるものでもないんだよ」
「……それは、綺麗事過ぎないかな」

遠慮がちに成宮が告げる。僕も、同じ考えだった。
別に彼女の言うことが理解できないだとか、否定するだとかではないけれど。言っていることは確かに正しいことなのかもしれないけれど。
あまりに、綺麗すぎる。

「いいじゃん、綺麗事過ぎたって。…………この世界だって大半は綺麗事で出来ているんだから」

窓から入る青々しい風に吹かれて靡く彼女の髪が、さらさらと揺れる。彼女は、僕ら2人の目を捉えたまま、笑う。とても綺麗な笑みだ。

「私は、退屈そうに見えるこの入院生活も幸せなんだよ」

やはり彼女は、皆が言うように知的な部分もあるのかもしれない。

その日の夜、家に帰ってから彼女から手紙を受け取っていないことに気がついた。
自分で考えているよりも混乱していたのだろう。死と向き合うことが恐いことだと脳が理解してきた。
彼女の命は長くはない。
そう聞いた時、体中が冷えた。もうすぐ夏なのにいきなり真冬にワープしてしまったかのように。それでも、頭だけは冷えていなかった。その証拠に彼女から手紙を受け取るのを忘れたんだ。

あんなに活字を読むことが苦手だった僕が、彼女からの返事を待つようになった。手紙を受け取れなかった日は、今日みたいに後悔している自分がいた。
彼女との文通を僕は素直に喜んでいたんだ。いつからか、楽しみになっていて、それが日常になっていた。
だけど僕はまだ、彼女のきっかけの本を読めていない。


「こんにちは。佐川くん」
「こんにちは、早柴」

6月中旬の水曜日。早柴は今日も来た。
毎週水曜が僕に与えられた図書当番日だ。
こうして、早柴が来る度に人がいないのを良いことに他愛もない会話をするようになった。

「今日は、何の本を読んでたの?」
「今日は、『桜(さくら)の園(その)』を読んでるよ。チェーホフさんの作品で1番好きなんだ」

生憎、桜の園もチェーホフさんも初めて聞いた。

「どういう作品なの?小説?」

僕は素直に思ったことを聞いてみる。

「小説じゃなくて、脚本みたいな感じだよ。登場人物が意外と多くて、名前覚えるのが大変」

へへっと可愛らしく笑う。
チラッと見せてもらうと、確かに脚本っぽくて、外国のお話だからだろうか。名前が長くて、多かった。

「私、ラネーフスカヤの『ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい庭!……わたしの生活、わたしの青春、わたしの幸福、さようなら!……さようなら!』っていうセリフがすっごく好きなんだ」

本を胸の前で抱きしめて、静かな声で語る早柴は輝いていた。

「青春も幸福も、自分がそうだと思ったらそうなんだって。他人じゃなくて、自分で決めれるんだってことに、桜の園を読んで初めて気づいたの」

それから、恥ずかしそうに、はにかんだ。


翌日、木曜日。

「一昨日、渡しそびれちゃった、ごめんねぇ」

手紙を受け取りに寄っただけだと伝えると、彼女はすんなり手紙を渡してくれた。
いつもなら、面倒臭くてウザイくらい止めるのに。

そう疑問に思ったけれど、それが音になる前に答えを知った。

「私、これから検査があるから行かなきゃなんだぁ。だから、またねぇ」

そう告げて、彼女は僕を病室に置いて行ってしまった。
残された僕は、暫く不安で動けなかった。

ちなみに、僕は別に急ぎの用事があるわけではない。それなのに、手紙を受け取りに来ただけだと彼女に伝えたのは、どういう顔をしていたらいいのか分からないからだ。

僕はまだ、彼女の命の事実を受け入れられずにいる。



時間が経つのはあっという間で、夏休みも目前に迫った日。僕は、久しぶりの部活に顔を出していた。

狭く、埃臭い。何度来ても慣れない。
僕は、部活に参加をしに行ったのではなく、参加できなくなることを伝えに行った。

つまりは、退部届けを出しに行ったのだ。理由は、彼女だ。
彼女の命が確実に削られていることを知ってから、ずっと考えていた。時間は、あっという間だ。気がついたら過去はずっと遠くにいる。

僕は、彼女をまだ過去にしたくはない。

部長と副部長、それから部員に挨拶をして部室を出る。皆、何も言わなかった。彼等なりの返事だったのかもしれない。
変に同情されるより、良かった。

「__と、言うことだから」

夏休み前日に、僕は彼女に部活を辞めたことを伝えた。彼女は、へらっと笑い頷いた。

「へぇ、あの旭日がねぇ…。りょーかい、りょーかい」
「……明日から、夏休み終わるまではずっと来るよ」

フッと、彼女は闇(くら)い目をする。
何か、引っかかる。ずっと前から。
彼女に時間がないことくらい、わかっている。

「ねえ、夏休み中は1日1個、お互いに質問をしていくことにしよう。だから、夏休み中は文通じゃなくて君の声で僕と話をして」

いわば、1種の賭けだった。
ずっと避け続けてきたことと、向き合わなければいけない。

僕は、彼女の返事を待ってから病室を出た。
7月20日。明日から、夏休みだ。


「1個目の質問はどっちからにする?」

夏休み初日。午後2時。開口一番(かいこういちばん)に彼女が言った。

僕が病室のドアを開けてすぐに。

「…じゃあ、今日は僕が。………君の好きな色は何?」
「色かぁ……。んー、夜明け色」
「あの色は、とても綺麗だったよね。……じゃ、次は君」
「んー、じゃあ好きな色は?」
「青だよ。真夏の空の色が好きだ」

彼女は空を見やる。入道雲がソフトクリームみたいな形をしている。

「確かに……いい色だねぇ」

暫く、僕と彼女は何をするでもなく空を見ていた。
その時間さえもがどうしようもなく愛おしく感じたのは、きっと僕だけ。そしてそれは、この時間が僕にとってかけがえのないものだから。

「あ、窓開けてよ」

彼女に言われ、窓を開ける。ふわり、と前髪を持っていかれる。チリン、と懐かしい音がした。
見上げると、頭上に花火柄の透明な鈴が吊るしてあった。いつの間に吊るしたのだろう。今の今まで気が付かなかった。

「……それ、いいでしょ。夏を感じれるよ」

彼女の声に頷く。昔から、風鈴は夏の風物詩だ。
風が揺れる度に、涼しい音が響く。

それから、他愛もない会話をして午後5時。僕は病室を出た。


夏休み2日目は、午前中に勉強をしてお昼ご飯を食べてから彼女の元に向かった。
夏休みに限らずだが、休みの日は時間が過ぎるのがとてつもなく早く感じる。

「質問2つ目は、私からでいいよね。……好きな天気は?」
「雨、かな。君は?」
「天気雨が好き。晴れてる空から溢れ出したみたいに降ってくる雨粒を、体いっぱいに受け止めるの。その瞬間が、好き」

そんな風に、1日毎に彼女と交互で質問をして、答えていく。
午前中に勉強。午後からは彼女の病室で過ごす。夏休みの間に僕の日課になった。

僕は、焦っていたんだ。命が有限なことくらいはわかっているけれど、まだ、まだ。って神様に願うみたいに心の中で何度も言っていた。

彼女の日常に僕が少しでも存在していられるように、毎日毎日質問をして、答えた。

「好きな動物は?」
「リス!もふもふしてて可愛いの!旭日は?」
「……あー、猫、かな」
「うわぁ、自分から聞いといて適当な返事だなぁ」

時に怒られ。


「特に興味もないけど、お前の趣味は?」
「……ないな。君は、読書?」
「決めつけは良くないなぁ!……まぁ、そうなんだけど」

時に、質問の答えを当ててみたり。


「好きな言葉は?」
「んー………『弱いまま強くなれ』。さて、お前は〜?」
「それは、ずるくない?………僕は『私の命は今日だから』」
「___仕返しされたぁあ」

時に、仕返しをしたり。


本当に濃くて、長いようで短い夏休みだ。
あっという間に、夏休み最終日になってしまった。
今日の質問は僕からだ。僕は、覚悟を決めてドアを開ける。普段通り、ベッドの上に居る彼女に声を掛ける。

「あのさ、今日は屋上行かない?」


「んー!!すっずしい!!」

いつもなら帰る午後5時。僕らは病院の屋上にいた。
僕は今日、この時を待っていた。
大事なことを聞くために。

怖くて、息を吸う度喉が震える。こんなんじゃ、声を出す時絶対震える。もう、それでもいい。

「質問、最後。………………君が今まで1番嬉しかったことは何?」
「………そうだなぁ。お前と会えたこと。お前と、こうして居られていることかな。………あっ、本当だよ?」

照れ笑いを浮かべ、近くなった空を見る。手を伸ばした彼女が空に連れていかれそうで、思わず声が出た。

「…僕もだよ」

聞かれてもいない質問の答えを口にする。なんだか気恥しいけれど、僕はもうひとつ大事なことを聞かなければならない。

「ねぇ、ごめん」

いきなり謝った僕を彼女が見る。胸元までの長い髪が揺れる。夏の午後5時は、まだ暑い。それに、明るい。だから彼女の顔がはっきりと見えた。

「質問、もう1個いいかな」

先程よりも声が震える。緊張からか、声が少し低くなる。それに気づかないほど、彼女は鈍感ではないだろう。恐らくこれから聞こうとしていることを薄々気づいている。それでも、彼女は笑って許すだろう。

「……仕方ないなぁ。いいよ」

思っていた通りのんびりとした口調で、いつも通りに笑ってみせる。その笑顔はいつもより、弱々しく見える。
僕は、そんな彼女に甘える。

「君は……君は、もう長くないんだね?」

質問といえば質問だけれど、確認に近かった。確かめておきたかった。夏休みが終わってしまう前に。これだけは、彼女の綴る文字ではなく彼女の音で知りたいと思った。

僕の好きな空が、彼女を照らす。空の色みたいに青く見えた。彼女は、暫く沈黙した。呼吸も穏やかで、僕に背を向けた彼女は空ではなくどこか遠くを見つめていた。そんな彼女の隣に立つ。僕は空を見る。

「………そっか、知ってたんだね」

ポツリ、と天気雨みたいに言葉が降ってきた。

「ごめん、聞くつもり、なかったんだけど」

歯切れの悪い僕に彼女は薄笑いを浮かべる。その顔は僕を見ない。

「そっかぁ。じゃあ、もう話すしかないんだね。………私の、命について」

正直聞きたくなかった。だけど聞くと決めたからには聞くしかない。僕は、彼女を見る。彼女は、空を見つめる。

それから、ポツリ、ポツリ、と彼女の口から言葉が零れる。

「うん、お前の聞いた通り長くないんだ。いつまで持つかとかは言われてない。だから、長くないとは言われたけどそれが、明日なのか、半年後なのかは分からない」

淡々とした口調で彼女が言う。彼女には自覚がないのかもしれないけれど、泣きそうな目をしている。
自覚がないだけで、悲しいという感情は確かに彼女の中に存在している。

「そっか。じゃあ………空が迎えに来たら、か」

彼女の隣で彼女のように空を見やる。夏の空はなんだか目が痛くなってくる。ソフトクリームとか風鈴とかが似合う季節だと思う。

「あははははっ」

何だか、久しぶりに彼女の笑い声を聞いた。彼女はこちらを向いていて、笑った顔のまま明るく言う。

「そうだね。迎えに来たらだね」

それから、暗くなる前に彼女と手持ち花火を楽しんだ。全然暗くないけれど、彼女の楽しそうな顔がハッキリ見えるからそれでいいと思えた。家に余っていたやつだから本当に少ししかなかった。けれど幸いにも線香花火が余っていた。僕個人としては、線香花火をしないと夏にならない。
それから病室に戻った。空には月が浮かんでいた。

「あ、お前は、明日から学校?」

ベッドに潜った彼女からの声に、月から彼女へと視線を移す。彼女は向こう側を向いていて顔は見えない。
泣いているように聞こえた。

「泣いてるの?」

僕が、ちゃんと彼女の質問に答えなかったのはきっとこれが初めてだ。
ベッドから拗ねたような声で彼女が言う。

「質問を、質問で返さないでよね。………泣いてるのかな、分かんないや。悲しくないのに、なんでだろうね……お前が」

そこまで言ってから起き上がってこちらを向く。やっぱり、泣いていた。いつもみたいに、音もなく涙を流していた。僕は、音のない涙しか見たことがない。

「旭日が、いなくなる気がしてるのかもね」

涙で濡れた頬を歪ませて言う。ぎこちない笑みだ。無理に笑っているのが、分かる。それはこちらのセリフだ。僕は毎日彼女がいなくなるんじゃないかと、怖い。
息を吸う音が聞こえて、腕が彼女を包んだ。柑橘系の香りが鼻をかすめて、頬や耳を彼女の髪で擽(くすぐ)られて、初めて彼女を抱きしめていることを把握した。

嬉しかった。彼女の中に僕が存在していること。それだけが、ただただ、どうしようもなく嬉しかった。

「……あは、どうしたんだよ。お前らしくない」

耳元の彼女がからかうように、だけど静かに言う。
僕も、耳元で返す。

「悪い?」

少しだけ、ほんの少しだけ意地を張っていた。

彼女が、息を吐き出す。耳にあたって擽ったい。彼女は声を出さず笑っていた。まだ零れている涙はそのままに。

「ううん。……何も、悪くないよ」
「そう……ありがとう。僕のことで泣いてくれて」
「あはは、お前さ、何か、素直になったよねぇ」
「そうかもね。だとしたら、君のおかげだよ。ありがとう」

こんなに、短い間に2回もありがとうと口にしたのは初めてだ。

「いーえ。どういたしまして」

再び彼女の顔を見た時、すでに涙は止まっていて、彼女は笑っていた。

いつもより2時間遅く病院を出て、家に戻る。

「どこ行ってたの、遅かったね」

キッチンに立って、背を向けたまま母親が言う。今夜はシチューだ。
手を洗って、母親の横に並び鍋をゆっくりかき混ぜる。

「あの子のお見舞いに行ってたんだ」

僕が、あの子と言って伝わるのは母親くらいだろう。
母親がため息みたいに息を吐き出す。頬が緩んでいるのが見えて、ため息ではないことが分かり、少し安心した。

「あの子、どうだった?……元気、だった?」

母親は、彼女が病気だということを知っている。

「うん。元気だったよ」

シチューをお皿に盛りながら、僕は小さく嘘を吐(つ)いた。



5

夏休みが明け、すぐにテスト期間が始まった。彼女の病室にまた、2週間行けない日々が始まった。
にも関わらず、僕は彼女の病室にいる。理由は、彼女からの一言のメール。

『もう来ないで。』

それだけ。それだけのメールだった。それだけで充分。僕が彼女の元に向かうには充分だった。
学校が終わってすぐ、先生のテスト勉強しろよという声も聞かずに走る。胸騒ぎがする。嫌な胸騒ぎ。それに素直に従う。
病院内で走ってはいけないことは重々承知している。いつ来るか分からないエレベーターを待たずに階段を駆け昇る。僕は荒々しい息を整えもせず彼女の病室のドアを開ける。

最初に目に飛び込んできたのは風に揺れるカーテン。次に彼女のベッド。白いシーツに赤い雫がぽたぽた垂れていた。右手にはカッターナイフ。左腕には無数のバーコード。そのバーコードからぽたぽた垂れていた。
理解が出来なかった。どうして。どうして。そればかりが脳内を駆け巡る。彼女は、まるで僕が来ることが分かっていたかのように感情の抜け落ちた瞳で、こちらを見ていた。その顔のまま、これまでの中で1番ゾッとする笑みを浮かべる。

「……良かった。やっぱり来てくれた」
「な、に……してんだよ」

静かな怒りが腹の底から込み上げてきて声になった。けれど、音のない怒り。
ズカズカと彼女の元へ歩いて行き、右手を優しく掴む。それから左腕を見て僕は、病院の売店へ走った。

再び戻ってきた時には、もうカッターは机の上だった。代わり映えのない彼女の隣に座り、売店で買ってきた消毒液とコットンと包帯を出す。

彼女の左腕のバーコードに消毒液を染み込ませたコットンを、当てながら静かに怒りをぶつける。

「………何してたんだよ。なんで僕に何も言わないんだよ。そんなに頼りないかな」

彼女は、そのままの顔で答える。言葉と共に残っていた感情がこぼれ落ちていくような気がして、息苦しい。

包帯を巻きながら、どうにか息苦しさを無くす方法を考える。

「………どうでも良くなっちゃって。夏休み最後の日、お前と話してから全部どうでも良くなったの。苦しくて、どうしようもなくて……。誰にも愛されなくなる日が来るかもしれないって、思って」

「僕は、この傷ごと君を愛す自信があるよ」

必死だった。これじゃあまるで、告白どころかプロポーズだ。彼女の声を遮って言う言葉がこれって、どうなんだ。
感情の抜け落ちた彼女に、なんて言えばいいのだろう。

傷の手当なんてしたことがないので、包帯の端と端を縛る。彼女を見上げて、言葉を探す。
僕が言葉を探し終わるのより、ベッドの上の彼女が口を開く方が早かった。

「……旭日、ありがとう」

口の両端を上げて、笑っていた。

「……なんにも、してないよ」

僕は、丸椅子に座り直す。彼女とちゃんと向き合う。

「今度からは、頼るね」

悲しそうな、淋しそうな顔をしている。
クーラーが設置されているけれど、彼女は使おうとしない。自然の風が好きなんだそうだ。
今日も窓際の風鈴が鳴る。

「はい。手紙。もう来なくていいよ」

別に冷たい感じでもなく彼女は言う。
僕は差し出されたそれを無言で受け取って病室から出た。

夏休み前と同じように、テスト前1週間、テスト期間1週間と合計2週間。僕は、考え続けた。テストのことはもちろんだけど、テストが早く終わった空き時間に窓際のぽっかり空いた空席のことを。
そこで僕は、返さなければならないものを持ち病院に向かうことにした。

「………もう来なくていいって、言ったじゃん」

約2週間ぶりに再会した彼女は、少し痩せていた。元々華奢な腕や肩周りが更に細く、頼りなくなっていた。

「これ、渡しに。……帰れって言うなら帰るけど」

空色の手紙を彼女の机の上に置く。
彼女は僕の手紙を、黙って見つめる。
何も言わないので僕も黙って、丸椅子に座る。
左腕の包帯が痛々しい。

「………ありがとう。ごめんね」

案外、素直なのかもしれない。彼女と出会って4年。彼女が入院して、早4ヶ月。僕はやっと彼女を知ろうとしているのかもしれない。遅すぎるのかもしれないが、僕にとっての精一杯の早さだ。

人間は、大切な人が居なくなってからその大切さに気づくことが多いと言うが、僕もそうなのかもしれない。だって僕は、彼女が死ぬかもしれない事実を受け入れてから、その大切さを知ったのだから。
僕は、彼女が居なくなる前に気づけてよかったと思う。

次の日も、その次の日も僕はこれまでのように彼女の元に通い続け、文通も再開した。

『沢山心配かけてごめん。
旭日が怒った日、私は君の優しさを利用した。
お前なら、来るって確信してた。
来てくれて、ありがとうね。

さて、謝罪はこれくらいにして私のことを知ってもらおうかな。
私は、お前の声が好きだよ。』

6通目の彼女からの手紙は、謝罪から始まって告白紛いな文章で終わっていた。
なんだか次、彼女に会うのが気恥しかった。

「ごめん、もう来なくていい。……お前の優しさを利用しようとしてるわけじゃない。これは、私の判断」

僕は、追い出される形で病室を出た。気恥しさの欠片もなかった。感情のハッキリした顔だった。

「え、どういう_」

目の前でドアが閉まり、彼女に疑問が届くことはなかった。
9月最初の日。僕は彼女に病室を追い出された。

その後は、メールも電話も無視。電話なんてかけるの初めてで、深呼吸を5回もして通話ボタンを押したというのに。
彼女は一体、何を隠しているんだ。病状が悪化したとか、寿命が縮んだとか、そういうことなのだろうか。分からない。

「佐川、どうした?」
「……何が?」
「機嫌悪くね?」

彼女から追い出されて3日。僕は理由を考えるのを放棄した。

「別に。いつも通りだよ」

日に日に、目に見えて機嫌が悪くなっていく一方の僕を心配してくれたのだと思う。それは、頭では充分理解できていた。

「なんかあったんだろー?あ!文学少女と何かあったとか!?なんだよー。教えろよー」

茶化すような成宮が、今日だけは、この時だけは癪(しゃく)に触る。頭では理解できていたけれど、心にはその余裕がなくて、沸騰した。

「っるさいな!ほっとけよ!お前には関係ないだろ!いつもいつもヘラヘラして、なんなんだよ!」

僕は、ダメな奴だ。唯一の友達に八つ当たりをした。
そんな最低な僕を成宮は、責めずにいつも通りに笑ってみせる。

「…ほら、やっぱなんかあったんじゃん?てか、お前のそんな大声初めて聞いたわ。なんか、嬉しい」

成宮の優しさが、酷く痛い。
僕は、傷つけたのに。成宮は、傷ついたはずなのに。
どうして笑っているんだ。

「……なんで、なんで笑ってんだよ。怒れよ!傷つけられたんだから、怒れよ!」

ここまで感情を顕にしたのは、初めてだ。

「怒んねぇよ。傷ついてもねぇし……いや、怒ってはいるけど」
「じゃあ、怒れよ……」

息が切れていて、生きているんだなと思った。

「なんで全部1人で抱えんの?俺はそこまで信用のない人間だったの?………お前が文学少女さんを思ってるように、俺だってお前のこと大切なんだよ。友達なんだよ。そう思ってんのは俺だけなわけ?」

怒りながら、泣いていた。
僕はまた、大切な人を傷つけてしまっていたことに気づいた。

1時間目をサボって、僕と成宮は屋上近くの階段に座る。ここなら、生徒はもちろん先生も通らない。

「それで?どうした?」

明るく、優しい声で問いかけられる。

「……あいつに、もう来ないでって言われた」

そう話すと、頭を抱えてそのままの声で仰け反る。

「あちゃー。マジか。文学少女さんと居たくて部活まで辞めたのに、それは辛いわな」

同情でも親切でもなく、心から思ったことを言葉にしたのだろう。成宮はそういう奴だ。
人のことを、憶測や噂で避けたりしない。いつでも真正面からその人の言葉だけを聞きに行く。

「………さっきはごめん。あれは、完全に八つ当たり」
「ふは、ありゃ八つ当たり以外ないわな」

僕の、人の不安を明るい笑顔と優しい声で吹き飛ばす。僕は成宮に、何度救われたか分からない。本当に、出会った頃から感謝しかない。

「成宮に……成宮に会えて本当に良かったよ」

表情筋の豊かな成宮は、目を大きく開いてそれから、ふは。と笑う。目元がクシャッとなる。

「どーいたしまして!前より素直になったよな」
「あぁ、それこの前あいつにも言われたよ。……変わったんだと思う。あいつと、成宮のおかげ」

「お、成長したんだな。……それはそうとなんで文学少女さんのこと名前で呼ばねえの?照れくさい?」

考える前に口を開く。ちゃんと考えたこともなかったけれど、多分もうずっと前から、それの答えは出ていたんだと思う。

「……謙遜してるんだと思う。彼女の隣にいるのが僕でいいのか不安なんだ、どうしようもなく。僕は何度も彼女を傷つけた。そんな僕がって、思う」

「誰も傷つけないで生きるなんて、できないと思う。随分な綺麗事だけど、さ。……傷つける痛みを佐川はちゃんと知ってる。だから後悔してるんだろ。文学少女さんがどうして、もう来ないでって言ったのかは分かんないけど、分かんないなら聞きに行けばいい」

1回、床を見つめてから僕を見る。

「佐川旭日は1人じゃねぇぞ」

成宮に、名字でなく名前で呼ばれたのはこれが初めてだった。成宮は明るく笑っていた。

それから1時間目の終わりが告げられるのは、意外と早かった。

「ねぇ、あの子、病気で入院してるって本当?」

水曜日。カウンターで本の整理をしていたら、図書室に入ってくるなり早柴が聞いてきた。早柴が挨拶をせず話しかけてくるのはこれで2回目だ。
誰かから聞いたのだろうか。早柴は、確か文芸部部長と仲が良いからそこからかもしれない。

「…うん、そうだよ」

知られてしまったのなら仕方ない。そもそもこれは僕のエゴだ。当の本人、彼女は隠そうとはしていなかった。

「お見舞いに行きたい」

その早柴の発言を、僕はチャンスだと思ってしまった。
彼女に、一応は連絡をしていつもなら彼女の元へは行かない水曜日。初めて病室に向かう。

「なぁに、彼女?」

不機嫌だ。それもとてつもなく。こちらを1ミリたりとも見ようとしない。

「ううん。私は佐川くんの彼女じゃないよ。てか、覚えてるかな、早柴だよ」

堂々と否定してから、早柴は物怖じせず彼女に話しかける。

「……なんで来たの。呼んでない、呼んでないよ。…早柴さんも、お前もっ」

声が高ぶっていた。こんなに感情を出した彼女はあまり見ない。どうしたらいいか分からない。
僕より1歩先に出た早柴が、真っ直ぐ彼女を見つめる。

「来たいからだよ。会いたいからだよ。大切だからだよ。来ないでほしいなら、その理由を教えてくれなきゃ、いつまででも来るよ」

「そんなこと、早柴さんに言われたくない。早柴さんには関係ないでしょ、私のことなんて、私がどうなったって、死んだって_」

「例えっ……例え、早柴に関係なかったとしても、僕には関係あるんじゃないの…」

彼女の声を遮ったのは、焦ったような僕の声だった。いや、実際僕は焦っていた。僕は卑怯だ。彼女には、人を傷つける痛みを知ってほしくなかった。傷つけられる痛みを散々与え続けてきたくせに。

「……明日、早柴さんと旭日と、それから成宮くんと来て。理由、ちゃんと教えるから。早柴さんも、旭日も今日は帰って」

結局、彼女はこちらを見なかった。
僕も早柴も帰り道は終始無言で帰った。


「早柴さん昨日は、ごめん。それから、旭日も、ごめんね。……最近、特に情緒不安定で昨日は強く当たりすぎた」

言われた通り病室に行くと、こちらに体を向けて待っていた彼女が深々と頭を下げた。
早柴は、あっけらかんとしていて彼女の謝罪を笑って許した。

「いいよ、気にしてないもん!そんなしおらしい文学少女さん初めて見たな!」
「え、何?昨日何があったの?」

「あ、これ、手紙の返事」
「…ありがとう」

早柴と成宮。僕と彼女でそれぞれ話す。会話が渋滞している。
違う、今日は理由を聞きに来たんだ。

「……理由、話すよ」

彼女のベッドを丸椅子で囲むようにして座る僕ら3人を、彼女はしっかり目で捉える。

「さよならを言いたくないから」

一言だった。それだけだった。3人とも続きを待ったけれど、なかった。

「言う必要ないよ、君は、居なくならない。……病気だって治る。そしたらまた一緒に旅行しよう」

僕の感情が、目から零れ落ちていく。どうしようもなかった。彼女が死を受け入れているように感じて。生きることを諦めている気がして。
何より、彼女の口からさよならなんて、聞きたくない。

「……さよならなんて、聞きたくない」

思っている言葉が音になって零れる。随分と子供じみていただろう。根拠も確信もないことを、医者でもない僕が保証するようなことを言っているのだから。


「……文学少女さんって、治るんだよな?」

帰り道、聞こうか迷ってたんだけどと付け足して成宮がボソッと言う。押しボタン式の信号機のボタンを押さずに僕は、後ろの2人を振り返る。

2人とも真剣な目をして、僕の言葉を待っていた。

「治らない可能性の方が、高い」

息を飲んだのが、わかった。同情とか哀れんでいる目をしていないのが、僕の知っている2人らしい。2人がそういう目をしないのは、2人なりに彼女のことを知っているからだろう。

「そっか、じゃあ文学少女さんがさよならなんて、言う暇もないくらい毎日通って話して笑おうぜ」
「うん。そうしよう。さよならなんて、言わせない」

成宮の木漏れ日みたいな優しい明るさと、早柴の白線みたいな真っ直ぐな言葉に僕は救われた。この2人は僕が思いつかないことを、あたかも当然のように言い放つ。
僕はやっと押しボタン式の信号機のボタンを押して、2人に頷く。

「うん。そうだね」

その日から毎日、僕等3人は彼女と時間を過ごした。学校に行って病院に寄って家に帰る。これが、習慣になった。

「はい、これ」

彼女との文通は、僕にとってラクダが砂漠で水を飲むことのように当たり前になっていた。彼女との文通用に買った箱がもうすぐいっぱいになる。手紙が日に日に増えていく。それを見る度に、彼女が生きていることを実感して、安心する。
僕はまだ、心の何処かで彼女の死を恐れている。

「ん。ありがとう!てかさぁ、もう秋になっちゃったよねぇ」

窓から外の様子を見て、呟く。9月初旬は、残暑のせいで暑苦しかったけれど、中旬になると今度は少し肌寒い日が続いていた。僕も成宮も早柴も半袖の上にカーディガンを羽織っている。
窓際に吊るされていた風鈴は取り外されていて、夏が終わったことを知らせる。

後少しで、衣替えの季節だ。嫌でも寒い季節が来てしまう。寒いのは苦手だけれど、冬は嫌いではない。四季の中で唯一、存在証明のできる季節だから。輪郭をより鮮明にしてくれるような気がしていて、寒いのに外に出たくなる。

「秋といえば、読書だよねぇ」

彼女は、いつまでも何処ででも文学少女だ。今日も枕元には文庫本が置いてある。

「いや、焼き芋だろ、焼き芋!落ち葉集めて寒い中ほくほくの焼き芋食べんの最高じゃね?」

体を貫くような寒い風の中、落ち葉を囲み焼き芋も食べている4人の姿が浮かぶ。

「スポーツでしょ!体あったまってく感覚、気持ちいよ!」

臨時で陸上部に駆り出されている早柴は、走ることが好きみたいだ。

「皆、色々だねぇ。…旭日は?秋といえば何?」

皆の意見に空想を膨らませていたら、困った質問が飛んできた。皆の視線が僕に集まる。3人しておやつを待っている犬みたいな目だ。

「……紅葉」

暫く病室に沈黙をもたらしておいて、口から出たのはそれだった。僕は基本的に季節関係なく生きてきたので、どの季節をとるにしても特に何もしていない。

「いいねぇ、紅葉狩り!1歩進む度にサクサク言うの、耳に心地いいよねぇ」
「ピクニックみたいにレジャーシート敷いてお弁当食べたいな!」
「お、どんぐり拾いとかもしたいな!」

皆は、僕の沈黙を許してくれた。それどころか、僕の沈黙を楽しいものに変えてくれた。
10月頃を目処に予定を立て始める。彼女は病院側に交渉して一緒に行くと約束をする。お弁当が早柴担当で、それを持つのが成宮。僕はカメラ担当。
早柴の言う通り、自分が思った時が幸福や青春になるのなら僕の人生の中で、これまでで1番の青春だ。

「……ダメだって、言われた」

9月18日。ムスッとした彼女が小さな声で告げる。
僕も成宮達も、彼女の病気が深刻だということを知っていたから、その判断を受け入れるしかない。

「それならビデオ通話にしとくとかさ、一緒に楽しむ方法はあるよ!」

早柴がそう提案をする。彼女はまだムスッとした顔だったけれど、小さく頷く。一応、了承したみたいだ。

「……そんなに、悪くなってきてるの?」

重い空気にはしたくなかったけれど、答えを聞かないと今日は帰れない。
真剣な顔で彼女は首を縦に振る。そうして歪んだ表情になり、言う。

「……………い、嫌だなぁ。結構悪くなってるんだよ。知ってた…?………わ…たし、私まだ生きていたいよ、皆と過ごしたい、好きなことして、好きな人達に囲まれて……そうやって、生きていたいっ」

笑っていたけれど、泣いていた。しゃくりを上げて、泣きじゃくっていた。顎の先で涙が渋滞する。

「かなしい、悲しいよっ……皆といられなくなるのかなぁっ?」

彼女自身もなのだろうけれど、僕も驚く。彼女が悲しいという感情を自覚したことに驚いて、それと同時に嬉しく感じる。次に、恐怖を僕が襲う。彼女が確実に、着実に死というそれに包まれていっているということ。わかっているつもりに、なっていただけなのかもしれない。表面だけわかったフリをしただけ、していただけで。もっと奥深くの方ではまだ何も理解ができていないのかもしれない。だからこんなにも底知れない恐怖が僕を襲うのだろう。そしてその恐怖はきっと僕を襲い、僕ごと呑み込んでしまえる大きさにある。
足元がグラグラする。言葉が死ぬ。息を、吸えない。

「そんなことない。確かにずっと一緒なんて無理だけど、『今』一緒に居られてんじゃん。それだけじゃ、ダメなのか?」

喉を塞き止めていた音にならない言葉の塊が、溜息になって出る。成宮のおかげだ。成宮だって恐怖に包まれそうな目をしているのに。声だって震えているのに。僕よりも脳みそが素直なのだろうか。何にしろ、僕では言えなかった言葉を成宮が言ってくれた。

彼女は、まだ顎の先に涙が溜まっているけれど渋滞はしていなかった。先程まで涙で潤んでいた瞳は細まり、口元は緩んでいる。

「……そうだね、今を大事にしないとだね。ありがとう」

紅葉狩りは、彼女は病室からの参加だけれど楽しみだ。

10月初めの日曜日。僕と成宮と早柴は、近くの公園の林へ紅葉狩りに来た。早柴は約束通り弁当を作り、それを成宮が持つ。僕も任された通り彼女からカメラを借りた。医者からの許可が降りなかった彼女は病室にいる。

『皆ぁ、楽しい?』

それなのに彼女の声が聞こえているのは、早柴の持つスマホのおかげだ。早柴と彼女がビデオ通話している。それのおかげで、彼女は来れないものの病室から楽しんでいるみたいだ。にこやかに話しかけてくる。
今日の彼女のパジャマは薄いオレンジで、秋を感じる。彼女は彼女なりに秋を楽しもうとしているのだろう。

「おう!楽しいぞ!サクサク音してんのめっちゃ楽しい!」

足元にある落ち葉を手当り次第踏む。確かに足を地面に下ろす度、サクサクと音が鳴る。

「音聞こえる?風がサワサワいってるよ」

スマホを手に持ったまま、早柴がくるくると回る。彼女からはどんな景色に見えているだろう。視界がぐるぐる回って気持ち悪くならないといいけれど。彼女を見やるとスマホの中の彼女はとても楽しそうに笑っている。
ああ、良かった。

心配していた僕の髪を、サワサワと風が揺らしサクサクと言う軽くも重くも聞こえてしまう音が包む。これだけ天気が良いと眠くなってくる。良さそうな木陰を見つけ、僕は腰を降ろす。そのまま木にもたれかかると寝てしまいそうになる。何処かから聞こえる鳥の声を子守唄に僕は少し、目を瞑った。

「あ!佐川ぁ!」

なんなんだ。煩い。
サクサクではなくザクザクと粗めの音が近づいて来たと思ったら、成宮の声がした。それも結構な耳元で。おかげで耳がキーンと鳴っている。一応皆で決めた自由時間の最中なのだから寝てもいいだろ。僕は自由に過ごしていたいのに。

「……成宮、何?」
「お前良いとこで寝てんじゃん!俺も寝るわ!」

寝ようとしていた人の目を無理矢理こじ開けるようなことをしておいて、即答で答えてきた。呆れてなのか、成宮だなと思ったのか、その両方なのかは分からないけれど薄笑いを浮かべてみせる。
成宮はストンと僕の横に座る。同様に木にもたれかかり、目を瞑る。僕ももう一度、眠る体制に入る。優しい木漏れ日に包まれて眠くならないわけがない。

「……なぁ、話、していいか」

何だろう。随分と暗い声だ。だから僕も、それに答える。真剣な声で頷く。成宮は普段、何考えてるか分からないヘラヘラしてる奴だけれど、なんの前触れもなく時々、真剣な顔をするから怖い。

「うん。いいよ」

「俺……怖い」

耳に入ってくる友人の静かな告白を黙って聞く。

「文学少女さんみたいに、病気になるかもしれないのも、いつか大切な奴等と会えなくなるのも。…………あの時は、今一緒に居るんだからいい。みたいなこと言ったけど、皆実際はさ『今』じゃなくて『いつか』が好きなんだよな。今なんて一瞬なんだから」

悲しみや寂しさが喉に詰まったような切ない声で告げる彼を、僕は見やる。目を瞑ったままだ。視線を元に戻してから、落ち葉の上に寝転がる。屈託のない笑みのような青空が目の前に広がり、少し離れたところから女子2人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。早柴と病室の彼女は、何を話しているのだろうか。楽しんでいるのなら、それでいい。
僕は青空を見ながら、言葉が死んでしまう前に音にする。深くは考えていない。けれど決して軽くなどない、言葉達。

「いつかが好きで、いつかが怖いのが僕達なんだろうね」

たった一言。100文字どころか50文字にも満たない言葉。そんなもので今の彼を救えてしまうのならどんなにいいだろう。僕には救い方など分からない。だから彼が、僕の知らないところで勝手に救われてくれればいい。身勝手でとても無責任なのだろうけれど、彼を傷つけないのなら身勝手でも無責任でも何でもいい。
いつかに想いを馳せ、いつかに怯えてしまうのは仕方がないのだと思う。僕達は、いつだってそうだ。そうすることでしか生きていけないのならそうするしかないだろう。受け入れて生きていくしか、ないだろう。

「おーい!男子2人ぃ!時間を見たまえ、時間をぉ」

腕時計を見ると、12時。通りでお腹が鳴るわけだ。寝転がる僕と木にもたれて寝ている成宮は、その声で軽く立ち上がる。やはり、1番の楽しみはお弁当だ。

「ここら辺でいいか?」
「うん!いーよ!」

成宮と早柴がお昼の準備をしている横で、僕は彼女と話す。今日は早柴がスマホを持っているからか、あまり話せていない。彼女が1人で見ているだけでは退屈だろうとか、暇だろうとかそういうことを思ったのではない。単に僕が、彼女の声を聞いていたいのだ。

『ねぇ、お前さ暇なわけ?私、暇つぶしに使われてる?』

呆れ顔で言う彼女に僕は、頷く。いや、暇ではない。決して暇ではないけれど、暇だということにしておこうか。

「暇だよ。…いや、例え、暇じゃなくても君とは話すよ」

もしかしたら、これは一種の告白なのかもしれない。随分遠回しで、不器用だけれど。

『あははははっ、何それぇ。嬉しいこと言ってくれるねぇ』

僕は多分、耳が赤くなっているだろう。慣れないことを言ったせいなのか、告白紛いの言葉を言ったからなのか分からないけれど。それでも平然としていられたのは目の前で笑う彼女の方が、画面越しでも分かるくらい顔を赤くしていたからだ。

「………あ___」
「おーい!佐川くーん!!」

言い訳でもしようかと口を開いたけれど、元気な早柴の声に遮られた。スマホを持ったまま振り返ると2人共座って待っていた。どうやら準備が出来たらしい。2人の元に駆け寄りながら、片付けは手伝おうと決める。スマホを早柴に渡し、成宮の隣に座る。目の前には、秋らしいご飯が並んでいた。栗ご飯にさつまいも揚げ、卵焼きにも小さく刻んださつまいもがゴロゴロ入っている。そして、その横に並べてある小さなタッパーには栗きんとんが収まっている。早柴は、器用なんだと思う。

「じゃ、いただきます!」

隣を見やる。成宮は早速手を合わせてから栗ご飯に箸を伸ばしている。子供みたいな表情で、先程の面影はない。
僕も、いただきますと手を合わせる。それから栗ご飯に箸を伸ばす。栗ご飯を口に入れると甘くて少し塩っぱい味が口いっぱいに広がった。美味しかった。それも、物凄く。続いてさつまいも揚げをお皿にとる。サクッといい音を立てて一欠片が口に入る。ホクホクとして、さつまいもの甘みが鼻を抜けていく。これも、申し分ないくらいの美味しさだ。次にお弁当の定番と言ってもいい卵焼き。これは1口で食べた。小さく刻まれたさつまいもが意外にも卵と合っていて新しい発見だ。

「早柴ぁ!これ!てか、全部!めっちゃ美味い!」

僕が食べている間にも、成宮は早柴のお弁当をすごく美味そうに食べて、褒めている。僕も何か言った方がいいかと思い、早柴を見ると、直後目が合う。感想を言おうと口を開こうとしたら、早柴の方が早かった。何も言っていないのに照れたように笑う。

「佐川くんは、何も言わなくても美味しいって思ってくれてるんだなって分かるからいいよ」

柔らかい言い方だった。黙々と食べる僕を批判しているような刺々しさは一切なかった。自然と、僕も綻んでいく。ありがとう。美味しいよと感想を告げ、僕は食べ始める。
結構な量があったのに、直ぐに無くなった。それくらい美味しかった。
片付けをしている最中、思い出した。カメラ担当だった。予定ではもう帰ることになっている。思い出は、多い方がいい。完全に忘れていた。

「あのさ、写真撮らない?ほら、今日まだ、撮ってないでしょ」

自然な風に言ったけれど、もう一度言う。忘れていた。そんなことを知らない成宮達は、笑顔で僕を囲む。僕は、人差し指でカメラのジッジッと鳴るそれを止まるまで回す。それから彼女もちゃんと写るように気をつけながらシャッターを押す。

ちゃんと撮れているかは現像した時のお楽しみだ。


次の日、成宮と早柴は部活で遅れてくるというので久しぶりに彼女と2人きりになった。今日も彼女はやっぱり本を読んでいて、僕を見て頬が緩むのが可愛かった。

「やぁ。今日は1人なの?」

そう問いかけられて、部活だってさと返す。彼女は、ふーんと少し残念そうな表情をする。前までの彼女なら、どうでもいいような返事をしていただろう。

「今日さ」
「あのさ」

声が被った。僕と彼女は目を合わせ、会話をする。

「あ、旭日いいよ」
「あ、ありがとう…」

彼女の言葉に甘えつつ、僕は沈黙を作る。緊張しているのだ。手が震えて、汗が出てくるけれど、落ち着いてはいた。短く息を吸って、長く吐き出す。それから、しっかり顔を上げて彼女と目を合わせる。

「………今日さ、実は話があって来たんだ。早柴と成宮が部活なのは嘘じゃないんだけど、2人きりにして欲しいとはお願いして……だから、えっと」

なんなんだ、自分にイラついてくる。モタモタして、僕らしくない。手を声も震える。たった一言なのに、こんなに言えないのか。

「話を、しに来た。僕は、君とできればずっと………一生一緒にいたいと思ってるよっ」

しまった。声が上擦った。かっこよく言いたいのに。どうにも上手くいかない。自分じゃないみたいだ。汗が止まらなくて、鼓動も早くなる。言葉が消えないことはわかっているのに、何故か焦っているみたいに息が苦しい。早口になる。一つ一つの音をしっかり伝えたいのに。

「…っ、僕は」

彼女が僕に抱きついてきた。一瞬、赤くなったけれど、違う。彼女のこれはそういうんじゃない。止めたんだ。遮った。僕の告白を。まだちゃんと想いを伝えていないのに、振られたんだと思った。

「…ダメだよ。それは言っちゃダメ」

呼吸音が耳元でする。落ち着いていて静かだ。けれど明らかに悲しみを含んだ声が今にも泣き出しそうで、僕は言う。何だか、必死になっていた。言われたくなかった。嫌だった。彼女も、僕を好きだと思っていた。それなのに、どうして。
少し強い力で抱きしめてくる彼女のことを、抱きしめることはできずに腕を下ろす。糸の切れた操り人形みたいだ。

「何が、ダメなんだよ。君は長くないから?……そんなの、皆同じだろ。皆、いつ死ぬかなんて分かんないだろ」

「ダメなんだよ。………私たちは、恋人って言葉で簡単に表せるような、そんな関係になっちゃいけない。例え恋人になったとしても……私たちもう大人なんだよ。大人だからさ、好きなだけじゃ一緒に居られないの」

僕達はまだ違う。大人じゃない、いや大人でもないし子供でもない。好きなだけじゃ一緒に居られなくなるのなら僕は子供のままでいたいし、それができないのなら彼女を愛す。愛す自信がある。

「僕はっ……」
「もういいよ、言わないで……っ。……私は、お前とくだらない話をしていたいんだよ。何でもないことで、馬鹿みたいに笑い合っていたい。……我儘でごめん、」

終わらせたくなかった。最後まで言わせてほしかった。

「………ごめん、この話はやめにしよう」

僕より苦しそうな切なそうな声の彼女に、僕は人生で初めて好きになった人に、振られた。


夢を見た。彼女の病気が治って、僕と成宮と早柴と彼女の4人で海に行く夢。僕と彼女は恋人同士になって、沢山写真を撮って旅行にも、沢山色々な所へ行って。

夢は、幻想だ。幸せな夢ほど、現実には起きない。




6

初めて好きになった人を、振った。
いつから好きになったのかは分からない。けれど、そんなことどうでも良くなるくらい私は、彼のことが好きだ。ずっと一緒に笑っていたいと思った。
大好きでずっと一緒に居たいと思っていたのに、それはできないことを高校1年生の春に知った。神様は、理不尽だ。私が彼を好きになる前に、出会う前にしてくれれば、好きになんて、ならなかったのに。
振った方が泣くなんて可笑しな話なのかもしれないけれど。最低なのかもしれないけれど。彼が帰った後、私は泣いた。一人部屋なのが幸いだ。振るつもりなんてなかった。振りたくなかった。けれどそれしかなかった。大人でもないくせに、子供ではないふりをして彼を傷つけた。酷く、傷ついて絶望をしていた。あんな顔を、させたくなんかなかったのに。

どうすれば、良かったのだろう。ああする以外に、手段があったのだろうか。私には分からない。あの時、彼の言葉を止めなければ私は、頷いてしまっていた。それじゃ、ダメだと思ったから。絶対にダメだと確信したから私は、止めたんだ。私なんかじゃダメだと思ったからなんだと思う。

彼と会う前、5年前の私は学校で虐められていた。悲しいという感情がわからなくて、それを気持ち悪いと言われたのが発端だったと思う。

「__気持ち悪いんだよね、なんで無表情なの。なんでいつも笑ってんの」
分からないよ。こっちが知りたい。何が悲しくて泣くの。悲しいってどういう感情なの。

「私、あの子と小学校から一緒なんだけどさ、クラスで飼ってたうさぎが死んでも、泣きもせずにただ見てたんだよね」

悲しかったよ。だけど、涙なんて出ない。理解が追いつかないだけなんだよ。

「え、何それ。普通じゃない、変な子だね」
普通じゃないのかな、変なのかな。分からない、分からないよ。

虐めは身体的にではなく、精神的に行われた。その時初めて気づいた。身体的な虐めより、精神的な虐めの方が酷く、辛い。証拠がないから、大人に助けを求めてみても、助けてくれない。心は血が出ない。言葉で傷つけられても体に傷はできない。

『言葉って、刃物なんだと思う。傷つけられても傷つけても心から血が出ないから分からないだけ。って、そんなの酷だよな』

4年前、転校した先の授業で彼が皆になのか、自分自身になのか分からないけれど言い放った。私は彼のその言葉に、勝手に胸を打たれて勝手に救われた。人と関わるのが怖くて転校してから誰とも会話をしなかったけれど、その日初めて彼に話しかけた。
それからは、ウザがられても一緒にいることを選んだ。彼なら私を救ってくれると思った。勝手な話だけれど。けれど彼はいつも、無自覚に私を救ってくれた。手を差し伸べてくれた。私は、彼の不器用で遠回しな優しさを好きになったんだ。


「……早柴さん、成宮くん、話したいことがあるんだ」

何となくは、空気から察してはいるのだろうけど何も聞いてこない2人に安心しながら私は意を決する。彼に告白された次の日。彼は案の定病室には来なくて、早柴さんと成宮くんだけだ。私は、これから告白をする。酸素を吸う喉が震えて、指先も冷たい。彼も、こんな状態だったのだろうか。

「昨日、旭日に告白をされた。………好きだとは言われてないけど、というか止めたんだけど」

私の、酷く身勝手な告白を2人は黙って聞いてくれる。言葉が詰まってしまってどうにも出てこない。けれど、言葉が死んでしまう前に音にする。私が死んだら、これを伝える人が居なくなってしまうから。

「………嬉しかったの、すごく。私も、旭日が好きだから」

初めて口に出した音は、悲しかった。後悔の音だった。昨日、彼の告白を止めたことを心から後悔していることを自覚する。いや、そんなのは今更だ。わかっていたんだ。後悔していることくらい。後悔することくらい。それでも私は、そういう選択をした。

「………なんで、止めたんだ?」

静かな声で成宮くんが尋ねてくる。分からない。止めたのはどうしてなのか分からないけれど、直感的に止めなきゃと思っただけだ。成宮くんの質問で、私はちゃんと理由を考えてみる。数分間、私達の間に沈黙ができる。考えて、考えて私は顔を上げる。

「私は、きっと生きられない。高校生のままなんだと思う。余命だってはっきりと言われてないけど、自分のことだから、何となく分かる。……だから、旭日には私じゃなくていつか好きになる別の誰かのために『好き』を取っておいてほしい」

また、俯く。膝の上で丸くした掌をぎゅっとする。本当は嫌だ、そんなこと。だけど、残り少ない人生の私を恋人にしてしまったら私が死んだ時彼はきっと、壊れてしまう。もう立ち直れないくらいに、後を追ってしまいそうなくらいに。そういう想像が、恐ろしいくらい簡単にできてしまって、本当に好きでいてくれたんだなと思う。

「けどさ、あいつが好きなのは文学少女さんなんだよ。いつかの話は確かに大切だけど、俺達はいつかの話じゃなくて、それよりも大切な今の話をしてるんだよ」

そこで、顔を上げる。真剣な目をした成宮くんと早柴さんと目が合う。思わず息を呑む。

「確かに、恋人が死んだらあいつは壊れるんだと思うよ。俺とも話してくれなくなるかもしれないし、学校も辞めるかもしれない。……けど俺は、いつかくる別れよりも今が大事だし、例えあいつがいつか壊れるとしても俺は、今のあいつが幸せならそれでもいいと思ってる」

そう告げて、成宮くんが立ち上がる。私は、それを見上げる。成宮くんは早柴さんに声をかけて、ドアの方へと歩いて行く。呆然とする私を振り返った成宮くんは、いつも通り笑っていた。心が軽くなるような、眩しすぎるくらい明るい笑顔。

「__それに、もし壊れてもあいつは立ち直るよ。なんたって、弱くて強い母親がいるからな。……だから、大丈夫だ」

じゃあなと言って、病室から出ていく。私は、何か言わなきゃと思いながらも、言葉が出てこなかった。ただただ閉まったドアを見ていた。


次の日も次の日も、彼は来ない。それでも私は、待った。もしかしたらもう来ないかもしれないなんて考えてしまう。けれどそれはあながち間違いではないと思う。彼は変わったとは言っても元々があの性格だ。少し曲がっていて素直じゃなくて臆病で。誰かを傷つけたことを後から後悔している。孤独という箱を開(ひら)いてみたらそこに彼がいるような、そんな孤独な人だ。その箱から引っ張り出したくて私は、彼といたのに。孤独に殺されてしまわないようにしていたのに。手を絶対に離さないと決めていたのに。私が彼を救いたいと思っていたのに。それなのに、彼を孤独に突き落としたのは、私だ。

彼が病室に来なくなってしまったから、手紙を送ることにする。もう私の名前すらも見たくないかもしれないけれど。こんなお別れは嫌だった。なんて言っているけれど、こうなったのは私の弱さが原因だ。
別に、手紙でなくともメールでいいのかもしれないと思い当たったのは、手紙をポストに投函してから2日目
のお昼だった。そういえば私は、入院してから数えられる程しか彼とメールのやり取りをしていない。ほとんど文通だったし、それがなくても彼が会いに来てくれていた。そこで私は、彼の大切さを身に染みる。あぁ、そうか。こんなにも大事にされていたんだ。

思えば彼は、不器用ながらも必死に好意を伝えてくれていた。遠回しでも充分過ぎるほどの優しさを与えてくれていた。彼は、どんな気持ちでずっと私と居てくれたんだろうか。

『………はい』

震える指で押し間違えないように、彼の名前をタップする。
3コール目。少しの沈黙の後、久しぶりの彼の声が脳に響く。相変わらずに優しくて暖かい声。だけど、それに怯えているような声も混じっていた。やっぱり傷つけてしまったんだと自覚をし、後悔をしながらも電話越しに彼と向き合う。伝えなければいけない。

「正真正銘、言い訳をするから聞いてほしい。………逃げたんだ、私。臆病でごめん。お前に嫌われることよりも、傷つくことよりも、何よりもお前を失いたくなかった。居なくなることの方が怖かった。ごめん」

紛れもなく、本心だ。言い訳もできないほどの完璧な言い訳。随分子供じみていただろうけど、彼が聞いてくれるならそれで良かった。少しでも、許してくれるなら良かった。他者からしたら、薄っぺらいだの、上っ面だの言われてしまうような言葉だとしてもそれで彼に伝わるのならいいと思った。変に遠回しに比喩を使ってみたところでそれで彼に伝わらないのなら、意味が無い。真正面からの言葉の方が、きっと誰にだって1ミリの壁もなく伝わる。
ひたすらに言い訳を伝える私を待つように、彼が笑った気がした。馬鹿にした訳では無い、柔らかい笑い。何か、愛おしいものでも見つめている時のように酷く優しい。

『ありがとう。君からの手紙、届いたよ。こっちこそごめんね、きっと焦っていたんだと思う。勢いで言ってしまってごめん』

そんな。違う、彼が謝ることじゃない。告白のタイミングなんていつだって不定期で不安定なんだ。焦るのだってきっと当然のことで、だから彼は謝らなくていいのに。
私が、息を吸うタイミングで、彼が声を発する。

『……あのね僕が、君を大切に思ってるってことだけはどうか、覚えていて』

彼をいたわるようなそんな言葉自体が薄っぺらなものに思えてしまう程、彼の言葉が誠実で純粋で。私はもう、何も言えなかった。

「……旭日はさ、楽しい?」

沈黙を埋めるみたいに、不意に彼に問う。何が?と聞き返されると思っていたのに、彼は少しの沈黙もなく答える。

『うん。楽しいよ。君はどう?』

彼が沈黙を作らなかったのに対して、私は相変わらず言葉に詰まる。この入院生活が楽しいかと聞かれれば少し退屈ではあるけれど、楽しいはずなのに。どうしてか考え込んでしまう。そんな私を急かさずに電話越しで待っていてくれる彼に、なんだか申し訳なさを覚えながらも、1つ1つ丁寧に音を紡いでいく。私は、彼と話すこの時間が好きで、とてつもなく愛おしく感じる。だからこそ、終わってしまう恐怖が常に付き纏う。

「楽しいよ。2人だけの時も楽しかったけど最近は、特に。……早柴さんと成宮くんが一緒にいてくれているからかなぁ。楽しくて楽しくて、仕方ないよ」

最後の方は、何故か泣きそうになっていた。最近、悲しいやら寂しいやら、よく分からない感情のせいで涙腺が緩むことが多い。なんだか随分弱っているようで嫌に感じる時もあるけれど、ようやく私も人間らしくなったんだなと嬉しくも思う。

『そっか、良かった』

彼からの返答は、それだけだった。私もそれ以上は喋らなかった。2人の間に長く沈黙が流れたけれど、彼から電話が切られることは無かった。私も切ろうとは思わなかった。不思議な程長い沈黙が続いて、彼の方から物音がし始めた。何かやっていたんだと思い、慌てた。

「あ、ごめん。何かやってた?切ろうか?」
『いや、君が嫌でなければ切らなくていいよ。僕は君との沈黙は居心地が良いから繋げていたいし』

少し照れたような声で、そう言うから私まで顔が赤くなる。電話越しの彼に見えていないのが幸いだ。照れていることを悟られないように返す。

「じゃあ、私は暇だし繋げておこうかなぁ」
『ありがとう。嬉しいよ』

あまりにも素直に言うから、驚く。何だろう、なんて言うか素直になりすぎだ。ついこの間までは素直じゃなさすぎて困るほどだったくせに。とにかく、調子が狂う。
何をしようかと考えていたら、病室のドアがノックされた。午後4時半だから、早柴さんか成宮くんが来たのかもしれない。待たせてしまうのは悪いからすぐに返事をする。

「今日、私だけなんだ。…あ、ごめん、電話中?」

ドアを静かに開けてから私の手元を見る。私が何か言うよりも先に電話越しの彼が返事をした。その声に早柴さんは驚いてから、すぐに目を細めて笑ってくれた。優しい優しい笑顔で。言葉にしなくても、良かったねという声が聞こえてくるような感覚だった。

「良かった。佐川くんもいるんだね。それじゃあ、2人に聞いてほしいことがあるんだ……いいかな」

彼女の声が硬く真剣なことに気がついて私も少しだけ姿勢を正す。電話越しの彼が頷く。それから私もゆっくりと頷く。真っ直ぐに向き合ってくれる彼女と、私も向き合う。
触れたら壊れてしまいそうなものを手に取るみたいに、彼女は語り出す。

「……2人は、LGBTのことは知ってるよね。私は、パンセクシャルなの。……パンセクシャルのことは、知ってるかな?」

上目遣いでこちらの様子をうかがう。私は、素直に首を振ってみせる。彼も、同じく。私達の反応をしっかりと見てから彼女は、小さく頷く。

「……パンセクシャルは、全ての性を持つ人を好きになる_全性愛ともいうんだけどそういう人のことを指してる。私がそうなんだ。…それで今、性自認が中性だって言う人と付き合ってる。私はさ、これが普通だと思ってるよ。周りからは散々に言われるし、親からだって別れろって言われる。気持ち悪いも変人も、当たり前のように吐かれる。だけど好きになるのに性別なんていらないよ。……性別って、男と女だけじゃないでしょ。中性も不定性も両性も無性も、他にも沢山の性別がある。こういう性だから好きになったんじゃなくて、その人だから好きになったんだよね……って、私、何話してるんだろうね」

真剣な目をしたままどこかを見て一生懸命に話していた彼女が、ふと我に返ったように顔を上げる。困ったような顔をしていた。自分が何故言い出したのか分からないとでも言うように。
私も、どうして早柴さんが私たちに話してくれたのか分からない。けれど、嬉しかった。私は1度早柴さんを拒絶したのに、ちゃんと目を見て踏み込んで来てくれた。だからこそ、今もこうして話せているんだろう。

「そうなんだね。早柴さん、話してくれてありがとう」

それ以上は言えなかった。言ってはダメだと思ったから、言わなかった。
早柴さんは小さく微笑む。それから頷いて私のスマホに話し出す。

「あのね、佐川くんよく聞いて。大切な人の手は絶対離しちゃダメ。大切な人への言葉はたとえその人が傷つくことがわかっていても、それでも伝えなきゃ、一生後悔する傷になる。言葉は面倒臭いけど音にしないと伝わらないから、だから伝えていかなきゃいけないんだよ」

彼女が何故、彼に突然そう言ったのかは私には分からない。きっと私の知らないところで何かが、あったんだろう。彼女が彼に向かって言った言葉たちは方向転換して私の心を突き破った。ああ、そうだな。本当に、その通りだ。

『……うん。そうだね。その通りだ』

自分に言い聞かせるように彼が頷く。何だか、泣きそうな声をしていた。私も何故だか泣きそうだった。悲しくなんかないのに。私はまだ、涙の種類を知らない。空が迎えに来るまでに、知ることができるだろうか。
彼女は、それじゃあねと手を振って病室から出て行った。再び2人の空間になったけれど、そこからはお互いずっと無言で過ごした。やはり彼との沈黙は、居心地が良かった。

この時間が永遠に思えた。永遠であってほしいと願った。けれど、時間に永遠なんてものは存在しない。だから終わりは儚く、好まれることがあるんだ。桜が散るのが美しいとされるように。春ではなく夏が好きな人がいるように。寒い季節を超え、暖かい春が訪れるように。
始まりは終わりの始まりだと言われるように。


7

彼と電話で話した次の日。久しぶりに私の病室に3人が揃った。前までは彼以外興味もなかったしどうでもよかったけれど、早柴さんも成宮くんも関わってみたら凄く楽しくて面白くて、今はもう興味しかない。だから早柴さんがあの時、話してくれてすごく嬉しかった。友達も恋人もクラスメイトも所詮は他人になってしまうから、上辺だけの関係になってしまうこともあるだろうけど私は、この3人と上辺だけの関係は絶対に嫌だ。そう思う。

「でね、昨日さ担任が__」

時々、考えてしまう。この時間はいつまでだろう。私は、ちゃんとした余命宣告はされていない。だからこそ、時間の使い方が分からないでいる。時間が無いことくらいは分かっているけれど、そうではなくて。このままでいいのだろうか。普通の人みたいに笑って、生きていて。普通じゃないのに、普通の高校生みたいな顔をしていていいのだろうか。

「どうした?」

声が出せなかった。いきなり声をかけられたからなのかは分からない。いつもなら少し大袈裟に驚いていたはずなのに。机に落とした目線すらも動かせなかった。完全に固まる。別にやましいことなんか何一つないのに。ただ、未来(あした)のことを考えていただけなのに。
そこで、気づいた。自分がどんどん弱くなっているのだということに。春から秋になるまで、季節が変わるよりも早いスピードで私は、弱くなっている。それにつれて、怖くなっている。言いたいことを言えなくなってきている。命が弱まると精神まで弱くなってしまうのか。酷すぎる。私が弱くなることで沢山の人に迷惑をかけて、この間みたいに大切な人を傷つけるんだ。

「……あ、いや。何でもない、ぼーっとしてた。あは、ごめんごめん」

3人とも、私がこう言って笑ったところで。ああ、ほら。やっぱりこういう顔をする。不服そうな不安そうな顔をしてから、悲しそうな寂しそうな顔して笑うんだ。とっても、優しい顔。私は、何度こういう顔をさせてきただろう。いつまで3人の優しさに甘えるのだろう。
いや、違った。1人だけ、違う。とっても優しい顔をしてからもう一度不服そうな顔をする奴が居た。私の、大切で大好きな人。

「君は本当、隠しごと下手だよね。表情筋鍛えたら?」

そうして、文句を言うんだ。不器用で遠回しな優しさで、私を丸ごと包み込む。それから無自覚に私を救う。私の悩みも醜さも弱さだって、全部当たり前みたいに受け止めようとする。

「そうだねぇ、鍛えることにしよっかなぁ」

彼はいつしか、壊れてしまいそうだから。私が死ぬとか死なないとか、そういう以前に。彼はきっと、自分が無理をしていることに気づいていない。だから私はあえて軽く笑ってみせる。余計な心配はかけたくない。それから、軽い小さな嘘を吐く。誰も傷つかない程度の嘘。それくらい、神様だって許してくれる。

「ごめん、今から検査なんだぁ。忘れてたや」

彼はまだ不服そうな顔だったけれど、私が今日は帰ってと2回言ったら、病室から出て行った。何だか、少しだけ胸が痛んだ気がした。そんなもの無かったことにして、私は主治医の元へ向かう。1歩1歩が速くなるに連れて、鼓動も伴っていく。息が切れるほどではないけれど、部屋の前に着いた時には大分疲れていた。入院生活で、運動をする機会が極端に減ったからだろうか。ノックを2回して返答を待って、ドアをスライドさせる。相変わらず、疲れた顔をしている主治医の顔を真正面から見捉える。
これまで、何となく避けて、親から聞いていた情報を今から、自分の耳で口で聞こうとしている。そう思っただけで喉が震える。怖い。

「先生、私は後どれくらいなんですか。もう手遅れなことは分かっているんだから、どれくらいなのかも大体は分かりますよね。教えてください。……私もう、逃げたくないんです。自分からも、時間からも」

先生は、少し驚いた顔をした。そうして、苦しそうな顔をして深く深呼吸をする。つられて私も、息を吸う。いつもより長く吸った酸素を肺に入れて少しの不安を吐き出す。

「……今まで、濁してきて不安でしたよね。すみません。病気が発覚した時より随分強くなっていて驚きました。あの子たちの、おかげなんでしょうね。あなたは、良いご友人に巡り会えましたね」

この人が、こんなに話すのを初めて見た。出会った時から無口で、必要最低限のことしか話さないのだと思っていた。誤解だったみたいだ。表情は硬いけれど、きっと私が思っているよりも気さくな人なのだろう。それから、冷たい人だとも思っていたけれど、優しくて暖かい人なのかもしれない。

「……こんな話を聞きたい訳では無いですよね。あなたの、余命についてお話します。ですがその前に、あなた1人では抱えきれないと思います。親御さんと聞くという手段もありますが、どうしたいですか」

私は、覚悟は出来ていた。だから、自信を持って目を見て、少しだけ笑って答える。本音を言うとすごく怖いし不安だし、先生の言うように私1人では押しつぶされてしまうのだろうけれど。私は、強がる。

「大丈夫です。1人で聞きます」

先生が口を開くのを待つ。緊張したように、1呼吸置く。それからゆっくりと優しい目で私と目を合わせる。膝の上で拳を握り直す仕草をする。1音1音を慎重に口から放っていく。私はそれを、聞きこぼさないように耳を傾ける。

「……あなたは、もって半年です。大体ですが、長くても半年であることは確実です」

予想は、できていた。自分の体のことは自分が分かっていると言われるように。体の調子が最近になって悪化してきたことは検査の結果を聞かなくとも自覚があった。予想ができていても自覚していても、やはり苦しい。重い。
先生の顔を見ていられなくて、下を向く。脳内がぐるぐると回る感覚。思考が停止する。そのくせ呼吸はいつも通りで、変な汗も出てこない。私も先生も無言で、思い空気になる。これでならない方が変か。

衝撃の事実を告げられたというのに、私は冷静だった。思考が停止していたことも相まって、しっかりと受け止めることが出来ていた。だから、お母さんみたいに取り乱すことも、お父さんみたいに無言になり30分話さなくなるということも、なかった。私はすぐに先生と向き合う。それから、自分とも。ずっと見て見ぬふりをしてきた、過去の臆病な自分。私はもう向き合わないといけない。私を苦しめる真実と。

「……そうですか。長くて、半年。……あは、私そんなに生きられないんですねぇ。仕方ないですよね、人間死ぬ為に生きてるようなものですし……じゃあ、戻ります。ありがとうございましたぁ」

正直に言うと、無理だった。やっぱり怖くて、向き合いきれなくて少し逸らしてしまった。早口で先生に告げて早足で病室に戻る。病室に入った瞬間足の力が抜けた。立とうとしても立てない。それに、泣いていた。この涙の種類はわかる。悲しいからだ。それと、怖いから。けれど、その涙の中にほんの少し安心も入っていた。残りの時間を知ることが出来たからだろうか。分からないけれど、安心していた。溢れだしてくる涙は止まることを知らなくて、止まり方が分からないようで、どんどん溢れてくる。ひっと、引きつったような声が喉からこぼれる。それがしゃっくりみたいに続く。酸素が足りなくて涙のせいで、脳がフワフワする。扉の外からは忙しなく働く看護師さんやお医者さんの足音や声。他にも楽しそうに歩く弾んだ患者さんたちの笑い声も聞こえてくるのに、たった一つの板を挟んだ私は悲しくて苦しくて辛くて。とにかく何も考えられなくて。パニックで。どうして私なんだろう。神様はどうして私を選んだのだろう。まだ、生きたい。生きていたいのに、どうして選択肢を奪われなければならないのだろう。私が何をしたって言うのだろうか。いじめられて、転校して、大切な人に、人たちに出会って楽しく過ごせていたのに。それだけなのに。高校2年生になったら皆で修学旅行に行って、体育祭も文化祭も思い切り楽しんで、3年生になったら写真沢山撮って色んな所に旅行して。そうやって生きていけると思っていたのに。私だって、1度は一般的な高校生になりたかった。好きな人とも恋人になって手を繋いで、ハグをしたりキスをしたり。デートにも行きたい。あわよくば大人になって、ずっと一緒に居たいのに。私は、皆が極普通に当たり前に過ごしていくこれからの日々を、過ごすことができないのか。

「生きたい、のになぁっ」

するりと零れ落ちていったそれは、私の感情と共に顎を伝って床に落ちてしまう。一人きりの病室を今回初めて憎んだ。誰にも拾って貰えない言葉も救えないこの感情も、床に落ちる他なかった。孤独が辛いことなんて、過去のことで充分過ぎるほど理解していたつもりなのに、あの孤独には耐えきることが出来たのに。今、このどうしようもない恐怖と共に襲う孤独が耐えられない。あの時よりは暴力的ではないのに、あの時よりも酷く孤独に傷つけられるのはどうしてなのだろう。と、そのままでぐるぐると働かない頭でどうにか考えていたら、思い当たることがあった。
人の温かさ、人の優しさ、人の恋しさ。それらを知ってしまったから。旭日や早柴さんや成宮くんに出会ったから。一緒に遊んだから。手を握ってもらえて、暖かくて優しい腕で抱きしめてもらえたから。酷い言葉を打ちつけたのに、隣にいてくれたから。私の居場所を、私を居場所としてくれたから。感情の種類を知らない私を全力で受け止めてくれたから。3人に出会って、私は、知ったんだ。生きていて良かったと、生きていたいという感情を知ることができた。あんなに辛いと死にたいと消えたいと言っていた、思っていた私が。今は、死にたくないと生きたい、生きていたいと思えるほどに。1度丸められた紙のように、1度傷つけられた心は決して元には戻らないけれど、その傷たちごと私を包み込んでくれる人たちに出会うことができた。これ以上幸せなことなんて、ない。3人には笑っていてほしい。私がいなくなる最期の最後まで。だから、3人には言わないことにする。たとえ私が居なくなってから真実を伝えられて、泣き崩れてしまうことになっても。私は、今3人が幸せで笑っていられるのならそれだけでいい。随分と自分勝手なことは分かっているし、確実に彼らを傷つけてしまうことも覚悟している。それでも私は、未来よりも今を考えたい。生きているのは、未来じゃなくて今だから。

「っ早柴が!……はや、しばが」

次の日、旭日と成宮くんが青い顔をして駆け込んできた。随分と慌てていて息も切れている。早柴さんがどうしたのだろう。大怪我でもしたんだろうか。駆け込んできた2人より、早柴さんへの心配が先だ。

「え、何、早柴さんが……どうしたの」

私の問いかけに、2人は暫く息を整えるためか答えなかった。膝に手をついて呼吸を整えたのか、バッと成宮くんが顔を上げる。その瞬間、彼の目から涙が溢れ出した。私は意味が分からなくて、どうすることも出来なくて、かける言葉も見つからなくて。ただただ固まる。結局、彼はそのままで私の目を見ているようで遠くを見据えて告げる。嫌に、静かな声で。

「早柴ちゃんが、死んだ」

もっと、他に言葉はあったんだろうけれど的確で確実な言葉だった。なんというか、そのまま。そうだと受け取る他ない、それ以外の選択肢がない言い方。はっきり、早柴さんが死んだことを告げられた。そう言われて、はいそうですか。で済ませる人なんかきっと居ない。私もその1人。済ませられるはずがない。だって、大切な人だ。大切な友達だ。ずっと幸せで笑っていて欲しいと願った子だ。その子が、いきなり余命宣告もなく死んだなんて。どう受け取ったら正解なのだろうか。いや、正解なんてないんだろうけれど。どう受けとっても、それはもう決まったことで変えられなくて、終わったことで。受け取る他ないんだろうけれど。
私は、実際長くなくて、昨日余命半年だと言われて、体力もなくなってきていて。だけどそんなことどうでもいい。私は、病室からとび出す。後ろから無言で2人も駆け出す。近くにいた看護師さんを問ただす。看護師さんは、丁寧に落ち着いた様子で、場所を教えてくれた。それを聞いて私はまた走る。本当は走ってはいけないことなんて当然のことのように知っているけれど。今は、そんなちっぽけなルールなんて守っている場合ではない。私の体力のことなんて考えている場合ではない。だんだんと呼吸が荒くなってくる。吸う酸素と、吸いたい酸素が合わなくなる。喉から、引きつったような音が漏れる。足も上手く動かせなくて、何度もよろつき、転びそうにもなる。けれど、あと数歩で早柴さんのいる部屋だ。息も切れ、過呼吸気味になりながら、私はドアを開ける。開けた瞬間、私たちを聞いたことのない女の人の低く、鋭いナイフが突き刺さった。その声の主は、綺麗に切りそえられた髪をぐしゃぐしゃにしながら、ベッドの近くにいる私たちと同い年くらいの子へと鋭い視線を向けていた。すぐにその声の主が誰なのか、分かった。目元が、早柴さんそのものだったから。

「あのっ」

まだ整えられていない呼吸のまま、精一杯の声を出す。すると2人ともがこちらを見る。早柴さんのお母さんらしき人は、私たちをチラリと横目で見て、怪訝そうな顔をする。早柴さんは、私たちのことを話していなかったのだろうか。その人は、私たちのことをまるで知らないみたいだ。そうして、先程のように低い声で問いかけると言うより、問いただしてくる。言葉の弾丸が次々と撃ち込まれる。

「何よ、誰よあんたたち!この病院の利用者なら分かるでしょ!?ここが何処なのか!?それとも何!?この子の知り合いなわけ!?」

私の代わりに、成宮くんが応答する。ただ、1つのことだけを大事そうに口にした。それから、確認するように静かに言う。

「俺らは、早柴ちゃんの友達です。あなたは、お母さんですね。……そして、そちらは早柴ちゃんの好きな人」

その言葉を聞いた瞬間、早柴さんのお母さんは思い出しでもしたように目を見開く。そして、指を指す。指を指された人は、成宮くんの質問に小さくだけれど頷いてくれた。私はやっと、早柴さんが好きになった人に会うことが出来た。こんな形なのが、残念だけれど。

「そうよ!こいつ!なんなのよ!にちかが急に連れてきたと思ったらこんな……得体の知れない、性別も分からないような子!『どっち』なのよ!それとも何!?『性同一性障害』とかいうやつなの!?どっちかにしなさいよ!気持ち悪い!」

そんな言葉の弾丸が容赦なくその人に撃たれる。確かに、一目見ただけでは性別は分からない。だからといって、得体の知れないとか気持ち悪いとか、流石に理解が無さすぎるんじゃないかと思った。思っただけで、それを音にするには私は弱かった。

「失礼ですが、早柴さん。性同一性障害はどういうものかご存知ですか。それから、この世界に性別がいくつ種類があるのかも。あづま……僕は性同一性障害ではありません。性別は、生物学的上男です。ですが僕は『中性』と呼ばれる性です」

それから、呆然とする早柴さんのお母さんを見つめる。そこで初めてしっかり目が見えた。赤く充血して、今にもこぼれ落ちそうなくらい潤んでいるのに、1粒もこぼさない。とても綺麗な笑顔で言い放つ。

「ですがにちかを、大好きなことは確実ですよ」

そう言われて、先程までこちらの話に耳も貸さずヒステリックになっていた、早柴さんのお母さんが言い詰まった。何か思うことがあるのだろうか。その人がちゃんと悲しんでいることを知ったのだろうか。その人が続けて言う。私たちは、自然と耳を澄ませる。

「……にちかは、初めて僕をちゃんと見てくれて、認めてくれたんです。今まで沢山の言葉に傷つけられてボロボロだった僕の心を、優しく包み込んでくれたのがにちかです。そんなにちかを、今度は……僕が、あづまが守りたかった……。いいですか、お母さん、よく聞いてください。男でも女でもなく、人間として話をします。……言葉は、時としてどんな刃物よりも鋭くなるんです。言葉一つで、簡単に人は殺せてしまうんですっ!感情に任せて言葉を言うのは勝手だけれど、言葉で人の心を傷つけたり、殺したりするのはやめてください……!お願いしますっ」

気がついたら、泣いていた。最近、ニュースで誹謗中傷のことばかりだ。それを見て、酷いなとか自分勝手だなとか思うだけで。ちゃんと考えてなんかなかった。1度は言われたことがあるのに。理解していたフリをしていたのかもしれない。実際、心の奥では理解できていなかった。だから私は泣いてしまうんだろう。悲しいとかそんな感情ではなくて。ただ、情けなかったし、悔しかった。

「………っそうね。私、上辺だけを、世間体だけをいつも気にして、この子を見ようとしてなかったわ。決めつけて、型にはめて……酷い言葉も沢山……っ」

そのままお母さんはポロポロと緊張が解けたみたいに泣き出した。口元を抑えて声を押し殺すように。けれど、悲しみは溢れ出てきてしまう。とうとう座り込んでしまったお母さんを、その人が優しく包み込んだ。早柴さんがそうしてくれたように、その人は、今度は早柴さんのお母さんに対して。なんて優しい人なんだろうと思った。なんて強い人なんだろうと。繊細でひび割れた硝子便みたいで。決して弱くなんかない、自分を持っている人だ。

私たちは、呆然としながらもベットへと近づく。段々と早芝さんが鮮明になる。少し焼けた肌と高い鼻や薄い唇。その右横にぽつんと、小さなほくろ。泣くことしかできなかった。人は死ぬ時、こんなにも呆気ないのかと。命はこんなに儚いのかと。泣きだしたら止まらなくて、悲しみとか絶望とか寂しさとかとにかく色々な感情がぐちゃぐちゃになる。そして私をどんどん呑み込んでいく。苦しくなって、息ができない。初めて、死というものを見た時、人はみんなこうなるのだろうか。大切で大事で失いたくない存在が、突然消えるなんて思っていなかった。私は私の事で手一杯で。人の気持ちなんて大して考えなくて。私より先に、死ぬなんて思ってなかった。人には、いつ死ぬか分からないだなんて言ったくせに。結局人は、失ってからしか気づけないのだろうか。その人の大切さ。命の儚さや尊さ。命が一瞬だということ。私も、成宮くんも旭日も。泣き崩れることしかできなかった。


8

早柴さんが亡くなってから一週間が経った。私はまだ事実を受け止めきれずにいる。悲しみとともに体調も悪化して、ベッドにいる時間が増えた。動けない時間が増えた。めまいや立ちくらみも増え、食欲は無い日が続いた。それでも、2人には元気に振る舞った。全力の笑顔で2人を迎えた。私の前では落ち込んだ様子を見せないようにしている2人に、私もそうしたいと思った。どうしても最後まで対等でいたかった。顔色が悪いなと思った時は、メイクをして誤魔化した。

「あ、もう10月も終わるんだな…」

不意に、成宮くんが言う。カレンダーを見ると、確かに10月も終わりが近かった。通りで最近、寒いわけだ。相変わらず秋は短いなと思いながらも、もうすぐ1年が経つんだなとも思う。1年前の私は、予想すらできていなかったのにな。なんだかんだで、元気のままだろうなんて呑気なことを考えていたのに。行きたいところには行けて、学校もそのうち通えるようになるんだと思っていた。今は、メイクまでしないといけないくらい、体調が悪化している。メイクすら面倒くさくてする気がない時もあるけれどしないとバレてしまう。もう私は行きたいところに行けることもないだろうし、もう一度学校に行って皆に会うことも出来ないんだろう。そう考えると涙が出そうになってしまう。最近、涙腺が壊れてきたみたいだ。

「ほんとうだ。もう、11月になるんだねぇ」

 口も上手く動かせない日もあって、最近はゆっくり話すようになった。普段使わない言葉を語尾につけて自然に聞こえるようにもした。日を追う事に息苦しい日も増えた。ご飯を食べられないから痩せてしまった。ベッドにいるだけなのに、動悸がする日も増えた。

「もう、暗くなるの早くなったしさ……寒いし、無理してこなくていいから」

私は、自分で死を悟る。もうすぐだ。これ以上は、いくらメイクをしても誤魔化せないだろうと思う。もしかしたらもうバレているのかもしれないけれど。それでも、突き放すことにする。これだけ言えばきっと、2人には伝わるだろう。伝わってほしい。2人を傷つけるような言葉は言いたくない。これ以上はもう、傷つけたくない。

  2人からの返事が来る前に、ドアが開いた。一瞬、ほんの一瞬。錯覚に陥る。早柴さんが来たのだと。だけど、ドアの前に立っていたのは、早柴さんではなかった。けれど私は驚く。早柴さんの好きになった人が立っていた。この前会った時とは違う。この間は顔もしっかり見ることが出来ないほどだったのに髪を耳元で切りそろえて、前髪も分けられていて、目もよく見える。服装も、パーカーにジーンズだ。

「………すいません、いきなりお邪魔して。にちかからよく話を聞いていたんです。私の世界に色をくれた人たちがいるんだって。私はあの人たちのおかげで夢をあきらめないでいることができているし生きていられるんだって」

ぺこりと頭を下げてドアを閉めて、話し出したその人を私たちは黙って見つめる。その人は、綺麗に笑って、しっかりと私たちの目を見ながら話してくれた。今まで聞いた事のなかった早柴さんのことを。声色や表情から、早柴さんへの純粋な気持ちが伝わってきて、涙が溢れてきていた。

「あ、あづまと言います。申し遅れてすいません。………にちかはよく泣いていました。苦しいわけでも辛いわけでもなく、ただただ悔しいんだと。結婚は異性同士でするもので。同性同士の結婚を許してしまったら少子化が進んでしまうからと理由をつけて同性婚を認めないことや、性別を身勝手に2つに分けること。それ以外は、異常者みたいな目で見られ、差別されたり非難されたりすること。それらのことに対して、何も悪いことはしていないのにどうしてこんなにも肩身の狭い思いをしなければならないのか。どうすることも出来ない弱い人間なことが悔しくてどうしようもないと。『私たちは、異常者なんかじゃない。どこにでもいる人間だ。お前らの普通や当たり前や常識を押し付けてくるな。』と、よくそう言っていました」

なぜ、あづまさんがこんなことを話してくれたのか分からなくて、戸惑う。あづまさんは、どこか必死な表情でこちらを見る。あづまさんから告げられた早柴さんの言葉は、確かにその通りで。だけど、それを世間に言ったとしてもすぐにかき消されてしまうことも明白で。性同一性障害のことが認められてからほんの少しずつ、性のことが理解されることや関心されることはあるけれど、まだ批判や差別されることの方が圧倒的に多い。同性婚や同性愛に関しても、同じ様に。実際、同性婚は法律上できないことになっている。遠巻きに見ているだけなら、認めればいいのにとか可哀想とかいくらでも言えるし、自分だけは認めた気持ちになる。けれど実際、目の前で告げられた時、大抵の人は理解することはできないんだろう。昔からの考えに囚われたまま、理解したつもりになっているだけの人が沢山いるはずだ。きっと、私も心の奥底ではまだ理解しきれていないだろう。
私は、あづまさんをしっかり見返す。綺麗な目をしていた。澄んだ朝の空気みたいな、吸い込まれそうな目。

「あなたは、私たちの知らない早柴さんのことを沢山知ってるんですね」

 僻みでも何でもない、喜びだった。嬉しかった。1人でも早柴さんの本当の姿を知っている人がいることが。早柴さんのことはずっと気になってはいた。いつも笑顔だし人に囲まれていたけれど、どこか寂しそうな目がどうしても気になった。心の柔やわいところがずっと叫んでいるみたいな、そんな感覚があった。早柴さんを、私は救えないことは分かっていた。救いたかったけれど、人間には限りがある。だけど、早柴さんを見捨てるなんてことできない。だからずっと、不安だった。申し訳なかった。でも早柴さんを救ってくれた人が確かに此処にいる。それだけがどうしようもなく嬉しかった。

「早柴さんを、救ってくれてありがとうございますっ」

一言、それだけしか出てこなかった。精一杯の感謝。それ以外の言葉は必要ないと思った。私は、深くまで頭を下げる。あづまさんは、優しく息を吐いて笑った。それから、こちらこそと言い残して病室を去って行った。嵐の後の静けさのような人だった。居るだけでその場の空気が柔らかくなるような、暖かくなるような人だった。その日は、そこから早柴さんの話になった。中学時代のことや高校での様子。私はそこで初めて、早柴さんは中学時代眼鏡をかけていたことを知った。

私はその日、2人を突き放すことができなかった。


「ねぇ、この間何言おうとしてたの?」

2日後。旭日がなんでもない話題をふるみたいに聞いてきた。本当は気づいているくせに。気づいていないフリをして、ちゃんと私の言葉を待ってくれる。いつもそうだ。2人とも、優しすぎるくらいに優しくて。私はいつもそれに、甘えてしまう。今日も、私はそうするんだ。けれどきっと、これで最後だから。甘えるのは、これで。神様もこれくらいは許してくれるだろう。
私は、口を開く。震える思いを、言葉に変えて音にする。予想以上に、悲しい音がして揺れていた。

「もう、来ないでほしいんだ。……2人とも。頼むからもう、来ないで」 

 喉が締め付けられる感覚がする。上手く声を出せない。

「なんで?さよならを言いたくないって言う理由なんだったら、言わなくていいから。言わせないから………。知ってるよ、もう長くないんだろ」

旭日の言葉に、息が詰まる。それと同時に、安心してしまう。やっぱり、バレていたんだ。フッと綻ほころびそうになる頬を緊張させる。

「メイクしてても、笑ってても分かるんだよ。長くないのなら尚更……最後まで一緒に過ごさせてよ」

ここで負けたら、折れたら終わりだ。私は、2人を睨む。精一杯の強がりで、優しさで刃物だ。2人は、悲しそうな顔をしてこちらを縋すがるように見つめている。その顔を見て私は、苦しくなる。こんな悲しそうな顔をしている2人を、私はさらに悲しませようとしている。

「分かってよ!!見られたくないんだよっ。自分が弱っていく姿を!……わかってっ……私は、お前らのいない世界に慣れなきゃいけないし………お前らだって…っ!」

少し声を荒らげただけなのに、息が切れて体の力が抜けてしまいそうになる。私は、体に力を入れて耐える。

「…お前らだって私の、いない世界で生きていくんだよ!生きていかないといけないんだよっ」

だんだん声が悲しみを含んでいく。ボロボロ涙を零してしまいたくなる。言葉がとてつもなく痛い。彼らに向けたはずの刃物が、何故か私に刺さってくる。私自身が拒絶していることなんだと、思い知る。思い知ったところで私の意思は揺るがない。彼らには、弱い姿をこれ以上は見せたくない。完全なる我儘だ。
出会ってから数年、数ヶ月、心配ばかりかけて。優しさばかり受け取って。私は何も返せていないのに、返せないのに。本当に救いたい人を救えないかもしれない。それがとてつもなく苦しくて、悔しい。

これまでにないほどの強さで、肩を掴まれた。それで私は、顔を上げる。肩を掴んでいたのは、旭日。好きな人の顔を間近で見る。綺麗な目をしている。その目がいつにもなく怒りを写していた。後ろで、優しい顔をして綺麗な涙を流して成宮くんが立っている。そこで後悔をする。また優しさに触れてしまった。また、返せないものが増えてしまった。私はもう優しさを受け取ることはできないのに。両手から溢れてしまうほどの優しさを、既に受け取っているのに。それでも尚、注ぎ続けてくれるだなんて。

「ふざけんなっ。僕は、君のいない世界で生きていくために!……っそのために!今こうして、君と居るんだよ!成宮だって同じだ!」

彼の、こんな顔を見たのは初めてだった。私は今まで、彼の何を見ていたのだろう。ずっと同じ景色を見てきたはずなのに、私は一体彼の何を知っているのだろう。けれど、彼や成宮くんを傷つけるのを知っていながら私は、自己防衛をする。2人を傷つけたくないとか悲しませたくないとか、そんな綺麗な感情じゃない。もう嫌だ、逃げたい。そういう愚かな感情。旭日からの声と思いから逃げる。

「っ出てって…!もう、来ないでっ……出てって!!!」

自分の声が耳の中で響いて、頭がくらくらする。目元が熱くて、喉が詰まる。呼吸が荒くなる。私がそれを整えている間に、私の肩を掴んでいた力が弱くなって、体温が薄まる。私は、下を向いたまま彼らが出ていくのを待った。肩に残る淡い体温が私を包むようにずっと残っているようで、更に涙が止まらなかった。私は、その日私を抱きしめるようにして眠った。肩に残る体温を確かめたくて肩に触れてみたけれど、冷たくて抱きしめてみても空っぽのようで虚しくなった。

 次の日からは、家族以外面会禁止にしてもらった。担当医の先生も看護師さんたちも了承してくれた。それくらい、私は限界に近い状態になっていた。今日からは無理に笑うこともメイクをすることもしなくていいと思うと、本当に勝手だけれど気が楽になった。深呼吸をする時みたいにゆっくりと、呼吸をする。お見舞いに来てくれた母に、お礼を言った。母は、静かに微笑む。

「……あなたが、2人を突き放したのは逃げでも弱いからでもないよ。大丈夫。あなたは、強い」

一つ一つの音が、あまりにも柔らかくて気がついたら泣いていた。自分でも訳が分からなくて。だって私は弱いのに。2人のことを確実に傷つけたのに。逃げたのに。それを母は、全肯定してくれた。私は声を上げて、母に抱きついて、子供みたいに泣きじゃくった。やっぱり母は、弱くてとても強い人だと思う。

「別れは、苦しいし辛いよ。………でも、必ず来るもので避けられないの」

充分に理解していたはずのこと。理解していなければならないこと。それを私はまだ、理解できていなかったみたいだ。早柴さんのことだって私はまだ、受け止められていない。あの2人は、私の分まで受け止めようとしているのに。2人だってとてつもない悲しみや憤りを感じているはずなのに。私の分まで背負おうとしていた2人を私は突き放したんだ。

「……………っ、お母さん、わたし、私さ……っ、生きるよ………………最後の最後まで、生き抜くよ……っ」

それは、2人に対する感謝みたいな言葉だった。しゃくりをあげながら、私は言う。

「うん、そうね……っ」

母は、一言それだけ言った。そして私は決めた。悲しいことかもしれないし、苦しいことかもしれない。それでも私は最後まで私を貫きたい。

「私、私が生きていたって、残しておきたいっ……私が消えても、遺るようにっ」

私がこの世界から消えるその時まで、2人とは会わないこと。どんなに辛くても苦しくても、寂しくても泣かないこと。それから手紙を、書くこと。手紙ならたとえ私が死んでしまってもいつまでも遺るだろう。どんなに遠くても、届くだろう。

「そうねっ………きっと、届けるわ」

縋るように母の服を掴む。泣きじゃくって鼻水も出ていて、酷い顔だろう。それでも母を見上げる。母も、泣いていていつもの綺麗な顔を崩していて、私と同じくらい酷い顔をしていた。

「私を、覚えていてっ………忘れないでね……っ」

そう言うと、母は更に涙を零した。それから子供みたいに顔をクシャクシャにして、綺麗に笑った。私を両腕で包み込んで、涙でボロボロの声で言った。

「覚えてるよ、忘れないよ……ずっとっ!」

その日は、馬鹿みたいに泣きまくった。疲れて眠ってしまい、目が覚めたら11月が始まっていた。まだ、日の昇っていない午前4時半。手を伸ばし、窓を少しだけ開けると肌を裂くような冷たい空気が入り込んでくる。私はそれを、身震いしながら吸い込む。旭日と病院を抜け出した時の空気感ととてもよく似ていて、涙が滲みそうになる。決めたばかりなのに、泣きそうになってしまう。私はそれを我慢する。ベッドに横たわったまま、夜明けを待った。このまま眠って目が覚めないことが怖かった。眠るように死ねるのならそれはそれでいいけれど、まだ生きていたかった。もう一度空気を肺に入れる。それだけで、生きているんだと実感できる。開けた窓から電車の音が聞こえた。始発電車だろうか。
しばらくぼんやりとしていたら、薄らと明るくなってきた。一人で見た夜明けはなんの輝きも感動もなくて、とても退屈だった。私は、旭日と見たいと思ってしまった。夜明けの瞬間、どうしようもなく旭日に会いたくなってしまう。自分から酷い言葉を放って傷つけたのに、会いたくなるだなんて随分と勝手だなと自分でも思う。反面、それほどまでに旭日のことが好きなんだと思う。退屈な朝日を見ていたくなくて、私は手紙の続きを書くことにする。便箋を何枚か出してペンを握る。最近は、手に力が入りにくくてペンをよく床に落としてしまう。けれどこれだけは、手紙だけはこれまでのどの字よりも綺麗に美しく書こうと思った。これは、旭日への最後の告白だから。旭日はきっと、私が死んだと知らされたら授業を放棄してまで飛んできてくれるだろう。容易に想像ができてしまう。慌てた顔をして入ってくるのに、私に声をかける時は冷静そうな顔をしていつも通り話しかけてくるんだ。私が返事をしないと、焦って私の名前でも呼んでくれるだろうか。呼ばれたとしても、私は反応することが出来ないけれど。お母さんはきっと、私の枕元にでもあるだろう手紙を、旭日に渡してくれる。旭日は、読んでくれるだろうか。私の最後の手紙たちを。

いきなり、ドアが開いた。ペンを持つ手が机の上で小さく跳ねてペンを落としそうになる。まだ、看護師さんが見回りに来る時間でもないし、お見舞いに来れる時間でもない。ドアの方向を見るのが怖かった。怖かったけれど、意を決して見る。そこには、見た事のある女性が立っていた。上品そうなコートを着た、四十代後半から五十代前半くらいの。目元が早柴さんに似ている。そこで思い出した。
あ、この人早柴さんのお母さんだ。

「え、と…………早柴さんのお母さん、ですよね」

思っていたよりも冷静な声が出た。頭の中は大分混乱しているけれど。だっておかしい。まだ、朝の5時過ぎで。病院だって開いてなくて。お見舞いなんて来れる時間じゃないのに。それにどうして私の病室を知っているのだろう。早柴さんから私たちのことを聞いていなかったのはあの日の出来事でわかっていたから、私の名前を知っていたとも考えられない。私が疑問を口にする前に早柴さんのお母さんが寒そうに口を開いた。あの日とは違って、柔らかい声だった。

「あの時は、取り乱してごめんなさい。病院の人に無理を言って、入れてもらったの。どうしても、伝えておきたいことがあって」

早柴さんのお母さんは、そこで1度言葉を切った。何か言いずらそうに下を向いてから、もう1度私を見る。少しだけ目が、潤んでいた。

「にちか、新人小説コンテストに応募していたみたいなの。昨日、1次審査に通過したって連絡が入って……それってすごい確率でしょう。あの日は、あんなこと言ったけど応援してたのよ…。にちかは、小説家になると思うの。だから、篠井(しののい)すみという名前を覚えていて欲しい」

早柴さんのお母さんは、そう言って深く頭を下げる。私は慌ててベッドから前のめりになる。

「分かりました。覚えてます。覚えます!というか、忘れません!本も買います!なのであの………頭をあげてください」

私の声で、早柴さんのお母さんは頭を上げてくれた。それから、早柴さんによく似た笑みを浮かべてありがとうと言って静かに出て行った。
 書き途中だった手紙にペンを走らせる。一つ一つの思いを言葉にしていく。本当はこの言葉たちを私の声で誤解のないように伝えたいけれど、私は選ばなかった。私は手紙を選んだ。言葉は時に音にしなければ伝わらないこともあるけれど
音のない言葉でないと伝えられないことだってある。少し、長くなってしまったからもしかしたら旭日は、読むのに時間がかかるかもしれない。1週間か、1ヶ月か。もしかしたらそれ以上か。分からない。けれどきっと、彼は読んでくれるだろう。そして私の薦めた本もきっとどれだけ時間がかかるとしても読み終えてくれるはずだ。彼は決めたことは最後までやり通す人だから。どんな終わり方だとしても最後まで一生懸命な優しい人だから。読み終えたら私に感想を言いに来てくれるだろうか。私はそれを聞けるのだろうか。分からない。
私は書き終えた手紙を封筒に入れて、枕の下に隠すように置く。これは、私の秘密そのものだから旭日以外に読まれるわけにはいかない。これで全て終わった。もう何もすることは無い。私の言いたかった全てを言葉にしたから。安心してそれから自然に瞼が重くなって眠った。




 9

結局、窓際の空席が埋まることは無かった。
彼女は。桜みたいに強くはないと言っていた彼女は、僕が授業を受けている間に死んだ。11月上旬、例年より大分早く初雪が観測されてから2日後のことだった。彼女の両親が僕に連絡をくれて、それで知った。2時間目の途中だったけれど授業放棄した。クラスメイトの騒めきも、先生の怒声も全部無視した。病院へ行く途中、雪で何度も滑って転んだけれど、そんなことどうでもよかった。それよりも僕は、彼女にもう一度春を見せてくれなかった神様を憎んだし恨んだ。信じられなかった。信じたくなかった。彼女が、死んだなんて。僕は、彼女の病室まで走った。病院で走ってはいけないことなんて重々承知していたけれど、今はどうでもよかった。
それでも信じざるを得なかったのは、病室に入ってから。彼女の両親が、泣き疲れたように呆然と立っていた。その顔を見て、もう信じるしか無かった。ゆっくりと、ベットに近づく。久々に見た彼女は、淡く青く咲き誇っていた。一見、眠っているようにしか見えなくて、思わず声をかける。

「…ねぇ、来たよ」

普段通り声をかけてみるけれど、反応はない。恐る恐る、頬に触れるとまだ少しだけ暖かい。人が死ぬ時、こんなにも綺麗なんだなと不謹慎なことを頭では思いながらも、受け止めきれていないことが口からだだ漏れだった。感情がどんどん溢れてくる。こんな終わり方だけは嫌だったのに。ちゃんと、目を見てさよならを言いたかったのに。さよならすら、言えなかった。

「なぁ、起きろって……おい、莉夏(りか)っ」

彼女が病気と知ってから、1度も呼んでいなかった名前を言ったというのに、彼女は目すら開かない。笑わない。いつもみたいに、本を読むことはない。まだ、彼女に手紙を書いていないのに。まだ、彼女から勧められた本を読んでいないのに。まだ、やりたいことも話したいこともあるのに。どうして彼女なんだ。神様はどうして彼女を選んだんだ。せめてもう一度春を見せてくれたっていいじゃないか。あと数ヶ月、あと少しで春なのに。

「起きろよ!死んだなんて嘘だろ!なぁ!?起きてくれよ……また旅行しようって言ったじゃねぇか!しねぇのかよ!なんでだよ!」

泣いていて、声が震えて、足も震えて。だんだんと彼女が居なくなった恐怖と寂しさと悲しさに包まれる。彼女のいなくなった世界なんて、考えたこともなかったし、考えたくもなかった。彼女だけが僕の世界で、生きる意味なのに。生きていく上で、必要不可欠な存在なのに。どうしたらいいんだ、僕は。

「ごめんね、旭日くん……っ」

一瞬、彼女が喋ったのかと思った。けれど、勢いよく顔を上げてみても、相変わらず目を閉じたまま。そこで思い当たる。あぁ、彼女のお母さんの声だ。彼女と彼女のお母さんは、本当によく声が似ているから。僕は、声の主の方を見る。涙でぼやけて、どんな顔をしているのかまでは見えない。けれど、確かに悲しい音色が聞こえてくる。

「どうして……謝るんですか」

疲れきった声をしていることに驚く。人は、心から大切な人を失うと疲れ果てるのだろうか。
彼女のお母さんは、体感で1分くらい沈黙した。余程言い難いことなのか、それとも悲しみが溢れているのか。どちらだろうか。どちらもだろうか。僕は待つ。だんだんと視界が鮮明になる。お母さんは、笑うように泣いていた。彼女と同じ様に、音のない涙を流していた。その姿が彼女とどうにも重なり、また視界がぼやける。

「………っ口止めされてたの、この子の病気について、あなたにだけは言わないでほしいって……っ」

喉で音が鳴る。僕も、彼女のお母さんもお父さんも泣いていた。なんの病気だったんですかって、聞きたいのに、喉で詰まって出てこない。ゆっくり、2回深呼吸をする。涙も悲しみも止まらないけれど、酸素を吸い込む。

「なんの、病気だったんですか」

本当は彼女の口から直接聞きたかったことを口にする。ポロポロとこぼれていく顎の先で大渋滞しているそれは、止まることを知らないみたいだ。彼女のお母さんは、話す時いつも目を見て話してくれる。優しい目をして、優しい顔で微笑む。

「メトヘモグロビン血症という、病気よ…。今は、治るんだけれど、この子の場合は進行を遅らせることしか、手段がなかったの……っ」

震える声で、僕よりも泣いているはずなのに優しい顔のまま言う。初めて聞く病名だった。彼女の肌が淡く青かったのも、関係しているのだろうか。そう僕が聞くよりも先に彼女のお母さんが口を開いた。それと同時に何かを差し出された。

「これ、全部あなた宛ての手紙とあの子が亡くなる十日前くらいからの日記よ。それからこれは、あなたが書いた手紙ね。これは、持って帰っていいかしら………莉夏の書いた手紙、受け取ってくれるっ?」

僕の書いた手紙とも言えないような手紙を、彼女が持っていてくれたことが嬉しかった。僕は彼女のお母さんから差し出された何通もの手紙と彼女の遺した日記を、受け取る。心做しか手が震えていた。僕は、息を吸ってしっかり2人を見てお礼をする。

「……ありがとうございます、連絡してくださって。彼女の最期を看取れなかったのはとても残念ですが、1番に連絡してくださったことがとても嬉しいです……っ。お手紙と日記、帰って読ませていただきますっ…」

語尾が震えてしまう。本当は怖い、手紙を読むのが。日記に何が書かれているのか、そう考えてしまう。僕は、2人にもう1度頭を下げてから病室を出た。家に帰る途中、冬の寒さで頭が少し冷えた。泣き腫らした目には丁度良かった。

家に着いて、母親に彼女が亡くなったことを告げる。母親は、僕の顔を見た瞬間悟ったようで。僕が言う前にはもう目が潤んでいた。母親は、そうと小さく呟いただけだった。夕飯はいらないと伝えて、僕は自室へ入る。コートも制服も脱がず、鞄をベットに放り投げてまず手紙を取り出す。薄いものもあれば、厚いものもある。彼女のことだから、薄いものから開けろと言うはずだ。

『旭日へ。
やぁ、元気かい。私は元気だよ。』

たった1行の、今までで1番短い手紙だった。文字からして分かるのに、必死に強がっているみたいだ。なんだか彼女らしくて口元が緩む。

『佐川へ。
夢を見たよ、ピストルスターの。ピストルスターってさ、まるで旭日みたいなんだ。こんなこと言ったらきっと、意味わからないって眉根を寄せるんだろうね。だけど、本当に旭日なんだ。』

文面の通り、僕は眉根を寄せた。どうやら彼女には全てお見通しらしい。封筒は、あと3。

『佐川 旭日へ。
病室から、追い出したりしてごめん。成宮くんにも言っておいてほしい。私は多分、もうすぐ死ぬんだと思う。』

紙の上での言葉たちが、僕の記憶の彼女の声に変換されていく。彼女の声で、再生されていく。その音があまりにも冷たくて、涙が溢れる。封筒は、残り2。けれど、1つは写真みたいだ。僕は、もう1つの封筒を開く。それまで依然として数枚に収まっていたのに、いきなり厚くなる。見たこともないくらい綺麗な字で書いてあるのを見ると、どうやらこれが僕宛てに書いた彼女の遺書なんだろう。慎重にゆっくり、文字を読む。

『佐川(さがわ) 旭日(あさひ)様へ。
どうか受け取ってください。これが最後の手紙です。私の、最期の言葉です。

旭日のことを、お前って呼んでいたことについて話したことなかったよね。私が旭日のことをお前って呼んでいたのは、いつ旭日に裏切られても自分が傷つかないようにするため。ごめんね、こんな酷い理由で。旭日のことを、信じていなかったわけじゃないよ。確かに、信じてた。

私は、旭日と出会う前の学校で虐められてた。暴力といえばそうなんだと思う。言葉の暴力で、精神的に虐められてた。だから少し、人間不信になっていたんだ。言い訳ばかりでごめんね。だけど、読むのを辞めないで欲しい。私がどうして旭日と一緒にいるようになったかを、聞いてほしい。私は、旭日に救われたんだ。いつも、旭日の無自覚な優しさに救われてた。だからいつか私も旭日を救えたらなと思って、旭日と一緒に居た。
どうだったかな。私、少しは旭日を救えたかな。救えていたら、いいな。私はずっと、大切な人へ傘をさせる人に、人の痛みを感じられる人に、心ほど目に見えないから何よりも大切にできる人になろうって思っていたから。旭日のこと散々傷つけた私が、言えることじゃないかもしれないけど。

告白をするね。私は、旭日のことが好きだよ。旭日の告白断っといて何言ってんだって思うよね。私は、断る以外に選択肢なんてなかったと思ってる。私は、旭日にはずっとずっと幸せでいてほしい。そう願ってるよ。だからどうか、幸せでいてください。幸せにならなかったら、幽霊になって旭日を祟るからね。絶対、小さな幸せでいいから幸せでいてください。私にとっての最大の幸せは、旭日が幸せでいることなんだから。
さて、長くなっちゃうからここら辺で終わりにするね。終わりにする前にお願いをします。

桜を見て私を思い出さないこと。
秋が大好きな人が居たなって、記憶の片隅に残しておくこと。
好きな人と、幸せでいること。

じゃあ、最後。
私は、桜みたいには強くなれなかったけど旭日と出会ってから少し、強くなれました。旭日のおかげ。ありがとうね。後、早柴さんのお母さんから聞いた。早柴さん、新人小説家コンテストに応募したんだって。名前は『篠井 すみ』。5月には発表されるみたいだから、本屋に行って探してよ。そして私の仏壇にでも置いておいて。お願いね。

最期の最後にどんな言葉が相応しいのか分からないけど。
さよならは言わないって決めてるから。さよならはどんな時も、苦しくて痛いから。決めたんだ。だけどさ、私は、気づいた。さよならが、さよならだけが旭日と居た対価なんだよ。』

気がついたら、手紙を握りしめていた。手紙はそれで、終わっていた。最後まで綺麗な字だった。
最後、彼女から聞きたくなかった言葉で終わっていたことに驚かなかった。何となく、想像はついていた。ついていたけれど、納得いかない。やっぱりさよならなんて聞きたくなかった。言ってほしくなかった。それに、なんなんだ。さよならだけが僕と居た対価だなんて。ふざけるな。そんなの、まるでさよならをするために僕等が出会ったみたいじゃないか。彼女が僕より先にいなくなることが最初から仕組まれていたみたいじゃないか。

「あ、あぁああああぁぁああああっ」

喉で死んでいた音が、生き返った。けれどそれは言葉にならなくて悲しみだけが溢れる。僕はそれから狂ったように泣いた。途中で母親が入ってきたけれど、気にならなかった。幼い子供のように泣きじゃくる僕を、母親が子供をあやすように抱きしめる。それから背中を摩ったり、一定のリズムで叩いてくれる。僕は、泣きじゃくり、しゃくりを上げながら母親に言う。

「なんでっ………なんでだよ、なんで!」

母親は、黙って息子の告白を聞いてくれる。

「っ好きなのに、何も……できなかったっ。………くっ、なんで死ぬんだよ、なんで!言いたいことも、行きたいとこも……っ沢山あったのに!なんで……っ」

息を吸い込むと涙まで入ってきて、むせた。母親が僕の耳元で柔らかく優しい声で、告げる。悔しがっているような悲しそうな声だった。

「だったらさ、今から言いに行ったらいいよ。………旭日、よく聞いて」

母親と僕の目が合う。強い光を含んでいる。僕は何も言えずに、ただただ見かえす。

「今は、一瞬なの。取り戻せないの。……だから、いっておいで」

優しい目をしていた。母親の目をしていた。
母親は夫を、僕の父親を事故で亡くしている。僕を身ごもっていた母親の代わりに買い物に出かけた時、雪でスリップしてきた車に轢かれたと言う。母親は、口に出さずともずっと後悔していた。命日は特に、いつもより昏い目をしていた。僕は、写真でしか見たことがなかったけれどとても強く、優しい目で笑う素敵な人だと思った。
僕は、ありがとうと小さく言って、部屋を出た。制服のまま、走る。それから、病院へと駆け込み彼女の病室へ急いだ。病室へ入るとまだ彼女の両親が居て、彼女の荷物を片付けているようだった。
勢いよくドアを開け放った僕を、2人が見る。お母さんが驚いたように口を開いた。

「あら、旭日くん……どうしたの?」

僕は、黙って彼女のベッドへと近づく。相変わらず、変化はない。ポケットから最後に残った封筒の中身を取り出す。それを、彼女の周りに棺桶に花を添えるみたいにばらまいていく。1枚1枚丁寧に。
北鎌倉の円窓。ビーフシチュー。クラス全員の笑顔。僕と彼女の制服姿。朝の海を背に溶けるように立つ彼女。紅葉の中で笑い合う男女4人。
僕が現像してこようと思っていたのに、いつの間にか現像していたみたいだ。ちゃんと撮れているか不安だったけれど、どれも綺麗に撮れていた。彼女の両親は僕の行動を黙って見て、ベッドへと近づいてゆっくり写真を見ていた。

「あの子は、莉夏は愛されていたのね……」
「はい。愛されていましたよ。………僕は、彼女に何度も救われて、変わることができたんです。………僕は」

彼女の両親をしっかりと見据えて、彼女には言えなかった言葉を音にする。なんだか、泣きそうになった。けれど泣くのをグッと我慢する。それから、口角を自然にあげる。

「僕は、鈴原(すずはら) 莉夏(りか)のことが好きです。ずっと前から。それは今も変わらないし、莉夏には大袈裟だと言われるかもしれないけど」

そこで一旦、言葉を止める。しっかりと息を吸って吐き出す。それから、莉夏を見て言う。

「確かに、愛してた。………ううん、愛してる。この気持ちを教えてくれて、ありがとな、莉夏」

最初で最後の彼女への言葉だ。それを彼女がまだ生きている時に伝えたかった。けれどきっと、伝わっていたとは思うんだ。彼女は、人の感情を読み取るのが得意だったから。届いたらいいなと願う。
僕は、ベッドを挟み向こう側に立っている彼女の両親へと視線を移す。2人とも、優しく微笑んでいた。

「ありがとう。好きだったではなく、好きだと言ってくれて。きっと、この子にとって君は生きる糧で必要不可欠な存在だったのだろうな。………ありがとう、ありがとう」

彼女のお父さんは、込み上げてくる感情を噛み締めて包むように暖かな声で繰り返した。彼女の両親に向けられた笑顔は、彼女にそっくりだった。

あぁ、生きていて、ほしかったな。死なないでいて、ほしかった。まだ、くだらないことで馬鹿みたいに笑っているところも、本の世界に入り込んでいる姿も、見ていたかった。できることならば、ずっと一緒に居たかった。何千回でも、お前って呼ぶ声を聞いていたかった。それをもう、見ることも聞くこともできない。もう、僕の世界の彼女は居ない。

また、涙が溢れてきてしまって止まらない。声をあげることも無く、彼女のように音のない涙を流しながら彼女の病室を後にした。

僕の世界の全てで、僕の心臓のような存在だった彼女が消えてからも当然のごとく、僕以外の世界は変わらなかった。彼女は一般の女子高校生なのだから当たり前なのだろうけど。僕は、ベッドの中で蹲り悲しみに支配された。襲ってくる悲しみを両腕を目一杯広げて、受け入れた。彼女が亡くなったのは金曜日で、土曜日も日曜日も僕は引きこもった。月曜日も火曜日も引きこもった。体ではなくて、心が動かなかった。大量の鉛を放り込まれたみたいになんの感情も湧かなくて、ただただ泣いていた。
水曜日のお昼過ぎ。学校に連絡もしないで友達からの連絡さえ無視をして居た僕は、掃除機の罵声で目が覚めた。泣きすぎて腫れた目は重くて上手く開かなかったけれど、掃除機をかけているのが母親だと言うことはすぐにわかった。母親以外にいないからだ。意味がわからなかった。母親は今日も仕事のはずなのに。どうしてこの時間に家に居て、しかも掃除機をかけているのだろう。そんなことを考えていたら、頭まで被っていた布団を引き剥がされた。そして掃除機の罵声が消えたと思ったら、母親の声が飛んできた。

「いつまでそうしてるつもりなの。あなたにとってあの子がどれほど大切だったのかは知ってるし、悲しいのも理解してる。……でも、だからっていつまでも止まっていたら進まなくなるよ。……今は一瞬で、今はいつかなの。ゆっくりでいいから、立ち上がらなきゃ」

ベッドに寝転がったままの、寝癖のままの頭で。泣きすぎてぼんやりしている脳内で、母親の発した音が一つ一つ鮮明になっていく。それから、良く開かない目で目の前に立つ母親を見上げる。母親は、少し怒ったような優しい顔でこちらを見ていた。子は親に似るというのはどうやら本当らしい。この人の不器用なところが僕にも遺伝したんだなと、確信した。有難かった。そんなことを思っていたら、だんだんと視界がぼんやりして頬に生暖かいものが流れ始めたのを感じた。人の感情に触れて、泣くなんてないと思っていたのに。僕は今こうして泣いているのだな。そう自覚はしても、涙を止めることはできなくて動けなくなる。そんな僕を見て母親は、仕事行ってくるねと一声かけて部屋を出ていった。僕はそれからしばらく泣いていたけれど、ようやく部屋の輪郭が分かり始めた時、棚に置いてある1冊の本に目がいった。彼女から勧められた本だった。本嫌いの僕が初めて本屋で買った文庫本。彼女に読んだら感想を教えると約束をしたのに、結局まだ1文字も読んでいないなんて、彼女は怒るだろうか。それまでほとんど動かさなかった体を起こして、棚の本を取る。表紙の文字を頭の中で読む。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。中学生の時国語の授業で少しだけ読んだことのある作品。そう思っても懐かしさは感じなかった。それは恐らく、僕がこの話をあまり好きではなかったからだろう。
ジョバンニとカムパネルラの友情が純粋に描かれている、それこそ夜空の星々のような美しい作品だとは思うけれど。なんだか、好きにはなれない。なんて言ったら、きっと彼女は怒って本の良さを1時間以上話すんだろうけれど。僕が彼女のような文学少年だとしても、好き好んで手には取らないと思う。と、ここまで好きではないと言っておきながら僕は、手に取ったそれを開く。彼女はいつも初めて読む本でも何度でも読み込んだ本でも、開く時や、ページをめくる時にはとにかく楽しそうな顔をしていたなと、思い出しながらやっと一文字目を読み出す。
全て読み終わるのはいつ頃になるだろう。彼女との文通で多少は文字を読むことに慣れたけれど、まだ長くは読んでいられない。多分だけれど1週間はかかってしまうだろう。その頃には、気持ちの整理はついているだろうか。分からない。けれど僕は読み終わった本を持って彼女の自宅に向かうだろう。そうして、随分と遅くなってしまった謝罪と読み終わった報告と、約束していた感想を告げるだろう。そして新しい年になって、桜が散った頃に早柴の本を探しに本屋に行って彼女に言われた通り、彼女の元へ届けるだろう。

彼女のいない次の春は、青く舞うだろうか。夏は、花が綺麗に咲くだろうか。秋は、長く感じるようになるだろうか。冬は、いつもより寒くなるのだろうか。そうしていつか、そういう感覚さえも忘れてしまうのだろうか。

僕が愛した彼女のことさえも忘れてしまうのだろうか。だとしたら最初に、彼女の声を忘れるのだろう。少し低くて、乱暴な呼び方をする声も、楽しそうに本の話をする声も、悲しみを含んだ泣き出しそうな声も、感情を押し殺した声も。彼女の全ての声を忘れてしまうのだろうか。
そう考えただけで悔しくなる。永遠に愛した人のことを覚えていたいのに、それができないのか。

金曜日。眠れなくて寝不足のまま、気持ちの整理はまだつかないまま、ごちゃごちゃの頭で学校へ行った。教室に入った途端、視線が僕を突き刺す。誰からも何も言われなかった。ただ、同情だとか哀れみだとか。そんな視線だけが送られた。みんな、勝手だと思った。窓際一番前の成宮は、僕が入ってきても一切顔を挙げず突っ伏したままだった。僕も、人に話しかけられるだけの余裕なんかなくて、無言で席に着いた。ふと、彼女の席へと視線を向ける。窓際1番後ろ。日当たりの1番いい席。彼女はいつもそこで文庫本開いて楽しそうにページをめくっていた。当然だが、そこには彼女の姿はなくて造花なのか生花なのかわからない名前も分からない花が、花瓶に挿してあった。朝日に包まれてとても儚いように感じてしまったけれど、その感情さえも今はどうでもよかった。散り際こそが美しいだなんて言葉を思い出してしまった自分が、馬鹿みたいだ。彼女のいない教室は、吐き気をもようすくらいに居心地悪くて、空気感がまとわりついてくるみたいで気持ちが悪かった。僕は、教室に先生が入ってくるまで机に突っ伏していた。空気を吸っていたくなかった。
担任からも、他の教員からも何も言われなかった。4日間。無断欠席をしたと言うのに、お咎めも何もなかった。それが何だか、腫れ物扱いをされているようで嫌だった。それはどうやら成宮も同じようで。先生たちなりに気を使っているのだということは分かっていた。わかっていたけれど、4時間目みんなが睡魔と戦う中で僕は無言で立ち上がる。

「ど、どうした?佐川」

オドオドしたような様子を伺うような声で、教卓の先生に問いかけられる。僕はそれから何も言わずに教室を飛び出した。飛び出したあとの教室は知らない。とにかく歩いて、学校内以外の空気を吸い込みたくて、屋上へと出た。

「あぁぁあああぁぁぁあああ!!!!!!……あぁぁあぁぁあぁああぁあ!!!!」

僕自身、頭がごちゃごちゃで考えることすら面倒臭くて、だけど何か叫びたくて。結局一番出やすい文字だった。息が切れるほど叫んで、また叫んで。授業中なのに、関係なしに叫びまくった。膝から崩れ落ちて、叫びながら涙声に変わっていくのを感じた。目元を掌で乱暴に覆う。

「……あぁぁぁぁあ!!!!」

後ろから、僕と同じように叫ぶ声が聞こえた。驚いて振り返る。成宮がいた。追ってきたのだろうか。両手を固く握って、体いっぱいに叫んでいた。そんな成宮を見て、僕は思わず笑ってしまった。僕より息が切れていて、僕より泣いていたから。恐らく、ずっと我慢してきたのだろう。早柴の死から成宮はずっと悲しむ素振りを見せなかった。その場の空気を明るくしようと、必死に話を続けて笑っていた。

「っもう!泣いていいのかなぁぁぁあ!………もう我慢しなくていいのかなぁぁあ!!!」

僕は、前を向いて立ち上がる。そうして、成宮へ返答する。

「泣けぇぇぇええええ!!!思いっきりっ!!!!」

僕らは、泣いていた。立ったまま、目の前に広がる青色に目を眩ませながら。先生達が慌てて駆けつけてくるまで、僕らは泣いていた。

その日、家に帰ってから日記の存在を思い出す。手紙と一緒に貰ったのに触ることすらしていなかった。B 5サイズのノートを手に取り、めくる。ほのかに埃の匂いがした。


11月1日。私はあまりベッドから起き上がれなくなった。家族以外面会禁止にして、本当に良かったと思った。母や父がお見舞いに来てくれても、私は話すことも面倒臭くて2人の声に頷くくらいしかできなかった。2人ともほとんど毎日お見舞いに来てくれて、今日仕事であったことやテレビの話題などを楽しそうに話してくれた。

11月2日。変わらずベッドから起き上がれない。体が鉛みたいに重くて動きたくない。トイレに行く時以外はもう、ベッドからは起き上がらない。それでも手紙だけは書いた。これしか旭日に伝える手段がないからだ。だけどペンを持つのも辛くなってきた。最後の手紙、最初に書いておいて良かった。

11月3日。母が祖父母を連れてお見舞い来てくれた。普段は遠いところに住んでいるから久しぶりに会えて嬉しかった。だけど、申し訳なくて泣いてしまった。泣かないと決めたのに。祖父母は困ったように笑って大丈夫だよと言ってくれた。祖父母の話にも、私は頷いて笑うことしかできなかった。帰り際、おばあちゃんとおじいちゃんよりも長生きできなくてごめんねと伝えたら、2人も母も泣き出してしまって、今日は2回も困らせてしまったなと少し後悔をした。

11月4日。旭日が病院の受付で私宛の手紙を渡すようお願いしてきたらしい。私は、一瞬だけ嬉しくてベッドから起き上がった。すぐに冷静になって、その途端体から力が抜けて横たわる。看護師さんが旭日からの手紙を机の上に置いて行ってくれた。私はそれを、緊張しながら開く。

『あのさ、傷つけたとか思ってるんなら心配しないで。僕は傷ついてないから。また、送るね。』

普段通りの、彼の手紙だった。話してる時と何も変わらない不器用な言い回しで優しさに溢れていた。私はその手紙を引き出しの真ん中に仕舞う。彼からまた送られてきたら、ここに仕舞おう。

11月5日。少し、息が苦しかった。変な汗が止まらなくて少しだけ焦った。そうしたら過呼吸になってしまって少しだけ大事になってしまった。申し訳なかった。夜、眠れなくて空を見たら月がすごく綺麗だった。街はとても明るくてあまり見えない星も、海沿いの病院はとても暗くて天の川が見えた。

11月6日。ご飯を食べるのが辛くなった。スプーンを持つこともままならない。多分もうすぐなんだと思う。今日は、空がとても近くてベッドからでも手を伸ばせば届くんじゃないかなんて考えてしまった。

11月7日。朝すごく寒くて、雪でも降るんじゃないかと思った。窓から吐き出した息が、白くなっていた。今日、旭日からまた手紙が届いた。けど、体が動かなくて、お見舞いに来てくれた母に読み上げてもらった。相変わらずさっぱりした、優しい文章だった。

『だんだんと寒い日が続いてるね。君はどう?体調、崩してない?予報では、もうすぐ雪が降るかもって。僕、冬は嫌いじゃないよ。人の体温を感じられるから。』

彼は少し、詩人っぽくなってきたんじゃないかと笑う。笑ったのは、なんだか久しぶりのような気がした。

11月8日。本当に雪が降った。朝起きて少しいつもより寒いなと思ってカーテンを開けたら、ほんの少し白く染っていた。久しぶりにテレビをつけると、例年より大分早く初雪が観測されたとニュースがやっていた。窓から外を見ていたら、子供たちがはしゃいでいてなんだか温かい気持ちになった。

11月9日。できるだけ嘘がないようにしよう。人の痛みを感じられる人になろう。大切な人へ傘をさせる人になろう。心ほど目に見えないから何よりも大切にしよう。そう思って16年間生きてきた。私は、そういう人生を送れたのだろうか。分からない。ただ今は、旭日に会いたい。謝りたい。お礼が言いたい。好きだとしっかりと目を見て言いたい。

11月10日。今日は眠くて、寝てばかりだ。眠るように死ねたらいいのにな。


 10

莉夏の死を僕の素直じゃない脳みそに受け入れさせるのに、半年もかかってしまった。半年かけて莉夏の死を受け入れて、莉夏のきっかけの本を読み終えた。読み終える頃にはもう早柴の本も本屋に並べられる頃で、莉夏の家へ向かう途中に本屋に寄った。『篠井 すみ』を探して本屋を歩き回る羽目になるかと思ったが、そんなことは無かった。本屋に入ってすぐ、「待望の新人!篠井 すみ!」という大きなポップと共に本が積み重なっていたからだ。思わず、すげぇと声に出てしまった。莉夏の元へ持っていく本と自分で読む用と2冊買った。本を読むのはまだ時間がかかるけれど、1年前より嫌いではなくなった。

それから、莉夏の家へとお邪魔させていただいて本の感想と早柴の本を仏壇に添えて、家を出た。風が吹いて、遅咲きの桜が舞っていた。桜は、淡いピンク色をしていた。けれど、空の青と重なる瞬間だけはやっぱり青くなった。




1年後。僕は今日も成宮と話している。早柴のことや彼女のこと。それからあづまさんのこと。最近、あづまさんと僕と成宮の3人で会うようになった。うだるような暑さの中、坂を昇ったところに建ったカフェで会うのが毎回だ。カフェに着く頃には3人とも汗だくで、人は少ないけれどさほどクーラーの効いていないカフェで彼女や早柴のことを話す。カフェのオーナーがあづまさんのお父さんなんだそうだ。どことなく似ていた。あづまさんの家族はあづまさんを全面的に受けいれてくれているらしい。まだまだ世界はジェンダーのことについて理解不足だと感じる。僕もそうだ。だからこれから本を読んだり聞いたりして学んでいこうと思う。変わっていく世界をすんなり受け入れることは難しいことで。だから昔からの風習や考えが今も残っていて。どのくらいの時間がかかるか分からないけれど、変化を受け入れていくべきだと思う。


僕は、受け入れた。彼女の死も、彼女の言ったさよならだけが僕と居た対価だと言う言葉も。受け入れて新しく考えた。彼女を忘れるのは諦めて、彼女ごと愛したまま生きていこうと。僕は最初、愛なんかなくても生きていけると思っていた。けれどそうじゃなかった。人はみんな愛に飢えているのかもしれない。愛されたくて多くの人と関係を持ったり自分を傷つけたりしてしまうのかもしれない。親からの愛情。子供からの愛情。教師からの愛情。友達や恋人からの愛情。色々な愛の形がある。愛し方は1つじゃない。それが当たり前とされる世界になればいいなと思っている。愛の形はそれぞれで、きっと理解出来ることなんてないのだろう。解ったフリをされるくらいなら解らないままでいいと言う人もいるだろう。それでも僕らはそれぞれの愛の形を知るために何かへと必死に愛を求めるのではないだろうか。

僕は前を見て、過去の自分へなのかそれとも彼女になのか分からないけれど呟く。風に乗って彼女の元へも届くんじゃないかと淡い希望を抱いて、さようならと。


それから僕は壊れた。成宮はきっとわかっていたんだと思う。莉夏が死んだら僕はきっとこうなると。だから今もこんな目で見てくるんだ。憐れむような目で。ムカついてくる。イライラする。お前に何がわかるんだ。僕のことなんて知るはずない、分かるはずないのに。

「なんだよ、その目は。見てくんなよ。気持ち悪いんだよ、消えろ」

頭の中の僕が言う。やめろと。そんなんで辞められるのならもうとっくに辞めている。辞められないからこうなっているんだ。

「うるさいっうるさいうるさいうるさい!!!お前に何がわかるんだお前に……!!」
「なあ、旭日」
「呼ぶなっ………呼んでいいのは莉夏だけだ!……莉夏、莉夏莉夏莉夏莉夏莉夏莉夏」

成宮が僕の方を酷く強い力で掴む。そうして目を覚まさせるみたいに揺さぶる。あたまがぐわんぐわんする。おかしくなりそうだ。

「旭日!!旭日!!!起きろ旭日!!!!」

悲痛にも似た声で成宮が叫ぶ。泣いていた。屋上で叫びあった時以来の涙だった。

起きろ………?僕は目は覚めている。眠たくもないし、それなのに起きろとはどういうことだろう。それにこの声はなんだ?僕の声なのに、まるで別人のような。

「起きろ……?何言ってるんだお前。起きてるだろう僕は」
「違う!旭日は起きてない!!俺の知ってる…俺たちの知ってる佐川旭日はお前じゃない!!」
「なんでそんなこと分かるんだよ!分かるわけない!だって僕らは他人だろう!!」

そう言うと成宮が少し怯んだ。何かを抑えるようにグッと唇をかみ締めてから口を開く。まるで大切なものを扱うかのように。一つ一つの言葉を紡いでいく。

「分かるよ……っ。だって佐川旭日は、言葉の重さも鋭さも知ってる。言葉は刃物だ。だから一つ一つの言葉を刃物にしないように伝えるんだ。人を傷つけないように言葉を使うんだ」

そこで気がついた。『僕』は僕では無い。佐川旭日はこんなんではない。大切な人を、大切な友達を傷つけるような奴じゃない。言葉は刃物だから、傷つけないように使うのが佐川旭日だ。そう彼女から教わったから。



11.

僕の世界の全てだった莉夏が死んで、僕は壊れたんだと自覚した。カレンダーを見ると、2年が経過していた。そして僕のいるところは病院のベッドの上。ここ数ヶ月の記憶が全くない。どうして成宮が泣いているのかも病院のベッドの上に僕がいるのかも何も分からない。今まで僕と成宮がなんの話しをしていたのかすら分からない。いい話では無いということだけがその場の雰囲気でわかった。
成宮はどうして泣いているのだろう。もしかしたら傷つけたのだろうか。僕のせいだろうか。

「…………なに、成宮?なんで泣いてるの?」

そう問いかける僕の方が泣きそうな声をしていた。成宮はゆっくり顔を上げる。驚いた顔をしていた。それから微笑んだ。なんだか安心しているように見えた。

「お名前は?」

医者みたいなことを聞いてきた。少しムッとしてしまった。なんなんだ、急に。

「なんだよ急に。よく知ってるだろ。僕は佐川旭_____」

成宮が飛びついてきた。抱きついてきたのでは無い飛びついてきたのだ。正直痛かった。肋が特に。
ようやく気がついた。自分が生きていることに。いや、そりゃあそうなんだけど。何となく生きている感じがしていなかった。

「旭日…………!!!起きたな………っ、起きたな……っ。よかった…っ、ほんとによかった……っ」

その言葉たちで少しずつ、記憶が戻る。


過去の自分なのかそれとも彼女へなのか分からないけれど、さようならと呟いた次の日。僕は『僕』になっていた。


「莉夏のいない世界なんて生きている意味が無い!!!」
「旭日って呼んでいいのは莉夏だけだ!!!」
「お前らに何がわかるんだ!何も知らないくせに!!」
「僕の辛さも苦しさも分かるわけないだろ!!分かられてたまるか他人なんかに!!!」
「母親だからってなんだ!?どうせ他人だろう!?僕のことなんて分かりもしないくせに!」
「成宮なんてもっと他人だろ!!」

僕はそうして沢山の人を何回も傷つけて、殺した挙句死のうとしたんだ。橋から飛び降りて彼女の元へ行こうとしたんだ。けれど空はまだ迎えに来てはくれなかったみたいだ。僕はまだ息をしている。



成宮の声が滲んでいた。泣いているけれど先程のとは違うのが分かる。安心や喜びみたいな声をしていた。

自分の言った言葉たちを思い出して、苦しくなった。実際に刃物を向けたのは僕なのに。刃物を向けられて刺された人達に今すぐ謝りたい。どんなに痛かっただろう。どんなに苦しかっただろう。何人の人たちを僕は、何度殺したのだろう。言葉が刃物だなんてそんなこと、知っていたのに、分かっていたのに。分かっているつもりになっていただけなのだろうか。実際心の底では分かっていなかったんだろうか。彼女からあんなに教わったと言うのに。


僕らはいつだってそうだ。大抵、周りに気付かされる。無くなってからしか大切なものに気づけない。無くなってから大切なものの大切さに気づくんだ。それじゃあもう遅いのに。大切なものほど傷つけてしまってから無くなってからしか気づけないなんてあまりに酷い話だ。
それなら最初から手になんて入れなければいいのに。大切なものほど手に入れようとしてしまう。そうして、壊すんだ。手に入ったものはいずれ壊れてしまうとわかっているはずなのに。必死に手に入れようともがいて他人同士なりに分かり合おうとするんだ。


僕らは確かに他人だ。だから分かり合おうとしても限界がある。分かり合えないことだってあるかもしれない。他人じゃないのは結局、自分自身だけなのだと僕は思う。自分自身の本質的なところは自分しか知らないのだと思う。それでも僕らはお互いに求め合うように息をするのだろう。そしてきっと僕らは生きている限り大切なものを手に入れるために必死になり、時には壊したり手離したり。愛を求めて繰り返していくんだろう。分かり合えなくて傷つくことも傷つけてしまうことも多々あるだろう。それでも僕らはそうしていかないと生きていけないのかもしれない。愛がなければ、生きていけないのかもしれない。

































































































































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