湖面に写る月の環

53

俺は探偵であり神だから、何をしようと死ぬことは万が一にもないが、彼はそうじゃない。どちらかと言えば守られる側であるし、貧弱な人間なのであまり無茶をされると心配しそうになるので、やめて欲しい。淡々と話す先輩が、考察を交えながら話し出す。俺はそれを聞いては、時折返事を返す。
「ひがしさんは」
「にしさんか……」
「みなみさんはな」
「あ~、きたさんか。彼女は――」
――と、いうか。
「ああもう! 頭こんがらがる!!」
「と、突然どうした?」
むしゃくしゃする気持ちに、思い切り声を上げる。先輩の声を振り払うように叫んだ声は容赦なく彼を驚かせ、見開いた目がこちらに向けられる。しかし、そんなのも気にならない程、俺は参っていた。
(ひがしにしみなみきたって!)
「なんで全員ペンネームなんだ⁉ 名前で呼べばいいだろ!」
「えっ。そんなこと言われても……」
「毎回毎回直すのダルい! 面倒だ! ちゃんと名前で呼べ!」
――そう。さっきから会話の端々に出てくる方角の名称。それは彼女たちのペンネームで、それを聞くたびに俺は方角なのか、人間の名称なのかを考え、更に誰だったのかを思い出す必要が出て来てしまうのだ。こっちは名前で憶えているからこそそこに時間と思考の差が表れてくるのが、何とももどかしい。つまり。
(普通に呼べばいいじゃねーか!)
その気持ちしかない。
「うつるからやめてくれ!」
「そんな。今更言われても」
「僕はこれで定着してるし」と言う彼に、ぐぐっと言葉を詰まらせる。……確かに今更ではあるけれど、まさかこんなに洗脳されそうになるとは思っていなかった。
(もうこうなったら自棄だ!)
「……いい」
「何?」
「もういい! 俺もそうやって呼ぶことにする!」
「えっ」
「何だよっ、文句あるのか!」
驚く先輩に噛みつくように声を荒げれば、「あ、いや」と首を振られる。どっちつかずな返事にも聞こえたが、気のせいだろう。文句があるならまた今度言ってくれ。
(まったく……これだから先輩は)
俺は呆れたようにため息を吐き、

――少年は思う。幽霊ごときに負けられるかと。
手元に乱雑に書き記した情報を頭の中に再度詰め込み、一つ一つ整理していく。
「一年前に婚約……異変が起きたのが三か月前……脅迫状が届いたのが、一週間前と三日前の披露宴……」
ガリガリと筆圧の強い文字が、メモ帳に刻まれていく。異変はともかく、脅迫状はどちらも新聞や雑誌を切り貼りした怪文書。つまり、人間以外には作る事も書くことも出来ない代物なのだ。
(……犯人は必ずいる)
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