秘書と社長の物語
予想通り、彼女を俺の直属にするという発表に、皆がざわついていた。

営業に配属されると信じて疑っていなかった彼女自身も、かなり動揺しているようだ。

「お前はこっちだ、付いて来い」

ん?聞こえてないのか?

「何してる!早く来い!」

ああ、小走りがかわいい。

部屋に入ってソファーに座るよう促すが、何故か彼女は動かない。

「ブラインドタッチはできる?」

俺の質問に意識を取り戻したらしい彼女が、否定と共に首を振る。

かわいい。

ソファーに移動してパソコンを起動させ、タイピング練習用のソフトを開く。

「とりあえず、これで練習して」

一度見本を見せてから、俺の隣に座るよう呼び寄せて、実際にやってみるように促す。

緊張してるのか、指を震わせながら懸命にタイピングをする彼女は、抱きしめたくなる程のかわいさだ。

手を出しては駄目だ、犯罪だ。

理性を総動員させ、じっと彼女を見守る。

いつまでも見ていられる気がした。

駄目だ、いい匂いがする、耐えられない。

これ以上そばにいるのは危険と判断して、自分のデスクに戻った。

仕事を進めながらチラチラ彼女を見ているが、凄まじい集中力だ。

そろそろ昼が過ぎるというのに、ずっと練習を続けていて、もうタイピングは習得しているように見える。

声を掛けづらいが、このままというわけにもいかないので、立ち上がって声を掛けた。

「昼めしに行く」

余程集中していたのだろう、一息ついてリラックスした雰囲気の彼女もかわいいが、、

「早くしろ、置いてくぞ」



会社のそばにある創作イタリアンの店は、少し値は張るが間違いなく美味しいと評判なので、昨日の内に予約しておいたのだ。

昨日の俺に賛辞を贈ろう。

最初は半ば嫌々付いてきている感じだった彼女だが、蟹味噌のパスタを一口食べた途端、なんとも言えない表情で、なんていうかもう幸せが溢れだした。

夢中でパスタを平らげる彼女を、ずっと見ていたい。

俺の分もあげたいくらいだが、多分それは求められていないので、また別の店に連れて行こう。

デザートを食べ終わり、やっと落ち着いた様子の彼女は、面接の時以来となるまっすぐな目線を俺に送ってきた。

ああ、ありがとう、蟹味噌。

そうか、何か足りないと感じていたが、彼女は俺の顔を見ようとしていなかったんだ。



その後彼女の様子を注意深く伺ってみると、どうやら彼女は俺に怯えているようだった。

これまで新卒採用をしていなかったこの会社で、俺はかなり若い方だ。

若い俺にやたら舐めた態度で接してくる営業の奴らに、横柄な態度と強い口調で威圧する癖がついていた。

最近は、彼女のことも加わって、常にイライラしていたのも原因のひとつだろう。

彼女は主に営業部で研修を受けていたのだ。

横柄で威圧的でいつも不機嫌な俺のことを、彼女が怖いと感じたのは当たり前だった。

だからと言って、彼女を手放すつもりはさらさらない。

これからは常に一緒に過ごすのだから、焦る必要もない。

彼女が警戒を解くまでは、むやみに接近せず、様子を伺うことに徹することにした。

その間にパソコンに慣れさせて、問題なく書類作成できるようになってもらえば一石二鳥だな。

少し距離を取り、様子を見守る。

すると彼女はみるみるパソコンスキルを習得し、独自に秘書検定の勉強もしているようで、数週間で見違える程秘書らしくなってきた。

これは想定してた以上の収穫だ。
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