秘書と社長の物語
入社式を終え、新入社員の私達は数日間座学で派遣に関する知識を学んだ。

その後各部署を回って、実務を体験する。

新人のほとんどが配属される営業部では、特に念入りなOJT指導を受けた。

ローテーションで先輩の外回りに同行させてもらうようになって数週間が経ち、ようやく配属が決定した。

どうせなら優しい先輩の下に付けたらいいな!と願っていたせいだろうか、強力な物欲センサーが作動してしまったようだ。

私の配属先は『社長直属』という、もはや部署すら定かではない場所だった。

ちょっとどういうことなのか意味がわからない。

助けを求めて周りを見回しても、周りの人達も私がこの先どうなるのか見当が付いてないようで、全体的にざわついている。

挙動不審全開で目を泳がしている私に、社長からお声が掛かった。

「お前はこっちだ、ついて来い」

突然のことに戸惑って涙目で同期を見ると、同情の眼差しを送られた。

「何してる!早く来い!」

「はいぃ!」

びびって情けない声が出てしまったじゃないか、恥ずかしい、泣ける、誰か助けて、お願いだから。



小走りで社長の元に向かい、続いて社長室へと入る。

「すぐにデスクを入れるから、それまではそこで作業するように」

と言いながら、社長が立派な応接セットに目線を送った。

社長室は確かにかなり広くてスペースにも余裕がある。

でも、ここにデスクが入るということは、私は一日中社長と同じ部屋で仕事をするということなのか。

なにそれ、嫌かも、嫌過ぎる。

社長は遠くから眺めるくらいが目の保養になって丁度いい。

入社してわかったのだが、社長は無愛想だし、いつも不機嫌そうでかなり怖い人だ。

面接の時のあのいい雰囲気は、完全よそ行き仕様の社長だったらしい。

あれがお見合いとかだったら、詐欺で訴えることも可能ではないかと思える程の豹変ぶりだ。

現実逃避であらぬ方向に思考が向かってしまっている私に社長が再び声を掛けてきた。

「ブラインドタッチはできる?」

スマホ世代な私は、あまりパソコンには触り慣れていない。

「できません」と首を振ると、社長がノートパソコンを持って応接セットへ移動した。

「とりあえず、これで練習して」

社長はパソコンを開くと、タイピング練習用のソフトを開いて見本を見せてくれる。

隣に座るように促され、社長に見守られながら、見本と同じようにタイピング練習をする。

なんてシュールな状況なのだろう。

緊張で手が震えるが、とにかく私はパソコンの画面に集中した。

しばらくすると社長は自分のデスクに戻り、なにやら仕事を始めた。

私はタイピングの練習に集中することで、この意味不明な時間をやり過ごした。

部屋から出て行く素振りの社長に声を掛けられ、お昼の時間がとっくに過ぎていることに気付く。

「昼めしに行く」

やっと社長から解放されると思ってほっと息を吐いたら、ドアの外でこっちを見て立ち止まっている社長と目が合った。

「早くしろ、置いていくぞ」

かつてない程の集中力を発揮できたおかげで、タイピングはかなり上達していたが、社長とランチに行くくらいなら、ずっと練習していたい。

だがしかし、私に拒否権はない。



いつか社長に慣れる日が来るのだろうか、と不安に思った数十分後。

社長に「歓迎会の代わりだ」と連れて行かれたちょっといいお店の高級ランチが最高過ぎて。

今まで私がパスタだと思って食べていたアレはパスタじゃなかった可能性を感じたし、蟹味噌に感動して泣く寸前。

社長!私、頑張りますね!

デザートの桜アイスの上品な甘さに震えながら、私は心の中で社長に忠誠を誓っていた。

デザートの後、お茶をいただきながら、社長から私の仕事について説明された。

言ってしまえば、私は社長秘書なのだという。

これまで秘書はいなかったので、業務内容はその都度必要に応じて決めていくつもりとのこと。

しばらくの間は、パソコンのスキルを上げ、各種書類作成ができるようになって欲しいと言われた。

わからないことがあれば、社長自ら教えてくれるという。

聞きづらいけどしょうがない、さっき忠誠誓っちゃったし、頑張ろう。

会社に戻り、早速社長に学生の頃習ったきりのパワーポイントの基本操作をおさらいしてもらった。

そして、以前社長が作成したという資料の束を渡されて、同じ資料をゼロから作って操作に慣れるよう指示された。
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