秋恋 〜愛し君へ〜
9月10日、今日は夫人の誕生日だ。お祝いと日頃世話になっている礼も込めて、俺はブラウン夫妻をシンガポール内で超高級とも言われるホテルのフランス料理店に招待した。それは自分自身の勉強のためでもあった。
夫人は席につき、最上階から見える夜景を眺めていた。

「秋、今日は本当にありがとう。最高の誕生日プレゼントだわ」

「そうだなぁ、ありがとう、秋」

「喜んでもらえてうれしいです」

「秋には結婚したい女性がいるんだね。妻から聞いた。とても素敵な女性だそうじゃないか」

俺が夫人に目をやると、彼女は少し両肩を上げ微笑んだ。

「はい、この研修を終え、キャプテンになったらプロポーズしようと思っています」

「こっちに来てからもう半年が経ったんだよなぁ、早いなぁ」

彼は、食前酒をひと口だけ飲み、手にしていたグラスを眺めながら言った。
この人の仕草は、何もかもが様になる。

「なんだかあっという間でした。毎日が必死で」

俺たちは運ばれてきた料理を世間話をしながら食べた。特に勇次の話題になると2人とも目が輝いた。そんな会話の間でも俺はスタッフの動きをチェックすることを怠らなかった。

デザートも食べ終わり、飲みかけのコーヒーをソーサーに置くと、総支配人が俺にゆっくり視線を向けた。

「ホテルマンとしてのサービスとは君にとってどういうことかね?」

俺はいきなりの質問でしばらく考え込んでしまった。

「ホテルマンとしてゲストを満足させるという事は基本中の基本だと思います。でもサービスとは?と聞かれると困ってしまいます。それは、言葉では表現しがたいことだから。でもただ一つ、満足させるにあたってのサービスの中身にマニュアルなんかないことをこっちに来てからより一層痛感しました」

俺はそう答えた。

彼は小刻みに頷きながら俺の顔を見つめていた。

「最後に3人揃ってこんなに楽しい食事ができて本当によかった」

「最後?最後ってどういうことですか」

俺が訊ねると、彼はスーツの内ポケットから取り出した一枚の封筒を俺の前に置いた。 

封はしていなかったので、視線で了解を得て中身を見ると、飛行機のチケットが入っていた。日付は9月20日、俺の名前が印字されている。行き先は成田。
俺は突然のことに戸惑い言葉を失った。

「日本に帰りなさい。陽子が待っている」

「えっ⁉︎」

「研修は終わりだ」

「でもまだあと半年」

「一年というのは義務ではない」

「秋、よくがんばったわね」

夫人が微笑んだ

もしかして認められた?俺が黒服⁉︎

「秋、陽子を助けてやってくれ」

俺は喜びという感情の小さな光が段々体中に広がっていくのを感じていた。



帰国の日、夫妻は揃って見送りに来てくれた。出発のアナウンスが流れ、俺は椅子から立ち上がった。

「お世話になりました」

「楽しかったわ。あなたに会えて本当によかった」

「夫人の瞳に涙の膜が覆っていた」

俺は夫人をそっと抱き寄せた。

「Thank you mom」

その瞬間夫人の涙は、滝のように勢いよく流れ、いつまでも止まらなかった。
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