桜の鬼【完】

今日視えた中にある《今日の先》は――来訪を告げる使用人の声、当主に頭を下げるその大叔父。自分を呼ぶ蔑んだ声音。そして、雪の背中。

しんしんと、降り積もる雪の、別れたおかあさん。

……もう、還ることのない人だとはわかっている。けれど、人間に絶望していなくとも、諦めていなくとも、不意に淋しくなることはある。私の世界には私しかいない――『湖雪』と名を呼んでくれる誰かも、ましてや自分を必要としてくれる誰かも――

夢を見るより儚い、願い。おばあさん――顔も思い出せない優しい人が『孫』と呼んでくれた自分はどこに行ったのだろう。……ああ、あの家を出たときにいなくなってしまったのだ。

そんなことを考えながら――そんなことでも考えていないと、本当に自分はただの《夏桜院湖雪》になってしまう。

肯くだけの、肌の温かいだけの、心臓が動いているだけの意思のない人形に。

それが、この家が必要としている跡取り、夏桜院湖雪。……だとしても、人形にはなりたくなかった。一分(いちぶ)の隙でもいいから―――人間でありたかった。

布団から出て学校に行く支度を済ませたころ、使用人の一人が声をかけた。

「お嬢様、お支度整いましてございましょうか」

旭日(あさひ)という名の、湖雪付きの年若い女性だ。それ以上を湖雪は知らないし、訊くことも出来ない。下手なことを口にすれば、父であり当主である幹人に沈黙という叱りを受ける。

「ええ」

そう返してから、部屋を出た。

湖雪がこの家に入ったときに居た祖母――当主、幹人の母は六年前に他界している。使用人ばかりに囲まれている生活の中で、唯一血の繋がっている父とは、顔を合わせるが目は見ない。言葉を交わすのも、家の用事で湖雪が必要な時だけだ。

―――湖雪は妾腹(しょうふく)の娘だった。

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