夫婦間不純ルール

 今ここにいるはずのない奥野(おくの)君が、私の顔を覗き込むようにして声をかけくるなんて。それも走ってきたのか、彼は息を切らし額には汗をかいていた。
 驚きで溢れていた涙もピタリと止まり、ただ唖然として彼を見上げていると……

「俺に会いたいって思ってここに来てくれたんですよね、違いますか?」
「ちが……」

 はっきり違うとは言えなかった、確かにここに来るまで私が頭の中で思い浮かべていたのは奥野君だった。私と岳紘(たけひろ)さんの秘密については話せないけれど、夫に別の女性がいると教えてくれた彼にしかさっきの出来事を打ち明けられない気がして。
 いつもならば真っ先に相談するのは親友の真理(まり)なのに、今一番に自分が望む言葉を与えてくれるのは奥野君だと感じていたのかもしれない。

「違いますか? 本当に違うのならこのまま帰ってもいいんですけど」
「あ……」

 私の曖昧な態度に奥野君は困った様にそう言った。彼なりに気を使ってくれたのかもしれないが、今一人にされるのは辛すぎて。気付いたら彼のシャツの裾を掴んでしまっていた。

「嘘です、そんな顔をした(しずく)先輩を一人に出来るほど俺は人でなしじゃないですよ」

 そう言って向かいの席に座ると、そのまま笑顔でマスターにコーヒーを注文する。もう閉店時間だって彼は知っているでしょうに。いつの間にかカウンターに戻っていたマスターは小さく頷くと、こちらに背を向けるようにしてコーヒーを淹れ始めた。
 それが私たちの話を聞く気はない、という彼の配慮なのだとすぐに分かった。


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