まあ、食ってしまいたいくらいには。


今わたしは目の前で、大切なひとを失いかけている。

自分じゃなくて誰かが、こんなふうになっているのは初めてで。


その恐怖に堪えきれなくなって、泣きながら名前を呼んだ。


何度目かで愔俐先輩が煩わしげに眉宇を寄せた。



「お前は本当にうるさいな」


またしても腕をひかれる。


それは、さっきよりも弱い力だったけれど。

油断していたわたしを引き寄せるのには充分だった。




「……んっ、ぅ」



柔らかく微かに温かいものが、唇に触れた。



それは時間にすれば一秒にも満たない短いもので。




「甘ったるい」


理解が追いついた瞬間。

ひとつの感情に支配されていた頭に、じわじわと流れ込んでくるそれは。


長らく、わたしが知り得なかったものだった。



「……ちゃんとキスするの、初めてだったんですけど」


すると、あろうことかこの男。

いつかと同じように、愉しげに唇の端を歪めてから。





「面白い」



そこにあるはずのない温かさを感じたのは。

きっと、気のせい、なんかじゃなくて。


わたしが微かに笑ったのを見届けてから、


愔俐先輩は役目を終えたように瞼を下ろした。



< 219 / 236 >

この作品をシェア

pagetop