記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜

【閑話】王太子の現状

 
 ガスッ!

 視察から帰国するなり、王太子の執務室に乗り込んだアーレンス国王ユリウスは、机で書類に目を通していた自身の息子を殴り付けた。

 国王の息子──つまり王太子であるデーヴィドの手にあった書類がはらりと絨毯に吸い寄せられる。

「陛下、落ち着いて下さい」

侍従に窘められるが国王は肩で息をしたまま憤怒の形相を崩さない。

「落ち着いてられるか!聞いただろう!?こいつのしでかしたことを!!」

 顔を真っ赤にして怒り狂う父親を、尻もちをついたままでデーヴィドは睨み付けた。
 口の中に鉄の味が広がる。

「お帰りなさいませ父上。視察ご苦労さまでした」

 悪びれる事無く、デーヴィドは立ち上がりトラウザーズをはたいた。

「貴様……、自分が何をしたのか分かっているのか!?」

「何を……、ああ、婚約破棄の件ですか?」

 殴られた頬をさすりながら、デーヴィドは無表情に父親を見やった。
 その異質な様子に国王は一瞬たじろいだが、すぐに居住まいを正す。

「アドルフの娘を一方的に婚約破棄し、どこぞの男爵令嬢を婚約者としたそうだな。
 何故そんな勝手な真似をする?」

「政略的に結ばれた相手より、愛する女性と結婚するのはおかしな事では無いでしょう?
 父上のように」

「俺とフローラは政略結婚だった。婚約者となってから愛を育んで来たんだ。勿論浮気などしていない」

「え……」

 デーヴィドは意外だ、と言わんばかりに口をつぐんだ。
 両親の仲は息子から見ても仲睦まじい。国王ユリウスは王妃である妻フローラに寄り添い、妻も夫をたてる女性である。

 傍目からも愛し合っている国王夫妻、だが己の結婚相手は父親から勝手に決められたと思い込んでいたデーヴィドは、シャーロットの屈託なさに惹かれ徐々に婚約者のカトリーナでは無くシャーロットと過ごす時間を増やしていった。
 カトリーナよりシャーロットと一緒にいる方が気が楽だったし、耳元で愛を囁きあったり身体に触れても咎められなかった。
 カトリーナは「はしたない」と、手を繋ぐくらいしかできなかったし、デーヴィドもそれ以上を望みながら強くは言えなかったのだ。

 堂々と愛し合いたいシャーロットは都合が良かった。例えそれが貴族令嬢として眉を顰められるものでも。
『自分が選んだ女性』というのも、デーヴィドからすれば親への反抗心として満足していた。

「お前とカトリーナを婚約させた事が間違いだったよ。アドルフに申し訳が立たん。
 追って沙汰を言うまでこの部屋で謹慎せよ。
 ……ああ、奥にいる女は追い出せよ」

「……っ」

 デーヴィドの顔は強張った。
 執務室の奥には横になって休憩できるようにベッドが備え付けてある。
 今そこにいるのは──。国王はそこまで把握していた。


「デーヴィド……?」

 執務室の奥から、愛しの女性が下着姿で顔を出した。

「デーヴィド……!顔が腫れてるわ…」

「シャーロット……」

 心配そうに自分を見て来るシャーロットを見て、デーヴィドは胸を高鳴らせた。薄い下着越しに触れる温もりに安堵して抱き寄せ口付ける。

「やだ……、顔が腫れたあなたとはしたくないわ」

「……え…」

 シャーロットの下着の中に手を滑らせようとしたが、やんわりと拒否された。

「戻ったらまた沢山愛し合いましょ。
 そろそろ帰るわね。顔が治ったらお手紙ちょうだい」

 ふふ、と笑ってシャーロットは再び奥に消えた。

 父親に叱られ、デーヴィドは少しばかり心細くなっていた。だから縋るようにシャーロットを抱き寄せたのに。
 離れてしまった温もりを追いかける事もできず、執務机の椅子に力無く腰を下ろした。


『だいじょうぶ?』

 ふと、幼い頃の遠い記憶がよみがえる。

『お顔怪我してるわ。待ってて、侍女を呼んでくるから』

 いつの日だったか、弟と追いかけっこで走っていて、顔から転んで擦りむいてしまった事があった。
 そこに小さな女の子が通りがかり、デーヴィドに声をかけたのだ。
 女の子は持っていたハンカチを渡すと、金色の髪を翻して侍女を呼びに行った。

 戻って来た彼女は息を切らせて空色の瞳をいっぱいに開いてデーヴィドに駆け寄って来たのだ。

『大変、血が出てるわ!』

『これくらい、何ともない』

 本当は痛かったけれど精いっぱい強がった。自分より小さな女の子の前で無様な姿を晒したくなかったのだ。
 その後侍女に手当をして貰い、彼女のハンカチは洗って返すと言ったが名前も聞き忘れてしまっていて会えなかった。


『オールディス公爵家のカトリーナ嬢だ。
 宰相の娘さんだよ。仲良くしてやってくれ』

 思いがけない再会は間を置かずしてやって来た。
 国王の親友であるオールディス公爵の娘を遊び相手として連れて来たのだ。
 その少女は金の髪に空色の瞳、いつかのあの女の子だった。

 デーヴィドはカトリーナと一緒によく遊んだ。
 何かと面倒を見る彼にカトリーナが懐いたのだ。
 デーヴィドの弟ヴィルヘルムはまだ母親恋しい年齢だった為カトリーナとはあまり遊ぶ事は無かった。

『デーヴィドとヴィルヘルム、どちらかをカトリーナ嬢と結婚させようと思う。カトリーナ嬢はどちらが良いかな』

 半年程経過した時、国王ユリウスが言った。
 デーヴィドは自分が選ばれたかった。
 案の定、カトリーナはよく一緒にいたデーヴィドを選んだ。


 確かにそのときは嬉しかったし、まだ小さな女の子を守るんだ、と小さく決意した事もあったのだ。


「なんで……今……」

 デーヴィドはくしゃりと髪をかきあげた。

 いつからだろうか。カトリーナの事を可愛いと思えなくなっていた。
 それでも政略的に結ばれた婚姻だと言い聞かせ、婚約者として常識的に接していた。

 だがシャーロットと仲良くなるにつれ、カトリーナは攻撃的になっていった。
 最初は己に対する嫉妬からかと喜びもあったが、激化する度辟易していった。
 窘めるのも嫌になり、次第に無理するようになっていた。

 それでも追い縋るカトリーナを鬱陶しく思い、──嫌がらせの一環として醜悪伯爵にカトリーナを押し付けたのだ。

 それをしたのは自分であるのに、記憶を失っただけで嫌っていた醜悪伯爵との婚姻を拒まなかったカトリーナに何故か苛ついた。


「クソッ」

 貴族院に婚姻届を無理矢理提出したのは自分だ。
 だが無効の申し立てもされておらず、それもまた自分勝手に苛立った。

 加えて父親に謹慎を言い渡され、シャーロットに拒絶された。


 デーヴィドは己の中に燻る苛立ちが何なのか、どこか胸が痛むのは何なのか。


 窓の外に映る空を見上げれば、思い出すのは己が手放した少女の瞳だった。
< 13 / 44 >

この作品をシェア

pagetop