あなたがそばにいるから


 8月25日。
 昼過ぎに外出から戻ると、なんだかフロアが騒がしかった。
 そそっかしい渡辺が、コーヒーを派手にぶちまけてしまったらしかった。
 小山田さんがため息をつきながらデスクを拭いているが、当の本人はいない。
「遥ちゃんと一緒に、布巾持って給湯室行ったわよ。ああ、行くならこれも持ってって捨ててくれる?」
 小山田さんに、使い捨ての布巾を押し付けられた。



 給湯室は、扉がない。廊下から入ろうとしたら、渡辺の声が聞こえた。
「シミになりませんか?」
「大丈夫。黒だし、大したことないよ」
 答えているのは藤枝だ。
「ヤケドしてませんか?」
「うん、大丈夫」
「すいませんでした」
「気にしないで。でも気をつけて。パソコン壊れたら大変だし」
「……あの、お詫びに……今日」
 あっまずい。
「おつかれー」
 俺は素知らぬ顔で給湯室に入って行った。
 渡辺は俺を見て、言いかけたことを引っ込めた。悪いけど、それは最後まで言わせる訳にはいかない。
「あれ、おかえり赤木」
「おう。これ、小山田さんに押し付けられた」
 使い捨ての布巾を見せると、藤枝が苦笑してビニール袋の口を広げた。
「はいどうぞ」
「はいよ」
 袋に布巾を入れる。
 渡辺がじっと俺を見てるけど、気にしない。
「あっ、新しい布巾頼まれてたんだ。持ってって渡辺君」
「はい、これですよね」
 渡辺が、新しい使い捨て布巾をロールで持って行く。
「コーヒーかかったのか?」
「うん、でもここだから」
 言いながら指差したのは、黒いパンツの膝だった。
「大丈夫か?」
「うん。私よりもコースターがさ」
 藤枝がいつも使っているコースターは、白いレースの物だった。レース編みが趣味の友達にもらったんだそうだ。
 真っ白だったそれは、無残にも茶色く染まっていた。
「漂白すれば落ちそうだけどな」
「まあやってみるよ。いっそコーヒー色でもいいけどね」
 苦笑して、とりあえず、と水洗いを始める。
 その横に立って、様子を見る。
 いつもと同じ。特に機嫌は悪くなさそうだ。
「今日、給料日だろ。飲み行くか」
「うん、いいよ。他に誰か誘う?」
「どうだろ。声かけてみるわ」
 そう言っておけば、藤枝は自分から声をかけることはしない。知ってて言った。そして、俺は今日は誰にも声をかけない。

 ……つもりだったのに。

「あ、赤木君お疲れ〜」
「お疲れ様です」
 少し遅れて行った居酒屋には、藤枝と、小山田さんと渡辺がいた。
「帰る時に一緒になったの」
 そう言って、藤枝は無邪気に笑う。人の気も知らないで。
「お疲れ様でーす」
 一応笑顔を作って、空いている渡辺の隣に座った。

 本当は、藤枝と2人で飲んで、頃合いを見てさりげなく『付き合おう』という話に持っていくつもりだった。
 でも仕方ない。いつも帰りには送って行くんだから、その時にしよう。

 ……そう思ったのに。

「ちょっと渡辺君、飲み過ぎ」
 駅までの道。飲み過ぎた渡辺に寄りかかられた小山田さんが悲鳴をあげる。
「ほら渡辺、送ってやるから来い」
 渡辺を小山田さんから引きはがして、脇に抱える。
「いやです!あかぎさんちにいってのみなおしです!」
 歩いてはいるものの、フラフラだ。なんでこんなに飲んだんだ。
「……ダメだこりゃ。とりあえずタクシー乗せるか」
 呟いたら、藤枝が苦笑する。
「1人じゃ駄目じゃない?赤木付いてってあげなよ」
「藤枝はどうすんだよ」
「小山田さんと、もう一軒」
 うふふ、と女性2人は微笑み合う。
「じゃ、後はよろしくね、赤木君」
「お疲れ〜」
 いい雰囲気のカフェバーを見付けたって言ってたから、そこに行くんだろう。

 ……またか……。

 実は、2ヶ月くらい前からこんな感じだ。
 俺が『付き合おう』と言おうとする時に限って、誰かがいたり、どっちかが残業になったりして、言う機会を逃している。
 まるで見えない何かに邪魔されてるみたいだ。



 ため息をついて、渡辺と一緒にタクシーに乗る。
 前に一度、同じように送って行ったことがあるから住所はわかる。
 走り出してしばらくしたら、シートに沈んでいた渡辺がうなるように言った。
「赤木さん……藤枝さんは……」
「小山田さんともう一軒行くってさ」
「……あの……藤枝さんとは……」
 俺はちらっと渡辺を見た。
 顔は可愛い。女性社員の中ではワンコ系だと言われている。背も高い方だ。俺より少し低くて180cm弱。細身で、しっかりとした体つき。
 仕事もできる。飲み込みが早いし、気も遣える。おっちょこちょいが玉にキズだけど、すぐにいろいろ任せられるようになるはずだ。
 素直でさわやか。友達ならいいヤツだと思う。
 ライバル、しかも恋敵にはしたくない。

「……付き合ってるから」

 嘘をついた。
 我ながら、小さい男だと思う。
 でも、こう言っておかないと、こいつはどんどん藤枝に近づいてしまう。

 渡辺は、深く息をついた。
「悪いな」
「……いえ」
 タクシーが渡辺の家の近くに着いた。
 渡辺はまだフラついていたけど、俺が家まで送ろうとしたら断ってきた。
 俺が同じ立場なら、同じように断る。
 だから、断られてやった。
 フラつく渡辺がマンションに入って行くのを見届けた。

 なんとしても、今日言おう。
 さっきついた嘘を、本当にしなければ。

 タクシーには最寄り駅まで向かってもらった。
 その間に、藤枝にメッセージを送って、どこにいるのか確かめる。
 まだ小山田さんとカフェバーにいると返事が返ってきた。

 電車で、会社の最寄り駅に向かう。
 藤枝がいるカフェバーは、会社とは駅を挟んで反対側にある。
 店に入ると、ちょっと奥まった席にいる藤枝と小山田さんが見えた。
 こっちを向いていた小山田さんが手を振ってくれた。
「あれ赤木、来たんだ」
 藤枝は俺を見るとへへっと笑った。ちょっと酔ってる。
 小山田さんは、俺が座る前に帰り支度を始めた。
「さて、そろそろ帰らなくちゃ」
「えー」
 藤枝は不満そうだ。
「明日もあるでしょ?」
 藤枝にそう言って、俺にはニヤッと笑う。
「遥ちゃん、ちょっと酔ったみたい。よろしくね、赤木君」
「小山田さあん」
 すがろうとする藤枝を優しく止める。
「お会計しとくから。精算は明日ね」
 じゃあね、と小さく手を振る。
「私も彼が来てくれるから」
 幸せそうに笑う。それは引き止められない。

 小山田さんは、最近恋人ができた。
 学生時代の先輩の紹介で出会ったらしい。
 今日も居酒屋で惚気られて、正直凄くうらやましかった。
 そんな俺の気持ちを察してくれたらしい小山田さんは『頑張ってね』と言い、ささっと帰ってしまった。

 まだしゃべりたりなかったのか、藤枝は不満そうな顔だ。
「ほら帰るぞ」
「はあーい」
 促すと素直について来た。
 電車に乗ると、眠そうにまばたきを繰り返す。
 眠いのか……話なんて、聞いてくれるんだろうか。

 電車を降りる。最寄り駅は同じ。
 ここからは、いつものパターンだ。
 俺の家とは反対側の藤枝の家に行く。
 ここ半年くらいは、帰りが一緒になった時は、いつも送る。時間が何時でも、いつもそうしていた。
 そして、マンションの部屋の前まで送り届ける。
 帰したくないという本音を紛らせるために、いつも藤枝の頭をなでていた。
 何回か続けたら、その後ちょっと嬉しそうに笑うようになった。
 その笑顔が見たくて、続けていた。

 でも、今日は、いつもと同じじゃない。

 眠そうに歩いていた藤枝は、部屋の前まで来ると、鍵を開けた。
 そして、いつものように振り返る。
「ありがと、赤木。気をつけて帰ってね」
「ああ」
 その後は、いつもなら、俺が藤枝の頭をなでるところだ。
 今日は、手が止まってしまった。

 ヤバい。緊張してる。

 動かない俺を、藤枝が首を傾げて見ている。

「どうかした?」
「あ……」

 今までは、さりげなくしようとしてた。
 過去に自分から言った時は、会話の流れで『じゃあ付き合う?』みたいな感じばかりだった。

 こんな、正面切って、告白をしようとしているなんて、自分が信じられなかった。

 心臓が、バクバク動いているのを感じた。

「赤木、大丈夫?酔ったの?そんなに飲んだっけ?」

 藤枝は、無邪気に俺の顔を覗き込む。

「あの、さ……」

 さっきタクシーの中で見た、渡辺の顔を思い出す。

 俺の、心臓のバクバク。

 目の前の、藤枝の不思議そうな顔。

「具合悪くないなら良かった」

 不思議そうな顔が、笑顔に変わった。



 何を天秤にかけたって、この笑顔より大切なものなんてない。



「好きだ」

 笑顔が固まった。
 驚いている。

「俺と付き合って」

 俺を見つめたまま、フリーズしている。

「藤枝」

 名前を呼んだら、はっと我に返った。

「あ……え……あ……」
 口をパクパクさせて。そんなに驚くことか。
「聞いてたか?」
「う、うん」
「返事は?」
「あ……はい」
「なんか気が抜けてるぞ。ほんとか?」
「うん」
 首をぶんぶんと振った。縦に。

 多分断られないだろうとは思ってた。
 藤枝が課長に失恋してから、ずっとそばにいた。
 藤枝は、俺の気持ちには気付いてたはずだ。
 それでも、ギクシャクしたり、離れたりしなかった。
 仲のいい同期。たまに言い合いもするけど、それは遠慮なく言いたいことを言えるからで。
 でも、確証があった訳じゃない。
 やっぱりまだ課長が好きだとか、俺のことは同期以上には思えないとか、そんな可能性はあると思ってた。

 だから、こんなに即答でいい返事が返ってくるとは思ってなかった。

「……なんで赤木がびっくりしてるの?」
 さっきの返事は本当なのかと藤枝の顔を見ていた俺に、藤枝は眉根を寄せる。
「もしかしてからかった?」
「違う!」
 ちょっと声が大きくなって、藤枝がビクッとする。
「ああ、ごめん……」
 そうじゃない。そんな顔させたいんじゃない。
「その……こんなに素直に返事もらえると思ってなくて」
 そう言うと、藤枝は照れくさそうに笑った。
「私も、こんなに素直に返事できると思わなかったよ」
 その笑顔が可愛くて、我慢できなくなった。

 そっと抱き寄せる。
 さっき、大きな声で怯えさせてしまったから、今度は怖がらせないように。

 藤枝の手が、俺の背中に回る。
 ふわっと、藤枝の香りがした。多分シャンプーの、甘い香り。

「うわ……ほんとなんだ……」
 思わず言うと、藤枝はクスッと笑った。
「ほんとだよ。私……赤木が好き……だと思う」
 『だと思う』?
「なんだそれ」
「うん……なんか、こういうの初めてで、まだよくわかんないんだけど……」

 ああそうだった。
 藤枝は、自分の気持ちには鈍感だ。
 失恋した後に恋をしてたことに気付くくらいなんだった。

「憧れじゃない。友達でもない。家族とか親戚とも違う。もっと近い……とにかくね、そばにいたい。それは、多分好きだからなんだろうなって思って……」

 胸が、ぎゅっと締め付けられた。
 腕にも力が入る。

「俺も、そばにいたい」

 藤枝も、俺の背中を抱きしめてくれた。

「今日、離したくない」
 ピクッと反応があった。
「……いいか?」
 少し間があって、藤枝は頷いてくれた。

 玄関を入ったら、我慢できなかった。
 抱きしめて、顔を近付ける。
「遥……」
 初めて名前を呼んだ。
 遥はちょっと目を見開いて、恥ずかしそうに目を伏せた。
「遥、好きだ」
 唇を合わせた。
 遥の体は固まっている。
 少し角度を変えながら何度か合わせると、段々力が抜けてきた。
「遥」
「あ……あの……」
「俺の名前、知ってるだろ?」
 こくんと頷く。
「呼んで。遥」
「……ゆ……優太……」
 顔を真っ赤にして、とろんとした目。
 もう止められなかった。
 唇を奪う、というのを体現したと思う。
 そうしながら部屋に上がる。
 酔っ払った遥を介抱してたから、この部屋の配置は知っていた。
 ベッドになだれ込む。
 遥は少し戸惑ってるようだった。
「あ、あの、赤木」
「こら、戻るなよ」
「だって、こっちの方が慣れてるし……」
「じゃあ今度は名前に慣れろ」
「そんな簡単に」
「うるさいぞ、遥」
 口を塞いだ。キスで。
 深くすると、遥の力が抜け始めた。
 唇を放すと、息が荒い。そして甘い。
「好きだ、遥」
 遥は頷いた。
「私も……好き……優太……」
 抱きしめ合って、何度も名前を呼び合った。
 俺の腕の中で乱れる遥は、可愛くて仕方なかった。
 疲れて眠る顔も、可愛くて、何度もキスをした。
 唇に、頰に、額に、瞼に。
 遥は気付かずに眠っていた。
 気持ち良さそうに、安心しきって、健やかな寝息をたてて。
 抱き寄せると甘い香りがして、それに誘われるように、俺も眠りについた。
 幸せだ、と、その時思った。




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