あなたに嫌われたいんです

ことの始まり


 高級マンションの最上階。足を震わせながら、目の前の扉が開くのを待った。手に持ったバッグは強く握りしめすぎて、手汗が凄いことになっている。自分を落ち着かせるために、何度も深呼吸を繰り返して励ました。

 扉はすぐに開かれた。そこに男性が一人、立っている。私は意を決して前を向いた。声を出そうとして、止まる。

「こんにちは。八神理人です。あなたが、五十嵐京香さんですね?」

 私を見て微笑んだ男を見上げ、頭が真っ白になった。呼吸さえも忘れたかもしれない。口をぽかんと開け、ただ目の前の男をじっと見つめた。

 今日から私が一緒に暮らす相手。一応、結婚する予定の相手。顔も見たことがない男。

 でも待ってほしい。違う。

 話が、違うじゃないか!






 大して人生を長く生きてきたわけではないが、普通の人より色々あったと思う。怒りや絶望に襲われた回数は数え切れない。

 しかし今、この瞬間が一番最低だと断言できる。

 こんな展開、予想外すぎて吐きそうだ。

「京香、これでうちのことは一件落着だな。向こうにももう返事してある。やっとお前も役に立てる日が来たな」

 安堵感に包まれながら、ニコニコと笑顔で笑う父の顔を、殴ってやりたいと思ったのは何度目か分からない。

 私は唖然としながら尋ねた。

「正気? こんな話、怪しすぎるに決まってるじゃない」

「別にそんなことないだろう、小さくともうちは昔から長く続いた会社だ、そこと繋がりたいと思うのは当たり前のことだろう」

「相手を誰だと思ってるのよ! あの八神グループだよ、今更うちの会社と縁を作ってなんの得があるっていうの?」

「そうだとしても、この話を蹴ればうちの会社はもうダメなんだぞ、受けるしかないだろ!」

 鼻息を強くさせて叫ぶ父の背後で、義妹である梨々子が笑っていた。

「よかったじゃないお姉ちゃん、八神グループに嫁げるなんてさー」

 その視線は、完全にこちらを馬鹿にしている。強く唇を噛んだ。

(……ダメになればいい)

 うちの会社なんて、ダメになればいい。

 それがずっと思ってきた私の願い。

 もう少しでうまくいくはずだった、八神グループがあんな話さえ持ちかけてこなければ。

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