LOVE, HATE + LUST

16-4



冬だったな。


午後4時10分。

人波がどっとあふれ出る改札を抜けるといつもは駅を背にして左側の自宅への道を行く朔が、なぜかそうせずにバス乗り場に向かった。

バスが出発しそうになる。ドアが閉まる寸前に、俺はあわてて同じバスに飛び乗った。

なぜだかその日の朔の様子はすごく儚げで、そのまま見失ったらいけないような気がしたんだ。


なんか、変だ。ずっとうつむいてる。目元が赤い。泣いたのか?

ぼんやりと窓の外を見つめる横顔に、胸がズキンと痛んだ。


水族館前で彼女はバスを降りた。

俺もそっと降車して後を追った。

チケットを購入して、朔は入り口をくぐって行った。

わかってる。自分がキモい。立派なストーカーだ。だけどもう、今更だろう? 俺も後を追う。

朔はイルカの水槽の前の、一番右端の目立たないベンチに座っていた。

平日の遅い午後、人影はまばらだ。


彼女はあまり身動きすることなく、じっと青い水槽に見入っていた。やがて閉館のアナウンスが流れるまで、ずっと。

俺はとてつもなく不安な気持ちになった。まるで朔が、そのままその場から幻のように儚く消えてしまうんじゃないかと気が気ではなかった。時々、薄く華奢な肩が震えて、すん、と鼻をすする微かな音がした。やっぱり、泣いてるみたいだ。何があった?


俺は自分が腹立たしかった。

もしも彼女の友達だったら……

どうした? 何があったんだ? 話を聞いてやるよって、言えるのに。

あるいは、もっと親しかったら?

抱きしめてあげられるのに。隣に座って、肩を貸してあげられるのに。

朔は俺のことを知らない。だから、どうしてあげることもできない。

俺は今ただのストーカーで不審者だ。


水族館の職員が、閉館になりますと声をかけに来る。

朔は立ち上がり、とぼとぼと水族館を出た。


「中学の頃、俺のカノジョが朔に嫉妬していじめたんだ。この前もどこかの高校の男子に駅で告られたんだけど、そいつがたまたま、朔のクラスのボス女が好きな奴だったみたいで、そのボスの一団にいじめられて泣いて帰ってきたんだ。全員ボコして仕返ししてやりたいけど、そうすればますます朔が学校で肩身が狭くなるだろうしな」

はあ、と大きなため息をついて暉がぼやく。もしかして、水族館に行った時がいじめられた時だったのか?

駅で告られたなんて、俺は知らなかった。

でももしも目撃したとしても、朔は俺を知らないんだ。どうすることもできなかったに違いない。

どこのどいつか知らないが、告ってきた奴とうまくいかなかったことに安堵した。



――森の中のヴィラで、ちょっと昔話をしたとき。

もしも高校の時に出会ってたら、どうなったかなって。

自分なんて俺の目にも留まらなかったんじゃないかって言って、笑ってたよな?

当時の俺の葛藤を知ったら、あんたはどう思うのかな。

嫌われたら嫌だから、教えないけど。



暉の友達だということを隠してちょっとずつ近づいて、徐々に親しくなろうか? 暉にも、仲良くなった後でお前の妹だとは知らなかったととぼければいい。

……自分でも、マジで頭がおかしいんじゃないかと思ったこともある。実際、おかしかったのかもしれない。

誰にも何にも執着なんかしたことのなかった俺が、朔のことになると理性を失うんだ。


その当時、暉は俺がどんなに朔が好きだと言っても、きっと会わせてはくれなかっただろう。俺が女にはかなりいい加減で冷たいことはよく知っていたから。

だから俺も、見守るだけにしたんだ。

俺も自分に信用ならなかったから。

時が経てば気持ちが薄らいで、俺も朔のことなんて忘れるかもしれない。

どうせ、誰を好きになってもいつかは別れが来る。出会わなければ、別れない。

朔でなければ誰でも同じなんだ。でも俺のこの気持ちは、いっときのものなのかもしれないし。それならいっそ、ただの思い出にしてしまえばいい。


忘れよう。出会わなかったんだ。それでいい。そう思った。


それで、ひたすら勉強に没頭した。


大学最初の年に予備試験に合格して、2年で司法試験に合格した。オヤジの本を拝借して小学生の頃から勉強していれば、難しくはないよな。

それで卒業して司法修習も終えたあと息抜きもかねて留学してみた時に、エルと出会ったんだ。


「ボクの半分のオレンジを紹介するよ」

彼はそう言ってニカという子を紹介してくれた。キューバ移民の4世で、法学部の学生。

半分のオレンジ? 

伴侶(ベターハーフ)のことだよ。自分にとって、なくてはならない人。ソウルメイト」

だれか、とても大切な存在。あるいは、忘れられない人。いつも考えてしまう人。


俺は、親友の双子の妹のことについてエルに話した。

何年経っても、気になってしまう。時々、夢に出てくることもある。話したこともないのに、俺は頭がおかしいのかもしれないって、思うことがよくある。



エルは俺に言った。

「ねぇ、ソウ。彼女に、会うべきだよ。会って、話をして、よく知ってもらって、彼女がキミの半分だと確信したら、彼女を絶対に手に入れるべきだよ」


もちろん、暉が友達である限り、あいつの何気ないおしゃべりから彼女の近況を部分的に知ることはできる。あまり興味のないふりを装って、さりげなく探りを入れればいい。大学を卒業して大きな会社の重役秘書になったと聞いた。ひとめぼれされて、同じ会社の男と付き合っていることも。

暉の話によると、朔は将来は誰とも結婚する気はないんだと言っているらしい。

ほら、情報集めはけっこう簡単だ。



もしも……

30歳になっても、彼女がまだ誰とも結婚していなかったら。

恋人がいたとしても、絶対に奪おう。

どんなことがあっても好きになってもらって、近くにいたい。

何があっても、暉に反対されても。

いや、反対されないに越したことはないな。

まずは暉を懐柔して、それから本人に好かれるにはどうすればいいかを考えて……


そんなことを考え始めていた時、一時帰国した時に信じられない奇跡が起こったんだ。







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