裏側の恋人たち
手の中にある紙を見ると確かに今までと住所が違う。
そういえば将樹さんがお兄ちゃんの事務所に不動産の件で行ったって言ってたっけ。本当にあの3階の部屋を出たのか。

「これ鍵。今度のは暗証番号キーじゃないから。エントランスもこれ使って」

今度は鍵を押しつけられる。
「新しい部屋の鍵は2本だけ。1本は俺の荷物の中、もう1本がこれ。わかった?2本しかないからな」

「あのさあ、こういうのは婚約者にたのーーー」
頼みなさいよと言おうとしたところで病室のドアがコンコンコンコンとノックされる。

2回3回じゃなくて4回も。
ずいぶん慌てているのかしら。確実に病院のスタッフじゃないなという感じで思わず瑞紀と顔を見合わせた。

「どうぞ」と瑞紀が返事をすると、
「失礼します」と顔色を悪くしたワイシャツ姿の若い男性と中年の女性がパタパタと入ってきた。

二人はベッド上の瑞紀の姿を見るなり90度以上に腰を曲げて「申し訳ありませんでした」と謝罪を始める。

対する瑞紀は謝る二人に「どうぞお顔を上げてください」なんて落ち着いた様子で対応しているのだけど、なんの話かわからないわたしは黙って様子を見ているしかない。

「本当にあなたが助けてくれなかったらーー」
「ありがとうございます。命の恩人です。ありがとうございます。本当にーー」
二人とも涙を流しながら土下座をせんばかりに頭を下げている。

よくわからないけれど、この人たちはとても慌ててここに来たらしく男性は大汗をかき勤務先の社員証を首からかけたまま、女性の方は見覚えのあるエプロンを着たままだ。確か有名なドラッグストアの。

「奥様にもお詫び申し上げます」
ううっと泣きながらわたしにも深く頭を下げる男性。

「いえ、わたしはーー」奥さんじゃないと言おうとするのだけど、
「ご主人にこんな怪我をさせてしまい・・・本当に申し訳ありませんっ」
「ご主人は私たちにとって神様です・・・」と二人とも号泣しながら迫ってくるので何となく言い出せず、何とかしてと瑞紀に目で訴える。

「わたしの方は大けがではありませんでしたから、どうぞもうお気になさらず」
瑞紀がそう言うと女性の方は両手を合わせて瑞紀を拝みはじめた。

「それで、お母さんもお腹のお子さんも大丈夫だったんですね」

「ええ、ええ。診察の結果、妻もお腹の子どもも大丈夫だとーー」
瑞紀の問いかけにおおーんと派手な男泣きを見て何となく瑞紀が人助けをしたのだと理解する。

聞いていたものより怪我が増えたのはこういうことか。
それにしてもどこでどんな風に妊婦を助けて怪我をしたのやら。

妊婦さんの方は大丈夫でよかったと思うけど、瑞紀の方は大丈夫じゃない。お礼を言いたい気持ちはわかるけど、いきなり他人の病室に飛び込んできてこんなに騒ぐのはいかがなものか。お礼の気持ちはいただいたからひとまずこの辺でお帰りいただきたい。

ご主人とお母さんらしき二人は興奮状態なのであえて口を挟まず困ったように見つめていたらご主人が「すみません、お怪我をされているのに騒いでしまって」と気が付いてくれた。

日を改めてまた伺いますと涙を拭いながら二人が出て行きやっと病室に静けさが戻ってきた。

疲れた様子ではあっと息を吐いた瑞紀に
「着替え持ってきてあげるから休みなさいよ。たぶん自分が思っているよりダメージあるはずだから」
と横になるように促す。

「うん」と素直に横になる瑞紀に布団を掛けてやる。
そんな姿に少々同情を覚える。
困っているみたいだし、少し前までは押しかけ彼女もどきをしていた身でもある。借りを返すじゃないけど、着替えくらい持ってきてあげてもいいかという気になった。

わたしが新居に入っても、鍵は2本しかなく、2本ともここにあるということは婚約者さんと新居で鉢合わせなんてことは絶対に起こらないはず。


「持ってきて欲しいのは下着とパソコン、他には?」

「あー、書斎のデスクに水色の角封筒が置いてあるからそれも頼む」

「書斎のデスクの水色の封筒ね。了解。じゃあね」

入院手続き書類と自分のバッグを持って出ていこうとすると「響」と瑞紀がわたしの背中に声を掛けてきた。
まだ持ってきてほしいものがあったのかと振り返る。

「ーーー新しく借りたマンション、全部の部屋を見てきてもらえるか」

「急な入院だから戸締まり、心配になった?」

予定した入院じゃなかったもんね。いきなりの入院、そして退院予定はまだわからない。
新居だし火の元とか戸締まりも心配になるか。

「いいよ、ひと通り戸締まり確認してきてあげる。安心して休んでて」

瑞紀は不満そうな目でわたしに向けため息をつきながら「ーーー頼んだ」とひとこと言って目を閉じた。

わたしもサービスで行ってあげるのに何か不満でもあるんだろうか。
体調悪そうだから言い返したりはしないけどさ。


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