愛してる、を言えなくて。
プロローグ

 中三に進学する時期のちょっと前に見た夢を、忘れることができない。
 関東地方で桜開花のニュースが賑わいだした頃のことだった。
 長髪の美しい女性が、古代ギリシャを連想させる服を着て、でも白い衣装ではなく黒色の衣装で、僕の前にいた。女性は、着ている衣装とは不似合いな黒いヘルメットのようなものを小脇に抱えている。辺りは暗かった。ただ、上空に浮かぶ細い三日月が女性を照らしている。女性は二十代に見えるが、若さを感じさせない口調で僕にこう言った。
『あなたに未来見の能力を授けます』
「未来見?」
 僕は確認するように問いかける。女性と話をするためには、視線を上げる必要があった。当時、身長一七〇センチの僕が見上げたのだから、女性は相当に背が高かった。
『文字どおり、未来を知ることができる能力です』
 十四歳の僕は少し白けた気分で女性を見た。魔法やら異能の類に対する興味は小学校と同時に卒業し、いまは恋愛、偏差値、サッカーにしか興味はない。それでも女性は少し一方的にこう言葉を続けてきた。
『しかし、未来見で知った未来を、あなたの行動によって変えてはいけません。変えた場合は――』
 柔和な視線で僕を見ていた女性が、一瞬、表情を崩したのを、見逃さなかった。
『あなたにとって大切な人が死にます』
「……ふーん」
 重々しい声色で告げられたけれど、僕の心にはあまり響かなかった。女性の言葉を重大ごととして捉えるには、僕の精神は未熟すぎたのかもしれない。
 そんな僕の心情を読み取ったのか、女性が念を押してきた。
『いいですか、絶対に未来を変えてはいけません』
 その説教口調に少し反発を覚えた僕は、女性を少し困らせてみたくなった。
「でも、どうしても変えてしまったら? 大切な人を助ける方法はないの?」
『あなたの命と代償に、大切な人を助けることができます。だから――』
「未来見の能力を他の人に譲ることはできないの?」
 僕は女性の言葉を遮るように尋ねた。すると、女性は顔を赤らめた。怒って赤らめたわけではなさそうなのは、女性の表情からうかがい知れた。どこか言いにくそうな顔をしていた。なんとなく気の毒に思ったため、別の質問をしてみた。
「でも、どうして僕なの?」
『顔。でも、暴力的な人は嫌いなの!』
 質問の答えにしては、『でも……』以下の後半がよく分からなかったが、初めて女性が感情的になり、本音を漏らした気がした。同時に、素の心情と言うのか、あまりよく分からないけど、〝嫉妬深い表情〟とは、こういう顔のことを言うのだろうか、そんなふうなことを思った。
と、ここで僕は目を覚ました。
 ピピ、ピピ。ザアザア。アラームの音と、どしゃ降りの雨音、機械と自然の音が、奇妙に一致したように、同時に耳を襲ってきた。天気予報は晴れだったはずなのに。豪雨が窓ガラスを叩き、暴風がガタガタとサッシを揺らしていた。ピピ、ピピ、鼓膜もいつまでも揺れていた。
 
 中三になってから暫く経った頃のことだ。
 姉の茜の様子が少し変だ、と感じていた。どこか心ここにあらず、そんな気持ちを僕に抱かせてしまうことが続いていた。両親が死に、歳の離れた姉は、まるで母親のように僕のことを常に気遣う。だが、最近の姉は、僕から心を少しだけ離しているように思えた。それは思春期に絶賛突入中の僕に対する距離の置きかただったのかもしれないが、当時の僕にはそのように思うことはできなかった。
 四月下旬のある日、僕は下校するために、下駄箱の方へと歩いていた。
 いつも一緒に帰る由伸が風邪で休んだため、僕は一人で外履きに履き替えていた。すると、同じクラスになった田中さんが同じく一人で昇降口に来た。僕の鼓動が瞬時に早まった。
「部活、お疲れ」田中さんは何気ない口調で僕に声をかけてきた。そのあまりのフラットさは、いま思えば完全に、脈無し、の現れだった。
「お、お疲れ」
必死に絞り出した言葉だった。僕は同時に頭をフル回転させる。もっと話を続けたかった。何故ならば、田中さんは、僕の意中の人だからだ。
「ひ、一人?」
「うん。沙苗が今日風邪だったから」田中さんが何気ない仕草で靴を履く。彼女のふくらはぎを覆うソックスの白さが妙に眩しく、僕はすぐに目を逸らした。
 普段、田中さんは沙苗というテニス部仲間と帰宅する。沙苗の家が田中さんの家の近くだからだ。僕も、いつもは同じサッカー部の由伸と一緒に帰るため、こんなふうに昇降口で、二人っきりで話すのは初めてだった。
 とんとん、と踵を靴に押し込んだ田中さんが、玄関窓から見える黄昏時の圧倒的な群青色と僅かな朱色を残した空に目をやった。やがて、暫くそのまま外を見ていた田中さんが、視線を空に残したまま、本当に何気ないトーンで言葉を投げてきた、僕に。
「今日一緒に帰らない?」
 後ろ向きの田中さんの肩に何故か桜の花びらが一枚だけのっていたのを鮮明に憶えている。そう言えば、この日は風が強かった。

 校門沿いの桜の木からは花びらがひらひらと舞い落ち、足下は花びらだらけだった。僕はなるべく花びらを踏まないように足もとを見て歩いた。田中さんはさっきからずっと髪をおさえながら歩いている。セミロングの髪が強風で煽られる度に、いい香りが僕の鼻腔に届いてきた。初めて知った田中さんの髪の匂いに僕は胸をしめつけられる思いだった。
 ただ、残念なことに、初めてクラスが一緒になった僕らのあいだでは、なかなか会話が弾まなかった。さっきからぽつぽつした会話ばかりが沸騰した泡のように沸いてはあえなく消えていく。
「浅見って塾どこ通ってんの?」
 田中さんがさしたる興味もなさげに僕に訊く。浅見は僕の苗字だ。
「県進。駅前の。田中さんは?」
 田中さんが僕に対して呼び捨てなのに、僕は律義に『田中さん』と、さん付けで呼んでしまう。好きな人を呼び捨てで呼ぶことは難しかった。
「あー、駅前の。結構うちから通ってる人いるよね」
 会話が途切れる。田中さんが通う塾がどこなのか、田中さんは僕からの質問には答えてくれなさそうだった。それでも不満を抱くことはない。一緒に隣り合って帰れるだけで、僕は舞い上がっていた。田中さんの背丈が僕の鼻先より少し高いぐらいであることを初めて知った。姉の様子を心配していた自分は、もうそこにはいなかった。
 でも、その舞い上がりが、まさか次の言葉を僕の口から引き出してしまうとは、言う直前まで僕自身も分からなかった。
「僕ね、未来が見える能力があるんだ」
「は?……」
 田中さんが引いた反応を示した。僕はここに至ってミスをおかしたことに気付く。ただ、部活後の四月の夕闇は、中三になりたての少女にはまだ恐怖を感じさせるらしかった。更には、先日、帰宅途中の女性を狙った性犯罪事件が隣の市で起きたばかりだった。犯人はまだ捕まっていない。田中さんは明らかに引きながらも、僕と盛り上がらない会話をしながら一緒に帰ることを続けてくれた。
「あー、いるよね。たまにそういう人。芸能人とか。宗教とか。浅見ん家金持ちだし」
 宗教とオタク。思春期の僕らの間で、一番タブーな単語だ。一度でもそれらと結びつけられた人間がクラスの中で再浮上することはない。僕は焦った。そして、またもや口が滑った。
「本当だよ。夢で女の人が出てきて、未来見できる能力を授けるって言われた」
 田中さんは寸刻黙った。
 僕は頭を抱えてしまいたい気持ちにかられる。やってしまった。これで、僕はゲームオタクや変な宗教に入っている人間として田中さんからは認識されてしまうのだろう。
 びゅおっと突風が吹いた。同時に遠くの方からカラスの鳴き声が聞こえた。まだ田中さんは黙ったままだ。僕も喋ることができなかった。後方からスクーターのエンジン音が近づいてくる。田中さんからは一瞬逡巡した素振りを感じた。少しだけ僕の方に身体を寄せる。と、同時にスクーターがかなりのスピードで僕らの脇をすり抜けていった。スピードの割には小さなエンジン音だったことと、闇に溶けるような黒いジャンパーに黒いヘルメット、スクーターの色も黒色で、逆の意味で印象に残った。
「どんな未来を見たことあるの?」
 田中さんはそう尋ねるも、さして興味はなさそうだった。
「さっき、思い出しただけで、まだ未来を見たことないんだ。こないだ能力を与えられたばかりだから」僕なりに自分をフォローしたつもりだった。特に、最近は、姉のことで頭がいっぱいだった僕は、この能力のことを忘れていたほどなのだから。だけど、
「やばっ」
 田中さんがドン引きした。僕はますます焦る。田中さんの歩む一歩が斜め前方に変わり、明らかに僕から離れた。僕はもう引き返せなかった。
「見てみるよ。いま、未来を見てみるよ」
「いいよ。浅見、ちょっとキモい」
田中さんが速足になる。僕は必死だった。ここまできたら、実演して信じてもらうしかリカバリーはない。
 この時が初めてだった。僕が未来を見たのは。
あんな夢が本当だなんて信じていなかったことも、姉のことが心配でこの能力のことを忘れていたことも、それぞれが原因のうちの一つだったのだろう。放っておいたことなのに、どうしてこのタイミングで僕はこんなことを言ってしまったのか。未来見するやり方も分からないまま、神経を集中させ、目を瞑る。すると――

 田中さんが道路脇の草やぶで、黒ジャンパー・黒ヘルメット姿の人に押し倒されている、光景が目に浮かんだ。そこは地元でも有名な、めったに人が通らない防犯灯がない道だった。

 僕は愕然とした。気付くと足を止めていた。目を開ける。田中さんは僕よりも遥か前方を歩いていた。
「じゃあね」僕の方を振り返らず、田中さんは僕に背を向けたまま十字路を左に曲がる。
「え」僕は取り乱しそうになる。そっちは、いつも田中さんが帰っている通学路ではないはずだ。ストーカーではないけれど、  
 僕は彼女の通学路を知っている。好きな女の子の帰り道を知りたいのは、十四歳の男子にとっては至極当然のことだと思っていた。
しかも、
 その道は、僕の脳裏に浮かんだ、田中さんが押し倒されている人気のない道につながるのだ。防犯灯のない暗い道へと。
 前方からスクーターが来た。今度はかなり甲高いエンジン音だった。黄色いヘルメットを被っている。とても速いスピードだ。一瞬にして僕らの脇を通り過ぎる。僕は声を張り上げた。
「ダメっ! そっちダメ! いつもそっちから帰ってないでしょ!」
 田中さんが振り向く。その目が、顔が、遠目からでも分かるほどにひきつっていた。僕を不審者でも見るような目で見ている。
「どうして私の帰り道を知ってるのよ……マジキモい」田中さんが走り出す。田中さんの背中が遠ざかる。人気のない道の方へと。
「ダメだって!」僕は必死だった。
「ついてこないでよ! 何なの、マジ最低!」
 それでも僕は全力で田中さんを追いかけた。嫌だ。好きな女の子が、他の得体のしれない人に押し倒されるのを見逃すことなんてできない。
 田中さんはテニス部だから、そこそこ足が速かったけど、サッカー部の僕ほどではなかった。すぐに田中さんに追いつくと、田中さんは心底迷惑そうな声で叫んだ。
「みんなに言うよ。浅見が変態みたいについてきたって」
 田中さんは走るのをやめてくれたが、それでもかなり速足だった。僕も負けずに彼女と肩を並べる。
「そっちは、人気がないから危ないよ」
「こっちが近道なの。もう早く家に帰りたい。マジ勘弁!」
 脳裏に浮かんだ場所がもうすぐそこだった。道路脇の桜の木の影に黒いスクーターが止まっている。僕はぎくりとする。きょろきょろと辺りをうかがうように見た。その仕草が田中さんの心持ちを更に不安にさせたようだ。
「なんなの。ちょっと浅見、変なこと考えてない!」
「違うよ。違うんだよ!」
 その時、目の端で、誰かがスクーターに乗るのを捉えた。エンジンがかかる音。すぐにエンジン音が遠ざかっていく。僕らが来た道を引き返していく。気のせいか、そのエンジン音が、不満をまき散らしているように聞こえた。
「来ないでっ」
 田中さんが再び走り出した。まだ安心できない。スクーターが引き返してくるかもしれない。だから僕も駆け出す。田中さんはもう何も言わない。無言で駆けていく。僕も無言で駆ける。ただ胸の裡では、田中さんを護衛する、その気持ちだけがあった。田中さんも、僕も、相当に息を切らせていた。駆ける足音は乱れに乱れている。
 ようやく細い人気のない道を抜けると、大通りに出た。車や自転車、帰宅者が大勢いる道路だ。もう安心だ。そう思った時、
「私に話しかけないで、ずっと、これからずっと! 痴漢男!」
 田中さんが吠えるように僕に向けて言葉を投げ、一目散に目の前から走り去っていった。今日何度か見た田中さんの背中が、今度ははっきりと僕を拒絶していた。遠ざかる背中が、何故かクローズアップされて僕の目には飛び込んでくる。〝絶望〟という感情とともに。

 翌日、教室に行くと、女子からの視線が刺すように冷たいものに変わっていた。
 その日から、僕は女子から避けられる男子になったようだった。
「ストーカーだって」「マジで? ハーフっぽいとこカッコいいと思ってたのに」「クオーターみたいだよ」「でもさ、ストーカーはガチでアウト」「あーあ、あの碧の目、気に入ってたのに」「でも変態だって」
 せっかくの自分の容姿についてのコメントを、まさか背中越しで聞く羽目になるとは思いもしなかった。
 そうして、僕の青春が、終わった。



 数日後。爪痕のような細い三日月が微かに闇空を照らす夜だった。
 強風で散る桜の花びらが、地面を濃淡入り混じるピンク色に彩色していた。
 その花びらにまみれるように、人気のない道の脇で、姉の茜が死んでいた。オーストリア人であった祖父からの贈りものとも言える、紺碧色の姉の瞳は、もう輝かない。
 茜の身体には、深い刺し傷の他に躊躇い傷のようなものもあった。
 警察では、事件直後の付近を走る、黒色のスクーターに乗った黒ジャンパー・ヘルメット姿の人間を目撃したようなしなかったような、というあやふやな情報を掴んだが、確証を得るには至らなかった。
 茜の死の翌日、とてつもない雷雨が大地を襲った。空が怒り狂っていた。滂沱の涙を流していた。僕の気持ちを代弁していた。僕はまだ涙を流していなかった。
 僕はどこかふわふわと宙に浮いているような気分だった。これは現実なのだろうか? だからなのか、涙はわいてこなかった。
 だが、荼毘にふされた茜の骨壺を家に持ち帰り、独りになった夜、テーブルの上に置かれた赤いマグカップを見て、僕は初めて、これが現実であることを悟った。
 十歳年上の茜は僕の唯一の家族だった。僕たち姉弟は、僕が産まれてすぐ、両親を亡くしている。僕には両親に関する記憶はない。いつも姉の茜が一緒だった。小学校の保護者参観にも茜が来てくれたほどだ。
白磁のように白い骨壺を抱き締める。茜の匂いをかぎたかった。骨壺の蓋を開ける。でも茜の匂いは、もうそこにはなかった。 
 僕は目についた茜のストールを骨壺に巻き付ける。茜の残り香を感じられた。その時、涙腺が崩壊した。近所のことなど考える余裕もなく、声をあげ、喚くように、泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れて、でもやっぱり泣いて、ようやく心境が落ち着いた時、僕は思い出した。
 ……あの夢を。

『しかし、未来見で知った未来を、あなたの行動によって変えてはいけません。変えた場合は――
あなたにとって大切な人が死にます』

 僕は凍りついた。
 呼吸が、心拍が、流し続けていた涙までもが、一瞬にして固まった気がした。思考も暫くの時間とんでいた。何も考えられない、感じられない、聞こえてこない、見えない。そんななかでも、茜の香りが、ストールから優しく僕の鼻を撫でてきたことを憶えている。
 だが、音が、色が、悲しみが一気に僕を襲っていた。僕はうなだれ、床に額をこすりつけながら、まさに血のような涙を流し続けていた。あげる声は掠れて声になっていなかった。空気を切り裂く息だった。息を貪り吐き、鼻をすすり、嗚咽した。痛かった。息を吸い込むほどに肺が、喉が斬りつけられていくようだった。こんなことならば、いっそのこと狂いたかった。でも、狂えなかった。僅かに残る理性が邪魔をした。そんな自分が許せなかった……――許せなかった、そして……、
 僕は、未来見の能力を僕に与えた女性を恨んだ。
 女性を恨み、そして、未来を変えた自分を、恨み、憎み、嫌った。
 田中さんのせいではない、自分のせいなのだ。
 自分のなかで、初恋の田中さんをスケープゴートにはできなかった。
 そうして僕は、恋をしない、他人に心を開かない、他人と壁をつくる、大切な人をつくらない、誰も愛さない、そんな人生を歩みだした。
 誰も好きになりたくない。
 いつしか桜は葉桜に変貌し、あっという間に葉を落としていった。
 そうして月日が過ぎていった。
 恋愛を放棄する日は現在も続いている。ひとを愛することなんて、論外だった。  



「明日の合コンで一人空きが出たけど、涼真どう?」
「あー、無駄無駄。こいつ合コンには絶対来ないもん。つうか、前から思ってたけど、おまえひょっとして、アレ? 金持ちにはアレが多いっていうよな。しかも優男ふうなイケメンは特に」
 大学のラウンジでは、時間を潰すサッカーサークルの同期たちが、左手で缶コーヒーを飲みながら右手で器用にスマホ画面をスクロールさせ、口からは眺めているスマホの記事とは別のことを喋り倒していた。
 新歓期を迎え、ラウンジ内はいつもよりも学生が多かった。まだまだ萎縮気味の学生は、この春入学してきた新入生だろう。
 僕が、質問が自分に向けられていることに気付いたのは、数秒遅れてからだった。
「明日……は、姉の墓参りなんだ」
「ふーん、墓参りねえ。おまえ、毎週行ってねえ? そんだけ行ってんだったら、明日ぐらいいいじゃん。どんだけ姉想いなんだよ」
「明日は、姉の命日なんだ。だから絶対に外せない」
「おまえ、相変わらずどこか自分のなかに壁をつくるよな」
 僕は何も言い返せない。すると、僕の後ろから咎めるような声が飛んできた。
「ちょっと、女の前で堂々と合コンの話なんてしないでよ」
 それは、僕のサッカーサークルでマネージャーを務める佐々木深雪の声だった。でも、僕は振り返らない。
 僕の代わりというように、合コンの話を振ってきた直登が負けじと言い返した。
「深雪は涼真しか眼中にないだろ」
 直登の隣りで屈みこみながらスマホを見続けている健太は、顔さえ上げずに直登の言葉に続けた。
「アーチェリー部の顧問がいまでも嘆いているぜ。見えないものも射ることができるほどの逸材なのにって。見えないものを射るって、どんだけ凄ぇんだよ」健太はスマホ画面をタップし、ようやく顔を上げた。身長が一八五センチを超えるため、上半身を起こすだけで存在感が醸しだされる。また眉毛を細く剃りすぎたようだ。「つか、涼真は、アーチェリー部の全員から敵視されてるしな。そのうち涼真、射られるぜ」
 くつくつと健太が笑いだした。その笑い声を暫く放置していた深雪は、立ち上がると無言のままカツカツと靴音を立てて直登と健太の前に行き、カバンから緑茶のペットボトルを取り出した。キャップを開け、二人の頭上で傾ける。
「ちょ、ま」
 慌てた直登と健太は、サッカーの試合中のような俊敏な動きを見せて横っ飛びする。緑茶がポリプロピレン樹脂の座面を二秒ほど叩いた。深雪はペットボトルを垂直に戻し、直登と健太に睨みをきかせる。直登と健太の顔は硬直していた。
「眉剃り過ぎだから。青い」
 そう言うと、深雪は緑茶のキャップを閉め、ラウンジから出ていった。
「相変わらず怖えー。心臓バクバク、ちょっと痛ぇし」
「黙ってれば高身長でモデルみたいに美人なのにな。でも、あのSっ気が結構俺好きかも」
「はは。健太はM太だな」
 僕は深雪が出ていったラウンジの出入り口をずっと見ている。深雪の背中が脳裏から離れなかった。もうそこに深雪はいないのに。知らない顔の男が入ってくる。でも、僕は視線を動かせない。誰かが出ていった。それでも視線をそのままにしていた。  
 その誰かを見ているわけじゃない。深雪の背中――
 あれは去年の五月の連休明けのことだった。
 深雪が僕に告白をした。 



 入学式で、初めて見た時から、
 そして、涼真くんがプレーするサッカーを見た時から、
 ずっと、ずっと、ずっと好きでした。ずっとあなたに夢中でした。
 だから、
 友達からでもいいから、
 あたしと付き合ってください。

 ごめん。
 誰も好きになりたくないんだ。大切な人をつくりたくないんだ。……ごめん。

 いつものように、僕がそう断ると、辺りから一切の音が消えた気がした。
 誰もいない公園内では、さっきまで強かった風の音がピタリと止んでいる。新緑の匂いまでもが掻き消えたようにさえ感じられた。
 真正面にいる深雪は、雷に打たれたように立ち尽くし、ぴくりとも動く気配がなかった。僕は、うつむかせていた顔を上げる。
 夜の闇がへばりついた深雪の顔は前髪で隠れ、更に陰っていた。
 音が、
 聞こえてきた。
 ひゅう。ひゅう。
 春の嵐は今日も強い。風で転がっていくペットボトルを大学キャンパス内でいくつも見た。
 ひゅう。ひゅう。
 違う。
 眼前の深雪の前髪は全く揺れてない。いま、風は吹いていなかった。
 ひゅう。ひゅ……
 音が最後まで伸び切れずに止まった、その瞬間、深雪の身体がぐらりと後ろへ傾く。
 危ない!
 僕は咄嗟に深雪を抱きとめ、その身体を支える。腕の上に深雪の顔があった。外灯から、僕たちは遠い位置にいるため、また、相変わらず前髪が深雪の目元を覆っているため、その表情はよく見えない。だが、気付いたことが一つあった。深雪の口が少しだけ開いていた。その口から、呼吸音が漏れてくるのだ。
 ひゅう。ひゅう。
 ひゅう。ひゅう。
 深雪は気を失っているのだろうか。僕に身体を預けたまま動かない。女性とはいえ、やはり大人の体重を長時間支えるのは困難だ。ましてや、深雪は身長が一七〇センチ近い。おそらく僕とは七、八センチほどしか変わらないのだ。
 僕は右腕に深雪の頭をのせたまま、深雪の状態を確認するために、なんとかその前髪をかき分け、――固まった。
 深雪は目を見開き、僕を睨んでいた。物怖じしない、鋭い視線で。
 僕はその姿勢のまま、動くことができなかった。身じろぎさえもできなかった。言葉も喋ることができなかった。呼吸は? 固まった瞬間から呼吸をした憶えがなかった。その間も、深雪は体重を僕に預け続けている。僕をねめつけ、直視している。
 かはっ、僕は何とかそんな息を漏らすことができた。それが契機となり、催眠がとけるように、深雪の身体を地面にゆっくりおろした。限界だった。腕も、呼吸も、深雪からの視線も、精神も。
 背中から地面におろされた深雪がゆっくりと立ち上がる。僕は尻もちをつくような姿勢で、地面に座り息を整えていた。
「どうして……?」
 深雪が僕を見下ろしてきた。
「どうして、あたしじゃ駄目なの……? 誰か他に好きな人いるの……? 付き合っている人いるの……? あたしの顔が好みじゃないの……? もっと胸が大きい人がいいの……? もっと芸能人みたいな人がいいの……? もっとあざとい人がいいの……? 両親がお金持ちの人がいいの……? それともブス専……?」
 濃すぎる闇空に細長い三日月が浮いている。その微かな月明かりが闇の下に降り落とされ、深雪の表情が露になっている。キツめの言葉の割には、表情はけろりとしていた。それが僕を違う意味でゾッとさせた。深雪の前髪が風になびき始める。地面には長い影が伸びていた。異様なほどに長い二人の影だった。その影が僕にはもぞもぞと動いているように思えた。深雪の影だけが。深雪は静止したままなのに。
 気付くと、びょうびょう、と強風が吹きすさんでいた。雨も混じっている。空が、空気が、気象が一転していた。僕は黙って深雪を見つめることしかできなかった。
「何か言ってよ!」
 びんっ、と振動する空気を感じた。
 同時に、深雪が、着ていたアウターを脱ぎ捨てた。グレーのニットも脱ぎ捨て、肌着にも手をかけながら僕に近づいてきた。
「抱いてっ! ここで抱いてよ」
 深雪が肌着を脱いだ。薄いピンク色のブラジャー姿で、呆気にとられる僕を押し倒すように、抱きついてきた。
「抱いたら分かる。だから抱いて。抱いてよ! いますぐ! ここで抱いて! 妊娠してもいい! 誰かに見られても構わない! だから、だから――」
 深雪が僕の後頭部を鷲掴んだ。深雪の匂いが一気に近づいた。雨が深雪の背中を叩く音がした。いや、雨は僕の周囲の地面も叩き、土砂を煙らせていた。
「止めろよっ!」
「抱いて! 抱けば分かるの! お願い、お願い! 抱いてぇっ!!」
 そこに、睨む目はもうなかった。切羽詰まった、必死で、一途な心情のこもった目が僕を捉えていた。だが、少し狂いかけている。そう思った時、
 僕の口が塞がれた。押しつけるように、ねじり込むように、深雪がその唇を僕に押しつけてきた。舌が扉をこじ開けるように侵入してくる――

 パシンっ

 時間が止まった。そう思えるような一瞬が確かにあった。
 深雪の顔が、身体が、匂いがゆっくりと遠ざかっていく。風が、雨が、嵐が更に強まっていく。
 深雪の目は哀しみをあらわすように歪んでいた。髪が頬にへばりついていた。顎先から雨粒がひっきりなしに落ちている。
 僕は、深雪の頬を張った右掌に微かな熱を感じた。やってしまった。女の子をはたいてしまった。だが、その右掌の熱もすぐに雨でひやされてしまった。僕と深雪の視線は交差したままだった。だが、
「どうしてえええええええっ―――――――!!」
 吠えた、深雪が。
「どうしてなの! どうしてなの、どうしてなの、どうしてなのよおおおおっ!」
 水滴が落ちた。雨滴ではなかった。深雪の頬に残る涙の軌跡。それが、雨に消されずに月の光を反射させ、何故か朱く煌めいていた。
「あたし、涼真くんとなら永遠の愛を誓えるのに! 護(まも)って欲しい、なんてあざとい女の子ぶったことなんて言わない。ううん、むしろ、あたしが涼真くんを護る。涼真くんを害するものから、あたしが護る! そんな女の子いないでしょっ! それなのに、それなのにそれなのに! なんで? なんでなんでなんで……――あああああああーっ―――――――」
 深雪は膝をつき、うな垂れながら叫んだ。地面を殴りつけ始める。何度も、何度も。慟哭の咆哮が空気を満たしていく。不意に深雪が顔を上げた。四つん這いのまま。
「ねえ、せめて何か言ってよ。『止めろよっ!』なんてひどいよ! あたしに、あたしにこれだけ恥かかせて! こんな女にさせといて!」
 僕が口を開きかけたその時だった。
 深雪が突然駆けだした。上半身はブラジャーしかつけていない。ほとんど半狂乱状態だ。もう声をあげてはいないが、その背中が明らかに悲鳴をあげていた。
 これは、まずい。
 僕は反射的に立ち上がった。その時、突如として脳裏に光景が湧き出た。

 歩道で、頭を潰し血まみれで横たわる半裸の深雪の姿。すぐ脇には高い建物が聳えている。更には、血だまりの中に、三十歳前ぐらいの男が、同じく血を流して倒れている。少し僕に似た、でも僕ではない男が、耳を地面につけるように横顔を晒して倒れている。すぐそばにパンパンに膨れた黒色のバッグがある。飛び散った血がバッグにも付着している。雨が血だまりの血を薄めている、のばしている。雨が黒色のバッグをさらに黒く染めている。だけど、バッグに付着した血だけは、カバンの表面でもっと色濃く浮き上がっている。
 
 飛び降り。巻き沿い。死――
 見捨てるわけにはいかなかった。
 知って見逃すことはできなかった。
「深雪っ!」
 これ以外の選択肢はなかった。深雪を止めるしかない。
 僕も駆けだす。雨はいつしか豪雨に変わっていた。空に亀裂が入り、雷鳴が轟いた。いっそう激しい雨が地面と僕を叩いてくる。より一層、〝運命〟のようなものを浮き上がらせるかのように、強靭な雨が僕の顔を容赦なく襲う。目の前が煙る。深雪を見失いそうなほどに。だが足を止めるわけにはいかない。僕は地面を更に強く蹴った。
 未来を変えることになる。未来見で知った未来を変えることになる。
 そのことが、駆け出した当初の僕の頭のなかにはあったのだが、駆けているうちに、深雪の死を、名も知らない通行人の死を回避する、そのことに躍起になっているうちに、いつしか抜け落ちていた。
未来を変えてしまった。
 そう気付いたのは、そう改めて思い至ったのは、深雪を保護してからのことだった。

 僕は、大切な人をつくってはいけない。
 心を、ヒライテハイケナイ。
 心を、閉ざさなければ――大切な人が死ぬ。
 僕がつくる心の壁は、その日から、より一層強固なものとなった。



 その後、深雪については、サッカーサークルのマネージャーを辞めるかと思った。だが、予想に反して、辞めたのはアーチェリー部の方だった。深雪は、アーチェリーで高校総体の全国大会に出場した経歴を持つ。大学のアーチェリー部から入部の誘いがあった際に、深雪が入部の条件に提案したのが、僕が所属するサッカーサークルのマネージャーも兼務することだった。
 アーチェリー部からは強い慰留の声があったものの、深雪はきっかり退部した。それから間もなくして、どこからともなく、噂が立つようになった。深雪はアーチェリーではなく、僕を選んだのだ、と。僕を追いかけるため、退部したのだ、と。
 僕と深雪はあの日以来目を合わせていない。 

幕間 

 やはり、似ている。
 墓に向けられた横顔も。正面を向く顔も。瞳の色まで。そっくりだ。
 もっと近くで見たい。せっかくここまでつけてきたのだ。しかもこの墓苑は……。何という偶然なのだ。
 でも、これ以上近づくと不審に思われる。
 あ、気付かれた? 近づいてくる。どんどんとこっちへ向けて歩いてくる。歩き仕草までもがそっくりだ。何気ないその表情も。何もかもが似ている。いや、それどころではない。気付かれていたらどうしよう。何をしているんだと問い詰められたら、どうしよう。もうすぐそこまで来ている。砂利を踏む足音が、ざっざっと近づいてくる。取りあえず視線だけは逸らさないと。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 よかった、不審には思われていないようだ。
 でも、耳にした声は、全く似ていなかった。
 そのギャップがいいかも。
 これは――利用できる。
 彼が次第に私から遠ざかっていく。
 砂利を踏む足音が消えるように、空気に吸い込まれるように、遠くなっていく。
 彼がお参りしていた墓を見て、情報収集を試みるか。
 おそらく彼が再び戻ってくることはないだろうが、用心のため周囲を警戒しながら、彼が拝んでいた墓へと近づく。墓石は、 
 まだそんなに古いものではなかった。よく磨かれており、綺麗な状態を保っている。というよりもかなり立派な墓だ。素人目でも金額がかけられた墓であることが分かる。
 やはり、だいぶ金を持っている。ターゲットとしては申し分ない。私はほくそ笑む。あとは、恭姉をどれだけ巻き込めるかだ。『もうやりたくない』とは表立って言ってきてはいないが、やりたくない感がびんびん伝わってくる。
 まったく、このクソみたいな世の中で、清純でいられるなんて本気で思っている世間知らずの女め。でも、このターゲットならば、恭姉も関心を示すはず。
「ご縁者の方ですか?」
「ひっ!?」
 突然の声に跳び上がりそうになった。色々な想定問答を瞬時に頭の中でシミュレートしながら、ゆっくり振り向く。
 身なりからして、この墓苑関係の住職だろうか。
「彼は若いのに結構なことですな」
 住職は彼のことを知っていそうだ。ぐるぐると思考を脳内で働かせる。
そうね、決めた。この住職も利用する。
「ねえ住職さん」
 いつもとは全然違う甘えた声をだした。住職の表情があからさまに緩む。
 勝った。このエロ坊主め。私も心のなかで、表情を緩めた。 



 僕は墓を磨いたタワシを足下に置いた。もう一度、墓のてっぺんからひしゃくで丁寧に水をかける。最寄り駅の近くで買ったピンクのスイトピーを中心にした仏花を二手に分け、花立に挿す。
 少し時間を置いてから、線香を取り出した。今日は風が強いから、火力の強い着火器を持ってきている。線香の先を炙ると、炎がゆらゆらと踊り、線香に火が灯った。暫くしてから手で扇ぎ消す。すーっと線香の香りが鼻腔をくぐり、爽やかな気分になった。そっとその線香の束を、両親と姉の茜が眠る墓に供える。
 あとは、これ。
 僕はカバンを探る。赤いマグカップに煎ったコーヒー豆をいれてある。茜が好きだったコーヒー豆だ。豆からもコーヒーアロマが漂う。それをことりと墓前に置く。
 手を合わせた。手を合わせている間も、風がごうごうと身体を押してきた。髪は相当に乱れているが、気にせずに、拝み続けた。五分くらいそのままでいただろうか。少し離れた区画から、声が風にのって聞こえてくる。
 めずらしいな。それは僕が最初に抱いた感想だった。
 平日の午前中、しかもこんなにも風が強い日に墓参りをする人が他にいるなんて。
 びゅおっ、とひと際強い風が巻き上がった。
 遠くに植わる桜の木から花びらが落ち、珊瑚の卵のように空中で舞っていた。
 花びらが一枚、僕のところまで飛んできた。真ん中が少し白く、周囲が淡いピンク色の花びらだ。
 桜の花びらを、動揺せずに見られるようになるまでに、暫くの年月が必要だった。どうしても茜の死を思い出すからだ。だが、時間が身体の痛みや苦しみを緩和させるのと同じく、少しずつではあるが、僕のなかで心理的な抵抗意識が和らいでいった。去年ぐらいから、ようやく花びらを綺麗、と感じることができるようにまでなった。
 僕は気付くと表情を緩めていた。でもそれは一瞬のことだ。それでも、今年は、桜の花びらに対して相好を崩すことまでできた。大きな進歩かもしれない。僕はすぐに表情を引き締める。
 抵抗意識が和らぐにつれ、茜の存在が自分のなかで軽くなる、それだけは嫌だった。だから、桜の花びらに見惚れることがあっても、見惚れ続けることまではしない。特に、今日は、姉の命日だ。
 また来るね……。
 そう言い残し、手桶とひしゃくを手に、墓苑の出入り口へと向かう。歩くたびに、砂利から立つ音が小気味よかった。
 その音に気付いたのか、墓に頭を深く下げていた女性が振り向いた。先ほど声が聞こえたのは、この女性からだろうか。
 風が吹いた。春を謳歌するような温もりを感じさせる風だった。でも強い。さらさらと花びらが舞っている。特に女性が拝む 
 墓は桜の木が近いため、墓にも、女性の黒いワンピースにも、花びらが模様のようについていた。
 だが、それ以上に、似ている――
 びゅおっ。
 また風が吹く。先ほどよりも強い風だ。
「あ」
 僕も、女性も、同時に声をあげた。
 女性が被るベージュ色の帽子が風に飛ばされた。
 僕は考えるよりも先に駆けていた。飛ばされた帽子のもとへ。帽子は地面に落ちて、それでもなお地面を這うように風に押されている。その帽子を屈みながらキャッチした。
 帽子のつば先が細かい砂で汚れていたので、手で軽くはらう。視線を女性の方に向けられなかった。
「すみません」
 ドキリとした。声まで――似ている。
 砂利を踏みしめる音が近づくにつれ、香りがふわっと僕の鼻先を包む。心地良い匂いだと思った。鼓動の高まりを感じ、唾を飲み込んだ。女性が適度な距離をあけ、立ち止まる。
「今日、風が強いですよね」
 僕はそう言ってから、言葉を発することで自分を落ちつけてから、視線を女性に向けた。女性と目が合う。紺碧の空のように澄んだ瞳だった。
 風が、吹いた。

 時間が、


     止まった。

 僕は混乱しているのだろうか? それともこれは夢なのだろうか?
 立ったまま女性を直視する。立ってはいるが、膝下から先の感覚が失われている気がした。腕も、指先も、動かすことができない。呼吸も忘れていた。ただ、ただ、この呼びかけが僕の喉奥からせり出しそうになっていた。
 姉ちゃん――
「帽子」
 時間を動かしたのは、僕を我に返らせたのは、女性の言葉だった。
「ありがとうございます」
 女性が小さくお辞儀をした。風が吹く。女性は、顔を上げる際に、顔にかかったセミロングの髪をよけた。その仕草までもが茜に似ていた。
 僕は瞬刻、自分が女性の帽子を手にしたままであることを忘れていた。慌てて女性に手渡す。女性との距離が少し詰まった。 
 女性の背丈は僕の眉毛くらいの高さだ。女性の香りが大きな膜となり僕を包んだ気がした。僕は言葉を忘れたかのように、何も言えなくなった。
 女性からは、僕が緊張しているように見えたのかもしれない。雰囲気をやわらげるように言葉を続けてくれた。
「風強いのに、ちょっとつばが広い帽子だったので、簡単に飛ばされちゃいました。日焼け防止の意味がないですよね」
 相好を少し崩した彼女の瞳に僕への関心を思わせるものがある、そう思ったのはきっと僕の一方的な希望観測なのだろう。
 女性は「では」と後ろを向き、拝んでいた墓の方へと戻っていった。帽子を墓の前に置かれたカバンにしまい、代わりに線香とチャッカマンを取り出す。
 カチリ。
 チャッカマンの火が線香にあたる。だが、その火はすぐに風で消えてしまった。女性はもう一度チャッカマンを鳴らす。カチリ。チャッカマンの先端の火が踊り、そしてあえなく消えた。
「あの」
 声をかけた。何を喋ってよいのか分からないけれど、これだけは言えそうだった。
「僕が風よけになりますので、火をつけてください」
 ざっざっと砂利を鳴らしながら小走りで駆け寄り、女性のすぐ近くに立った。少し呼吸が乱れていた。きっと走ったせいではない。
 女性は少しだけ、吸い込んだ空気を飲み込むだけの時間的な間を開けてから、「ありがとう」と言い、チャッカマンを鳴らした。真っすぐな火が線香の先端を赤く染め、線香に火が灯る。暫くそのままにした後、左手で彼女が扇ぐと線香の火は消え、すぐに落ち着いた香りが漂ってきた。
 女性が線香を香炉に供え、手を合わせている間、僕は墓石を見ていた。まだそんなに古くない墓石には『鮎川家』とあった。ご両親のどちらかが眠っているのだろうか。
「重ね重ね、ありがとうございました」
 気付くと女性は僕の方を向いていた。慌てて意識を女性に戻すや、女性はこう付け加えた。少し言いにくそうに。
「夫なんです」



 その日の夜、僕はベッドの上で膝を抱えていた。
 明かりはついていない。
 あんなにも強かった風は、いまは止んでいる。
 カーテンを開けていた。レースも引き開けている。雲がない闇に月が浮かんでいた。月が纏う淡い光の膜を、ぼんやりと見ている。もうどれほどこうしているだろうか。ふと、自分はいま月を見ていない気がした。見ているのは……今日会った女性だった。脳裡に浮かぶ女性をずっと見ている。飽きもせずに、何時間も。夕食も食べずに。昼食さえ食べ忘れている。でも不思議と空腹は感じなかった。喉の渇きも覚えない。だから、さっきからずっとこの状態でいられるのだ。
「夫なんです」
 女性からそう告げられた後の自分がどんな行動を取ったのか、よく憶えていなかった。ひょっとすると、そのまま何も言わずに駆けだして、女性の前から去ったかもしれない。それとも、軽い会釈をしてから去っただろうか。どちらにせよ、おそらく唐突に取った自分の行動は、相手に好印象を抱かせなかっただろう。
 何を考えているんだ……。好印象とか、そんなのは関係ないじゃないか。ただの他人なのだ。ただ、墓が、同じ苑内にあるだけ。普段は全く会わないじゃないか。全く縁のない人だ。これまでも。これからも。
 だけど、
 だけど……、
 似ていたんだ。
 顔も、仕草も、声も、体格も、匂いまで。姉の茜にそっくりだった。
 茜に会ったような気がした。
 でも、姉以上に何かを感じた。甘酸っぱい気持ち。これは、
 〝恋?〟
 駄目だ! それだけは、絶対に、絶対に、駄目なんだ!
 僕は勢いをつけて立ち上がった。
 ベッドから飛び降り、居間に行く。両親と姉が遺してくれたマンションは、一人で暮らすには広すぎた。だが、いまに限って言えば、その広さに救われた。意味もなくふらふらと部屋、台所、寝室、洗面所を行き来する。テレビが目に入った。自然とリモコンを取り、テレビをつける。バラエティ番組が映る。あはは、と出演者の笑い声。うるさい。チャンネルを変える。WOWOW。サッカー番組の再放送をやっていた。贔屓のチームではないが、ソファに腰を下ろす。後半四十分。残りはあと五分だった。世界的に有名なチームが、世界的に無名のチームに負けている。点差は一点だ。だが、サッカーは五分あれば、まだ分からない。アディショナルタイムも含め、試合結果がひっくり返ることは、まあよくある。
 有名チームの技巧派選手がドリブルで相手陣内に切り込んでいく。歓声がテレビからあがる。ディフェンスは二人。普通ならば味方にパスを選択する場面で、その技巧派選手はドリブルを選択した。肩を下げ、左に行くと見せかけるも、瞬時に足がボールを右に弾く。虚をつかれたディフェンスが二人そろって崩れる。歓声が更に大きくなる。技巧派選手がゴールキーパーと一対一になる。歓声が山鳴りのようなどよめきに変わる。その瞬間――
 僕はテレビを消した。
 普通ならば、テレビ画面に、技巧派選手のプレーに、魅入られてしまう瞬間だった。
 だが、いまの僕はその『普通』の状態ではなかった。
 頭に浮かぶのは、女性の顔だった。
 テレビを見ていても、その顔が離れない。
 冷蔵庫を開けた。ひやりとした空気で頭を切り替えたかった。未開封の緑茶のペットボトルがあった。キャップを開け、直接喉に流し込む。冷たい。喉を鳴らして飲む。胃が緑茶で満たされる。でも足りない。浮かぶのは女性の顔、声、匂い。もっとだ、もっとだ。僕は更にペットボトルの角度を傾ける。勢いをつけて喉に流れ込む緑茶が、口から溢れ出し、首を伝ってくる。ティーシャツの首元が濡れだした。それでも飲み続ける。それでも浮かび続ける、女性の顔、声、匂い。
「あああああああっ!」
 まだ飲み切っていないペットボトルを僕は壁に投げつけた。



 ベランダで月を見ていた。淡い光を纏わせた月はあまりにも幻想的で、時々意識がとびかける気さえした。それでも、じっと月を見た。四月の夜はまだ肌寒い。薄着だった。太陽が照る昼の服装のまま、気付くとずっとベランダから空を見ていた。寒さを感じなかった。感じる余裕が、気持ちのなかになかった。
 脳裏に浮かぶのは、今日会った青年の顔だ。
 顔を見た瞬間、あ、と思った。あ、どころではないかもしれない。え、だろうか。特に下がり目の眦がそっくりだった。
 だが、声は全く違っていた。
 あの人よりも温かみのある声色だった。
 少しほっこりするような。
 声を聞いてこんなにも安心するなんて、久しぶりだった。
 それだけ、いまの生活はすさんでいるのだろうか。どこか荒れているのだろうか。心に隙間風が絶え間なく吹きぬけていくのだろうか。くるまれたいのだろうか、誰かの、愛しい人の温もりで。
 今までそんなことを自覚していなかったのに、今日、彼を見た瞬間に、自身の精神状態を悟った気がした。そして、想い、思った。
〝また会いたい〟
 風が吹いた。でも強くない、優しい風。両頬をなぶるように吹いてくる。開けっ放しの窓辺で、レースのカーテンがそよぐ。パタン、と何かが倒れる音がした。
 ハッとした。同時に、現実に戻された。瞬時に自己嫌悪に苛まされる。
 分かっている。
 何が倒れたかも。
 そして何が自己嫌悪の元となっているかも、分かっている。
 これは、全部、わたしのせい。わたしの弱さ――
 つっかけを綺麗に揃えて脱ぎ、ベランダから部屋に戻る。テーブルの上で、政樹の写真が倒れていた。それを起こす。政樹の、眦の下がった目。やっぱり似ている。どうして? どうして? どうしてなの?
 涙が目の奥に集まった時、不意にスマートフォンが振動した。
 一瞬、視界がぼやけて、画面がよく見えなかった。取りあえず出た。このスマートフォンに直接連絡をしてくる人は限られている。
「どうだった?」
 前置き無しに用件に踏み込んでくるのは相変わらずだった。小さなため息をつく。相手には分からないように。
 さて、どう話そうか。 



 翌週、日曜日に僕は茜の墓参りをしていた。
 普段ならば、平日に行くのが圧倒的に多いが、この日はあえて日曜日を選択した。午前中にサッカーの試合があったため、手  
 荷物が多い。試合後にその足で直接来た。
 期待していない、というのは嘘になる。
 正直、もう一度会いたかった。
 会ってどうこうしたいというよりも、会って、先週と同じように自分の精神が乱されるかを再確認したかった。落ち着いて会えば、女性は茜には似ていないのではないか。不意打ちのような出会いだったから、あのようにとり乱してしまったのではないか。それを確認したく、もう一度会えることを期待していた。もう一度女性の声や匂いに包まれたい――、そういう気持ちはできるだけ心の隅に押し込んだ、つもりだ。
 女性は年上な気がした。茜が生きていたら、茜よりは年下だろうが、それでも、平日に時間をつくりやすい学生ではなさそうだった。
 だから、今回は日曜日を選んだ。いや、実は昨日の土曜日も来た。午前にあったサッカーの練習後、午後をずっと墓苑で過ごしたが、女性は現れなかった。鮎川家の墓に参る人はいたのだが、それは別の女性だった。だから、今日も来ないかもしれない。
 それでも、僕は待ち続けていた。あてもないのに、墓前で耳をすませていた。砂利の音が立つたびに視線を向ける。だが、いずれも彼女ではなかった。ここは都心のなかにある墓苑のため、墓参りに訪れる人たちの身なりにはどこか品があった。土日は、平日に比べて墓参りをする人が多い。
 姉ちゃんごめん……。
 浅見家の墓に向けてそう念じる。頭を下げながら、暫くそのままでいることが、今日も、もう一時間近く続いていた。気配を少しでも察知しようと、感覚神経を全て、先週、女性が拝んでいた墓の方に向けている。
両親と姉が安眠する前で、よこしまな感情を持って手を合わせていることがちくちくと僕の胸を刺してきた。だから、思念だけは墓に向けて必死に送る。姉ちゃんごめん……。姉ちゃんごめん……。姉ちゃんごめん……。
と、ざくざくと砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。音の方向へと顔を向ける。体内の鼓動が瞬時に高まった。あの女性だった。遠くからでも分かった。
 ざっ、と砂利の音が止まった。
 女性がこちらを見た。目が合う。女性が表情を崩し、笑みを浮かべてくれた。
 ざっざっと砂利の音を立てて、女性の方へと向かう。女性が笑みを浮かべてくれたおかげで、緊張は少しほぐれたつもりであったが、それでも女性が立てる砂利の音が大きくなるにつれ、緊張が増してきた。
「この前は、ありがとうございました」
 朗らかなトーンで、女性が声をかけてくれた。続けて、「よくお墓に参られるんですね」とも。女性が、鮎川家の墓前で歩みを止める。
 女性は、前回、僕が取った行動については触れてこなかった。ひょっとすると、何事もなく、普通に挨拶をして別れたのかもしれない。そう思えると、少し足かせが軽くなった気がした。
「この前お会いした日が、姉の命日だったんです」
 僕はそう言うも、何故そう言ったのかは、自分でも分からなかった。自然と言葉が口をついて出た。
「……お姉さん、お亡くなりになったの?」
 女性は僕の言葉を聞くやすぐに驚く仕草を見せた。祖父母の墓参りと思われていたのかもしれない。
「六年前、二十四歳で亡くなりました」
「それは……」
 女性が言葉を飲み込む。たぶん、若い、などと続けようとしたが、かえって僕の心情を痛めてしまうかもと思ったのだろう。代わりに、女性はこう言った。
「わたしは、この前お会いした日が、夫の命日の前日でした」
 前回会った時に、『夫なんです』の発言を受け止めたつもりでいたが、『夫』という言葉を再度聞いても僕の心は乱れた。僕は自身が落ち着くのを待ってから、口を開いた。
「そう……ですか」
 そう返したものの、その後の言葉が続かない。女性の顔をまともに見続けることもできないため、視線を下げる。この前は気付かなかったことだが、女性の左手の薬指には指輪がはまっていた。服装も、前回のような黒いワンピースではなく、春を感じさせる明るい色のコーディネートだった。
「あの、わたし、鮎川奈海と申します。奈良の『奈』に『海』で奈海」
 顔を再び上げると、奈海と名のった女性は控えめに微笑んでくれた。少し気持ちが軽くなった。
「僕は、浅見涼真です。涼しい『涼』に真実の『真』で、涼真です」
「涼真……くん、良い名前、って勝手に〝くん〟付けで呼んじゃってごめんなさい。見たところわたしよりも若いので、学生さん?」
「大学生です」
大学名を言うか迷ったが、少しにごして大学のキャンパスがある駅名を告げた。すると、彼女は、「あー、大学分かっちゃった」更には「頭いいんだね」とも付け加えてくれた。僕は少し恥ずかしくて、やはり顔を下に向ける。
 会話が一瞬途切れたのをよい機会と捉えたのか、彼女はカバンから線香とチャッカマンを取り出した。前回よりも少し多めの線香に火をつける。
 カチリ。
 今日は風がないので、あっという間に線香は先端を赤く染めた。手で扇いで火を消すと、すうっと薫風のような爽やかな香りが鼻腔をくすぐってきた。
「今日、慌てて来ちゃったから、お花を忘れちゃったの。だから、代わりにお線香を多めに。許してね」
 彼女が墓に向けて話しかける。その時だけは、僕の存在を忘れているようだった。手を合わせて拝む彼女の背後で、僕も軽く手を合わせ、目を閉じた。
「ありがとう。一緒に拝んでくれたの」
 声をかけられ、僕はだいぶ長いこと目を瞑っていたことに気付いた。何を思い拝んでいたのかは、既に思い出せなかった。
「いえ。その、何となく」
 彼女は、置いていたカバンから再び線香を取り出した。もう少し多めに線香を供えるのだろうか。
「ねえ、お姉さんのお墓に、お線香あげさせていただいてもいい?」



 彼女が浅見家の墓の前で手を合わせている間、どこか落ち着かない気分だった。背後から彼女を見ていると、まるで姉の茜がそこにいて、墓に向かい手を合わせているような気がしてくるからだ。
 ただ、先週動揺したほどの心の揺れはなくなりつつあった。彼女の話し口調が、茜のそれとは違うからだ。彼女の方が茜よりもざっくばらんとしている。茜とは違う、そう思える要素を見つけることができた。
 しかし、それは同時に、彼女が茜ではないことを僕に認識させた。つまりは、血の繋がりのない一人の女であることを、否が応でも僕に突き付けてきた。
 彼女の背中を見ながら考えていた。自分の壁を守ることができるだろうか。あの時から、茜が死んだ時から、他人、特に異性との間に築き続けてきた壁を、彼女に対しても同じように築けることができるだろうか。
 彼女の背中が動く気配があった。僕は思考を頭の隅に追いやる。
 くるりと振り向いた彼女の顔を見て、胸をしめつけられ、同時に今まで封印していたあの感情が宿る前兆を確かに抱いてしまった。でも。でも――
 そんな僕の心情をよそに、驚くほど茜の容貌に似ている彼女が、茜の声色そっくりに言った。
「茜さんきっと喜んでるよ。涼真くんがいつも参ってくれてるから」
 あ。やっぱり茜ではない。その口調を聞き、安心する。でも、そう思う矢先から、自己嫌悪に陥るのだ。茜ではないことを何故喜ぶのだ、と。それでも、眼前にいる茜似の彼女が、〝茜さん〟と姉を呼ぶことで、彼女が茜ではないことに安心する。少し複雑だが、嬉しい感情が僕には芽生えもしていた。
 だから、滑らかに会話を続けることができた。これも前回とは違う点だ。
「姉の名前、よく分かりましたね」
 彼女が一瞬ぽかんとした。その一瞬の表情も茜に似ている。が、すぐにカバンに手を入れ、線香を取り出した。ガサゴソとチャッカマンをさがしているのか、もう片方の手と視線をカバンにやりながら、「戒名の中に『茜』の文字があったので、素敵だなって、思わず言ってしまったの。やっぱり茜さんていうお名前だったんだ」と言い、チャッカマンを取り出す。「もう少しお供えしてもいい?」
「そんな、既にたくさん供えていただいたので、結構ですよ」
「そう?」彼女が少し残念な表情をつくる。「こんなかたちだけど、お知り合いになれたご縁で、と思ったんだけど」
「その気持ちだけで充分ですよ」
「そっか……」僕を背にした彼女が、手にしていた線香をカバンにしまい始める。僕はその仕草をどうしても見てしまう。彼女に気付かれずに彼女を存分に眺めることができるからだ。
「ねえ、」
 後ろ向きだった彼女が不意に声をかけてきたので、僕は内心どきりとした。見ていることがバレてしまったのか、と。
「年齢の割には、涼真くんは凄く大人っぽい喋り方だよね」
 彼女が振り返りながらすくっと立ち上がった。
「お姉さんびっくり」
「え!?」
 彼女は僕の驚いた顔を見て、すぐに合点がきたようだ。
「ごめんなさい。お姉さん、って、その……茜さんのことを指すんじゃなくて、」彼女が指を自身の顔に向ける「わたしのことを言ったの。あなたから見たら、わたしは年上だから、思わず〝お姉さん〟って自分のことを言っちゃった」
 まぎらわしく言っちゃってごめんね、と謝る彼女に対して、この時、僕のなかで自然と笑いが込み上げてきた。そして、実際に声をあげて笑っていた。おかしかった。なんでこんなにも意識してしまうんだろう。そう思えば思うほどにおかしかった。いきなり笑いだした僕に、彼女は引いてしまうかもしれない。そうなったら、それまでだ。何かがふっきれた気がした。だから、笑った。それは、茜を亡くして以来、久方ぶりに自然と出た笑い声だった。作り笑いではない、本当の、心の底から湧き出た笑いだった。
 そんな笑い上戸のように笑い転げている僕を見ていた彼女も、堪えきれなくなったのか、声をあげて笑い始める。どうしたの? そんなにおかしかったの、と言いながら。
僕の笑い声に、彼女の笑い声が重なった。いや、ひょっとすると、本当に姉・茜の笑い声も重なっていたのではないか。そう思えるほど、爽快な笑い声が澄みきった空に向けて広がっていった。



 夜。僕はスマートフォンを握りしめたままベッドに仰向けで寝っ転がっていた。さっきからずっとスマートフォンの画面を見ている。画面に表示された、数字と名前。『鮎川奈海』と入力した番号だった。ラインIDも交換した。既に僕はメッセージを送っているものの、既読にはなっていなかった。それでも構わなかった。
 あの後、彼女は用事があるようで、急いで墓苑を後にした。その帰り間際に、これだけはという感じで、彼女から電話番号と、ラインIDの交換を提案され、僕は快く応じた。
 彼女は余程急いでいたのか、自身のスマートフォンをカバンから出す際に、煙草の箱を落としていったようだ。僕も彼女との連絡先交換に浮かれ、足下に煙草の箱が落ちていることに気付いたのは、彼女が去った後だった。
 煙草吸うんだ。マルボロを。
 これも、姉の茜とは違う点だった。でも、彼女からは煙草の匂いはしなかった。僕は煙草を吸わないから、あまり分からないが、大学のラウンジで、女子が「煙草の匂いが髪につく」と言うのを何度も聞いたことがある。髪につく煙草の匂いは、もっと、それこそ髪に触れるほど近くにいかないと分からないのかもしれない。そう思った瞬間、僕はどこかうろたえた。彼女の髪に触れる? そんなことあるわけないじゃないか……。
 そんな状態で墓前に居続けていた僕の鼻が、フルーティーな匂いを吸い込んだ。初夏は目前なのに、時々風が強くなる。その匂いは、浅見家の墓に供えたスイトピーからだった。
 そう言えば、彼女が旦那さんのお墓に参った際に、花を忘れたと言っていたな。
 姉ちゃん、ごめん。今度は今日の倍持ってくるから。
 僕は、左右の花立からスイトピーを一本ずつ抜いた。それを持って、鮎川家の墓前に行く。そして、鮎川家の墓の花立にスイトピーを挿した。手を合わせ、頭を垂れる。何を言えばいいのか分からないため、心を無にして目を閉じ、拝んだ。瞬間、鮎川家の墓の前で、知らないボブヘアの女性と言葉を交わす映像が頭のなかに過ぎったが、その女性にさしたる興味をひかれなかったので、何の感慨もなく目を開ける。眼前では、花が活き活きしている気がして、気持ちが安らいだ。

 そのように今日の出来事を振り返っていると、スマートフォンが振動した。ライン。頭のてっぺんが瞬時に熱くなる。彼女からだった。
【今日はバタバタとごめんね。また会いましょう】22:04
 きっと、返事としては素っ気ないものかもしれない。脈の有り無しで言えば、友人の誰に訊いても「無し」と判断されるだろう。
 それでも、構わなかった。
 僕自身も自分の気持ちにいまいち踏ん切りがつかないせいもある。
 だけど、
 もう一度会いたい。
 また会いたい。
 お墓に行ったら、きっとまた会える。
 そう思えるだけで、胸がきゅっとしてきた。
 返事をどうしよう。友人同士のやり取りで、往復以上のメッセージを返したことがない。そもそも自分から最初に送ることさえなかった、今までは。
 何て返事しよう。
 いっそのこと電話する? 
でも、いきなりそれはないか。何て話せばいいのか、メッセージの内容以上に話のネタが思いつかない。
 そう思ったものの――声を聴きたい。狂おしいほどに、声を聴きたい。
 夜が更けていく。



 何て返そうかな。
 スマートフォンを握りしめながら迷っていた。涼真からラインのメッセージが届いているのは知っている。既読にしないのは――わざとだろうか? 自分でも分からなかった。もったいぶっているわけではない。できれば、既読と同時にメッセージを送ってあげたい。そう思う自分に驚いているうちに、スマートフォンを握りしめたまま、気付くと何時間も経っていた。もう夕飯の時間はとっくに過ぎている。取りあえず、何かを食べないと。食べながら、返信内容を考えよう。
 スマートフォンをいったんローテーブルに置き、キッチンへ向かう。
 震動があった。ぶぶぶぶ、とテーブルの天板を叩く。
 ぴくりと振り返る。思うよりも先に足が動いていた。すぐにローテーブル上のスマートフォンを手にする。
 届いていたのは、某古本チェーンのセール情報のプッシュ通知だった。
 何だ。
 興がそがれ、少し長めに息を吐いた。その時、
 手が振動を感知した。一度ではない、二度も、三度も。
 電話! 
 下ろしていた手をすぐに顔に近づける。スマートフォンの画面が目に入る。
「――」
 その場で固まるように動けなくなった。その間も震動が手に伝わってくる。震動が、身体に、頭に、脳に、心に伝わってくる。
 怖いのだろうか。
 こんな気持ちを持ったから、怖くなってしまったのだろうか。
 画面が架電者の名前を明滅させている。
 わたしはその名前をじっと見つめている。
 過去を、現在を、未来を、見つめている。
 手が、震えている。 

幕間 

 何故出ない。
 何故出ないんだ。
 気持ちが焦ってくる。
 焦燥に駆られる自分を感じる。
 それでも、電話を切ることができない。
 コール。コール。コール。
 何故に、出ない?
 ふざけんな。ふざけんなよ。煙草を取りだ――そうとするも、煙草の箱が見当たらない。
 俺のマルボロどこだ?
 コール。
 コール。
 出ない。
 見当たらない。その代わり、黒色のバッグが目に入った。
 嵐の日をふいに思い出す。欲情が掻き立てられる。金欲が高まってくる。
 コール。
 コール。
 出ない。
 見当たらない。
 合鍵が、勝手に作った合鍵が、見つかった。俺が先ほどまで欲していたマルボロではない。だが、俺は笑んだ。黒色のバッグ を見つめながら。 

幕間 

『ちょっと、しっかりしてよ、恭姉。相手は学生だよ。ガキなのよ。簡単にふんだくれるんだよ。あいつん家、相当持ってる。墓見たでしょ、あの豪華な墓。やばいよ。やばいくらいに持ってるよ、あいつ。だから、早くさ、さっさとさ――』
 想像していたよりも強い反発を含んだ声だった。
 反論したい、と思ってしまうも、反論をするともっと罵られそうだ。
『なんでかなー。まさか、こんなに深入りするなんて、超予想外。つうか不測の事態。ちょっと関心を示してくれるぐらいでよかったのに』
 電話口で相手は怒っている。感情が高まり過ぎてほとんど独り言のようにぶつぶつと、でも激しく抗議するように苛々をぶつけてくる。
『なんでかなー、本気なの? ねえ、マジ? マジで?』
 うん。そう頷いて見せられることができればどんなに楽なことか。でも、そうさせてくれない。
 うん、と頷きたい。
 うん、と頷き――
『もういいよ、ちょっと頭冷やして! 得意な絵でも描いてればいいじゃん!』
 甲高い声が耳を突き刺すや電話が切れた。電話どころか相手もキレたのだろう。
 電話が切れた後も、その声の残響が耳奥で痺れるような不快感を押しつけてくる。その時、
 声を聴きたい――
 そう思ってしまった。
 ブラックアウトしたスマートフォンのディスプレイを点灯させる。アドレスの[あ]行。
 一番先頭にあった。
 指先が、ゆっくり画面へと向かう。
 意識しているのか、無意識なのか、指先が向かう。
 どうして、どうしてこんなことに。
 その疑問を抱いた時、この指の動きは無意識ではない、と認識させられた。
 しかし、
 タップしようとしていた指の二本隣りの指で光るもの、指輪。
「もう……どうしたらいいの……分からない」
 理性が、邪魔だった。 



 翌週の日曜日も、僕は墓参りに来ていた。
 これは、墓参りなんだ。
 奈海さんに会いに行くんじゃなくて、墓参りなんだ。
 行きの電車の中でそう思い過ぎて、墓苑の最寄り駅に着いた時には、脳に軽い疲労を感じていた。
 いつもの店で花を買う。スイトピーを多めに買った。茜への言いわけのために買ったのではない。先週、鮎川家におすそ分けして、供える本数が減ってしまったから、今日は茜を喜ばすため多めに買ったのだ。
 今度は、茜を喜ばす、という考えばかりを胸の裡で繰り返し、足下だけを見ながら早歩きをした。墓苑に着くと、いつも以上に疲れていた。
 だが、
 彼女の姿があった。
「こんにちは」
 今日は、ベージュのサロペットに、紺色のだぼっとしたロングティーシャツ姿だった。手を後ろで組みながらカバンを持ち、まるで僕と待ち合わせをしていたかのように、にこりと微笑んでくれた。「今日は来るんじゃないかと思ってたよ」
 その言葉で僕は軽く宙に浮いた気がした。いや、彼女の姿を見とめた時から既に、喜びの渦が心中で生まれていた。
「今日も、お墓参りですか?」
 言ったそばから、何分かりきったことを訊いているんだと、僕は心の隅で自分に突っ込む。
「それ」彼女が、僕が持つ仏花を指さした。「ありがとう。活けてくれたんだね」
 僕は寸刻黙ってしまった。
「へ、なんで恥ずかしがるの?」
「いや、その、何ででしょうか、……よく分かりません」
「素直でよろしい」
 今日の彼女は、この前よりももっとフランクに僕に話しかけてくれる。距離感が縮まったのだろうか。それでも、僕が発する言葉は、自分でも分かるほどにどこか硬い。
「涼真くんは体育会系男子なの?」
「はい。いえ」
「ん?」僕の頓珍漢な応答に彼女が吹きだした。僕もつられて笑った。彼女の前では自然に笑えるような気がする。前回もそうだった。
「高校まではずっとサッカーをやってました。いまは、大学のちょっと真面目系のサッカーサークルに入ってます」
「へー、ちなみにポジションは?」
「トップ下やインサイドハーフです。ミッドフィルダーのポジションなら、基本どこでも」
 サッカー用語をまじえてそう言った僕だが、彼女に理解できただろうか。少し解説するために口を再度開こうとした。
「へー、走り回るポジションだね。ゲームを組み立て、ラストパスやクロスをあげる人ってカッコいいと思うよ」
 完全に自然な応答とも言えるコメントを彼女が返してきた。
「サッカー、知ってるんですか?」
 その問いに、一瞬彼女は黙った。だが、すぐに笑みを顔に刻む。少し口調を変えて厳かな感じでこういった。
「……夫がやってたの、サッカー。彼はフォワードだったよ。色々教えてもらったの。ディフェンス裏への飛び出しや、フォワード特有のゴールする嗅覚みたいなものを」彼女がくるりと鮎川家の墓の方を向く。「だから、」そうして彼女が今度は顔を器用に横に向けた。僕を覗き見るような姿勢で「お姉さんは、意外とサッカー通だよ」そう笑って言葉を付け足した。
 
 浅見家の墓に来て驚いた。花立からスイトピーが溢れていた。
「あの」
 思わず彼女を振り返る。
「いつもスイトピーが供えてあるから、茜さんが好きなのかなと思っちゃって。間違ってたら、次からは気をつけるよ」
「いえ。大好きなんです。姉は、スイトピーが」
「よかった」
喜ぶ仕草を見せる彼女は、とても僕よりも年上には見えなかった。と言うよりも、実際はいくつなんだろう。やはり女性に年齢を訊くことはできない。
「ん? いま何か考えていた?」
「いえっ!」
 前回の、煙草を発見第一だとすると、今日のサッカー通は発見第二。そして、勘が鋭いことは発見第三になるだろうか。
 まずは、僕は線香を出した。煙を燻らせて、丁寧に香炉に置く。スイトピーは既に花立にいっぱいだったが、今日僕が買ってきたものを更にぎゅむぎゅむと押し挿してみると、それはそれは立派な花飾りになった。
「綺麗。茜さん、絶対に喜んでるよ」
「そんな」と謙遜する僕に、
「毎週お花持ってお墓参りしてもらえるなんて、本当に羨ましいぐらい」彼女が頷いた。
「え?」
 毎週お墓に来ていることが知られている?
 だが、彼女は僕の疑問に言葉を被せてきた。
「って、わたし何嫉妬しているんだろう」
 やっぱり朗らかな笑顔を僕に向けてくれる。僕はそれだけで幸せだった。茜が亡くなってから感じたことのない『幸せ』を、いま確かに自分は感じている。幸せ? と言うよりも、これは……恋?
 馬鹿な。相手は年上だぞ。しかも左手の薬指に指輪がある。そして僕にはあの未来見の能力が……。それによって茜が……。 
 僕は、僕は、大切な人を作っては――僕は軽く頭を振った。振りながらも、何か払拭できないモヤモヤしたものが残り続けている。それでも彼女に気付かれない程度に頭を振り続ける。モヤモヤと。
「あの、な、奈海……さん」
 そう言うや、彼女がすぐに相好を崩した。
「やっと呼んでくれたね」嬉しそうに、でもちょっとだけ複雑そうな表情を浮かべ、彼女が僕を見つめてくれた。「で、何でしょうか、涼真くん」
「このスイトピーを、旦那さんのお墓に供えてもいいですか?」
 彼女がはにかみながら、「もちろん」と頷くタイミングで、カラスが鳴いた。
 墓苑にカラスはよくいるものだが、何もこのタイミングで鳴かなくても。
 だが、それ以上に僕には感じたものがあった。
 もちろん、と言ってくれた言葉の前に、ほんの僅かではあるが、思い過ごしかもしれないほど小さな間があいていた。その間は、何だろう?
「行こう!」
 彼女が、さっと僕の手を引いた。柔らかく、温かい彼女の手のひらが、僕の手首をくるむ。カバンを浅見家の墓前に置いたまま、花だけを手離さずに、僕は引っ張られるように鮎川家の墓前に連れてこられた。誰かに手を引かれる。それは、茜にしてもらった以来のことかもしれなかった。

 僕は、スイトピーを丁寧に花立に挿す彼女の背中をじっと見ていた。花立に手を伸ばすその手つきが少しぎこちない。背中が何度か前後に行き来する。
 手伝おうかな。
 一歩踏み出そうとした時、彼女が背中越しで声をかけてきた。
「もし、誰か来たら教えて」
 彼女の表情をうかがうことができなかった。どういう意味だろう。そう考える合間に、彼女がもう片方の花立にスイトピーを挿し、花のバランスを整え始める。
「誰も、見当たりません」
「ん、ありがとう」
 やはり背中越しに声がかかる。彼女が「んしょ」と言いながら、墓から一歩下がった。「綺麗」
 ようやく振り向いてくれた彼女の顔は、本当に嬉しそうだった。でも、その表情をすぐに歪める。
「わたしね、お義母さんたちと折り合いが悪いの。政樹さんが亡くなってからは、余計に悪くなって。だから……」
 ああ、そういうことか。嫁と姑というテレビドラマのようなことは、実際にあるものなのか。僕は自分の知らない世界を覗き見た気がした。と、同時に、彼女が何気なく言った〝政樹さん〟との言葉から、亡くなった旦那さんの名前を知る。少し複雑な気持ちになった。そんな心情が表情に現れたのかもしれない。彼女がすぐに明るい声を出してくれた。
「ごめんね。こんなドロドロしたこと言っちゃって」
 そして、更に付け加えてくれた。
「時間ある?」
「え?」
「オイコー飲も」
 僕は意味が分からず薄く口を開いたままだ。オイコー?
「美味しいコーヒー。略して、オイコー。駄目?」
「コーヒー……オイコー、大好きです!」
 思わず腹から声が出てしまった。たぶん僕は顔を赤らめている。そんな僕に彼女は追い打ちをかけてきた。
「お姉さんについて来なさい」
 手を繋がれた。手首ではなく、手のひら。僕と彼女の手のひらが合わさる。ほのかな熱がそこにはあった。意識がくらりと一瞬、飛んだ。
「あ、カバン」
 彼女が僕のカバンの心配をしてくれたものの、僕自身はどこかうわの空だった。
 ただ、初夏の陽ざしの眩さは感じられた。煌めきのようなもの。目を閉じ、全てを任せたい。そう思った。
 こんな気持ちは初めてだった。本当に、初めてだった。



「美味しいですね」
 口をつけたカップをソーサーに戻す。木目調のテーブルを挟んで真正面に座る彼女へ、まじまじと目線を移すことができないため、意味もなく木目の模様を僕は観察していた。変な形の木目を発見する。
 僕たちはいま、墓苑から少し離れた場所にある喫茶店にいる。
「でしょ。わたしも飲んでびっくりしちゃって。だから、お墓に寄る時は、ここにも寄ることにしてるの」
 あ……。
 僕はその言葉に、僅かにだが心臓をえぐられた気がした。
 そうだよ。何を考えていたんだ。コーヒーを飲みたいから、たまたま一緒になった僕を誘っただけであって、僕を誘うためにコーヒーを飲みに来たわけじゃない。
「本当に……美味しいコーヒーです」少し声が小さくなった。
「ん?」彼女がコーヒーカップをソーサーごと脇によけ、テーブルに両肘をついた。「どうしたの? なんかテンション下がってる? 美味しくなかった?」最後の言葉のところでは、彼女も声を小さくする。
「いえ! 美味しいです! 本当に、美味しいコーヒーです」
 僕は弾かれたように顔を上げた。ついでに声も大きくなった。多くはないが、僕たち以外にも何人かの客が静かにコーヒーを嗜んでいたため、視線が僕に集中した。
 やばっ。
 僕は慌てて肩を下げ、やっぱり木目の観察に戻る。
「涼真くん」
 彼女の口調が改まっていた。突然の展開にドキリと身体が反応する。ゆっくり顔を上げると、彼女の臆さない真っすぐな瞳が僕を捉えていた。
「あのね……」
 少しポーズを取り、目を据えて彼女は僕を見てきた。
 鼓動が速くなっていく。バクバクしたものが体内を叩いてくる。もう限界だった。視線を彼女の目から逸らす。視線を下ろす途中で、テーブル上で組まれた彼女の指に目がいった。その薬指で存在を主張する指輪。それが、控えめな店内の照明に鈍く光っていた。
 もう駄目だ。会うのは、きっと、これが最後だ。
 そんなことを、これから言われるに違いない。
「オイコーだよ」
「へ?」
 顔を上げた。彼女の顔を見る。
「だから、オイコー。美味しいコーヒーは、これからオイコー、って呼ぶ」
 彼女の目は笑っていた。口調も元に戻っている。茜のような声なのに、茜よりももっとくだけた口調。でも、懐かしさを感じさせる。懐かしさだけではない。もっと、もっと、心を揺さぶる、感情の大きな渦や波を引き起こす、でも荒々しくない、優しく、柔らかく僕を揺り動かす、そんな空気感に包まれた。
「オイコーです。オイコー。本当にオイコー」
 僕はオイコーを連呼していた。また声が大きくなったのか、僕に視線が集まっているが、僕は気付かないふりをした。「本当にオイコーです。いやあ、オイコー」
 そんな僕のリアクションがおかしいのか、彼女も少し大きめの声で笑いだす。
 笑う彼女は、茜にそっくりだった。茜もコーヒーが好きで、よくダイニングテーブルで飲んでいた。その真向かいで僕は宿題をしていた。ふとその頃を思い出す。
 彼女がコーヒーカップを持ち上げた。その仕草も。彼女がコーヒーカップをソーサーに戻した。その仕草も、茜に似ていた。
 僕は笑った。嬉しくて、涙がでてくるほど笑った。涙の半分は、嬉しさと対局の意味を成しているのを理解しつつも、涙が止まらないほど笑った。
「やだ、泣くほどおかしいの」
 彼女も涙していた。
 でも、彼女の涙の意味は、何だろう? 笑いながら、冷静に彼女を観察していることに気付いてしまう自分を、僕は少しだけ許せなかった。それでも笑い、泣いた。



 深夜、僕はスマートフォンを握りしめていた。
 ずっと画面を見ている。きっと瞬きをしていない。一瞬の隙も見逃さない、そんな気持ちで、僕は自分が送ったメッセージに既読がつくのを待っている。不思議と目に疲労を感じなかった。
 送ったメッセージは、何でもない内容だ。
【オイコー美味しかったです。またあのお店でオイコーを飲みたいです】16:21
 最後に絵文字をつけるかどうかで迷ったが、結局つけなかった。絵文字の数や表現内容で本気度が分かるとはよく聞くが、自分から絵文字をつけることには抵抗があった。
「古い考えの持ち主なのかな」
 画面を見たまま、わざと声に出して言ってみた。
 絵文字を送らない理由を、男が絵文字なんて、との信念にしたいからだった。声にしてしまえば、それが真実になる気がした。
 しかし、
 しかし――
 真実でないものが真実になることはなかった。
 僕はいつのまにかベッド上で体育座りをして、膝の間で頭を挟んでいた。そうして、布団の上に置いたスマートフォンの画面を見つめ続ける。電池容量は残り一メモリだ。だが、充電する、という動作をとれない。煩悶していた。本当に、苦しい。
本当は怖いからでは? 恋をしてること、相手に本気度を示そうとしていること……を自覚するのを避けているのでは。
 膝を抱え、膝の間から画面を見続ける。
「あ」
 既読がついた。
 刹那、喜びが身体の奥から溢れ出る。繋がった。奈海さんと繋がった。
 でも、それは新しい煩悶の始まりでもあった。

 二時間が経過していた。
 ずっと膝を抱え続けている。膝の間から画面を見る体勢に痛みを覚えてきた。特に首に負担がかかっていた。それでも、僕は  
 その姿勢を崩さなかった。とり憑かれたように、画面を見ている。
 奈海さんからのメッセージは来ない。
 僕からのメッセージに既読がついたまま。ただそれだけだった。
 スマホの電池が切れた。
 何も進展はなかった。
 夜が白み始めていた。
 首をあげた時、初めて朝になっていたことに気付いた。首が痛かった。
 


「ねえ、やっぱり……無理かもしれない」
『はあっ!?』
  反応が孕むあまりの剣幕に思わずスマートフォンを落としそうになった。
『ちょっといい加減にしてよ、この間から! このためにどれだけ時間と金を割いたか分かってんの、恭姉! いつまで清純ぶってれば気が済むっつうの! 世の中、綺麗ごとだけじゃ生きていけないんだから!』
「……うん」
『うん、じゃないでしょぉ! あいつん家からふんだくらないと、調査費のもとさえ回収できないじゃん。いい、金持ちからはふんだくる。前回と一緒。これが私たちのやっていること。やるべきことじゃん。上手くやってよ。去年の大嵐の日みたいに。ちょっとしっかりしてよぉ、だいたい――』
 やるべきことじゃん……? スマートフォンを耳から離す。それでもまるでスピーカーモードに切り替えたような金切り声が空気中を伝わってくる。空気を痺れさせながら。スマートフォンを持つ左手も痺れてきた。いや、震えていた。ぶるぶると、自分でも理解不能なほどに震えていた。左手が重く感じる。スマートフォンをローテーブルに置く。それでもまだ左手が重い。どうして? 他には何も……あった。
 左手の指を伸ばす。薬指にハマった指輪に触れる。掴む、外した。それもローテーブルに置く。指輪を外す時に、躊躇を覚えた。でも、外した。外すと……軽くなった。不思議なほどに、重さを感じていた手が、心情が、軽い。
しかし、突然だった。
がくがくと身体全体が震え始めた。まるでクスリを断たれた薬中毒者の禁断症状のように。震えが頭部に到達する。もう、もう、もう……限界――
 ブラックアウトしていた画面をタップする。
 ラインのメッセージが一件。心臓が撥ねた。タップする指先が震える。
 ラインアプリを起動させメッセージを読む。
 今すぐ返事をしたい。
 メッセージを送りたい。
 受話口からは相変わらずガミガミと音声がまくしたてられている。
 暫く悩んだ後、心の中で、ごめんね、と呟き、電話終了のアイコンをタップした。すぐに部屋の中が静かになる。スマートフォンをローテーブルに置く、ことり、という音が立つ。
が、
 すぐに電話がかかってきた。
 バイブレーション機能が空気を振動させる。ローテーブルの天板をせわしなく叩いてくる。部屋の空気が乱れ、騒がしくなる。鼓動が乱れる。涙が、零れた。
 フローリングの上にぽたりぽたりと雫が落ちる。その音は弱く、とてもスマートフォンの震動音には勝てない。
気付くと号泣していた。
 声をしゃくりあげ、鼻をすすり、尽きることのない雫を溢れさせ、いつしか唸り、慟哭していた。頭のなかには、あの人の顔が浮かんでいる。頭のなかが、あの人でいっぱいだった。いっぱいだった―― 

幕間 

【いま何してる?】20;28
【ヒーマヒマヒマ暇っ】20:50
【声聞きたい】20:52
 ……どうして既読がつかない?
 まさか……。また!?
 タップ。コール。コール。コール。コール――  応答なし 21:14
 タップ。コール。コール。コール。コール――  応答なし 21:19
 タップ。コール。コール。コール。コール――  応答なし 21:23
 タップ。コール。コール。コール。コール――  応答なし 21:25
 タップ。コール。コール。コール。コール――  応答なし 21:26
【いい加減出ろやボケェっ!】21:27



 部屋のインターフォンが鳴った。築年数があるアパートのため、古臭い音が出る。
 時計を見ると夜九時を少し過ぎたところだった。いつの間にか、もうこんな時間だ。
 再度インターフォンが鳴る。こんな時間にこの部屋に来ようとするのは二人しかいない。その二人のうち、どちらだろうか。
 できれば、居留守をつかいたかった。
 今夜は、会いたくない。
 今夜〝も〟だろうか。
 幸い、部屋の電気は消してある。ぼーっとしてて、明かりをつけていなかったのが幸いした。ゆっくり足音を消して歩き、ベッドの布団にもぐる。
 ぶぶぶぶぶ。
 スマートフォンがメッセージを着信する。
 嫌。
 ぶぶぶぶぶ。
 間髪入れずにメッセージが再び入る。
 嫌。
 だが、それは一瞬の心の隙だった。怖いもの見たさで、ラインを起動させずに、プッシュ通知の文面だけを見た。
【いるんだろ】21:10
 カチャリ。
 え!? 嘘!?
玄関ドアの鍵が勝手に回っていく。チェーンは……していない!
 大急ぎでドアへと走る――も、
 間に合わなかった。
「よお。チェーンぐらいしとけよ。物騒だぜ」
 夜の匂いと酒の匂いが一緒に部屋のなかに侵入してきた。あと、望んでいないオトコも。
「何だよその顔は。せっかく会いに来たのに、はるばる恋人がさ」
「合鍵なんて渡してなかったよ。それに恋人って」
 抗議のつもりだった。あの嵐の日――。だから、少し大きめな声で言った。
 でも、効き目がないようだ。男が勝手に靴を脱ぐ。羽織っていたジャケットを乱暴に丸め、廊下に叩き落とすように投げつけた。ジャケットが振動し、フローリングを叩いている。
「うるせえな、電源落としときゃよかった」
 男は短い廊下を、どすどすと足音を立てて歩き、屈みこみながら、顔を近づけてきた。男の身長は一八〇センチを超えるため、身体を折っても、威圧感を覚える。
「……どうして避ける」
「別に。いまはそういう気分じゃないの。いまは、というよりも今後いっさい。もう止めて欲しいの。そして、その鍵も渡して。勝手にヒトん家の合鍵を作らないでよ。宏美から?」
「そういう気分かぁ」男は鍵を顔の近くで振るように左右に揺らした。男は質問に答える気がないらしい。口を開くも、いやらしい笑みを浮かべ、やがて「嵐の日」と呟いた。
 その言葉に鋭敏に反応する。もう嫌だ。あんな思いは嫌だ。そして嫌な元凶をつくったのは、眼前の――男。
 あの人とは、まったく、真逆の――男。
「指輪を外したのも、そういう気分じゃないからか、あ?」
 思わず視線を落とす。
「図星だな」
 男は、そのがっしりした体躯をしならせながら、腕を巻き付けてきた。
「嵐の日……」
 男が再度口にする。びくりと、やはり身体が、心が反応する。男が言葉を続けてくる。「同じ穴の狢(むじな)なんだよ、俺たちは。金とっただろ、一緒に」
 言い訳ができない。たとえ、宏美が首謀したことであっても、加担した。罪悪感……。でも、いまは、それ以上に、目の前の男が嫌だ。
「やめて。嫌なの」しかし、男は腕の力を緩めない。もっときつく、きつく抱いてくる。「ホント、止めて!」腕を引き離そうと爪を立てる。だが、全く緩まない。筋肉質な腕が余計に、身体を固めるように抱いてくる。力が強すぎて息ができない。「止めて、止め……息、できない」男は緩めない。「息……」
 いつしか屈服していた。
 ジャケットは震え続けている。 



 睡眠不足に加え首のこり、更には精神的な疲労が蓄積され続けたのか、一度寝に落ちた僕は、十二時間ほどをぶっ通しで眠り続けた。目が覚めると、時計が数字の六を指していた。気持ちを切り替えるためにカーテンを開けると、窓枠から見える茜色の空が暗い紫色に侵食されていた。
 軽く驚いた僕は、日付を確認するためにスマートフォンに手を伸ばす。
 だが、スマートフォンの電池は果てていた。充電することさえできずに寝落ちしたということだ。充電コードをスマートフォンに繋ぐ。
 尿意を覚え、トイレに行くと、今度は空腹を感じた。
 何だか自分の電池まで切れた気がして、苦笑いを浮かべることができた。
 冷蔵庫を開けに行く。料理はわりとできる方なので、ありあわせの料理でもしようと思ったが、目の端がカップラーメンを捉えると、無性にそれが食べたくなった。
 電気ケトルに水を入れて沸かしている間、カップラーメンからかやくなどを取り出す。
 箸か。
 ダイニングテーブルから再度キッチンへ行こうとした時、充電中のスマートフォンが緑色の着信ランプを明滅させていることに気付いた。すぐにスマートフォンを手に取る。日付を確認することが優先かもしれないが、脳は別の動きを僕に指示していた。キッチンからは湯が沸く音がボコボコと聞こえてくる。だが、いまの僕にはこっちの方が最優先だった。
 ラインにメッセージが届いていた。二件。サッカーサークルの直登からと、奈海さんからだ。寝ぼけ気味だった脳が瞬時に覚醒した。背筋が伸びる。
 電気ケトルがカタッと音を立てた。沸騰していた音が徐々に止み、室内が静かになる。だが、次第に呼吸音が、吸う息と吐く息が、部屋内で色づいて消えるように蒸発しだすや、次の瞬間、
「よおおおおおおおっし!」
 普段放つことのない調子の声を僕はあげていた。
【おはよ。昨夜は返事書けずにごめんね m(__)m】9:12
【オイコー気に入ってくれてよかった】9:12
【お姉さんと一緒でよければ、あ、お姉さんはこの場合わたしです(〃▽〃)ポッ】9:13
【また一緒に行こ】9:15
【あと】9:16
【ごめん、文打ってる途中で送っちゃった(´;ω;`)ウゥゥ】9:16
【最近サッカー見てないから、涼真くんがサッカーしてるとこ見に行っていい? 練習とか試合とか、何でもいい】
【おーい、生きてる?】14:20
【ごめんね、電話しちゃった。でも通じないよ。大丈夫? つか、何かわたし、おせっかいお姉さんみたい。←おばさんじゃないぞ。まだまだ】16:48
 奈海さんにライン電話をかけていたのは、無意識からの行動だった。
『涼真くん!』
 声が聞こえた瞬間、不思議な感覚を抱いた。姉の茜に繋がった気がしたからだ。が、すぐに自分が奈海さんに電話していたことを悟る。何を喋ろうか考えてもいなかったため、頭のなかがさっと空白になった。かろうじて「うん」とだけ返せた。
『よかったー。既読つかないし、電話しても不通だから、何かあったのかって心配してたよ。元気だった?』
彼女の声は明るかったが、気のせいか若干の疲労も感じ取れた。心配させてしまったのだろうか。そこまで心配をしてくれた……? そんなこと、あるわけない。僕は軽く頭を振った。
 実際のところ僕も元気ではなかった。昨夜、スマートフォンの画面を見続けた際のもどかしさや不安が心労として蓄積されている。それにもかかわらず、奈海さんの声を聴くや心の昂揚を感じ始めていた。彼女の声が耳に染みるようにじわじわと広がる。もっともっと声を聴きたくなる。
「ちょっと、寝過ごしちゃいまして」
「こんな時間まで!」
 彼女は心底驚いたようだ。電話の向こうで、若いなー、などと感想を漏らしながら、突然ド真ん中にボールを蹴ってきた。
『サッカー見にいってもいい?』
 僕は目を見開く。瞬きの感覚を失った気がするほどに。知らずのうちにスマートフォンを強く握りしめていた。
 会話のテンポが崩れたのを不安に思ったのか、彼女からの次の声は控えめに耳に届いてきた。
『駄目?』
「いえ! ぜ、全然OKです。是非。あ、でも、土日は暫くグランドをとれてなくて、試合も練習もないんです。平日だったら――」
 僕はそう言いながら、おそらくOLをしている彼女に平日は難しいだろうと考える。案の定、彼女も少し間を置いてから、うーん平日かあ、と語尾を濁した。
 だが、
『ま、いいや。平日の練習日を参考までに教えて』
 彼女のその言葉が耳に届くや、僕は慌ててスケジュール帳を取りにいった。
「えっと、直近ですと今度の水曜日が午後二時から××運動公園で、金曜日が――」
 いま判明しているスケジュールをあらかた伝えると、メモを取っていたのか、彼女が『ごめん、もう一度来週の金曜日の時間を言って』と確認してきた。
「来週の金曜日は午後四時からです」
『ふーん』
 どうだろうか。来てもらえるだろうか……。判決を待つ被告人のように、彼女の次の言葉に耳を集中させる。
『うーん、何とかなるかな……』
 苦しそうに悩みながら声を吐き出しているが、彼女の言葉を聴くことができただけで、僕は嬉しかった。そこまで考えてくれるなんて。「無理しなくてもよいので」
『いや、無理してでも行きたいな』
 ドキン。
 心が弾む。いや、心を撃ち抜かれた。何も言えない。口を開くととんでもないことを言ってしまいそうだった。
『うん、まあ、行けそうだったら行くね。その時は前もって連絡するね』
 社会人がどれくらい平日を休めるのかは、僕にはいまいちピンとこなかった。茜が会社勤めをしている時も、保護者参観に行くのでさえ、色々と仕事のスケジュール調整をしていたようで、保護者参観後は暫く残業続きになるのを見てきた。
 だからきっと、社交辞令だ。嬉しさ反面、そう自戒することも忘れなかった。
 社交辞令だから。大学生になってようやく僕も覚えた人との付き合い方。
 その後は、とりとめもない会話をして、電話を終えようとした。
 会話は、ほとんどを彼女が引っ張ってくれた。
 電話終了のアイコンをタップする時、本当にタップしていいのか躊躇した。実際、指先が画面の数ミリ手前で止まる。気付くともう一度スマートフォンを耳に寄せていた。
 息が、聞こえた。
「奈海さん」
 呟いてみた。
 少しだけ、ほんの僅かな間を開けて、『涼真くん』。彼女もまだ電話を切っていなかった。
 雨が降ってきたようだ。
 サーっと砂をこぼしたような音が窓外から聞こえてくる。
『雨』
 彼女が囁くように言った。
「降ってきましたね」
 僕が言葉を受ける。暫く、雨の音を聞き続けた。お互いの部屋に届く雨の音を、受話口を通して。少し不思議な気分だった。
雨が強くなってきた。
「奈海さんの部屋から聞こえてくる音が、うちのよりも大きく聞こえます」
 彼女の吐息を漏らすような笑い声が耳朶を掠める。
『窓閉めた?』
「いえ、これからです」
 言われて、僕は視線を窓に向けた。風も強くなってきたのか、雨が斜め方向に落ちていた。雨粒が大きい。すぐに窓を叩く音がしだす。「うわっ、強くなってきた」
 スマートフォンを肩と耳で挟みながら窓を閉めている時、空が光の筋でひび割れた。直後に重たく響き渡るような音がした。  
 茜が死んだ翌日を思わせる天候だった。それとも、深雪との一件があった日だろうか。
「大きかった。近くに落ちたのでしょうか、雷」感想を言う。だが、先ほどから彼女の声が聞こえなくなっていた。電話は繋がっているのに。
「もしもし、奈海さん」
 直後、前触れもなくドンっと腹に響くような落下音、パチパチと火花が散るような音もした。雨が更に窓を強く叩く。三度落ちる雷。しかし、彼女の声だけが聞こえてこない。
「もしもし、もしもし、奈海さん」
 俄かに不安が募った。少し強めの声で呼びかける。受話口を強く耳に押しあてた。
『実は……』
 声が震えていた。小さく、消え入りそう。だけど、確かに彼女の声だった。
「大丈夫ですよ」
 僕は彼女を安心させようとつとめて明るく言う。が、その明るさが虚しくなるほど空は真っ黒だった。ぱっ、と閃光が走る。 
 地響きのような不安を煽る低音が数秒続いた後、先ほどまでとは違う桁外れに大きな雷の音がした。
 彼女から、瞬間、息を吸い込む吸音が聞こえた。天敵が来たために貝殻に引っ込む貝の絵が頭のなかに浮かぶ。空ではパチパチと雷の音が弾けている。彼女は文字通り、貝になったようにその殻を閉じ、言葉を発しない。
ふと、感じた。彼女は怖がっているのだろうか。決して僕の気を引くためにしている芝居とは思えない。
「奈海さん、あの――」
 ドオオオオオンっと僕の言葉を掻き消すほどの大音量で、雷が落ちた。電話の向こうでは闇が落ち、先ほどまで感じていた彼女の存在が掻き消えたような錯覚さえ覚える。この電話回線は彼女と繋がっているのだろうか。彼女との距離が、見えない距離が、急速に広がった感じになる。
「奈海さん、奈海さん」
 だが、今の彼女に、果たして僕の声は届いているのだろうか? 彼女が一人で不安を募らせ怯えている姿を想像する、いや、不安以上に、彼女が苦しんでいるような気さえしてくるや、僕の口から言葉がするっと出た。
「奈海さん、今からそっちに行きます」
『――』
 電話の向こうで息をのむような空気を感じた。僕は必死だった。
「奈海さん、家どこですか? 今から行きます。どこでも、必ず行きます。駆けつけます」送話口に向けて怒鳴るように言う。「だから、住所教えてください。すぐ行きます」
『本当に、来て……くれるの?』
「行きます。すぐ行きます」
 躊躇いの間があいた。僕は自分が言いだしたことの大胆さをいまにして悟り、電話を持つ手が震え始めていた。体内で鼓動が激しく高鳴っている。声が、彼女の苦しそうな声が、僕の耳にたどり着いた。
『最寄り駅は……、◇◇線の●☆駅、住所は――』
 そこで彼女の言葉が止まった。僕は尋ね返すように続きを促す。●☆駅ならば、大学のすぐ近くだ。
 しかし、
『……ごめんなさい。だ、大丈夫。』
「え」
『ホント、わたしったら、雷ごときで、びっくりしたでしょ? ごめんね……、うん、大丈夫。わたし、ビビりなの』
 そう言う彼女であったが、僕にはとても彼女が大丈夫に思えなかった。声色がまだ闇の色を含んでいるようだった。どこか苦しみに耐えているような声だった。僕が口を開こうとした時、彼女が提案のようなお願いをしてきた。
『涼真くん、歌って』
「へ?」
 突然の突飛な依頼に面食らった。正直に言うと、僕は音痴だ。
『何でもいい。こんな天気が吹き飛ぶような歌。ううん、歌でなくてもいい。わたしの耳を涼真くんの声でいっぱいにして。雷が聞こえなくなるほど、涼真くんの声で、わたしの耳を満たして』
 僕は一瞬口を噤んだ。彼女も黙り込む。その間も雨が窓を叩く。雷がひっきりなしに鳴る。でも、彼女の声の闇のなかに、一筋の光が刺そうとしている気がした。覚悟を決めた。
「歌います!」
 そうして歌いだした。どうしてこの曲を歌うことにしたのか、僕にも分からなかった。ただ、気付くとこの曲を、最初は口ずさむように、でも次第に声を大きくしながら歌いだしていた。
 カーペンターズの〝イエスタデイ ワンス モア〟。茜がコーヒーを飲みながらよく聴いていた曲だ。
 歌の途中、自分でも分かるほど何度も音程を外しながら二番目のサビを歌っていると、彼女も声を重ねてきた。

 その後、僕はスマートフォンの電池が切れるまで彼女と電話で歌い続けた。彼女と声を合わせれば合わせるほどに音程が整い、歌が上手になっていくみたいだった。
 そうして、何度も何度も、壊れたCDプレーヤーみたいにサビをリフレインし続けた。
 
 誰かが、何かが、二人の間に割って入るまで、二人の繋がりを意図的に切断することはなかった。
 今日は、それが〝電池〟だった。
 いつの間にか、雨も、雷も、止んでいた。



「カバー! カバー!」
「違う! そっちだ!」
 ディフェンスのラインが乱れた。ちらりと直登の位置を見る。既に直登は走り出していた。僕の反応が少し遅れた。僕はグラウンダーの速いパスで、ディフェンスの間を通そうとする。
「裏だ!」ディフェンスが叫ぶ。ディフェンスの背後のスペースで直登がパスを受けた。同時に、当番を務める一年生副審がフラッグを挙げた。「オフサイド」
「またか」直登が疲労感を滲ませた表情を僕に向ける。「今日何度目なんだよ。パス遅ぇよ!」
 温厚な直登が声を荒げるのは珍しかった。僕は「ごめん」と小さな声で応答する。その瞬間、直登がキレた。
「ふざけんなよ! いったい何度ダッシュさせれば気が済むんだよ! タイミングが全く合わねえ。つか、涼真今日集中してねえだろっ! 走るこっちの身にもなれよ!」
 サッカーのメンバーが僕たちの周囲に集まってきた。
「止めろよ」「直登落ち着け」「涼真、今日おまえ酷すぎ」「いったん休憩しようぜ」
 様々な言葉がバラバラと乱れまじる。明らかに練習の雰囲気が悪化していた。それを感じ取ったチームキャプテンの俊哉さんが「取り敢えず、休憩だ。みんな水分とろう」とメンバーをクールダウンさせようとする。
 それを機に各々がピッチを離れ、一ヶ所に荷物がまとめられているスペースに向かう。深雪が「お疲れ」とクーラーボックスから冷たいスポドリを配っている。
 直登とは目を合わせずにピッチの外へと向かっていた。直登は途中で深雪からスポドリを渡され、歩きながらペットボトルの半分を飲んだところで「だあっ!」とそれを網フェンスに向けて投げつけた。
 チームメンバーたちが驚いた様子でそんな直登を見て、それから僕に視線を投げた。直登の機嫌がこうなったのも僕のせいだからだ。僕はピッチの周囲に素早く視線を巡らせた後、今度は目を伏せて、ピッチの外に出ようとした。
 来てない。
「お疲れ」
 ひやっとしたものが首に押しつけられた。顔を上げる。
「首から頭を冷やした方がいいよ。今日暑いし。集中力の点でも」
 口を開こうとするや、深雪は移動式のクーラーボックスを引いて自分の持ち場へと戻って行く。僕は深雪の背中を見続ける。 
 何故か今日はその背中に存在感があった。去年のあの日を思い出しそうになる。未来を変えてしまった日――
「涼真、どうした今日は?」
 少し遠目から声がかかった。俊哉さんが僕を待ち受けるように、腰を下ろした姿勢でスポドリを飲んでいた。喉が勢いよく上下している。
「すみません」
 僕がそう言うと、俊哉さんは飲んでいたスポドリを口から離した。ふーっ、と息を長く吐く。続けて、かけていた、俊哉さんにクールな印象を抱かせるスポーツメガネを外し、穏やかな目で「誰か待ってるのか?」と、僕に訊いてきた。
 図星だった。僕は口を噤む。
 僕のその反応で全てを察したのか、俊哉さんはそれ以上を追及してこなかった。ただ、「あまり直登をイジメるな」と僕の肩を叩く。続いてパンパンと両手を叩いてメンバーの視線を集め、スポーツメガネをかけ直すと、次のトレーニングの説明を始めた。
 俊哉さんを挟んで向かいに直登の顔が見える。そのがっしりした顎は、サッカーに対する直登の気真面目さをあらわしているように感じられる。直登は時々頷きながら、その顎を上下させ、俊哉さんの説明を真剣に聴いていた。
 ごめん。
 僕は心のなかで謝る。直登に、メンバー全員に。
 今日からは夏の選手権を意識した練習だった。トーナメント形式で、初戦の相手チームは既に発表されている。相手チームは堅守のディフェンスで有名だった。それだけに、守りをどのように崩していくのかが今日の練習のメインテーマだ。その際、重要な役割を担うのが、トップ下でプレーし、ディフェンスの裏へスルーパスを出す僕だった。そして、そのパスを受けてゴールにシュートを叩きこむのが直登の役割だ。
 直登は、背こそ高くはないが、それでも持ち前の俊敏さと鍛えられた強靭な体幹をもってゴールを量産する、生粋の点取り屋だ。昨年の選手権では一点差で得点王を逃した。それだけに今年は何としても得点を積み重ね、得点王を手中にしたいはずだ。そのためには、早期敗退は許されない。
 僕は自分の頬を叩いた。集中しろ!
 俊哉さんが号令をかける。メンバーが気合の入った声で応答し、ピッチへ散っていく。僕も駆けた。チームにおける自分の役割を果たす。そのための練習だ。サッカーはチームプレーだ。ちらりと直登を見た。直登も僕を見てくれた。目が合う。直登は一瞬困惑した表情を見せたが、すぐにアドレナリンを溢れさせた顔に切り替えた。
「俺にシュートを打たせてくれ。絶対に決める」
 直登が一度言葉を言い切る。そうしてから、ぐっ、と僕に向け直登が親指を立てた。「頼むぜ、相棒」
 僕のなかで何かがふっ切れた。
 直登。
 ありがとう。
 僕は頷き、覇気をこめた目で応えた。
 相棒。
 そう、パスを出すパサーにとって、シュートを決めるストライカーは、野球で言う投手と捕手の関係に似ている。パサーはストライカーの女房役だ。
 直登に点を取らせて勝つ。そして、直登を得点王にして、優勝する。
 そう確固たる意志を抱いた。
 それが、
 僕の思考がサッカーモードに切り替わったタイミングであり、更には、いままで友人たちに対して壁をつくっていた僕が、直登を大切な存在と認識したタイミングでもあった。



 もうこんな時間!
 走っていると、初夏の太陽がじりじりと肌を炙ってきた。たまらず汗が噴き出てくる。
 予定ではとっくに涼真がいるサッカー練習場に着いている時間だった。
駅が見えた。改札口のだいぶ前で交通系ICカードをカバンから取り出す。その時、先ほど具材店で買ったばら売りのアクリル絵の具の赤色チューブが落ちた。
「ああ、もう!」
 右手で交通系ICカードを持っていたため、左手でそれを乱暴に拾い、カバンにしまう。今度は落ちないようにカバンの底の方へ押し込んだ。薬指に指輪はもうしていない。
 改札パネルに交通系ICカードを叩きつけ、四番線ホームへのエスカレーターを駆け上がる。どうやら電車が到着したようだ。右手側の階段をどやどやと乗客が降りてくる。
「ダーッシュ!」
 そう言いながら駆け上がる速度をあげた。一応、声を出す前にちらっと周囲の人目を確かめた。だから、誰にも聞こえていないはずだ。
 発車メロディーが鳴り始める。駆ける靴底がホームのコンクリートを力強く蹴りつける。ドアが閉まり始める――寸前で、身体を電車内に滑り込ませた。間一髪セーフだ。
 息を弾ませていると車内アナウンスが流れた。
『危険ですので駆け込み乗車はお止めください』
 どこか説教されている気分だった。というよりも、自分に視線が注がれている気がする。わたしは素っ気ない表情をつくり、つとめて周りを気にしないように窓の外を見た。あっという間に次の駅のプラットフォームが眼前を流れていく。さすがは快速だった。
 これならば、あと三十分後には目的の駅に着けるだろう。
 いや、最寄りの駅からはまた走るから、二十五分後だ。
 もうすぐ会えるよ。
 窓に仄かに映る自分に笑いかける。つ、と汗が肌上を滑った。



「ナイスパス!」
 ゴール左隅に強烈なシュートを叩き込んだ直登が、パスを出した僕に親指を立てる。僕も親指を立て、それに返した。
 直登は、どんなパスに対しても反応し、それをシュートに持っていける強い体幹がある。日頃のルーティントレーニングをこなす程度では身につかない筋力だ。彼が、時々、飲み会を早めにきりあげ、ジムに通っていることを僕は知っている。こうしたかげながらの努力が、彼を生粋のストライカーたらしめている。
 だから、パスを出す方も楽しかった。追いつけるかどうかの、いわゆる〝鬼パス〟にも、直登は必死で食らいつき、シュートにもっていく。さすがだった。気持ちよかった。自分のパスが直登に渡ると、想像性溢れるファンタジスタのようなプレーに昇格する。
「よし次行こう!」
 めずらしく僕が積極的に声をだした。メンバーが「おうっ!」と野太く野性的な声で応えてくれる。嬉しい。楽しい。最高だ。僕はサッカーの神様を信じてしまうほどに、のめりこんでいた。ボールを追い続ける。走る。ボールを蹴る。ボールを受ける。味方の位置を見て、敵の隙をつく。その仕上げで直登がゴールする。
 
「よーし、今日はここまでにするか」
 俊哉さんが号令をかける。集中して練習していたせいか、その声でドッと足が疲労感に襲われた。パサーは首を振り周囲に絶えず視線を配るので、首にも疲労感が根付き始めていた。
「最高だったな」直登が朗らかな表情で声をかけてきた。ちょっと前のギスギスした雰囲気はもうない。むしろ前よりも親密になれた気がした。気分が高揚しているせいか、普段の僕にはない親密さを醸しだしながら言葉を口にした。
「直登、絶対に得点王になれよ。いいパス出す。おまえしか追いつけないパス」
「ああ、相棒。超絶スルーパス待ってるぜ。俺はな、涼真のパスじゃないとダメなんだ。愚直なまでに、おまえのパスを欲してるし、おまえのパスでゴールしたい。それが俺のプレースタイルなんだよ。絶対にブレさせたくない俺のスタイルなんだよ」
 お互いサムアップをして、カバンの方へ行く。いつもなら深雪がスポドリを渡してくれるのだが、深雪はピッチの外にいた。誰にもスポドリを配ってない。ピッチの外で駅へと続く道をずっと凝視している。
 ポンと肩を叩かれたことに気付く。健太だった。また眉を細くし過ぎたようだ。「今日は行くだろ、飲み会?」
 遅れて直登が声を重ねてくる。「もっと作戦練ろうぜ。俺思うに、もっと大胆にスペースを狙ってもいいと思うんだ」
 確かに。もう少し敵を引きつけてから、スペースを生み出してみるのもいいかもしれない。
「じゃ、もう少しドリブルで持ち込む。もっと相手ディフェンスとキーパーの距離を離してからパスを試そうか」
「はいはい、そう言う話は飲み会でね」
 いつも間にかメンバーたちの輪のなかにいた深雪が、健太と直登の背中を押す。相変わらず僕とは目を合わせない。
「ちょっと俺まだ着替え途中なんだけど」「うるさい青眉」
 健太の悲鳴に近い声に、深雪は躊躇いなど微塵も見せなかった。
「あー、うー」と諦めに近い声が健太の口から漏れている。どんどんと深雪が二人の背中を押していく。健太たちと一緒に遠ざかる深雪の背中が、僕の目には、逆にじわじわとクローズアップされてくる。何かが〝変〟に感じられた。
 誰かが早くも宴会モードに突入しだす。騒々しい。でも若者らしい活気がそこにあった。それが、僕が感じた違和感のようなものを揉み消した。



 やってるなぁ。
 少し遠目から練習風景を見学していた。
 芝ではなく土のグランドのため、空気中に舞い上がる土埃が凄かった。漲る若さがその土埃を更に大きく巻き上げている気さえしてくる。
 涼真くんの姿はすぐに分かった。
 プレースタイルが洗練されている。パスは針の穴を通すような正確さ。しかも鋭い。ボールを受けてから次の動作に移る際の涼真くんの身体の使い方は、一言で表せば〝エレガント〟だった。性格をそのままあらわすような繊細なボール運び。フェイントも軽やかだ。顔や体格、身長まで同じようなのに、プレースタイルは、政樹とは随分と違っていた。政樹は、もっとこう、シュッシュカクカクしたプレーをしていた。
 気付くと涼真くんのプレーに魅了されていた。
 政樹のプレーを見た時はその俊敏な動きに驚いたが、涼真くんの洗練されたプレーはその時の驚きを遥かに凌駕していた。
 〝美しかった〟
 上手ではなく、美しい、だった。
 サッカーを見て、美しいという感情を抱くなんて。そこがグランドではなく美術館で名画を鑑賞しているようだった。涼真くんが繊細なタッチでキャンバスを彩っていく。涼真くんのプレーに無意識のうちに目が惹きつけられていた。静かな興奮が沸いていた。きつく拳を握りしめていた。瞬きを忘れていた。
 ボールが大きくクリアされ、ピッチの外に飛んでいく。レギュラーメンバーではない、新入生らしき青年が持ち場を離れ、走ってボールを追いかける。その時にようやく息をつくことができた。無意識のうちに呼吸まで止めて、涼真くんを見つめていた。
 あれ、痛い。
 ようやく、拳を強く握っていたことに気付く。手を開くと、爪の跡がくっきりついていた。
 涼真くんは、歌うと音痴なのに、サッカーは何でこんなにも上手なの。まるで指揮棒を振るうオーケストラの名指揮者のように、涼真くんはピッチ上でサッカーをコントロールしている。
 天は二物を与えず、か。そう思うや、わたしは自然と笑んでいた。
 と、
 視線を感じた。
 ん?
 その視線のもとを見やる。
 女の子だった。マネージャーさんかな? それにしても、やけに強い眼差しで視線を投げてくる。射貫くような眼差しだ。心なしか、本当に矢を射ろうとするような半身の仕草で、足を肩幅に開いている。敵意さえ感じた。というよりも、少し恐怖感を覚える。
 これは、涼真くーん、なんて歓声をあげられる雰囲気じゃないな。
 ま、いいや。今日は早々に退散しよう。後で、ラインで、なんか怖いマネージャーさんがいるね、って話のネタにでもしよう。
 
 それから暫くの時間を、グランドから離れた場所で過ごしていた。「よーし、今日はここまでにするか」というキャプテンらしい男の人の号令を機に帰ることにした。今日はあえて涼真くんには声をかけないことにする。
 去ろうとした時、また強い視線を感じた。
 あの子だった。
 いやー怖い。
 少し速足でグランドを後にする。マネージャーの女の子の視線が気になって何度か振り返りかけたが、背中に妙な圧を感じたので、結局振り返ることはしなかった。

 帰りの電車に揺られている時、涼真くんのプレーを何度も思い出した。
 本当に美しいプレーだった。
 だけど同時に、あの強い視線も思い出してしまった。寒気がした。
 車内のクーラー効き過ぎじゃない?



 グランドから少し歩いたところに、メンバー行きつけの居酒屋がある。店名は『ファンタジスタ』。サッカー好きの店長が、ブラジル代表だった某選手の創造性溢れるプレーにあやかってつけた店名である。だから、店内はサッカー選手のポスターで溢れていた。
 宴会部長の健太が「みんなお疲れ、乾杯!」と音頭をとるや、メンバーたちはいっせいにジョッキをぶつけ飲み始める。あっという間に、練習時とは違う熱気が店内をみたしていく。
 少し酔った直登が何度も僕に哀切してきた。「いいパスくれよ。俺にシュートさせてくれよ」
僕は即座に応える。「まかせとけ」練習の雰囲気を引き摺っていたので、少し気持ちが高揚していた。
誰かが言う。「これで、スタメンから涼真と直登が外されてたらウケるな」
「まかせとけ」今度は俊哉さんからの声だった。メンバー全員が爆笑する。
楽しい。奈海さんのことを一時忘れるほど、僕はチームメンバーと親密な時間を過ごしていた。こんなことは、正直初めてかもしれなかった。
 乾杯から小一時間ほど経過した頃だった。直登が僕と俊哉さんの腕をつついた。
「おう、どうした?」俊哉さんがウーロン茶を手に応じる。俊哉さんは酒が飲めない質だ。
「これから練習つきあってくれません?」直登が手を拝むように合わせる。
「これからか?」さすがにびっくりした俊哉さんが言葉を続ける。スポーツメガネから普通のスクエア型のメガネにかけ替えていた俊哉さんのレンズに、直登の熱を帯びた瞳が映り込んでいる。「どこで練習するんだ?」
 すると、一瞬のことだが、直登がにやけた。
「実は、さっきまで使ってたグランドの夜間利用をネットでしちゃったんです」
 直登がスマートフォンの画面を見せる。そこには午後七時から午後九時までの利用申請が受理された旨の通知が表示されていた。照明利用にもきちんとチェックが入っている。
「しょうがねえな」俊哉さんが肩をすくめて僕を見る。手には既にスポーツメガネが握られていた。「居残り練習するぞ。三人で」
「ちょっとー俺も入れてくださいよぉ」
 ジョッキを手にした赤ら顔の健太が無理矢理入ってきた。俊哉さんも直登も、僕も思わず吹き出した。
「あー、胸痛ぇ、笑い過ぎて、胸痛ぇ」直登が胸を摩りながらスマートフォンをカバンにしまう。
「分かった。四人でやるぞ」俊哉さんがいつもの本気モードに切り替わった。



 それは、再びグランドに向かっている途中だった。直登の背中が妙に視界に入ってきた。
 何故だろう。
 僕はとてつもなく嫌な予感がした。



【祝 ☆涼真くんサッカー初観戦記念☆ 見たぞ! ちょっと遅れちゃったけど、ちゃーんとこの目で涼真くんのサッカー見たよ。んー、何と言うか、すごくエレガントだった!! 上手い! 上手すぎる! お姉さん感激&驚愕&幸福。また見に行っちゃうからな】18:52
【あと、なんか凄く怖そうなマネージャーさんいるねw(;^ω^)】18:53



「俊哉さんはディフェンス役をお願いします。本番を意識したマジ鉄壁で」
 俊哉さんにそうお願いした直登が、今度は僕を見る。パス出しのタイミングの説明になるのは、ここに来る前から予想していた。
「涼真がパスを受ける直前で俺はこういう風にいったん後ろを向いてから小さく円を描いて走るから」直登がその場で攻める方向とは逆向きに円を描きながら走る。「パスを受けた涼真は俺じゃなく、ディフェンスの裏だけを見て、思いきり速いパスを出してくれ」
 僕は頷く。直登の動きはプロ選手のフォワードが見せる動きだ。パサーに全信頼を置いてダッシュする。パサーである僕は、直登のポジション確認を省略できるため、よりディフェンスの裏をつく精度の高いパスに集中できる。
「よし、じゃあやるか」
 俊哉さんが昼間と同じように手を叩く。
 当初はかなり酔っているため、ちゃんと蹴れるのか心配な健太だったが、ボールに触れるとマンガの登場人物のようにシャキンと背筋が伸びていた。
 順番としては、まず健太が僕にパスをする。僕がそのパスを受ける直前で、直登がオフサイドにならないように、後方へ半円を描きながら走り出す。パスを受けた僕が相手ディフェンス役をしている俊哉さんの裏へスルーパスを出す。そのパスに追いついた直登がシュートを決める。
「いくぞ」
 健太がハッパをかけると声が裏返った。全員が爆笑する。俊哉さんが笑みを浮かべ続けながらも「真剣にいくぞ」と声を低めた。その声を合図に全員の目の色が変わった。
「よしっ」
 健太が僕に向けてボールを蹴る。強めのパスだ。そのパスをこぼさないように足を向け、僕はトラップの体勢に入る。同時に直登が走り出すのを感じた。ボールを受け、前を向く。視線は俊哉さんの背後。俊哉さんとゴールキーパーが位置どるであろう地点の丁度真ん中辺りに向けてパスを出した。少し速いパスになる。だが、直登は全力で駆ける。何が何でもボールに追いつくんだという気迫のこもった走りだった。何とかつま先の横でトラップし、ワンモーションでシュートに持っていく。ゴールネットが揺れた。健太が口笛を吹く。
「もう一回!」
 直登は満足していなかった。それは僕もだった。もっと練習を重ねればドンピシャのタイミングで、それこそ直登がボールをトラップすることなく、パス球をダイレクトにシュートできるようになるだろう。そんなシュートで終えることができれば、それは相手の守備陣にとっては相当な脅威になるはずだ。
 健太がパスを出す。少し右に逸れる。だが、僕は冷静にボールをトラップした。視界には入らないが、直登の動きが手に取るように分かった。俊哉さんの背後を今度は浮き球で落とすようなパスを出す。ボールが地面に落ちるタイミングで直登がダイレクトシュートを放つと、ゴールの左隅にボールが突き刺さった。
「よしっ!」
 全員が同じ声をあげた。
「もう一度!」
 そう直登がリクエストを宣言した時だった――
 直登の身体が膝から崩れるように折れた。一瞬、時間が止まったように僕たちは直登を直視したまま動けなかった。眼前の光景から色や音が消え、空白になったような瞬間だった。
「直登ぉっ!!」
 俊哉さんの悲鳴のような声で、色が目に飛び込んできた。色ばかりではなく、深刻という形容詞に飾られた現実が突きつけられる。直登のもとへと駆ける。背後で健太も地面を蹴る音が聞こえた。
「直登」
 一番近くにいた俊哉さんが直登の身体を膝上に抱き、呼びかけるも、直登は全く反応をしない。人形のようにぐったりと腕が垂れ下がっている。
 何かがおかしい。
「息してないっ!」
 俊哉さんが叫ぶ。健太も直登のもとに駆け寄った。その時、既に俊哉さんは人工呼吸を試みていた。必死に胸を押す。直登の口に息を送り込む。その作業を繰り返しながら、顔を僕と健太に向ける。「AED持ってこい! あと救急車」
 確か、グランドの鍵を貸し出す事務室にAEDがあった気がする。僕は走り出した。
「健太、一一九番だ!」
 言われるよりも早く、健太はスマートフォンを求めて、カバンを置いている方へ駆けだしていた。
 そんな……。
 走りながら僕の脳裏にはあの光景がよぎり始めていた。
 未来を変えてしまった日。深雪の背中――

 
『しかし、未来見で知った未来を、あなたの行動によって変えてはいけません。変えた場合は――
あなたにとって大切な人が死にます』

 走る僕の前に、長く伸びた影があった。
 どうして……。どうしてなんだ。
 この影は、グランドの照明によるものじゃない。
 あの夜と同じだった。長細い三日月が、弱々しく妖しい光をグランドに届けていた。
 びょうびょうと風が強くなっていた。うるさいくらいに、びょうびょうと。
 


 立ったまま、煙を見ていた。
 現在は火葬場の周辺環境を考えて、煙が出にくくなっていると聞いたことがある。だが、僕には立ち昇る煙が空の彼方へ広がっていくのが、目ではなく心で見えている気がした。
「涼真」
 落ち着いた声が背中越しにかかった。僕は振り返れなかった。だが、声の主はそれを咎めることをせずに、優しく僕の肩に手を置いた。
「いまは、冥福を祈ろう」
 横に並んだ俊哉さんも顔を空に向けた。彼にも、きっと見えているのだろう。
 暫く言葉もなく、僕たちは顔を上げたまま立ち尽くす。互いの息づかいだけが聞こえてきた。
 と、泣き声が近づいてくるのが分かった。号泣している。鼻をすすり上げている。ざっ、ざっ、とおぼつかない足取りの音が近づいてきて、止まった。俊哉さんの隣りで。
「直登ぉぉっ!」
 健太が叫びながらくずおれた。手を差し伸べようとしたが、俊哉さんが目で合図する。僕は手を引いた。いまは存分に泣かせてあげるのも、確かに親切心なのかもしれない。
 火葬炉で直登の鍛えられた身体が、いままさに燃えている。
 沢山の涙と花と惜別の声に包まれながら、直登は空へ――

 直登が亡くなった。
 搬送された病院でそう伝えられた時、僕は心臓を突かれた思いがした。少し遅れて心情が口をついて出た。
「僕のせいだ……」
 直登と交わしたサムアップ。そして、『頼むぜ、相棒』と言われた言葉がぐるぐると頭のなかで回り始めていた。
 頼むぜ、相棒。

『しかし、未来見で知った未来を、あなたの行動によって変えてはいけません。変えた場合は――
あなたにとって大切な人が死にます』

 病院でその後、何をしたのか、誰に会ったのか、何を言ったのか、全く憶えていない。
 気付くと、火葬場にいた。
 葬儀の記憶さえ抜け落ちていた。 

幕間 

「おおっ、考え直してくれたのか?」
 うるさい、邪魔だ。あたしは両足を開き、おへその辺り、丹田に力をこめ、身体の重心を意識する。
「おおっ、やっぱりいい胴構えだ。ブランクなんてないみたいだな」
矢をつがえ、両手をゆっくりとあげ、手の力を均等に、それぞれ逆方向へと伝える。周囲の音が消えた気がした。これでいい、あの頃の集中力が戻ってくる。見えないものまでをも射る。アーチェリーの専門誌で、自分がそう紹介されていた頃の感覚が甦ってくる。右手でストリングを引く。左手でボウを押す。
「おお、最高の構えだ」
 風が一瞬吹く。あたしは姿勢を固める。神経が研ぎ澄まされる。風が凪いだ。的が自分から眼前に飛び込んでくる感覚を抱く。刹那、リリースした。
「おおっ、ド真ん中」
 左手に添え持っていたボウがゆっくりと、支えを失ったように下に傾き始めた時、あたしの耳に久しぶりに音が押し寄せてきた。うざったい声も。何もかもが一緒くたに。
「なあ、頼むよ。考え直してくれよ。再入部してくれよ。高校総体の優勝経験を我がアーチェリー部で活かしてくれよ」
「返す」
「へ」
 あたしはボウをこのきゃんきゃん発情しているような声をあげているアーチェリー部顧問に突き返す。もう用はない。どうしてか射たくなっただけなのだ。
 どうしてこんな気持ちを抱いたのか。こんな気持ち……射る。射る対象――憎い――あの女――まさか――いや、でも……。また耳から音が消えた。集中力のせいではない。  



 それは突然の音信不通だった。
 ラインのメッセージには既読もつかない。ライン電話も不通だ。スマートフォンの番号にかけても不通だった。
 ちょくちょくと浅見家の墓にも行った。大学にも訪れた。だが、涼真くんの姿を見かけることはなかった。
 最後に涼真くんを見たのは、あのサッカーの練習の時が最後だった。
 あの日から、もう一週間音信がない。
 何かあったのだろうか?
 事故?
 心のなかでどんどんと想像が膨らんでいく。その全てが悪い方へと。
 入院? まさか、死んでしまったの――?
 分からない。
 唇を噛む。涼真くんのラインと電話番号しか知らない。どこに住んでいるかも知らないのだ。
 寝付けない夜が続いた。まどろみが訪れても、次の瞬間スマートフォンをチェックしている自分がいた。涼真くんからの連絡が来ているのではないか、と。食事もろくに摂っていない。トイレにも……行っただろうか?
 身体が限界だった。痩せてきたのも分かる。着る服全てがダボダボになっていた。それでも涼真くんの手がかりを求めて、今日も外出する。涼真くんからの連絡がないかとスマートフォンをチェックする。

 涼真くんが通う大学の構内をふらふらと歩いている時だった。
 尖った声をかけられた。振り返る。
 あ。
 あの女だった。あの日、涼真くんの練習を観に行った日、強い視線を投げてきたマネージャーらしき女だ。
 ぼうっとしていた脳に一気に血が巡った気がした。それは最後の気力のようなものだった。
「あなた」
 久しぶりに出た声は掠れていた。言葉を続けようとすると、眼前の女はそれを遮るように言葉をかぶせてきた。
「あんた何者? この前練習を見に来たでしょ。何の用? どうしてここにいるの? 見たところあんたは学生って歳じゃない。誰に用? と言うか、どうしてあの日、涼真くんを見つめていたの?」
 な。
 どうして分かったの? あの日、涼真くんの姿だけを追っていたことを。恐怖がじわりと浮かぶ。寒気がしてきた。あの日、帰りの電車で感じた寒気と同じようなもの。怖い。眼前の女が怖い。
「何か言ったらどうなの? 何が狙いなの? どうしてここにいるの! 何者なの!」
 女がわたしの身体を無遠慮に押すように言葉を投げつけてくる。異端を排除するような、何かに取り憑かれた雰囲気を感じた。
 でも――
 気圧されながらも、退くわけにはいかなかった。むしろ、真っ向から眼前の女に立ち向かわなければならない。
 何故ならば、ようやく出会った手がかりなのだ。涼真くんを知る人物、涼真くんとの間に介在する人物だからだ。
「涼真くんを……探してるの」
 言えた。これが、現在できること、精一杯の言葉だった。
 だが、眼前の女は、その言葉を聞くや押し黙った。ただ、鋭い目で、あの日以上に怖れを抱かせる目つきで睨んでくる。
 音が消えた気がした。
 人気も消えた。さっきまであんなにも沢山の学生が歩いていたのに。
 そう思った矢先だった。
「消えて」
 眼前の女がポツリと呟く。小さな声。聴き取りづらい。
「え?」
「だから消えて。目障りなの。あんたみたいな人、涼真くんには近づかせたくない」
 女が語気を荒くする。でも、引き下がるわけにはいかない。
「涼真くんはいまどこにいるの?」
「あんた、涼真くんのいったい何なの?」
「教えて、涼真くんと連絡がつかないの! いったい何があったの?」
 負けるものか。
「何であんたにそんなことを教えないといけないの」
「心配なの。彼が何をしているか。彼に何が起きたのか。彼がどうしているか。心配なの。心配で、不安で、眠れないほど、おかしくなるほど、彼が気になるの!!」
 女の袖を掴む。
「離してよ!」
 女がキレた。
「離さない! 教えてくれるまで離さない!」
「ちょっと、誰か、誰かっ!」
 女が叫んだ。突然身体を後ろから羽交い絞めにされる。誰? 邪魔をするのは誰?
「止めなさい!」
 聞いたことのない声が耳のすぐ後ろで放たれる。それを契機に、一気に様々な声が耳になだれ込んできた。
「何あれ?」「ストーカーっぽいよ」「あぶねー」「イカレてるんじゃね?」「クスリ?」「痴話げんかしてる」「女こえー」「俺も羽交い絞めしたい」「ヤバくね」
 消えていた人気が、人の声が、世間の声が、どっと押し寄せてきた。ぐいっと後ろに引っ張られる。そのまま地面に尻もちをついた。顔を後ろに向ける。柔道でもやっていそうな体格の女の子が正義心を燃やした目をわたしに向けていた。
 気付くと、人の群れの中心で、奇特な人を見る目を向けられていた。誰も擁護してくれる気配はない。完全に変質者扱いだ。口を半開きにしたまま、わたしは周囲を見回す。どの人も、わたしを気の毒そうな目で、もしくは面白半分な興味を示した目で、見ている。さっきまでわたしを羽交い絞めしていた女の子の目も、そのような目に変わっていた。ただ一人を除いて。
 女が、涼真くんの近況を知っていそうな女が、蔑んだ表情で睨みながら、言い放つ。
「そんなに気になるんなら、興信所でも使って調べれば、このストーカー!」
 そう言い捨てて、去って行った。女も、周囲を取り囲んでいた人々も。わたし一人を残して。
 アスファルトの路面に尻をつけ座り込んだまま、その様子を見ていた。電池が切れたおもちゃのように、ぴくりともせずに、見ていた。
 照りつける太陽が身体と路面を炙り続けていた。それでもわたしはその場を動けなかった。 

幕間 

『めずらしくない、恭姉から電話くれるなんて。どう、ようやく頭が冷えた? 最近暑かったからクーラーがんがんで冷やした? あの計画をちゃんと実行する気になった? って何、ちょっと落ち着いてよ。どうしたの恭姉らしくな――、分かった、分かったから、お願いだから黙って。耳が痛い、調査結果持ってくるから、えっと、えっとねえ、住所は――』 



 部屋のインターフォンが鳴った。
 僕の耳にはそれは空虚な電子音だった。
 うつむいたままダイニングテーブルの椅子に腰をかけていた。前屈みの体勢を取り続けていた。もう何時間も。瞼は僅かに開いている。でも、フローリングの床を見ているのか、床にたどり着くまでの空気を見ているのか、それとも何も見ていないのか、僕には何の自覚もなく、目を開くという動作を維持しているだけのように思えた。
 インターフォンに応答する気にはなれなかった。
 いまは一人にして欲しい。だからスマートフォンの電源も切っている。
 誰とも喋りたくなかった。誰と話しても、何の救いも見いだせない。赦されないことを自分はしたのだ。
 ――直登。
 直登がサムアップをする。相棒、と僕に呼びかける。直登が僕のパスに必死に食らいつく。直登がいたずらっ子のように練習グランドを勝手に予約したことを報告する。真剣に戦術の説明に耳を傾ける。得点するためには何でもやる。酒を飲んでもその後のトレーニングは欠かさない。練習場にはいつも一番に来る。直登が、直登が、直登が――
 全ては自分のせいなのだ。
 自分が心を開かなければ、直登を大切と思わなければ、直登は死ななかった。
 自分も死ななくてはいけないのでは? 茜と直登、自分は二人を殺したも同然だ。
 罪を背負った気がした。大罪だ。これ以上生きていても、いずれ誰かをまた死に巻き込んでしまうのでは。
 僕は両肘を両腿に乗せている。腿が痛い。肘の先端が突き刺さるようだ。でも、そんな痛みはこらえて当然だと思った。だから、更に上半身の体重をかけ、両肘で両腿を押す。更に痛くなる。
 インターフォンの音がまた鳴った。
 しつこい。出る気はない。両親と姉が遺してくれたこのマンションはオートロック開錠式インターフォンだ。インターフォン画面には、一階でこの部屋の番号をプッシュしている者の顔が映っているだろう。
 でも、
 確認する気もおきなかった。
 直登が死んでから、何度もインターフォンが鳴った。きっとサッカーのメンバーからだろう。もしくは飛び込み営業か。
 僕の願いはただ一つ。
 静かにしてくれ。そして一人にさせてくれ。生きることを止めるべきか――考えさせてくれ。
 事実、食事はほとんど摂っていない。最近頭がフラフラする時間が増えてきていた。でも、それで構わなかった。
 インターフォンの音がまた鳴った。
 ……。
 さすがに三度連続して鳴らされたのは初めてだった。
 だが、出たくない。分かって欲しい。僕は更に顔を下へうつむける。両手で両耳を塞ぐ。が、尿意を感じた。何も飲んでいないのに。こんな生理現象にさえ嫌悪を感じた。
 腰を久しぶりに上げる。少しふらつく。歩きだすともっとふらついた。
 四度目のインターフォンが鳴る。
 いい加減にしてくれ……。
 ちょうどトイレに行く途中の廊下にインターフォン画面があるので、誰が来たのかだけチェックしようと思った。開錠はしない。応答ボタンも押さない。ただ、一階のロビーにいるのが誰かだけを確認する。ただそれだけだ。
 画面に目を向ける、や、足を止めた。尿意まで止まった気がする。
「どうして……」
 声が、心情が、揺れた。きっと混乱のため。
 映るはずのない人の顔が画面上にある。
 奈海さん。
 無意識だった。手が開錠ボタンを押していた。応答ボタンをはしょって、押す。
 彼女が、来た――
 どうして自分は開錠したのだろう。悩みが更に一つ増えた気がした。しかし、これもきっと無意識からの行動だった。玄関ドアの鍵を外していた。

 今度の音は、玄関からだった。
 画面に映る彼女の顔。さっきよりも鮮明に。その顔も、僕同様に覇気がなく、どこか痩せこけていた。
「開いてます」
 それだけをインターフォン越しに言った。
 すると、二、三秒ほどの間を置いてから、ゆっくりと、戸惑う仕草を感じさせるように玄関のドアが開いていく。締め切ったカーテンでの生活をこの一週間続けていたので、ドアから入り込む光がやけに明るく思えた。
光を背に浴びた彼女の輪郭が淡くぼやけていた。
「来ちゃった」
 彼女が掠れた言葉を、涙と一緒に、落とした。雫は玄関タイルに当たり、小さく撥ねる。彼女の頬から顎へ、そしてまた落ちる。視覚的には小さな、でも心情的には大きな染みができる。
「何故、ここが分かったんですか? 僕――」
 住所を教えていないのに、と続けようとした。だが、言葉を続けられなかった。口が細かく震えだしていた。いつの間にか瞼の奥に涙が集まっている。口が、冷静な言葉を忘れたように、渇きを潤すように、伝う涙を飲み込み、獣のような声をあげた。
「あああああああああっ!!」
「涼真くん」
 更に掠れた声で彼女が静かに声をかけてくれた。でも、僕は吠え続けた。目の前の彼女に構うことなく。いや、眼前に現れた彼女が突然見えなくなったように、自分だけの世界に没頭するように、叫んだ。
「あああああああああっ!!」
 精一杯に。まるで、母の腹からこの世界に出てきた時のような、力一杯の声で泣き叫んだ。
「あああああああああっ!!」
 彼女が駆け寄ってきた。吠え、泣き、叫び続ける僕に向かって。
「あああああああああっ!!」
 抱き締めてくれた、力強く、心を込めて、僕を、彼女は。
「あああ――」
 叫びが、止んだ。自発的に止めたつもりはなかった。自然と、叫びが止んだのだ。
 抱き締められ、温もりに包まれた瞬間、僕のなかで荒れていた感情が一気に凪いだ。ただ、余震のように、細かく破裂するような息が、口から漏れてくる。それが、当初は間断なく吐き出されていたが、少しずつ沈静化するように、穏やかな吐息になっていく。
 そこで僕は確かめることができた。
 彼女に抱き締められていることを。
 彼女の体温を、匂いを、身体の柔らかさを、僕の感覚が鋭敏に受け取っていることを、自覚することができた。僕の後頭部は彼女の手で覆われていた。優しい声が降ってくる。欲していた、それなのに頑なに拒絶してきた声だった。それが脳内に浸透するように伝わってくる。
「涼真くん。何があったの?」
 しかし、それはあまりに突然のことだった。
 僕自身もまさかそんなことを言ってしまうとは、言った自分にも理解できない言葉が、感情が、行動が暴発した。
「出ていって! いますぐ出ていってください!!」
 言葉と同時に僕は彼女の腕を振りほどく。そんなに力をこめない動きだったが、彼女をよろめかすには充分だった。力量としても、心情としても。彼女が玄関で尻もちをついた。お互い目を合わせたまま。彼女が口を開きかけた。だが、僕は彼女が口を開けることさえも許さなかった。
「出ていけって言ってるじゃないですか!」
 彼女が目を見開いた。つ、と右目からだけ涙が頬上を滑っていく。その涙の雫が顎下から落ちる直前、彼女はゆらりと立ち上がり、何も言わず、僕から視線を逸らし、でも哀し気な目を、表情を、一瞬浮かべ、背を向けた。玄関ドアのノブを掴む。
 彼女がドアを開ける時、そこには背中があった。
 あの時と同じだった。
 僕は立ち竦んだまま、動けなかった。
 ひどいことをしている。ひどいことをしている。ひどいことをしている。
 でも、いったいこれ以外に何ができるというのだ。
 ぱたん、とドアが閉まる音と同時に、僕は、ゆっくりと、目を瞑った。
 瞼を閉じたのは何日ぶりだろうか、分からなかった。
 そして、僕は倒れた。



 このままでいいのだろうか?
 玄関ドアを閉じた時、わたしは痛みを感じた。
 こんな痛みは初めてだった。外傷ではない、発熱などの内部疾患に伴うものでもない。
 端的に言えば、心の痛み、だ。
 ひりひり痛いどころではない、えぐられるような痛烈な痛みだった。
 閉じられたドアを見やる。隔てられた壁は玄関ドア一枚だけ。でも、その一枚が、とてつもなく分厚く、堅く、重い。
 拒絶され、隔絶され、
 でも、
 それでも……――
「どうしてあんたがここにいるのよ!」
 不意打ちのような言葉だった。肩がびくりと跳ねた。首を声の方へと回す。今度は眉が跳ねた気がした。
 女が立っていた。
 脳裏に刻まれたあの時と同じ強い視線で、女が見ていた。憤怒よりも強く、更には、疑惑、妬み、そのような色もないまぜにした瞳が向けられている。
「あたし、涼真くんの住所教えなかった。なのにどうしてここにいるの? あんた涼真くんのいったい何なの?」
「それは――」
 口にしたものの何も言えなかった。
「ストーカーでしょ? ストーカーなんでしょ? 止めて! もう彼に近づかないで。そばに寄らないで。彼と同じ空気を吸わないで。練習にまで来て。狙いは何なの? 涼真くんに何の用があるのよ! お願い消えて。つか、殺す。涼真くんに近づく女はあたしが殺す! あたしが涼真くんを護るんだから!」
 狂ってる。この女、完全に狂ってる。前回と同じように、女に対して恐怖を感じた。だが同時に、感情をストレートにあらわすことができる眼前の女の若さに嫉妬と羨望も感じた。
 女が一歩前へ踏み出す。強い視線を保ったまま。わたしは金縛りにあったように、身体を動かせなかった。実際のところ、女の体型は高身長で肩幅が広く、アスリート的な印象を受けた。走って逃げられる気がしない。
 女が更に近づいた。女の身体が、顔が、目が更に近くなる。でも、でも、
 負けない。
「りょ、涼真くんに……何があったの?」
「あんたには関係ない」
 女はにべもなくわたしの言葉を払いのける。
「あなたは涼真くんの彼女なの?」
 その言葉が眼前の女を激昂させた。女から言葉にならない金切り声があがる、や、女がすっと前へ。
 パンっ――
 弾音が響く。
 頬を張られていた。反動で一歩後ろに下がる。逆に女はまた一歩前進していた。遅れて痛みが届く。女の顔が近く、真正面にあった。頬に手をあてる。そのタイミングで、空いている頬をまた張られた。重たい弾音。今度はもっと痛かった。涙がでるほどに。
 だが、泣いていたのは女だった。大粒の涙が女の眦から零れている。瞬きをしない女の瞳が涙で膨らんでいた。
 この人も――
 そう考えを巡らせようとした時だった。
「もうどっか行って!」
 女が恫喝するような低い声色で背後を指さした。強い意志が込められているためか、その指先が震えている。「もう、お願いだから、涼真くんの前に現れないで」絞り出すように放たれた今度の言葉は一転して小さく、震えていた。だが、有無を言わせない響きがある。
 わたしは悟った。
 この人も――苦しんでいる。涼真くんを想い、狂い、苦しみ、そして必死に生きている。
 女の横を通り過ぎる時、最後に一言だけ問われた。
「名前教えて」
 聞こえなかったふりをした。女もそれ以上追及してこなかった。エレベーターホールで曲がるまで、背後で、女の視線を感じ続けていた。背中が、熱かった。



 目を開けると、白い壁紙の天井が見えた。同時に耳に入り込んでくる声、靴音。明らかに自分の部屋ではない場所で寝かされていることを、僕はすぐに理解した。
 ゆっくりと起き上がる。薄ピンク色の布で周囲が覆われている。ベッド柵脇に点滴を見とめるや、それが自身の腕に繋がれていることに少々驚く。
 記憶が戻ってこなかった。
 どうして、こんなとこ、おそらく病院、にいるのだ? 
 改めて自身の状況を確認するように周囲を眺める。ナースコール用のベルに視線が止まる。
 押してみるか?
 だが、先ほどからパタパタと廊下で足音を立てているのは、病院職員のような気がする。忙しそうな足音なため、ナースコールを押すのは気が引けた。
 幸い点滴はもうすぐ終わりそうだ。そのタイミングで看護師が来るだろうから、詳細はその時に聞くことにする。
 しかし、その気遣いも無用だった。こちらに向かってくる足音が聞こえてきたと思うや、カーテンが開けられた。定食屋でオーダーを取っていそうな中年の女性の顔が目に入る。
「あら、目を覚ましたのね」
 きっと酷く疲れているのに、愛想の良い笑顔を僕に向けてくれた。
「気分はどう?」点滴の方に手をやりながら女性が僕に尋ねる。
「大丈夫です。あの、どうして僕ここに?」
「何も憶えてないの?」点滴の針を抜こうとしていた手を一度止め、女性は僕の目をまじまじと見てきた。僕は少し居心地悪くて目を逸らす。
「あの女の子……」
 そう女性が口にすると、部屋を訪ねてきた奈海さんの顔が浮かび、実際「奈海さん」と呟いていた。
「奈海っていう子なの? ずっと付き添ってくれてたのよ。そこで」女性がベッド脇の丸椅子を指さす。「寝落ちしちゃってたから、別の場所の開いてるソファに連れて行ったの。彼女は、最初は断固拒否してた。あたしはここにいます、って」
 女性が、あはははと朗らかな声で笑う。ホント若いって羨ましいわ、と言葉も付け加えながら。
「だけど、いったんソファで横になったらあっという間に眠っちゃった。相当気疲れしてたんだと思うよ。あの子に心配かけたんだから、ちゃんとお礼言ってあげなさいね」
 女性は口を動かしながらも、手もテキパキと動かしている。あっという間に点滴の後処理も終わった。
「先生呼んで来るから、それで何にもなければ帰れるよ。あの子と一緒に。帰りはお礼のプレゼント買ってあげなさいね」
 そう言いながらあっという間に女性は僕の前から去っていく。
 記憶をたぐる。奈海さんにひどい言葉をかけてしまった。心配して自分を訪ねてきてくれたのに。この後、何とお礼を言えばいいのだろうか。いや、それよりも会ってしまうと、また気持ちが揺れてしまう。抑えている気持ちが……。
「おはよ」
 僕は目を見開いた。
「何、その顔。あたしがここにいることが信じられないって顔してる。大変だったんだから、ここまで連れてくるの」
 僕はまだ目を開け続けている。瞬きをしないで。声を、声を出さなくては。想像外の展開に脳が混乱している気がした。どうして、どうして? 口を開く。
「深雪――」

 会計を済ませ、病院から出ようとした時だった。
「あの人、誰なの?」
 深雪が唐突に訊いてきた。僕は足を止める。
「会った、の?」
 深雪は僕を引き離すようにすたすたと先を歩いていく。僕の脇を、杖を突いた老婆が追い越した。深雪の背中が遠ざかっていく。深雪からは何の返事も来ない。
「会ったの、奈海さんに?」
 僕はもう一度問う。そして、走った。深雪に向けて。
「へー、奈海って言うんだ、あの女。あたしには名前さえ教えてくれなかったのに」
「なあ、会ったのか?」
 深雪に肩を並べた僕は、少し強い口調で尋ねた。しかし、深雪は応えなかった。知らんぷりをするような表情で、前だけを見て歩みを進めている。決して僕を見ようとしない。僕は深雪の肩を掴んだ。深雪を立ち止まらせる。
「会ったのか? 奈海さんに? 会ったのか?」
 深雪がようやく顔を僕に向けた。深雪の顔を見て僕は少し気圧された。深雪は驚くほどに無表情で無感情だった。
「会ったよ」
 それだけを言うと、深雪はまた歩き始めた。僕を置いていく。「どこで?」走りながら訊いた。もう一度深雪の肩を掴む、や、深雪が僕の手を、肩を回しながら振りほどいた。
「もぉ、いちいち掴まないでよ。いままであたしに触れてきてくれたことさえないのに、どうしてあの女のことになるとこうなるの」
 イラついた声で僕に真正面から向き直ると、深雪は続けて口を開いた。それでも僕とは目を合わせない。
「もう三回も会った。一回目は練習の時。直登君が亡くなった日の」
「え」
 僕が途中で声を漏らすも、深雪は構わずに言葉を続けた。無感情な表情を保ったまま。それなのに、その口調は、興奮や怒りを抑え切れていない。
「二回目は大学で。涼真くんの住んでるとことか聞かれた。自分で調べろって突き返したのに、とうとう三回目で涼真くんの部屋の前で会った。そしたら、部屋のなかで涼真くんが倒れてた」
「奈海さんが」
「ねえ、あの女ヤバいよ。あの女に何されたの? 実際、涼真くん倒れていたし」
「それは――」
 口を噤む。深雪がため息をついた。訊いても無駄と判断したようだった。顔をうつむかせていると、深雪が突然駆け出した。振り返ることなく背中越しで喚くように強い言葉を投げてきた。
「嘘つき! 大切な人をつくりたくないってあたしを断ったくせに! 誰も好きになりたくないってあたしに言ったくせに! 嘘つき嘘つき嘘つき!」
 遠ざかる深雪の背中を、僕は見ることができなかった。

10 

 スマートフォンが震えている。
 ラインのメッセージだろうか?
 ぶぶぶぶとローテーブルを叩く。長い。電話だ。
 だけど、出たくない。今はほっといて欲しい。
 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
 鬱陶しい。電源を切ってしまおうか。
 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。 
 ……。もう、切る。
 カチャリ。
 え!?
 この展開は……前もあった。あの夜だ。同じように鍵が回っていく。ゆっくりと。しかし焦るような気持ちが込められた回り方で。
 玄関を気にしながら、スマートフォンを見た。
「宏美」思わず呟く。
 じゃあ、いま、鍵を開けてこの部屋に入ろうとしているのは? チェーンをまたし忘れている。それもこの前と一緒だった。この部屋に入ろうとしているのは、宏美? それともまた、あの男? 何、このタイミング……。
 玄関ドアが開く音と声は一緒に耳になだれ込んできた。不快な音として。
「よお、恭子」
 あの男だった。
「暫くだったな。また来たぜ。抱きに。ん? 絵を描いていたのか。ああ、俺とおまえの幸せの未来か、絵描きさん」
 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
「電話鳴ってるぜ」
 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
「出ないのか?」
「あなたが出たら」
「あん?」
 男が目を丸くした。この男は知らないのだ。電話が宏美からだということを。
「宏美から」
 そう言って電話のディスプレイを見せつけると、男は一瞬狼狽の表情を浮かべた。
「切れよ」
 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
「切れって言ってるだろ!」
 ぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ。
「もしもし――」 

11

 風の音を耳にしながら、僕は手を合わせた。
 平日昼下がりの墓前。
 最初はありのままのことを茜の墓前で報告しようと思っていたが、いざ墓の前に来ると、何も言えなかった。安らかに眠っている茜を心配させたくない、そんな気持ちがはたらいたのかもしれない。
 だから、黙ったまま、何も考えずに、手を合わせる。
 風が強い。時折強風で髪が持っていかれる。
 そう言えば、あの日も風が強かった。奈海さんと初めて会った日。
 あ……。いけない。何も考えないようにしていたのに。
 思わず微笑んだ。それは、久しぶりに自然とでた笑みだった。そのことに気付き、僕は茜に感謝した。微かにだけれど笑むことができたのは、姉からの贈り物に思えたからだ。
 ありがとう、そう心のなかで呟く。目を閉じたまま、もう暫くこのままでいたかった。茜と、両親と、一緒にいたかった。繋がっていたかった。
 ざっざっざっと足音が耳に入ってきた。近づいてくる。僕は瞼を開き、音の方へ振り向いた。
「あ」
 一陣の風が吹いた。
 風になびく髪がさっと彼女の表情を隠した。彼女が、顔を隠す髪をゆっくりと掻き分ける。茜のように、でも茜ではない。
「奈海さん」
 彼女の顔はやつれていた。気のせいか、左頬が腫れている。
「少し痩せたね、涼真くん」
 彼女が髪を手で押さえながら、遠慮がちに、顔を小さくほころばせた。
 その時、雲間から陽の光がさした。
 姉ちゃん……僕は空を見上げた。ありがとう。
 ん? と彼女も顔を空に向ける。
 そのまま二人して暫く空を眺めていた。言葉もなく。
 風が弱まった。
「お姉さん?」
 彼女が柔らかい口調で尋ねてきたので、僕は視線を彼女に戻す。
「はい。姉と会話をしようと思って。でも、いざここに来たら何を言っていいのか」
 少し恥ずかしい気がした。照れ隠しに手を後頭部に持っていく。
 不思議だった。
 どうして今日はこんなにも安らいだ気持ちで彼女と話せるのだろう。
 あれだけ自分を責めていたのに。
 もう会わない。
 そう決めていたのに。
 会ったら、感情がおかしくなると思っていたのに。
 いまは、心が落ち着いていた。
 部屋に彼女が来た時とは全く違う自分がいる気がした。そして目の前の彼女も。
「ねえ」
 彼女がそっと、柔らかいものに触れる直前に口にする声色で言った。
「オイコー飲まない?」



「臨時休業?」
 素っ頓狂な声で彼女は張り紙を読みあげた。店にはシャッターがおり、マジックでその旨を書いた紙が貼りつけてある。
「うー、残念ー」
 彼女が続けて声を絞りだす。僕は彼女の横顔を垣間見る。心底悔しそうな表情をしていた。
 僕も残念に思っていた。だが、それは、コーヒーが飲めないことによる残念なのか、それとも彼女と一緒にいる口実が潰れたことによる残念なのか、少し葛藤していた。でも、既に答えは出ていた。それを認めることができない自分に苛立ちを感じてもいた。
「ん、涼真くんも残念そうな顔。つうか、苦悶の表情」いつの間にか、彼女が僕の横顔を盗み見ていた。「でも、そんな表情も年齢のわりには似合うね」
 さらっとドキリとする言葉を言われたので、顔がほてってきた。思考がフリーズするや、身体もその場で固まった。
「んー、んんんー」
 彼女は余程諦めきれないのか、何かを思案している。と、顔を再度僕に向けた。今度は堂々と。相好を崩しながら。
「涼真くんのお姉さん、コーヒー好きでしょ。そのコーヒーを……いただいてもいい?」
 驚いた。茜がコーヒー好きなことを伝えただろうか。
 僕の心情を察知したのか、彼女が慌てて言葉を添えた。
「コーヒー豆をお墓にお供えしているから、それで」
 ああ、なるほど。
「だから、そのコーヒー豆で、どうかなって、駄目? 涼真くんのお家(うち)で」
「え」
「駄目かあ」
「え、いや、その、駄目じゃなくて、コーヒー豆は大丈夫です。家にいっぱい買い置きがありますので。でも、その……僕の家ってとこが」
「お姉さんにお供えしたのを飲むのは、お姉さんに失礼な気がしてしまうし」
 どうですか? と彼女が首を傾けた。口調や仕草は軽いが、彼女の言葉の端々に緊張が漲っているのを感じた。
 僕は頭のなかで、部屋のなかにある片付けなくてはいけないものを思い浮かべてみる。最近は家に引きこもりがちだったので、通常よりも清掃が大変そうだ。
「掃除手伝うよ。見て欲しくないものがあれば、別の部屋行くし」
 心の裡の全てを読まれていることに、僕は脱帽した。
「行きましょう」
 これしか言えなかった。
 同時に、これが葛藤に終止符を打ってくれたことに安堵した。彼女に誘われたから、家に行ってコーヒーを飲むんだ。自分勝手な解釈だとは分かっている。どこか後ろめたいし同時にくすぐったい。でも、確実に言えること――嬉しかった。

 彼女には部屋の前で五分ほど待ってもらった。
 取りあえず、見苦しいものを目につかないところへ隠す。料理をする気力もわかなかったので、レトルト食品などの残骸を片付け、掃除機をかけた。窓を開ける。部屋のなかに新鮮な空気が入り込み、カーテンが嬉しそうに風にそよいだ。
 たぶん、こんなとこで大丈夫かな?
 玄関ドアを開け、彼女を招じ入れる。
「おじゃまします」
 彼女が嬉しそうな声で靴を脱いだ。丁寧に靴を揃え、玄関框を越える。
 前回来た時は玄関とリビングの間の廊下までしか来ていないため、彼女は興味津々といった様子だ。しかも、あの時は、二人とも精神が錯乱し、疲弊していた。
「広い」
 リビングに足を運んだ彼女の第一声だ。確かに、このリビングは二十畳ほどある。
「あの、適当にかけてください」
「うん。じゃあ」
 ダイニングテーブルの椅子を引き、彼女がちょこんと腰掛ける。廊下とリビングの間にある中扉に近い方の席。そこは、よく茜が座っていた席だった。
「ここからだと、窓の外がよく見えるね。最高」
 僕の記憶が鋭敏に反応する。茜は、いま彼女が座っている席で、赤いマグカップでコーヒーを飲みながら、両肘をつき、よく物思いにふけるように窓外を眺めていた。ここから見える景色を見ながらコーヒー飲むと落ち着くのよ、と、たいてい同じ言葉を言ってから席につく茜だった。
 まるで茜が家に帰ってきたようだった。
 姉ちゃん――
 そう呼びかけそうになった言葉を、僕は慌てて飲み込んだ。

 よく洗った赤いマグカップにコーヒーを注いだのは、意図的だった。茜以外でこのマグカップが似合うのは、彼女しかいない。そして、このマグカップでコーヒーを飲む彼女を見てみたかった。
 席に着いた僕を見てから、いただきますとマグカップを手にした彼女の仕草にハッとした。更には、コーヒーを一口、口にふくんだ時の第一声、美味しい、も、茜と全く同じだった。違うのはただ一つ。
「オイコー。オイコーだよ」
 と言うセリフだけだ。
「涼真くん、淹れるの上手だね」
「小学生の時から、姉に教え込まれましたので」
「へぇ、じゃあ小学生でもうコーヒー飲んでたの?」
「それが、一口も飲ませてもらえませんでした。子供にはまだ早いって」
「そうだよね。カフェインあるし」
 彼女がマグカップの縁を口にあてる。ゆっくりと、今度は長めに口にふくんでいる。
「んー、お姉さんに感謝しなきゃ。オイコー飲めたこと。って、あ、ごめんなさい。お姉さんのお仏壇にお線香あげずにコーヒー飲み始めちゃった」
 慌てて立ち上がる彼女を僕は制した。
「いいですよ。お墓でよく会ってますし」
「んー、でも、ま、なんとなくね」と案内をして欲しい顔を向けてきたので、僕は「こちらです」と、改めて彼女を仏壇の前へ連れていく。
 小上がりのような畳の部屋で、正座をした彼女が線香をあげ、おりんを鳴らすために腰を浮かし前屈みになった時だった。彼女の動作が止まった。彼女の手が浮いたまま、腰も浮いたまま、暫く時間が過ぎる。
 雨が降りだしたようだ。
 最近、急に雨が降ることが多い。窓を閉めようと腰を上げた時、控えめなおりんの音が鳴った。彼女が再び腰を下げ、手を合わす。その間に僕は窓を閉めに行った。しとしとと降る雨だが、どこか勢いを増しそうな雰囲気を孕んでいる。雨雲が不安をかき立てるほど黒い。
 仏間に戻ると、彼女はまだ手を合わせていた。
「奈海さん」
 声をかけるも、彼女は気付いていないのか、手を合わせ続けている。
奈海さん、と僕は再度、少し大きめの声で呼びかけた。
すると、ほんの僅かだが、肩をびくんと震わせてから彼女がゆっくりと振り返った。その頬に涙の筋があった。彼女が慌てて手で涙を拭う。「ごめんなさい」それでも涙が溢れてくるようで、慌てて立ち上がり、カバンの方へと急ぐ。僕に背を向けながらハンカチを目に押し当て、彼女はしっかりと、でもあまり重くならない語調で言った。
「お姉さんのお写真見たら、泣けてきて」
「それは――」口にしようとした言葉は、しかし突然の雷でかき消えた。彼女の背筋がビクリと伸び、すぐに自身の身体を抱くような仕草を見せた。重く、空気を揺さぶる音がいつまでも部屋の内外に滞留している。
 いつの間にか雨が強くなっていた。バチバチと雨が窓を叩く。まるであの日、彼女と初めて電話で話した時のように。
「大丈夫ですから」
 彼女を落ち着かせようと言葉をかける。彼女の表情がゆっくりと蒼白に変わっていく。唇が震えだす。瞬きを繰り返しながら僕に向けて頷きを示した。外からは電流が弾けるようなパチパチとした音が鳴っている。遠くからも、近くからも、地鳴りとも言える何かが動くどよめきのようなものが迫ってくる。彼女は声が出せないようだ。
 だが、
 ドンっ、としびれを切らしたように大地を叩きつける音、同時に太鼓が四方八方から鳴り響くような音を立てて、雷が乱れ落ちた。
 あの時と同じように、すっ、と鼻で息を吸い込む音が聞こえるや、彼女がその場でしゃがみ込んだ。
「奈海さん」
 反応しない。ただひたすらに身を守るように身体を縮こめている。まるで天に謝るように頭を抱えている。
「奈海さん」
 叫ぶように彼女の名前を呼んだ。彼女が虚ろな表情でしゃがんだまま僕を仰ぎ見る、や、ぎゅっと僕の手を握った。僕はその手を握り返す。彼女が両手で僕の手を握る。強く、しっかりと。だが、震えている。そして、どこか苦しんでいる。
 僕は逡巡するよりも早く動いていた。
 彼女を抱き締めていた。
 両腕で、彼女を包み込むように。
 護りたい。
 誰よりも護りたい。
 その想いだけが僕のなかに溢れ、吹き出していた。表出した想いが、僕を突き動かしている。もっと強く抱きしめる。彼女のなかにある不安や苦悩を消すほどに強く、しっかりと抱き締める。
 大丈夫です。
 僕がいるから、大丈夫です。
 言葉にしないが、想いがメッセージとして伝わるように、彼女をきつく抱く。そのメッセージを受け止めてくれたのか、彼女が、最初は恐る恐る、次第に力をこめて僕にしがみついてきた。僕は手のひらを彼女の後頭部にあて、彼女の顔を僕の肩付近に埋めさせた。彼女から一瞬緊張するような固さを感じたが、それも寸刻のことで、彼女はすぐに力を抜き、全てを託すように、何かから解放されるように、体重を僕に預けてきた。僕はそれを全身で受け止める。
 その間も雷雨が乱れ狂っていた。嫉妬した暴風が窓をガタガタと揺らしてくる。もっと怖がれ、もっと自身を蔑めと言わんばかりに雨が窓を強く叩く。雷があちこちに落ちる。どよめきが襲ってくる。
 だが、それでも僕と彼女とを引きはがすことはできない。余計に僕たちは、同化するように、一体になるように、身を寄せ、抱き締め合い、離れなかった。
 誰からも、何からも、邪魔をさせない。
 僕は自分の頬を彼女の頭頂に擦り寄せた。髪の匂いが鼻腔をくぐる。もっと頬を、鼻を、心を彼女に寄せた。
 もう彼女は震えていなかった。
 安心したように力を抜き、僕に身体を委ねている。吐息が聞こえてくる。僕の腕のなかで彼女が顔をあげた。僕だけを見る瞳がそこにはあった。軽く開いた口。僕は自然とその口に、自分の口を重ねていた。
 愛おしい。
 その感情を認めた瞬間だった。
 雷雨が最後の抵抗を見せた。
 ドオオオオオン、と轟音を響かせた。残響がねばりつくように僕たちに覆い被さる。
 しかし、それが僕たちのなかに入り込む余地は無かった。
 雷雨は諦めたように静かになった。風も凪ぎ静かになった。でも、僕たちは口を重ね続けている。ずっと、終わりがないほどに、いつまでも口を重ねていた。



 両腕で包まれた時、何もかもを預けたくなった。身も心も、未来も過去も、善も悪も、全てをさらけ出して涼真くんの体温でくるんで欲しくなった。
 それなのに、
 罪悪感が、
 想いとは裏腹に膨らんでいく。
 どんどんと。どんどんと。大きく、広がり、呑み込んでいく、わたしを。
 お願い、自分勝手だけど、本当に身勝手だけど、全てを忘れるほどに、
 気持ち、感情、しがらみ、生い立ち、罪、苦悩、全てを消し去ってしまうほどに、
 滅茶苦茶に愛して――
 そう思った時、キスをされた。
 その瞬間、全てを、委ねた。
 
「初めてなの?」
「うん」
 すぐ近くに、もっと近く、深く、中に、全身に涼真くんが広がる。繋がった。淡い体温が心地良い。裸の体温。身体の匂い。声。全て。委ね、委ねられ、繋がる。
 思えば、政樹は抱いてくれなかった。あれは、どうしてだったの?――
 目を覚ますと、夜の十時だった。隣りで軽い寝息が聞こえてくる。二人の上にかかるタオルケットが呼吸の度に上下する。肌を寄せると、安心した。暫く肌をくっつけたまま彼の寝顔を観察した。月明かりが彼の輪郭に陰影をつくっている。
 青年の、だけど少年のような表情をして眠っている。あどけない、それなのに頼りがいのある顔だと改めて思った。
 愛しい。
 キスをした。何度も。眠っているから、少し大胆に、そう思った時、ぐっと身体に腕を回された。
「起きたの?」
「起きてました」
「やだ、いつから?」
「三回目のキスぐらいからです」
 そう言うと彼が破顔した。その顔がたまらなく可愛かった。そう思った時、彼からキスをしてくれた。そのキスは史上最高の長いキスになった。
 邪魔が入るまでの、
 長い、長い、キス。
 だが、
 目を閉じた時、脳裏に不吉な映像が過った。ナニコレ……。
 月明かりが突然鬱陶しく感じられた。

幕間 

 あれほど釘をさしておいたのに。
 どうして?
 どうしてあの女を選ぶの?
 どうしてあたしじゃないの?
 ……痛い。ずっと立ち続けているから、足が痛い。
 違う。
 足じゃない。
 心だ。
 心が痛い。
 心だけじゃない。全てが、何もかもが痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
 
 気付くと部屋番号を押し、通話ボタンを押していた。
 邪魔をするわけではない。
 痛みを、この痛みを分かって欲しい。
 だから、ボタンを押した。
 出ろ。出ろ。出ろ。絶対に出ろ。出るまで、押す。押す。押す。出ろ。出ろ。出ろ。 

12

部屋のインターフォンが鳴った。
それは、僕にとってあまりにも唐突なタイミングだった。
僕たちはどちらともなく唇を離した。彼女の顔が遠ざかり、見つめ合うや、遅れて羞恥心が芽生えた。その感情を隠すように、僕は少しだけ大きめの声でぼやいてみせた。
「誰だろう、こんな時間に」
 完全に油断していた。
 彼女と触れ合った、繋がった体温が、僕の脳を幾分か麻痺させていた。
 モニターをきちんとチェックすることなく通話ボタンを押す。
『あたし』
 ぎょっとした。
 モニターには表情を失ったように虚ろな深雪が映っていた。髪がずぶ濡れで、絶えず前髪から雫が伝い落ちている。濡れた髪が頬にへばりついている。
 僕は思わず息を止めた。言葉が出ない。同時に、自分が背負っている特殊な能力の現実を突きつけられた気がした。目の前が暗くなっていく。
『あたし』
 深雪が言葉を繰り返した。同じ言葉、同じ口調なのに、二度目の言葉からは得体の知れない凄みを感じた。
『開けて』
 モニターを通して深雪と目が合った。モニター越しとは言え、久しぶりに目が合った深雪の瞳からは、虚ろだけど刺すような目力が感じられた。一階エントランスの照明が深雪の目に光を含ませている。僕はモニターを通さずに、直に見られている錯覚に陥る。
『開けて』
 モニター画面の深雪の顔が大きくなった。
 それでも僕は何も言えなかった。モニターのスピーカーから声が漏れ、奈海さんにも聞こえているようだ。寝室からは彼女が身じろぎさえできずに固まっている雰囲気が伝わってくる。
『どうして、何も言わないの?』
 深雪の声が低くなった。スピーカー音がひび割れる。その声が何かを孕んでいる。応答しなくては、と感じるも言葉を返せなかった。
『知ってるよ。いるんでしょ、あの女。奈海』
 寝室で彼女が息を飲む気配があった。僕もぎくりとする。
『ねえ、あたしがどんな気持ちでここにいると思う? ううん、どんな気持ちでマンションの前にいたと思う? ううん、どんな気持ちでマンションの前で見張り続けたと思う? ううん、どんな気持ちで二人が入って行ったエントランスの匂いを嗅いでいると思う? ううん、どんな気持ちで二人が睦みあっているなか雨に打たれていたと思う? ううん、どんな思いであなたの部屋をじっと見上げていたと思う?』
 そう言いながら、モニター画面の深雪がどんどんと大きくなってきた。近づいてくるように。モニター画面が深雪の顔を収め切れなくなった時、突如として、
『また来る』
 そう言い残し、回線が切断された。モニター画面が一瞬にして黒くなる。声が途切れた。映像も消えた。
 それにもかかわらず、深雪が玄関ドアの前まで来ているような、深雪がより僕たちに近づいてきたような気がした。

 寝室に戻ると、彼女の顔は色を失っていた。
 何も言わずにそんな彼女を抱き締めた。細かい震えが伝わってくる。それを優しく包み込むように、僕は暫くの間、彼女を抱き締め続けた。
「あの子と何があったの?」
 久しぶりに声を聞いた。そう思えるほど長い時間、彼女を抱き締めていた。彼女が僕の胸に顔を埋めながら訊いてきた。顔を上げる気配はなかった。僕の鼓動から、話す内容の真贋を見極めようとするかのように、ずっと顔を押しつけている。
「深雪とは」
 そう言いだしたものの、言葉が続かない。深雪とのことを話す以上、自分が持つ能力について触れずに説明することは難しい。それは、茜の死についても、直登の死についても話すことになる。話の核心が『大切な人』になる。
つまりは、この話を聞いて、彼女は正気を保ってくれるだろうか。信じてくれるだろうか。
僕は今更ながらとんでもないことをしてしまったと、行き場のない気持ちでいっぱいになっていた。自分は大切な人をつくってはいけない。直登が死んだばかりなのに。自分は、自分は……。視界が真っ暗になっていくようだった。罪、という名の暗黒に、闇に、呑み込まれていく。
「涼真くん」
 声が、聞こえた。遠くの方から。でも、はっきりと耳に届く。
「涼真くん」
 呼びかける声は柔らかく、懐かしく、耳にすっと馴染んでくる。
 姉ちゃん――
 僕は目を見開く。
 彼女が、温かい眼差しを僕に向けていた。至近距離で目が合う。
「言って」
 どこまでも穏やかな口調だった。僕は喋ることを許される何かに包まれた気がした。



 涼真くんが全てを語った時、わたしは驚きを隠しえなかった。
 嘘、などと言う陳腐な反応は見せたくなかった。それは彼を傷つけてしまう。いや、そう思っていること自体で、心のなかで彼を傷つけてしまっているのだろうか。
 未来見の能力。そして、未来を変えた代償――大切な人の死。
 その結果、彼の姉が、彼のチームメイトが、亡くなった。
 未来を変えた代償で大切な人を失いたくない場合は、自分の命を犠牲にしなくてはいけないこと。
 あまりにも物語じみている。まるで小学生が夢中で読む小説のように。
 でも、
 涼真くんを信じる。
 理由などない。彼が言えば、それは真実なのだ。騙されてもいい、彼にならば。いくらでも騙して欲しかった。しかし、きっと彼は騙していない。真実を語っている。
 そんな彼に対する誠実な気持ちの傍らで、こんな気持ちもむくむくと湧き上がってくる。ごめんなさい、きっと好奇心、ゲスな思いなのだろう。でも、考えることを止められないのも事実だった。
 〝わたしたちの将来を未来見して欲しい〟
 わたしは先日まで描いていた絵を思い出した。その絵は自宅に飾った。わたしの想いが込められた絵だ。
 わたしたちは幸せに暮らしてますか? 困ったりしてないですか? わたしは笑顔の涼真くんの隣りで、同じく笑っていますか? わたしたちの子どもは男の子ですか、女の子ですか? 涼真くんはわたしと一緒で楽しいと感じてくれていますか?
 きっとその知りたい探究心が、自制心を越えてしまったのだと思う。
「わたしたちの将来を未来見して欲しい」
 言ってしまっていた。声にだして。
 言った瞬間、しまった、と後悔した。今ならまだ取り消せるかも。
 だけど、彼は暫しの逡巡の後、真剣な顔で頷いた。
 わたしたちの将来。それは、彼にとっても禁断な、だが、わたしと同じく最も知りたい未来なのだろう。彼も、頷いた直後、少し頬を痙攣させた。頷いたことを後悔するように。
 今ならわたしたちはまだ引き返せる。
 今ならわたしたちは取り消せる。
 でも、
 わたしたちは禁断の果実をかじってしまう。
 彼が目を瞑った。それとは逆に、わたしは目を見開いたまま。彼の反応をうかがうように。彼が未来見するものを少しでも早く感じ取れるように。
 束の間の静けさ。
 カラスが鳴いた。どうして、こんな夜中に? 不吉――
「止めて!」
 気付くと叫んでいた。
 彼が驚いて目を開く。
 もう一度、怒鳴るように、啼泣するように、哀願するように、声をあげた。
「止めて。ごめんなさい。未来を見ないで」
 でも彼の様子がどこか変だった。彼の瞳が怯えるように揺れていた。
 その反応は、見て……しまったの? そして、それは、……良くない未来だったの? 未来を……変えないといけないものだったの?
 怖れが伝染したようにわたしの手が震えだす。身体も少しずつ、細かく震えだす。
彼が再度目を瞑った。
 止めて! もう見ないで。わたしたちの未来を見ないで! でも言葉にならない。どうして? 手が、腕が、口が、身体が、動かない。彼を止める術を失ってしまったかのように、時間が、わたし自身が止まった気がした。彼を見つめ続けたまま。
 どれだけの時間が過ぎたのか分からなかった。その間、自分が呼吸をできていたのかさえも分からない、そんな時間が過ぎていった時だった。
 彼が目をゆっくりと開いた。
 わたしからは吐息が漏れる。鼓動が高鳴る。彼がわたしを見つめる。でもその目はどこか弱々しかった。それをあらわすように彼がぼそりと言葉をこぼした。
「見えない。未来が、見えなくなった」
「嘘……」
 口にした瞬間、ごめんなさい、と謝りたくなった。絶対にしてはいけない反応をした気がしたからだ。
「本当なんです。見えない」
 彼は、嘘、と言ったわたしを責めなかった。気分を害してはいなさそうだった。
 ただ、ただ、驚いていた。彼自身が彼自身に対して。
「どうして、見ることが……できないんだ?」
 彼が困惑の表情を見せる。ちらりとわたしを見てきた。自分は潔白だと小さく主張するような、同時に怯えるような目をわたしに向けてくる。
 嘘じゃないんだ。
 彼の瞳が主張していた。嘘なんかついてない。本当に未来を見ることができたんだ。だけど、今は見ることができないんだ。そう彼が、口を震わせながら、全身で訴えているように思えた。
「よかった」
 心からの本音だった。わたしたちは禁断の果実をかじらなかったのだ。わたしはそう思い安堵した。
 彼はわたしの言葉を受け。呆けたように口を開けている。信じてもらえることに驚くように。だから――
 わたしは彼を優しく、包むように抱き締めた。
 今度はわたしの番。彼を安心させる。わたしが包み込む番。
 彼は無言で顔を胸に埋めてきた。大丈夫だから。あなたを疑っていないから。そんなことであなたを責めないから。むしろ、見ることができなくなってくれてありがとう。
 そう心を込めて思いながら、知らずのうちにカーペンターズの歌を口ずさむ。

 わたしはこのサビの部分しか歌えない。涼真くんのように一曲まるまるを歌えない。
 それでも、
 きっと彼は一緒に歌ってくれる。
 音程の外れた声を重ねてくれる。
 この歌を通じて、一体になれる。これはわたしたちの仲をとりもってくれる歌なのだ。
 しかし、
 彼は歌ってくれなかった。口を開けて、声を重ねてくれなかった。
 どうしたの? どうしたの?
 抱いた赤子をあやすように、心のなかで呟く。どうしたの? どうしたの?
 だがしかし、彼は無反応だった。何かがおかしい。何かが変だ。何がどうなっているの? 
 わたしは思わず虚空を見上げ、目を瞑った。
 脳裏に映像が、浮かんだ。鮮明に。

 涼真が死んでいる。墓の前で、胸を矢で貫かれ、血を流し、死んでいる。

 絶叫をとおり越し、言葉を失った。
 わたしはいま、自分の力で背筋を伸ばせているのだろうか。背骨がぐにゃりと歪んだような、いや、背骨どころか身体が、脳が、思考が、わたしたちの未来までもが曲がり、歪み、崩壊していく――
 どうしたんですか、と先ほどまで胸に抱かれ、泣く子どものように小さくなっていた彼が、今度はわたしの両肩を掴み、声をあげていた。だが、その言葉に応答できる余裕がわたしにはなかった。わたしはきっと、彼にぐったりともたれている。もはや身体の感覚さえ失われた気分だった。
 少し前のキスの後、脳裏に過ぎった不吉な映像。ナニコレ……と思った映像。それが、リアルに、明瞭に、はっきりと、わたしの頭のなかに浮かび上がった。
 未来見の能力が、わたしに譲られた、受け継がれた現実が、運命が、そこにはあった。 

13 

『もしもし恭姉? ちょっと聞いてよ。マジ酷い。最低なの――』
 まだ返事もしていないのに。宏美はわたしが話を聞くことを当たり前に思っているのだろうか。
『俊治、また浮気しやがった。今度は許さないって言ったのに。それなのに、それなのに――』
 いつからだろう、この義理の妹に人生を牛耳られるようになったのは。父が再婚相手と一緒に連れてきた、この年下の欲深な義妹に人生を。そして、『計画』と称しては、お金持ちからお金を掠めとる、宏美が俊治と交際を開始してからは俊治を利用して力づくでお金を得る、そんなことに巻き込まれるようになったのは。それなのに断れない、逃げ出せない自分に嫌気がさしているのは。罪悪感に襲われるようになったのは。自身を苛む、さりとて、改められないことに苦しむ毎日になったのは。
 電話の終了ボタンをタップしかけた時だった。
『俊治、殺しちゃおうかな』
「え?」
『マジで。殺す……かも。俊治も、相手も』
 宏美は、相手も、のところを強調してきた。俊治、ではなく、相手も、を。
 動揺からか手が震えていた。どうしたらいいの? この状況は、……どうなってしまうの?
 プッ――
 電話が前触れもなく切れた。
 得体のしれない余韻がはびこり始めた。耳の奥に。脳の中に。身体中に。部屋中に。
 闇から、手が伸びてくるように、何かが迫ってくるように、逃げられない。余韻がはびこっている。余韻が―― 

幕間 

「駄目ぇ! そんなんじゃ」
「いや、もう限界」
「もっと、もっと!」
「ヤバい、もう、もう――」
 言い終わらぬうちに、男は、力尽きたように女の隣りに倒れ込んだ。ギシリとベッドが軋む。男からは乱れた呼吸音がせわしなく吐き出されている。
「もう一回」
「冗談だろ?」
「マジだって、もう一回」
「もうできねえよ」
「……恭姉とはやったんでしょ、俊治」
 男が、俊治が息を飲んだ。部屋内が静寂と精液の匂いでみちてくる。
「何、突拍子もないこと言ってんだよ、宏美」
 俊治が煙草を吸うために起き上がった。少し動作がぎこちない。テーブルの上に置いてあるマルボロの箱を手にする。その一本を咥えた。煙草の先端が震えている。ライターで火をつけようとする。なかなかつかない。もっと煙草の先端が震えだす。ライターから小さな炎があがる。その炎もゆらゆらと揺れていた。
 俊治のその様を見ていた宏美が叫んだ。
「抱けって言ってるんだよ、この二股野郎っ!」
 平手打ちの音が性の匂いでむせ返った部屋の空気を変えた。 

幕間 

「バレたよ、宏美に」
 男は、俊治はマルボロを深く吸い込んでから、煙とともに言葉を吐き出した。煙の量が多く、声は消え入るほどに小さい。
 窓辺で外を見ている女は振り返ろうとしない。さっきから、部屋に来た時から、ずっとこの調子だ。聞こえていないのか? 訝った俊治が、もう一度言った。今度は大きな声で。
「バレちまったよ、宏美に」
 それでも女は反応しない。まあ、確かに、それもそうか。去年、ターゲットだった男から金を奪ったあの嵐の日に、無理矢理に関係を持ったのだから。しかも、その後も、嫌がるのを押さえつけて何度も。
 そう言えば、あの嵐の日、どこか薄ら寒い気を覚えたのがいまでもはっきりと記憶にある。まるで、帰る途中に事故に巻き込まれるような。でも、結果的に、そんなことにはならなかった。だが、……何だか奇妙な感覚だった。運命が途中で変わってしまった、そんな馬鹿な。何が運命だ。
「おい、恭子」
 なんだこいつら姉妹ときたら、俺を舐めやがって。
 俊治が女に、恭子に近づき、その腕を取り、力づくで振り返らせた。
 恭子の表情は虚ろだった。まるで目の前の俊治が見えていないような。
「おい、恭子、聞いてるのかよ」
 そんな恭子の態度に、俊治の頭のなかで激情の渦が沸き上がった。思うよりも先に手が動く。弾音。恭子がその場で倒れる。頬を押さえ。
 それでも恭子は虚ろな表情のままだった。
「なんだてめえ」
 俊治が腰を屈め、恭子の目線と同じ高さで、恭子の目を睨むように見る。その時、ふと、いつもと違う匂いを嗅いだ気がした。恭子の匂いに足された新たな匂い。
 男の匂い。
「おまえ――」
 俊治は言葉を飲み込んだ。かわりに腰を上げ、つかつかと隣室へ行く。本棚に置かれた恭子のスマートフォンを手にした。暗証ロックを勝手に解く。暗証番号は、宏美から以前、候補の番号をいくつか教えてもらっていた。最初に入力した誕生日が答えだった。
 ふっ、俊治は鼻で笑う。ラインを作動させる。最近頻繁にやり取りしているのは、
〝浅見涼真〟
 涼真とのトークルームを開く。
 こいつか、宏美が次のターゲットと言っていた奴は。
 ふーん。俊治は、今度は鼻から息を吐いた。ラインを閉じ、グーグルマップを作動させる。行動履歴とその場所にいた時刻をチェックする。
「わりと近いな」
 そう言い捨てながら、俊治はスマートフォンをラグに放った。
 リビングに戻ると、恭子が倒れた時のままの姿勢で、固まるように呆けていた。
 俊治は流しに煙草を投げ捨てた。
「帰る。それとこれまた使うぞ。またがっぽりぶんどるぜ」
 玄関へ向かう際に、短い廊下の途中に投げ置いていた黒色のバッグを、リビングに向けて蹴った。何も入っていないバッグがフローリングの床上を滑る。
 ドアノブを握った時、ふと思った。恭子の部屋に来たのに、耳にした声は自分の声だけだった。振り返ると、恭子がバッグを見つめていた。じっと、じっと、無表情で、見つめていた。寒気を覚えた。 

14

 墓の前で手を合わせた。
 姉ちゃん。大切な人ができた。それを報告に来たよ。でも、正直に言って、これで良かったのか分からないんだ。また、姉ちゃんの時のように、大切な人を失ってしまうんじゃないか。直登の時のように……そう思ってしまう。だけど、僕は、もう彼女なしでは生きていけない気がする。だから、もしもの時は、僕はこの命を差し出す覚悟です。ごめんね、こんな弟で。
 ここまで報告して、僕は次の話をするべきか悩んだ。言ってしまうと、先ほどの話と齟齬が生じる気がするのだ。未来見をすることができなくなった。能力が消えた。あれから何度も目を瞑り未来見を試みたが、何も脳裏には浮かばなかった。
 これは、大切な人を、愛する人を失いかねないあの能力が消えた、と理解してよいのだろうか。でも、それだとしたら、どうして能力は消えたのだ? 未来見の能力を授けられる夢を見た時、この能力を譲る場合について質問をした気がするが、それ以上のことは憶えていない。
 やはり、未来見の能力を失ったことを報告するのは止めておいた。
 後日、機会があるだろう。
 瞑っていた目を開く。
 今日も、ピンクのスイトピーが気持ちよさそうに風を受けている。微かに漂う花の香り、マグカップに入れたコーヒー豆のアロマ、線香の匂いが心地良い。
 姉ちゃん。今日も二本だけもらうね。
 そう断りを入れて、浅見家の墓を後にする。
 鮎川家の墓の花立にスイトピーを挿した。線香に火を灯し、煙を立てる。供えようと香炉に手を伸ばしたところで、こちらに向けて歩いてくる足音が聞こえた。
 奈海さんだろうか? だが、今日は平日だ。仕事内容はまだ聞いていないが、きっと働いている時間帯ではないだろうか?
 そう思いながら、足音のする方へ首を回すと、奈海ではないボブヘアの女性がこちらに向けて歩いてきていた。何だろう、僕はいま直面している情景に憶えがある。女性が振り向いた僕を見て、過剰とも思えるほどに驚きの表情を見せた。実際に何かを口にしたようだ。「政樹さん?」と聞こえた気もする。でも、どうして驚いたのだろう。平日の人気の無い墓苑が、女性を過度に神経質にさせているのだろうか。女性から視線を外そうとした時、意外にも女性が話しかけてきた。少し上擦った声で。
「い、いつもありがとうございます」
 最初、僕は自分にかけられた言葉ではないと捉えた。墓苑の奥の方へ視線をちらっとやる。だがやはり、僕とこの女性以外に、付近に人の姿は無かった。
「あ、あなただったんですね。かわいいスイトピー」
 明らかに女性は僕に話しかけていた。女性の年齢は、僕よりも年上に思えた。それも奈海さんに近い年齢だろう。奈海さんの親族だろうか。例えば従姉妹とか。それだったら、きちんと挨拶をしなくては。それにしても、女性の頬に涙の跡があるのは、何故だろうか。僕は女性に相対する。
「初めまして。浅見涼真と申します」
 女性は僕の言葉を飲み込むように少し間(ま)をとった。まるで声を飲み込むように。女性がうつむいた。頭頂部が少し薄くなっていた。精神的に疲れているのだろうか。その頭頂が震えだしていた。泣いているのだろうか?
「浅見さん……ですか。主人からお名前を伺ったことがなくて、失礼いたしました。私、鮎川政樹の妻の鮎川奈海と申します。主人の生前は大変お世話になりました。お顔が主人とそっくりなので、ちょっと驚いてしまいまして。ところで、本当に、本当に大変失礼な質問で恐縮ですが、主人とはどういうご関係でいらっしゃい――」
 女性の話の途中から、僕は言葉が耳に入ってこなくなっていた。
 脳内では、女性が言った一つのフレーズがこだましている。
 〝私、鮎川政樹の妻の鮎川奈海と申します〟
 黙り込んだ僕を心配してか、女性が「ご気分が優れないのでしょうか? お顔色が少し……」と心配の声をかけてくれているようだ。事実、僕の心中では竜巻よりも酷い嵐が起きていた。
 嘘だ。
 嘘だ。嘘だ。
 嘘だ。嘘だ。嘘だ。
 僕は勢いのままその場から駆けだした。
 奈海さん。
 奈海さん!
 駆けながら僕は電話をかける。コール。コール。コール……出ない。
 どうして出てくれないのだ。
 思えば、僕は彼女の住所を知らない。
 職業はもとより、家族がいるのか、どんな友人がいるのかも、まるで知らなかった。後日聞けばいい、そんな気持ちでい続けていた。でも、でもでもでも、彼女は、

 〝何者なんだろう?〟

 駆けながら、心のなかで葛藤する。
 何者でもいいじゃないか。
 じゃあ、さっき会った女性は? 鮎川奈海と名のっていた。
 わけが分からなかった。
 わけが分からな過ぎて、気が狂いそうになる。発狂しそうだ。叫び出してしまいそうだ。ああああああ、と声をあげたい。実際、声をあげかけた。あげかけて、それでも平常心を保てたのは、揺るぎない彼女への気持ちからだった。
 どんなことがあっても、
 二人には未来がある。僕たちの未来がある。

 電車に乗っている間も、常に電話をかけ続けていた。しかし繋がらない。圏外ではない。彼女のスマートフォンの呼び出し音は鳴っているはずなのだが、出ない。
 奈海さん。
 奈海さん。
 自宅最寄りの駅で降りて、自宅マンションにたどり着くまで、ずっと心のなかで彼女の名前を連呼した。自分を見失わないように。彼女を見失わないように。
 エレベータが自宅階につき、ホールから出た時、自分の部屋の前に一人の男が立っていた。ぎくりとした。身体に、脳に、電流が走る。記憶が甦る。
 それは、男の外見が僕に似ているからではない。
 あの時、深雪を助けるために見た未来で、深雪が飛び降り自殺をした際の巻き沿いで死んでいた男だったからだ。
 男が僕に気付き、口角を歪める。
 口の端だけを持ち上げる笑み。いままでの人生で、こんなにも下品な笑い方をする人を初めて見た。
「よお、待ってたぜ」
 男の声は、よく分からないがきっと僕には似ていない、そう思うことだけで精一杯だった。 

15 

 俊治と連絡がつかない。
 突然宏美が部屋に来て、狼狽えた口ぶりで伝えてきた。
 他にも何かを盛大にまくし立てている。でも、わたしの耳には彼女の声の欠片さえも残らずに通り過ぎていく。
 あの日から、涼真くんの胸に突き刺さる矢の映像を見てしまった日から、わたしはどのようにして過ごしてきたのか、何も記憶がなかった。何を食べたのか。誰と会ったのか。そもそもあの日は、いつのことだったのだろう? 昨日だろうか。一昨日だろうか。それさえも判然としなかった。まるで体内で血流が止まったかのように、身体の機能の何もかもが不全としている感じだ。ただ、黒いバッグと、罪悪感と、涼真くん――
 宏美が席を立つや、部屋の隅々を見て回り始めた。
 きっと俊治の痕跡を探しているのだろう。別に止めない。好きに探せばいい。
 そう思うや、またこれまでのように、視線は自然と窓外に向けられていた。
 ぼんやりと空に浮かぶ雲を眺める。風が強いのか、あっという間に雲の形が変わり、流れ去り、次々と新しい雲が現れる。
「浅見涼真」
 部屋のチェックを終えた宏美が不意に口にした。
 一気に現実に戻されるように、覚醒した。体内で凝固していた血が一気に溶けだす。振り返り視線を宏美に向けた。
「部屋で保管していた、浅見涼真の調査結果資料が見当たらないの。昨夜オールでバイトして帰ったら、引き出しがあいてて、やだ空き巣って思ったら、財布はあるのに資料だけがなくなってた。煙草の灰が落ちてたから、きっと俊治が勝手に持ち出したんだと思う。だから連絡取ってるんだけど」
 スマホの電源を切られちゃってるみたい、そう宏美は言い終えるも、まだ何かを話したそうに口を開く。それをわたしは遮った。既に腰を浮かしている。
「涼真くんの家には行ったの?」
「行くわけないじゃん」
宏美が語気を荒げるのを背中で聞きながら、わたしは隣室に置いていたスマートフォンを手にする。ここ数日まったくスマートフォンを気にしていなかった。スマートフォンは重く。硬かった。久しぶりに手におさめたスマートフォンがやけに存在を主張してきた。
 電源は落ちていなかったが、電池容量はあと一メモリしかない。
 それよりも、涼真くんからの無数の電話履歴に胸騒ぎを覚える。ひやりとした重たいものに頭を殴られた気がした。すぐに折り返す。コール。コール。コール……繋がらない。コール。コール。コール……やはり繋がらない。
 フラッシュバックのように、涼真くんの胸に矢が刺さった光景が脳裏を過ぎる。寒気が身体中を駆け巡った。
「わたし出かける」
 宏美の反応を確認することなく、スマートフォンと財布、それと、気付くと黒いバッグを掴み、わたしは玄関へ走っていた。
血が、流れだした。 

幕間 

 もう我慢できない。
 苦しい……。
 気付くとグリップを握っていた。この感触……やっぱり好き。少し落ち着いた気もするが、身体は着々と、しかし焦り気味に、この先の行動の準備をしている。アームガードを着ける。もっと落ち着くも、やはり次々とせわしなく身体が動いていく。アローケースにボウと矢を一緒にしまう。アローホルダーはこの場で装着した。

 ねえ、どうしてこんなことをするの?
 ねえ、どうしてこんなことをするの?
 
 どこからか声が聞こえてくる。誰? あたしの声だ。

 ねえ、どうしてこんなことをするの?
 ねえ、どうしてこんなことをするの?

 決まってるでしょ。
 永遠の、愛、のため。

 あたしは履きなれたスニーカーに足を入れる。玄関ドアを少し開けたところで、突風が吹きこんできた。大丈夫。風も計算に入れて、射る。高三の夏の全国大会の決勝を思い出す。あの時も風が強かった。あたしはイメージトレーニングをするように、頭のなかでアーチェリーの弦を引き絞った。見えないものが見えてくる。射る。まだ腕は落ちていないようだ。 

16

「どこまで行くんだ?」
 僕から奪ったスマートフォンをチェックしていた男が、しびれを切らしたように訊いてきた。外で対応するとの僕の主張が、電車に乗ることにまで及ぶとは、男にとっては想定外だったようだ。男が僕のスマートフォンの電源を落とした。
 隣りで男がつり革を握りながらもたれる。電車内は混んではいないが、座れるほど空いてもいなかった。空いていても、この男とは並んで座りたくない。
 陽が傾いている。窓に男と僕の顔が映り込んでいる。男は窓越しに僕を睨み続けてくる。僕は暫く、同じように窓越しで睨み返したが、男の目力には勝てない気がしたので、目を逸らした。そう言えば、質問に答えていなかった。
「墓です」
「墓ぁ?」
 男が大げさに驚く。が、やがて、くくくく、と笑い声を漏らし始めた。窓越しでなくとも気味が悪いのが伝わってくる。周囲の乗客も男の方をちらちらと見始めていた。じっとりとした視線も感じた。
「俺がお前を殺すとでも思っているのか?」
 その質問には答えなかった。
 男が少し饒舌になる。唾の飛沫が飛んだ。前席に座る乗客が迷惑そうに、また不審げに席を離れた。
「それとも単なる冗談か?」
 そう言い放ってから、男は空いた席に勢いよく座る。ギッと座席のスプリングが悲鳴をあげる。男が足を開く。両隣りの乗客が顔を顰める。
「それにしても、似てるな、俺たち」
 男が僕の顔をまじまじと見て、続けた。
「他人を見て、似ていると思うのは二度目だよ。瞳の色は違うけどよ」
 喋り過ぎだ。僕は心の裡で苛立ちが募るのを感じる。その気持ちが態度に出てしまったのか、男は急に口を閉じ、僕を一層鋭い目で睨んだ。
「姉の墓の前で話しましょう。僕はそれが一番落ち着くんです」
「シスコン野郎」
 男が電車内にもかかわらず床に唾を吐いた。集まっていた視線が一斉に散る。周囲の乗客が次々と席を離れだした。だが、そのような状況においても、不思議と誰かしらのじっとりとした視線を感じ続けた。
 僕は男の言葉を否定しない。
 姉ちゃんが護ってくれる。
 そんな願望を抱いている。だから、浅見家の墓を目指しているのだ。
しかし、それでも目の前の男からは逃れられない気がする。きっと殺される。よくて半殺しだ。だったら、せめて場所だけは、自ら選びたかった。
 姉ちゃん。
 心のなかで呟いた。茜の顔が浮かぶ。そして、彼女の顔も。



 マンションのエントランスで、わたしは涼真くんの部屋番号を押した。しかし応答がない。もう一度押す。それでもやはり応答がない。電話をかける。しかし、電源が切られているのか、こちらもなしのつぶてだった。
不安が背筋を駆けのぼってくる。焦燥感が不安を肥大化させていた。
 念のため、俊治のアパートも訪れたが、明かりは灯っておらず、薄そうな玄関ドアの向こうから何も音が聞こえてこないため、そうそうに見切りをつけて、涼真くんのマンションを訪れていた。
 どうしよう。意味がないと分かっていても、電話をかけてしまう。スマートフォンを耳につけた時、マンションのエントランスから人が出てきた。
 行っちゃえ。
 通話しているふりをして、オートロックを通過する。エレベータを使い、彼が住む六階へ上がる。フロアにエレベータが着くや、わたしは駆けだした。彼の部屋の前へ。表札の下についているボタンを押す。しかし、こちらも一向に応答がない。玄関ドアに耳をつけた。分からない。でも、何となく誰もいない気がする。嫌になるほど静かすぎるのだ。静けさがこれほどまでに不安を助長させるものとは。
 あとは? あとはどこだろうか? 俊治が彼を連れていきそうなところ。きっと暗いところ。もし彼が抵抗しながら連れていかれたとすると、そう遠くには行っていないはずだ。
 だが、人目を避けられるような場所はこの近辺にはなさそうだ。
 じゃあ、いったいどこへ?
 まさか……。
 あの映像を思い浮かべる。矢に貫かれた彼が倒れていた場所。墓、墓苑。
「間に合わない……」
 わたしはその場でくずおれた。モルタルの地面がやけに冷たかった。
 その時、彼が打ち明けてくれた内容を眼前に突きつけられた気がした。
 わたしは、決断した。
 自分にできること――一つしかなかった。
 視線を空に向けると、浮かぶ細長い三日月がやけに目についた。



「まずは、金だな」
 男がそう切り出した。
「おまえ、相当金持ってるんだろ」
 この男はどこでそんなことを調べたのだろうか? そう思うも、現実として個人情報など調べようとすれば簡単に調べられる時代に生きていることを、改めて再認識するだけだった。
「出せよ、財布」
 カツアゲの域を、だいの大人がしてくることに、無性に腹が立った。だからして、反射的に男を睨んだ。その瞬間、頬に熱を感じた。同時に身体が後方に吹っ飛んでいた。背中から地面に倒れる。口内で血の味とともに異物を感じた。歯が折れたようだ。
「気に入らねえな、その碧の目」
 男が近づくや、今度は蹴られた。頭がぐらりと揺れる。容赦のない蹴りを頭部に受けた。意識が一気に朦朧としてくる。胸元を掴まれ、首から上を揺さぶられる。ますます意識が遠くなる。いま聞こえてくるのは、自分の呼吸音なのだろうか。それとも男の呼吸音なのだろうか。
「恭子とはどこまでやった?」
 耳の近くで声が爆発するように聞こえてきた。男の唾が飛んだ。意識を失いかけているにもかかわらず、不快感だけは別物のように伝わってくる。耳たぶをぐいっと引っ張られ、痛さで現実に戻された。恭子? それは、誰? だからして、素直に口にした。
「恭子……て誰ですか?」僕の口から空気が漏れるような声が出た。
 耳をちぎられる、そんな激しい痛みで思わず「ああああっ」と悲鳴をあげた。だが、男はまだ僕の耳たぶを捩じり掴んでいる。
「何、しらばっくれてんだよ。恭子だよ。散々ラインやってただろ。夜中じゅう同じ部屋にいたくせに、何もしてねえなんて言わせねえぞ」
「奈海さん……?」
「はぁ?」
 男が、顎がはずれるほど大口を開ける。凄みをきかせていた目が少しだけおとなしくなった。すると顔を下に向け、男は震えだしていた。かかかかかか、と気味の悪い声が笑い声だと気付くには、僅かな時間が必要だった。
 改めて顔を上げた男の表情には満面の笑みが張り付いていた。あざ笑うかのような、見下すかのような、そんな類の色が顔中に溢れていた。
「奈海か、奈海ね。おまえには奈海と名乗ったのか、恭子は」
 男が耳から手を離した。痛みから解放された矢先、今度は身体ごと押しのけられるような重たい蹴りを胸にくらった。身体が後方へ倒れる。頭のすぐ近くには浅見家の墓石があった。
「おまえ、騙されてんだよ」
 その言葉は、確かに僕の耳に届いた。だが、僕は平然とその言葉を受け流した。ぼやけた視界のなかで男の方を見上げる。男からは苛立ちを抑えられない気配が鋭敏に伝わってくる。
「おまえが奈海と思っている女はよ、恭子はよ、妹と結託しておまえから金を巻きあげようとしてるんだよ。金持ちぼんぼん息子さん」
 ぐいっと首を絞められるように持ち上げられた。息が苦しい。脳が一気に酸欠状態に陥る。
「だから、本気じゃないんだよ、恭子は、おまえみたいなガキにはな」
 頬に何かが飛んだ。男が唾を吐く音が聞こえたので、きっとそれだ。
「だから、」
 男が『だから』を二回続けて言った。首元が更に締め上げられていく。意識が遠くなっていく。
「さっさと金だけだして、恭子とは別れろよおおお―――――――っ」
 胴間声を浴びせられるや、首から上を激しく揺さぶられた。意識がとびかけるも、まだ意識は繋がっている。まだ揺さぶられている。苦しくて、身体の感覚が失われていく。男の声が、意味を成さない咆哮が続いている。それでも頭のなかで、意識なのか、感覚なのか、脳そのものなのか、何もかもが撹拌されている状態においても、浮かび続けている顔があった。心のなかで呼びかける。
 姉ちゃん。
 奈海さん。
 信じられないくらい鮮明に、揺さぶられれば揺さぶられるほど、色濃く、はっきりと二人の顔が浮かび上がる。その二人の顔が、いつしか接近し、重なる―― 

奈海の回想 

 電車は空いていたが、座席には座らなかった。
 奈海はドア付近の手すり脇で、何度もスマートフォンを操作しては耳にあてていた。その度に、車内での通話を咎めるような視線を感じる。だが、奈海が声を出す機会は訪れない。
 出会わなければよかったのだろうか。
 窓外を過ぎる景色が目に入らなくなってきたのは、陽光の加減のせいだけではなかった。
 奈海は窓を通してもっと遠くをみつめていた。遠く、
 政樹と出会った頃だ――

 鮎川政樹は高校の一年先輩だった。
 噂でかなりのいいところの御曹司であるとは聞いていた。祖父が外国人のためクオーターであることは、校内の誰しもが知っていた。外国の血を連想させる碧い瞳に見つめられた女子は、かなりの確率で政樹に恋に落ちるほどだった。
だが、それ以上に政樹はサッカー部のエースストライカーとして、奈海の高校ではその名が知れ渡っていた。冬の全国高校選手権にも出場歴がある奈海の高校のサッカー部は、名門扱いを受け、部員は二百人を超える。レギュラーメンバーに選ばれること自体が難しい状況下において、政樹は一年生時からフォワードの一角として定位置を確保し続けていた。
 伝統の四―四―二布陣。単純にスタメンをディフェンダー四人、ミッドフィルダー四人、フォワード二人と考えるならば、フォワード枠はゴールキーパー枠の次に少ないものとなる。その二人の枠に収まり続けることができたのは、政樹の恵まれた体格と類まれなる反射神経、ゴールへの嗅覚だろう。
 政樹はどの試合においても得点を量産し続けた。特にスルーパスへの飛び出しは一級品もので、反応スピードも、相手ディフェンダーにあたり負けしない鍛えられた体幹が生みだすフィジカルも、コースをついた正確なシュートも、どれもが見ていて惚れ惚れするものだった。
 奈海がそれほどまでに、政樹のプレーを間近で見ることができたのは、サッカー部のマネージャーをしていたからである。マネージャーは二人いた。奈海と、先輩の茜だ。茜も噂ではクオーターらしく、瞳の色が外国人のようだった。奈海が入部した時から既に、政樹と茜は交際していて、ともに外見が日本人離れしている二人は、はたから見てもお似合いのカップルだった。いくら政樹に憧れを抱いても、茜を押しのけて入るスペースなどこれっぽっちもなかった――ように思われた。政樹の高校卒業までは。
 政樹の卒業式の日の夜だった。
 政樹から呼ばれた。何だろう? そんな軽い気持ちで奈海は待ち合わせに指定された場所に向かった。顔を合わせた瞬間、政樹がいつもと違う表情を見せた。胸の裡に秘めていたものが溢れ出しそうになっているのを必死で抑えようとしている顔つきだ。プレー中でも見たことのない、緊張感と切実感が顔中に漲っていた。やたらと頬を痙攣させていた。相対する奈海まで緊張するほどだった。
 付き合ってください。好きです。
 突然の政樹からの告白に奈海は面食らった。「え―――――っ!」と、どこから出てきたのか分からない声をあげていた。だって、政樹は茜と……。
 実は、茜とはもう一年前に別れている。
 茜を押しのけて入るスペースどころか、スペースはいつの間にか空いていたのだ。フォワードは自分のスペースを確保しながらボールを受け、シュートに持ち込む技術が求められる。政樹は恋愛の面でも見事にスペースをつくり出し、シュート(告白)に持ち込んだのだ。そのシュートがゴールとなるか、大きく外れるかは、奈海次第だった。
 奈海の答えはもちろんイエスだった。憧れの政樹がこれからは自分の彼氏になる。夢のようだった。実際に交際を始めてからも、夜寝る前に、時々頬をつねり、これが夢ではないことを馬鹿みたいに確かめていた。
 奈海の大学受験では、残念ながら、運動神経に加え頭脳も優秀だった政樹がキャンパスライフを送る大学には、合格することができなかった。それでも、政樹が通う大学から近い距離にある大学に通うことになった。
 お互いが大学生になっても依然として奈海と政樹との関係は崩れなかった。政樹の優しさにくるまれた人生を奈海は送り、奈海も自分が与えられる最大限の愛情でそれに応えた。大学生活は誘惑が、特に男女間の誘惑が多いものだが、二人には無風のようなものだった。身体を求めてこない政樹に対して、当初は自身の女としての魅力不足を感じてしまうこともあった。だが、身体が目的ではない、と肯定的に捉えることができる政樹の態度に、いつしか奈海の自尊心は無意味となった。この人は信頼できる。自然と、奈海の大学卒業を待って結婚をする。そんな流れが出来上がっていた、にもかかわらず、終焉は突然だった。
 変な夢を見たんだ。
 政樹が思い詰めたように言葉を吐いた。どんな夢? と訊いても、政樹は答えてくれず、代わりにこう言ってきた。
 別れよう。
 意味が分からなかった。昨日まであんなに幸せにお互い笑い合い、手を繋ぎ合っていたのに。しかし、
 事情があるんだ。
 事情? 事情って何? もっとちゃんと説明してよ。そんなんじゃ納得できないよ。涙なのか鼻水なのか汗なのか、何だか分からない液体が、政樹に説明を求める度に口に流れ込んできた。あの時の味は、きっといつまでも忘れないだろう。
 ごめん。本当にすみません。事情が、事情が……。
 ただただ言葉を濁す政樹は終始うつむき加減で、奈海はあの時の政樹の表情を思い出すことができない。押し問答にもならない言葉を、お互い疲弊し、口が開かなくなるまで交わし続けた。
 結局、政樹が言う『事情』が何なのかが分からないまま、奈海は政樹に一方的に別れを告げられて、交際は終止符を打った。 

17

 やっぱり死ぬのだろうか。
 僕は上体を起こそうとするが、力が入らなかった。もつれるように後方に尻もちをつき、墓を背に上空を覆う空を見た。濃紺の闇空に傷をつけたような三日月が浮いていた。
 奈海さん――
「はやく財布出せよ。財布出さないなら、死ねや。俺の恭子に手ぇ出しやがって」
 男が一歩足を踏み出した時だった。
「が」
 僕の服に液体が飛び散った。墓苑内にぽつぽつとある外灯が控えめに液体に光と色を纏わせていた。濃く赤い液体。血。
男の首には、後ろからアーチェリーの矢が突き刺さっていた。
 男の身体が前に倒れてくる。まるでスローモーションのように、僕の目には映った。男が地面に伏し倒れる鈍い音が聞こえた。
 だが、
 僕の耳にはその音以上に、注意を引く音、声が届いた。
 ざっざっ、と砂利を踏む音。そして、
 深雪の声だった。
「ねえ、何やってるのよ。あやうく殺されそうだったじゃない」
 深雪がアーチェリーを手にして近づいてくる。砂利を踏む音がどんどんと大きくなる。深雪の身体が、顔が、小さな朱い光を含ませた瞳が徐々に近づいてくる。
「危なかった。もう、本当に注意してよ。あんな男に殺されそうになるなんて」
 深雪が足を止めた。外灯が深雪の顔に届く。前髪が強風に吹かれなびいている。
「深雪……」
 深雪が安堵の息をつくように長く息を吐きだした。
「もう、ほんと勘弁してよね。涼真くん」
 そう柔らかく言いながら深雪がその場で足を肩幅に開く。アーチェリーを構えた。既に矢をつがえている。
「え?」
「涼真くんを殺すのは――あたしなんだから。他の人には渡さない」
 深雪が狙いを定める。ポインター越しに深雪と目が合う。
「久しぶりだね、ちゃんと目が合うの。それともインターフォンのモニター画面越しに、合ってた?」
「み、深雪……?」
「涼真くんを殺して、あたしも死ぬの。ね、一緒に死のう。涼真くんを殺したこの矢で、あたしも死ぬから。もうこれしかないの。もうこうするしかないの。ねえ、こうさせるのは誰のせい? あたし? あたしじゃないよね? 涼真くんだよね? 涼真くんだよ。涼真くんもあたしも死ぬのは、全部涼真くんのせいなんだから。永遠の愛――」
 
 墓苑内の空気中に、アーチェリーの弦を弾く音が震動した。 

幕間 

 あのアーチェリー女、ヤバっ。遠くからで顔がよく見えないけど、きっとどぎつい顔してるんだろうな。
 さっさと盗る物盗ってずらからないと。部屋のなかの物はあらかた物色済みだから、ちゃっちゃとやらないと。
 つうか、恭姉、私をこんなとこに行けって命令するなんて、いくら義姉だとはいえ、ちょっとハード過ぎない? 私に何ができるっていうのよ。『とにかく矢を防いで』の一点張り。無理だっちゅうの。最後に、『もしもの時はわたしの命を身代わりにするから』って、はあ、何それウケる。悲劇のヒロイン気どり。つうか、あくまでも清純派女優ですか。
 まあ、俊治を殺す手間を省けたのが、確認できたのはよかったけれどさ。
 ま、さっさと逃げよ。
  
幕間 

「違う。涼真くん。違ってたよ。涼真くんのせいじゃなかった。てっきり涼真くんが全て悪いんだと思っていた。けど、違かった。あいつだ。あいつのせいだった。あいつさえ現れなければ、あいつさえいなければ、あいつがいる限り……」 

幕間 

 早朝の成田空港は人がまばらだった。
 今回は稼がせてもらった。暫くはマレーシアで優雅にホテル暮らしを満喫する。ほとぼりが冷めた頃、また日本に戻ってこよう。
 さて、チェックインしなきゃ。
 ん、誰? 何か険しい表情で私を見ている。まるで私の前に立ちふさがるように。気味悪っ。ちょっと斜めに歩いて、距離をとろう。って、何? 何? この女? 私の方へ向かって歩いてくる。じっと私だけを見て。朱い瞳を向けて。充血? 怖っ。
もう、マジで? 突き飛ばしてやろうかしら。でも、意外と肩幅が広いし、背も高い。ぶつかったらこっちが弾きとばされそう。
 あれ、止まった。何か背負ってる。それを取り出して……。見憶えある……気がする……。
 え!?
「調べたら、裏であんたが糸ひいてた。それって、つまりは、あたしはあいつのせいだけって思ってたけど、あんたのせいでもあるってことで当たってるよね? あたし間違ってないよね? あたしがこんなことをしなくてはいけないのは、あんたがいたからで間違ってないよね? あたしがそれだからあんたを殺さないといけないのも間違ってないよね? こうやって矢を引き絞って、この矢であんたの胸を貫かなくちゃいけないの、間違ってないよね? ねえ、あたし間違ってる? 間違ってないよね?」
 ……間違ってる、に決まってるじゃん。あ――
 

奈海の回想 

 電車から降り、墓苑に向かう途中でも、奈海の頭のなかでは政樹との思い出のあれこれが次々と沸いていた。依然としてスマートフォンを握りしめたままだ。

 政樹から一方的に別れを告げられた後、風の噂で政樹が茜と復縁したことを耳にした。
 まさか、と思い、政樹を彼が通う大学のキャンパスからこっそりつけた。
 驚愕した。茜が現れ、二人が手を繋いで歩きだしたのだ。でも、あれ?
 二人との間に通行人を挟んでいるので、声がはっきり聞こえてこないのだが、喋り方が茜とは違っている。顔も、瞳の色までそっくりなのに。
「オイコー飲もっ?」
 政樹と手を繋ぐ女がそう言ったのを聞いて、この女は茜ではない、別人だ、と確信を持てた。二人が喫茶店に入っていく。
 オイコー……美味しいコーヒーを略してる? 茜は絶対にそんな言い方をしない。美味しいコーヒーは、そのまんま『美味しいコーヒー』と言うはずだ。
 そうか、そうだったのか。
 政樹はやはり茜を忘れることができなくて、それで、目の前に茜の外見に似ている女が現れたから、そっちに乗り換えたのか。納得がいかないような、いくような、でも確かなことは、やっぱり恋愛の残酷さに打ちのめされたという事実を確認した、ということだった。この日、政樹が女に指輪を渡すのを見届けてから帰宅した。
 でも、恋愛は、こと他人の恋愛は、残酷さの他にも、驚きや摩訶不思議といったものをもたらすものだった。
 政樹を忘れられず、時々こっそりと後をつけることを止められない日々が一年ほど続いてからのある日だった。
 いつものように政樹たちが手を繋いで繁華街をぶらついているのを、通行人を挟んでうかがっていると、声が聞こえてきた。何故かその言葉だけが耳にとび込んでくるように。
「美味しいコーヒー飲まない?」
 え? 口調が変わってる。まるで茜のような――あれは、絶対に茜だ。
 政樹は茜に似ている人では満足できず、やはり茜のもとに戻ったのだった。
 二人が入っていったカフェに思わずついていった。二人の席からだいぶ離れたところに座る。カバンに入れていた雑誌を半ば立てて読むふりをしながら二人を観察した。すると、最初は穏やかだった二人の会話に棘が立ち、さざ波が入り始めたことが分かってきた。だんだんと大きくなる声。気付くとカフェ中の人たちが二人の様子を、聞き耳を立てて観察していた。二人はヒートアップしているので、周囲の様子には気付いていないようだった。
 事情があるんだ。
 ごめん。本当にすみません。事情が、事情が……。
 デジャヴ? 政樹があの時と同じ言葉を言っていた。
 暫く言葉の応酬を繰りひろげていた二人だったが、やがて茜が先に店を出た。茜が出ていくのを見とどけた後、暫く時間を置いて、政樹もカフェから出ていった。
 失恋直後は心に隙ができる。これは、女だけではなく男に関しても同様だった。
 間を置かずして政樹に連絡を取り、政樹に復縁の願いを申し出た。
 政樹は、あの頃と変わらない優しい顔で、あたしを見てくれた。下がり目の眦で。
 でも分かっていた。政樹は茜が忘れられない、と。未だに、政樹の瞳の奥には茜が映り続けている。
 だから、半ば強引に復縁に持ち込み、雪崩れるようにそのまま結婚した。
 早いうちに子どもをつくろう。また、わけの分からない『事情』で別れを切り出されたらたまったものじゃない。やはり政樹とは、復縁しても、身体の関係がなかった。
 ある時、政樹に訊いた。
「ねえ、事情があるんだ、って前に言ってたけど、その事情って何だったの?」
 政樹は明らかに表情を曇らせた。口を開きかけるも、すぐに閉じる。明らかに逡巡していた。そんな素振りを見るとどうしても訊きたくなる。だから催促した。
「ねえ、お願い。誰にも言わないから。お願い」
「未来を変えた時、大切な人が――」更には「あの能力が本当なのか――」と、呟くように口にして、政樹はその先を言わなかった。頑として続きを教えてくれなかった。あれはいったい何だったのだろう。 

政樹(過去) 

 あの夢をまた見た……。全く同じ内容の夢だった。
 政樹は今朝方、おそらく目を覚ます直前に見た夢を思い返していた。たいていの夢は、起きた直後から忘れてしまうのに、この夢だけは、やけにはっきりと脳裏にこびりついている。今回も、前回も、いやそのまた前々回も、いつだってそうだった。この夢は、決して忘れることのできない内容として存在し続けるのだ。
 寝室では、まだ奈海が規則正しい静かな寝息を立てて眠っている。今日は土曜日で、お互い仕事がない。午前六時を少し過ぎた休日の朝だ。早く目覚めたのだから静謐な時間が流れて欲しいところであった。だが、あいにく外では豪雨が窓を叩いていた。
 政樹は閉めきったままのカーテンを開ける。どんどんと雨足が強くなっていた。
 マンションのベランダ越しに見える向かいの公園の桜の木が、強風で揺すられていた。どこか無惨だった。自然に対して凶暴さまでをも感じてしまう。
 そう言えば、過去にあの夢を見たときにも同様の荒れた朝だった気がする。
 ひょっとすると季節も同じ頃ではないだろうか。以前、そのまた以前も、そのまたまたまた以前も……。いつだって、あの夢を見る時はそうなのかもしれない。政樹は寒さを感じた。春の温かさの予兆がそこにはなかった。
 それにしても――
 夢の内容が全く薄れない。それどころかますます色濃くクローズアップされてくる。
夢には、毎回、長髪の美しい女性が現れる。古代ギリシャを連想させる服を着て、でも白い衣装ではなく黒色の衣装で、目の前に現れる。女性は着ている衣装とは不似合いな黒いヘルメットのようなものを小脇に抱えている。辺りは暗い。ただ、上空に浮かぶ細い三日月が女性を照らしている。女性は二十代に見えるが、口ぶりは年齢以上に落ち着いたものだ。そして、こう言う。

『あなたに未来見の能力を授けます。
 しかし、未来見で知った未来を、あなたの行動によって変えてはいけません。変えた場合は――
 あなたにとって大切な人が死にます。
 いいですか、絶対に未来を変えてはいけません。
 もしも、変えてしまった場合は、あなたの命と代償に、大切な人を助けることができます。ですが、くれぐれも、変えないよう』

 あまりにも子供じみている。とても大人が見る夢じゃない。
 だが、初めて見た時は、その夢のリアルさに恐怖を覚え、この夢のお告げのようなことに忠実に従った。最初だけではない、それからずっと、従ってきた。こう思えてしまうからだ。夢のなかに現れた女性に常に監視されている、じっと、じっと見られている――
 だから、
 〝事情があるんだ〟
 そう言葉を濁してきた。
 ひょんな時に、目を瞑ると、突然目の奥に光景が浮かぶ。白昼夢のような、でもやけに生々しい映像や感情を伴うものだ。
 茜と別れる光景を見た。それも二回だ。
 奈海と別れる光景も見た。
 恭子と別れる光景も見た。
 全てをそのとおりに、見えた光景のとおりにしてきた。
 それなりにきちんとこの馬鹿みたいな夢に従い、馬鹿みたいな行動を取ってきた。
 〝事情があるんだ〟と言いながら。
 それにもかかわらず、まるで念を押されるように、またこの夢を見た……。逃れられないのか――
 政樹は思わず目頭と鼻の付け根の間を揉む。目を瞑った、瞬間、光景が脳内で浮かび上がった。
 寄り添う奈海の隣りで、政樹は憂鬱そうに顔を下に向けている。笑えていない政樹は頭を抱えていた。場所はきっと海岸に近いリゾートホテルのバルコニーだろう。
 瞼を開けた政樹はもはや驚かなかった。
 五度目の未来見だ。
 このまま奈海と一緒にいても、自分は決して幸せになれないということなのか。
 まだ仄暗い窓ガラスに自身の顔が映り込んでいた。疲弊したような、一気に歳を重ねたような顔がそこにあった。苦悩しているとも言える顔だった。その顔を、政樹は意図的に崩した。どこかシニカルな笑みを浮かべて見せる。
 何故ならば、それは、ある意味で真実だったからだ。
 茜だ。
 茜のことが忘れられない。
 いまでも、奈海がいるというのに、心に隙が生まれるや、茜のことを考えてしまう。だから、この未来見は、たぶんに政樹の心情と相入れないものではない。政樹を戒めるものでもあるのだろうか。茜のことをひきずったまま、奈海と一緒になっても幸せになれない。確かに、心情的にはそうなのかもしれない。
 しかし、
 政樹は苦悩する。
 こんなことでいいのだろうか。
 茜とは別れたのだ。
 茜には決して理解してもらえない〝事情〟で、それどころか、茜の後に付き合った恭子に対しても、同様に、未来見した光景を変えずに別れた。二人には本当に悪いことをしたと思う。自分がこんな夢を見たばかりに。自分がこんな夢の内容を信じ、〝事情〟の名のもとで別れるという行動を取ってしまったばかりに。
 奈海とも一度、この〝事情〟で別れた。だが、後に復縁した。奈海が少々強引なところもあったが、未来見した〝奈海との別れ〟は、既に一度経験しているのだから、問題ないだろう、そんな気持ちで奈海と再び交際するようになった。そうして、現在(いま)の状態、結婚にまで至った。
 しかし、また夢を見た。未来を見た。政樹が、奈海の隣りで、頭を抱えている未来だ。
 奈海と復縁したことを咎めようとしているのだろうか。夢に出てきたあの長髪の美しい女性が。あの女性はいったい何なのだ。人生を狂わしてくる。忌々しい――……
クソっ!
 元来あまり人に対して嫌悪を抱かない政樹ではあったが、この時ばかりは政樹のなかで反発心のようなものが、反抗心のようなものが、もっと言えば、敵対心のようなものが、生じた。
 未来見など、破ってやる。〝事情〟など、無い。
 すなわち、奈海の隣りで幸せに笑ってやるんだ。たとえ、茜のことをいまだに忘れられないにしても。奈海と一緒になって、幸せになるんだ。
 決意を新たに、窓を再度見る。窓に映る自身の顔つきが一変していた。自信に漲っている。立ち向かう気力が溢れている。
 しかし、
 おや、花びらが。桜の花びらだ。
 茜――……いけない。また心に隙が生じたのだろうか。

 翌週。政樹は奈海を海の見えるリゾートホテルに誘った。新婚旅行後、まとまった旅行をしていなかったため、奈海はとても嬉しそうだった。
 ホテルのオーシャンビューバルコニーで身体を寄せてきた奈海の腰に腕を回す。奈海が幸せそうに微笑んでくれた。政樹も満面の笑みを奈海に返す。未来見で見た光景に反発するほどに、力強くにっこりと、幸せに笑ってみせた。
 旅行の夜、奈海と肌を合わせた。初めての体験だった。いつもことをなす前に、未来見の光景がとび込んできたため、政樹はその手の経験が無かった。初夜の日も、初めて見た際の『奈海との別れの未来見の光景』が頭のなかを過ぎり、繋がることができなかった。あの時の奈海は不思議そうに政樹を見ていた。きっとこう思っていたのかもしれない。どうして抱いてくれないの? だけど、今日、初めて奈海と繋がった。
 幸せになってやる。立ち向かってやる。夢に現れる女性に反抗してやる。
 繋がった後、未来見をしたくて意図的に目を強く瞑る。未来がどのように変わったかを見てみたくなったのだ。幸せな未来を見たくなったし、そういう未来を見れる、そんな自信を抱いたからだ。
だが、まったく光景が浮かんでこなかった。喜びが訪れた。どこか勝利に似た快感だった。やはりあの夢は嘘っぱちだったんだ、と。
 奈海を幸せにするんだ。奈海を幸せにするんだ……茜……、どうして茜のことを思い出す。いまは奈海に浸るんだ。奈海……、茜。あああ、茜、茜、茜茜茜――
雨音がしだした。
 ぱちぱちと、雨足が窓辺を乱打する。天気予報では、降るはずのない雨だった。遠くで雷が鳴っている。遠くで、遠くで、遠く……近づいてくる。雷が近づいてくる。暴れながら、狂いながら、雷が近づいてくる。恐怖を覚えるほどに。
 ベッドの中で、腕枕でしがみついている奈海を見ようとしたら、奈海は既に眠っていた。深い眠りのなかにいるようだ。全く起きる気配がない。何度も思うが、本当に、嬉しそうな表情だった。柔和で、怖れなど微塵も抱いていない、そんな表情で眠っていた。政樹はじっと奈海の顔を見つめる。すると、目の奥で何かが歪むような感覚が訪れ、見つめていた奈海の顔が、茜の顔に――。
 心の中で良心が、葛藤が生じ始める。こんな時にどうして茜のことを。奈海のことだけを考えるべきではないか。遠雷が、いや、もっと近くでも、あちらこちらで落雷の音がしている。雨音が太鼓の音のようだった。しかし、やがて行為の疲労もあってか、自然と眠気が訪れてきた。政樹はどこか救われたように目を閉じ、やがて眠りについた。眠りに落ちる直前、件の女性の顔が頭のなかを過ぎった、気がした。
 
 それから間もなくした日だった。
 茜が死んだ。
 政樹はそのことを知るや、目の前が真っ暗になった。迫る闇に抗えない。空が、見えているもの全てが、世界が落ちた、そんな錯覚さえ覚えた。
 茜。
 茜、茜、茜、茜……――
 あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、茜ぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――っっっ!

『しかし、未来見で知った未来を、あなたの行動によって変えてはいけません。変えた場合は――
 あなたにとって大切な人が死にます。
 いいですか、絶対に未来を変えてはいけません』

 茜が死んだ。茜が死んだのは……自分のせいなのだ。件の女性が笑っている。うるさい。消えろ。
 茜が死んだ。それは自分のせい。再び女性が政樹に笑いかけてくる。うるさい。消えろ。
 茜が死んだ――
 政樹はその事実に耐えられなかった。
 茜を死に至らしめたことにも、こんなにも奈海を大切に、幸せにしようと思っていたにもかかわらず、結果的に茜が死んだことにも。結局は、茜が大切だったのか。自分は、自分は……それとも単に、あの能力に、あの女性に抗いたかっただけなのか。この能力は、この能力のために、この能力がゆえに……いや、あの女性、あの女性が……――
 政樹が、壊れた。
 聴覚が、臭覚が、視覚が、森羅万象を知覚できるものが全て抜け落ちていく。
 すまない、すまない、奈海。そして……あ、あ、あ、あ、茜、茜、茜ぇぇぇぇぇ。
壊れていく。崩壊していく、墜落していく、精神が、落ちていきながらも、奈海と茜との顔を交互に浮かび上がらせ、それはいつしか重なり、崩壊が速まり、粉々に、奈海の顔も茜の顔も、政樹自身の顔も、身体も、心も、全てが、何もかもが――

毎朝新聞

〝△市内×山中にて身元不明の男性の遺体が発見された。〟 

奈海の回想 
 
 それにしても、
 運命は残酷だった。
 つい先日まで、満開だった桜が、直近の豪雨、さらには尋常ではないほどの強い春風で、その花びらを落としている時期に、政樹が死んだ。死んだ政樹が発見された日も、その春風と雷雨とが一緒に狂っていた。まるで示し合わせたかのように。
 自殺か他殺か、警察は真相を掴めなかった。致命傷となった深い傷の他にたくさんの躊躇い傷もあった。噂で、政樹が死んだ日の前日に、茜も亡くなっていたと聞いた。これには、色々な意味でショックを受けた。
 他殺だとすると、犯人はまだ捕まっていない。付近を走る黒色のスクーターに乗った黒ジャンパー・ヘルメット姿の人間を見たような、そういう曖昧な情報があるものの、関連については結論を得なかったようだ。

 奈海が当時を述懐しているうちに、墓苑に着いた。
スマートフォンをカバンにしまう。録音しておいた政樹の声はまた後で聞こう。政樹の声を録っておいてよかった。心が乱れた際に政樹の声を聴くと安心するのだ。
 奈海は墓苑の入口で大きく伸びをした。太陽の光が眩しい。季節は確実に初夏に向かっていた。奈海は、一瞬、太陽をまともに見て、すぐさま目を閉じた。その状態で再び伸びをし、息を深く吸い込む。芽吹いた緑の匂いと共に微かな線香の香りを感じた。脱力するように気を緩める、その時だった。
 目の奥、いや、脳の中で、政樹に似た、でも政樹よりも若い青年の顔が突如として浮かんだ。その青年が、奈海に向かって挨拶をしてくる。政樹の墓の前で。
 え!?
 奈海はすぐさま瞼を開け、吸い込んでいた息を「ごふっ」と意図しないタイミングで吐き出す。すぐさま咳がでる。ゴホゴホゴホゴホッ。苦しい。でも、ナニコレ? ゴホゴホゴホゴホッ。咳が止まない。ナニコレ? ゴホゴホゴホゴホッ。でも、でも、でも――
〝嬉しかった〟
 政樹ではない、政樹の生まれ変わりのような人。
 その人が声をかけてくれた。
 先ほどまでスマートフォン越しで聴いていた声、その声が、リアルに、電子音のようなものではなく、空気中を伝播して奈海の耳に届いた、そんな気がした。いま思うと、そこまで政樹の声には似ていなかったかもしれない。でも、政樹が喋りかけてくれた、そんな心持ちを覚えるや、喜びの眩暈のようなものが、続いて身体中に幸福感が押し寄せてきた。政樹ではないにしても、心がときめいた。同時に、政樹の死体が発見された日から我慢していた悲しみを辛抱する強い気持ちが、堰を切ったように崩れだした。
 あ、と思った時には、既に雫が顎先から滴り落ちていた。
 奈海の頬に涙が筋をひいていた。
 奈海は暫くそのままでいた。泣き続けた。涙を拭くことはしなかった。
 ただ、ただ、感情に身を、気持ちを委ね、自分を慰めるように、その場で立ち尽くし、涙を流し続けた。陽光が涙を乾かし始めた頃、ようやく、奈海は墓苑の中へと足を向けた。
 政樹の墓の前に若い男がいた。
 奈海の胸の裡で、すうっと、穏やかな風が吹いた気がした。
 歩いている奈海が墓に、その若い男に近づいていくにもかかわらず、まるでその若い男の横顔が奈海に近づいてきている印象を受けた。その男の横顔がはっきり見えるや、心臓が止まりそうになった。先ほど脳に浮かんだ光景に出てきた、政樹似の青年の顔だった。奈海は冷静さを失った。だから、こう口走った。
「政樹さん?」
 上擦った声だったかもしれない。男が振り返る。
 違う。
 政樹よりも遥かに歳若い。でも、政樹にそっくりだった。自分の動揺を隠すことができなかった。奈海は墓苑の前で脳内に浮かんだ映像を思い返す。胸がしめつけられる。同時にむくむくと、いままで抑えていた、禁じていた、恋に似たときめきが立ち昇っては溢れ出してくる。
 男は自分に話しかけられたとは思っていないのか、周囲を確認している。
 もっと話したい。もっと、もっと、いや、凄く――話したいの。聴きたいの。声が、聴きたいの。口を開かないと。口を。
「い、いつもありがとうございます」
 やっとの思いでそう言うと、ようやく政樹に似た男が顔をこちらに向けてくれた。真正面からの顔も政樹にそっくりだった。心が、眼前の男に持っていかれる。頭のなかが、眼前の男でいっぱいになる。
「あ、あなただったんですね。かわいいスイトピー」
 お願い。お願いだから。聴かせて。あなたの声を聴かせて――
「初めまして。浅見涼真と申します」
 男の声が耳に届くや、遅れて、再び、涙が誘われた。 

18

 涼真の部屋があるマンション敷地内で三十歳手前と思しき女が倒れていた。
 頭部から血が、脳しょうが飛び散っている。女の持ち物なのか、何も入っていない黒いバッグがそばに落ちている。
 女は、飛び降り自殺をはかったようで手すりの上にのぼった足跡があった。
 女のスマートフォンは奇跡的に壊れていなかった。ディスプレイにヒビがハチの巣状に入っていたものの、画面に表示される  内容を確認することができた。
 電話履歴から最後に電話をかけた相手の名前が分かった――浅見涼真。 

幕間

「射ったのは、涼真くんに絡んでいた男と、涼真くんからお金をとろうとしていた女と、あと黒色の服を着た背の高い女です」
「黒色の服を着た背の高い女?」
 警察署の取調室内で、話を聴いている警察官が何度も首をかしげる。もう一人の警察官も同様の仕草をしている。「うーん」と腑に落ちないことをあらわすような鼻音を響かせてもいた。
「確かにその黒色の服を着た背の高い女も射ったの?」
「はい。仕留めました」
「でもね……きみが言う墓の近くでは、そんな女の人は見つからないんだよね。男だけしか倒れていなかったんだよね」
「確かに、仕留めました。あいつを」
「それって、もう一度確認するけど、殺した、っていう事だよね」
「矢が胸を確かに貫きましたので」
「うーん」二人の警察官の鼻音がハモった。
 深雪はそんな二人に正解を告げるような態度で、こう言葉を漏らした。
「あたし、見えないものも射ることができるので」 

エピローグ
         
 肌寒い。
 墓の周囲には黄土色の枯れ葉が目立っていた。寺の箒と塵取りを拝借して掃除をし終えた僕は、最後にゴミ袋の口を結わえようと腰を屈めた。
 その時、びゅおっ、と突風が吹いた。ゴミ袋から小さめの枯れ葉が舞い上がる。僕はそれを屈んだまま見上げた。そのうちの一枚が、まるで花びらのようにゆらりゆらりと宙を流れ浮き、音もなく落ちた。真新しい墓のもとへ。視線がその墓に向けられる。僕は小さく微笑んだ。そして、愛しく、撫でた、その墓を。ここに来ると、どうして風が強いんだろう。
 僕はその墓のもとに落ちた枯れ葉を労るように摘まむ。その枯れ葉はゴミ袋には入れなかった。ジーンズのポケットに丁寧にしまった。
 ゴミ袋を結わえ終える。また風が吹く。今度は弱い。枯れ葉は舞わない。でも、香りが舞った。
 冬咲きのスイトピーの芳香が優しく僕の鼻先を撫でるように掠めていく。
 僕は線香に火を灯す。
 この作業をするたびに思い出す。
 カチリ。
 チャッカマンの機械的な音を。
 そして――
 奈海さんの声を。
 線香を、浅見家の墓と、隣の墓へ供える。
 これもだね。
 僕はカバンから茜の赤いマグカップを出す。だけど、それだけじゃない、もう一つ、茜のマグカップと同じものを先日ようやく見つけることができた。それをカバンから取り出し、浅見家の隣の新しい墓に供える。茜のマグカップと、隣の墓のマグカップとに、等分のコーヒー豆をゆっくりと入れる。まずは茜のマグカップから。そして、隣の墓のマグカップへ。じゃらじゃらと、途中からさらさらとコーヒー豆が落ちていく音がする。でもその音はすぐに聞こえなくなる。僕が口ずさむ音程の外れた歌声で、聞こえなくなる。
 脳裏で、『オイコー』と、奈海さんの声が甦る。歌声も甦る。

 歌声が、鼻を啜る音が、泣き声が、マグカップへ落とし続けもう溢れ出しているコーヒー豆が立てる音が、全て一緒になった。音痴も、悲しみも、全てが無意味になる。いや、この世界で、一緒になる。全ての感情が、熱を帯びた一つのメッセージを縁取る。そんな気がする。
 いつの間にか僕はコーヒー豆を全て落とし切っていた。豆の袋をしまう。零れた豆をそのままに、両手で、浅見家の墓を撫で、そして、隣の墓を撫でる。優しく、愛おしく、でも心の奥底で慟哭の感情を秘めながら、墓を撫で続ける。歌い続ける。声が掠れ、鼻音と、泣き声と、嗚咽と、呼吸音で、歌がどんどん潰れていく。それなのに、声量はますます大きくなっていく。僕は声をだし続ける。『恭』と『奈』の文字が入った戒名の墓を、撫で続ける。いつまでも、撫で続ける。歌い続ける。心をこめて。伝え続ける。
 奈海さん、あなたを――
 愛してる。

 了

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