トカゲの腹の中には愛と死が眠る

好きになりました

 私の住んでるマンションは駅からは遠いけど、マンションやオフィスビルが一つの敷地内に建てられた複合施設で病院からスーパーまで全てが揃ってる。

僕が社会的問題を起こさないで済む様に、親が僕を飼い殺す為に用意した住居だ。

この近隣で働いてる人と、老人くらいしか誰も立ち寄らない、孤立した都市型団地で、まるで結界が張られた様に異質な場所だ。

 ただ、ぱっと見は綺麗な外観で都会の金持ちが住む理想の住居ぽさを演出している。

その事を、僕も理解して居たし、やっぱりリサも目を輝かせて「良いところね」と喜んで居た。

住めば閉鎖された空間に飽き飽きするけど、初めて来る分には都会感を満喫出来る場所だ。



 スーパーで食材や、リサがお泊りするのに必要な歯ブラシ等を買い自宅に戻った。

彼女はすっかりご機嫌で、終始楽しそうで僕も嬉しかった。

彼女はとでも良い子で忠犬の様に、僕の言う事を聞いて良く笑ってくれた。

 最初にホテルに行った時は、財布を盗まれない為に一緒に風呂に入ったけど、今回は心から一緒に入りたいと思ったから2人で入った。

都内のマンションでは、やや広い方とは言え、2人で入るには狭い浴槽で、お湯に浸かりながら2人で居ることの心地よさを感じてた。


 生きていれば楽しく無い事や、辛い事の方が多い。

彼女が居る、いつもと違う状況に疲れや気苦労を、感じそうなものだけど、彼女が居た方が楽しくて心地が良かった。

 それは、私にとっては凄く珍しい事で、実家に帰った時に、親や妹が居ても少しの負担を感じる。

1人でいる時より幸福感を感じ、何の負荷も感じない自分に驚いた。


 リサが首を絞めて欲しいと頼んで来たが、彼女が心筋梗塞でも起きたら一大事だ。

私が「捕まりたく無い」と断ると、「私がお願いしたと、紙に書いとく」と得意げな顔をして言って来た。

 やっぱり、この女は馬鹿なんだと思って「いや、紙に書かれても捕まるから」と笑いながら却下した。

それに首を絞められながら快楽を感じたいなら、それ以上の気持ち良さを、刻み付けたい。

 私は酸素を遮断する目的じゃなく、彼女が咳き込むように喉仏の上を押さえた。

喉の異物感を排除する様に、咳が込み上げ彼女が咳き込んだ。

身体の酸素を出し切ったタイミングで、私は彼女の口を咥え込んだ。

無条件で酸素を求める彼女の身体は本能のままに、私の体内に残る酸素を強引に吸い上げた。


 暗い海の底に沈んだ彼女に、口渡しで酸素を届ける様に、私の体内の臓物臭が充満してる、吸い殻の廃棄酸素を、彼女にたっぷりと吸わせてやった。


 水の代わりに、ミルクで浸したガラス製の水差しに、挿した赤い薔薇も萎れた頃。

私は静かな闇の中で意識が回復した。
数秒前まで見ていた夢の内容は思い出せなかった。



 隣で寝てたリサが、うめき声を発して暴れ出した。

手で僕を払い除け、寝たままの格好で天井に手を伸ばし、空を払う様に、唸りながら手を動かした。

何か猛獣にでも襲われてるような印象で、彼女は額に沢山の汗を滲ませ苦しそうだった。

 夢だし、変に起こして脳の休みを遮断するのも悪いと思い放置してた。

 ただ、あまりにも苦しそうで長い時間うなされてるので、私は子猫をあやす女性の様に「ヨシヨシ」と、少し明るめに、静かな声で言いながら、ビッショリと汗に濡れた彼女の頭を、優しく撫でた。


 彼女は一瞬起きた様で、一瞬動きを止めた。

数秒間の沈黙は、さっきまで聞こえていた、うめき声が無くなったせいか、キーンと耳鳴りがしそうなくらい静寂だ。

そして、彼女は私に抱きつき一瞬で悪夢を忘れて、また寝た様だった。



 私自身も昔は良く悪夢を見ていたし、一人で寝てる時に、うなされてるかなんて自分では分からない。

だから特別、何も思わなかったけど、リサの太ももに刻まれてる椿のタテゥと、左腕のリストカットの跡が、妙に印象に残った。


 私は、彼女の頭を、撫でながら思った。

今は、ゆっくりお眠り、眠り姫。
嫌な夢は、すぐにまた見る事になるのだから。


 僕達二人は、ほぼ同時に起きた。
私は珈琲を淹れる為に台所に向かった。

 鉄瓶で湯を沸かしながらリサを見ると酷くみすぼらしい格好をしてた。

髪はボサボサで艶がなく、不機嫌な心が顔に出てた。

 対照的に僕は体調が良く、ご機嫌なのは、きっと彼女のおかげだと思い、感謝の気持ちを込めて彼女に優しくしようと思った。

 珈琲に砂糖を入れるか聞くと、普段彼女はそんなに珈琲を飲まないから、良く分からないらしい。

喫茶店で飲む時は砂糖入れてると言いながらリサは考え込んでいた。

心にへの問いかけを終えて「少し甘いのが飲みたいかな」とリサは答えた。

 僕が、豆乳有るけどミルクの代わりに入れるか聞くと、彼女は目を丸くして喜び「入れる」とはしゃいでいた。
美味しいと言いながら珈琲を飲む彼女を見ながら、僕は珈琲を飲んだ。



 今日は何して遊ぶかを2人で話し合った。

私が一度はやってみたいデートプランの候補をいくつか提案した。

私は無駄な金は使いたく無いし、無意味な時間を過ごすのも嫌だ。

 私がリサにデートを提案したのは、デート後に自然な形で別れ、家に居座られるのを防ぐ為だ。

そして、彼女とのデートを通して、女性の習性や喜ぶ事を学び、本当に自分が大切にしたいと思えた女性と出逢った時に活かす為だ。


 結局、ダラダラと話し込んで、やってみたい事が多過ぎて何をするかイマイチ決まらないので準備しながら考える事になった。

 彼女がシャワーを浴びてる間に、顔を洗ったり、ささっと準備を済ませた。

彼女は何をするにも時間がかかり、化粧や髪のセットなど、けたたましくドライヤーの轟音を響かせながらメイクをして居た。

 子供の頃に父親と準備の長い母親を車の中で文句言いながら待っていた事を思い出し、イライラしない様に女の時間はかかるものだと自分に言い聞かせた。

パシコンを開き仕事を片付け終えても、彼女はまだ身支度を整え終えて無い様だった。

 無駄だと分かって居ても、早くして欲しい事を伝えた。
やはり全く意味が無く、私の苛立ちが増すだけだった。

 彼女は煙草を吸うと家からペットボトルを持って外に出た。

私はタバコを吸わないので、玄関を出て非常階段でタバコを吸うらしい。


 リサの身支度を無駄に待ってても、イライラするだけなので、仕事に集中してて彼女の存在をすっかり忘れて居た。

ノートパソコンをバタンと閉じると部屋が静まりかえっていた。

私は、リサの事が心配になり玄関を出て非常階段を確認した。

 24階のマンションに備え付けられた非常階段は、金属製の螺旋階段で、落下防止のために柵で覆われており、普段は誰も使わない。

造りも安易で、経年劣化で壊れないか不安なくらいだ。

本当に非常時以外はエレベーターや、別の階段を使うだろう。

そんな階段に座り外を見ながら彼女はタバコを吸って居た

 ちょうどマンションの真ん中の12階に住んでるので、結構な高さが有り、眺めは良いもののビル風の強風で風邪は冷たく居心地は悪そうだ。

私が寒く無いか聞いても、彼女は大丈夫だと答えて外を見て居た。

 ボサボサだった髪の毛も綺麗にアイロンをかけ艶やかになって居た。

 準備が出来てるなら早く言えと思ったが、彼女は彼女でお気に入りの場所でタバコを吸いながら、私の仕事を邪魔しない様に気をつかって居てくれたのかもしれない。

ペットボトルにタバコの灰をしまい、彼女は玄関から家に中に入って来た。



 リサが家に入って来た瞬間にタバコの煙臭い臭いがした。

 彼女が布が多い服を着てるからなのか、引き連れて来た煙の量が多くて、部屋中が有害物質で汚染され、僕は思わず咳き込んでしまった。

リサ自身は良い匂いなのだけど、彼女が着ている衣服に纏わりついた毒物の臭いで気分が悪くなって少し目眩がした。

 彼女が心配そうに覗き込んで来たので、正直に「タバコの臭いで気分が...ごめん」と謝った。

彼女が着ている衣服に視線を送って、リサ自身の臭いではない事を示唆したけど、彼女が傷付かないか心配だった。

やっぱり、少し驚いてショックそうな顔をしながら一瞬自分の服を嗅いで居た。

 彼女の口からもタバコの臭いがして、自然と少し距離を取る様になった。

リサは、すぐに僕の異変に気付いて、落ち込んだ様な表情をしてた。

彼女は洗面所に行き、口を濯いで戻って来た。

 彼女が僕の事を気遣ってくれたのが嬉しかったし、彼女自身の匂いは大好きなので優しく抱き寄せ口付けをした。

キスをすると、もっと彼女と接触したくなったけど「はい。行くよ」と外出を求められ、僕は名残惜しい気持ちを抑えて家を出た。


 なんやかんやで家を出た時には、オヤツの時間を過ぎて居た。

お昼ご飯も食べてないので、まず腹ごしらえをしようと言う話になった。

 二人とも、お腹がペコペコですぐに食べようと言う程でも無かったので、喫茶店に入った。


 簡単な軽食とコーヒーを飲みながら談笑していると、テーブルの上に置いてある彼女の携帯電話のバイブレーターが振動した。

彼女は携帯を見て、電話の主を確認してテーブルの上に置いた。

 それから、5分やそこらで電話がかかって来て、彼女が無視すると言う状況が数回繰り返された。

リサがあえて電話に出ない様にしてる事は分かったし、僕もあえて何も聞かなかった。

恐らく、元彼からの連絡なのだろうと予想は付いていたし、僕とリサは恋人関係にある訳じゃない。

彼女が他の男と、どんな関係に有ろうと僕には関係ない。

ただ、僕に判る様に、あえて携帯電話をテーブルの上に置いて、電話がしつこく掛かってくる事を示して居たので、「本当に出なくて大丈夫なの?」と聞いた。

リサは「何度かけるなと言っても、電話をかけて来て困ってる」と怒っていた。



 彼女を見て僕は、完全に新しい彼氏が出来るまでは、元彼との付き合いを維持するタイプの女性なんだなぁ、と思った。

それを僕に態々分かる様に、携帯を見せるのは、嫉妬させようとしてるのだろうか?

彼女のソワソワした態度が、賭け事でもしてるかの様に、僕の様子を気にしてる感覚がして、何を思ってるのか良くわからなかった。

確実なのは、僕に元彼の話をしたいんだなと思ったので、電話の主について聞く事にした。


 初夜の時に、僕と名前を間違えて呼んだ男の人なんだと思ったので「その人が前に名前間違えて呼んだ人?」と聞いた。

リサは頷いて、「もう別れてるし、連絡しないでって言ってるのに電話を掛けて来て困ってる」と言った。

僕は彼女を心配する顔をしながら「かけてくるなて言ってるのに、何度も掛けてくるのは迷惑だね」と言った。


 電話ぐらい迷惑ならブロックすれば良いし、別れてずっと関わりなければ自然に人間関係なんて切れる。

電話を何度も掛けてくるのは、別れて日が浅いか、彼女が何かしらの付き合いを続けてるからだろうと感じた。

ただ、彼女が自分が被害者だと言いたげなので、僕に出来るのは、彼女が演じたい役を尊重して盛り上げる事だけ。

僕はリサに「ストーカーになる人も居るし気をつけて、困ったらいつでも助けるからちゃんと言ってね」と伝えた。


 彼女は安心した表情で、嬉しそうにコーヒーを飲んでた。

安心したのは、彼女は悪くない、可哀想な被害者だと、僕に肯定されたからなのか、元彼から守ると言った僕に満足をしたのかは分からない。

彼女の身に危険は無いと、表情から感じたので僕も安心した。

あざとい所が、面白いし刺激が有ってちょうど良い。

それに、なんだかんだでリサの事を大切には思っている事を実感した。



 リサは黒いダークなデザインのネイルをして居て、金色のブロンドヘアーを、かき上げるたびに黒いネイルのラメがキラキラと反射した。

僕の視線にリサは気付いて居て、それでも僕は彼女の仕草を見て居た。

リサが「そろそろ髪を切らなきゃ」と言ったので、「俺もそろそろ切りたい」と答え、一緒に美容院に行く事にした。


 僕がよく行ってる銀座の美容院に電話してみると、偶然空きがあり二人で電車に乗り美容室に向かった。

美容院に着くと、僕とリサは隣の席とは言え4メートルは、離れたソファーにそれぞれ座って髪を切った。

僕とリサは近くて遠い距離で、話す事は出来ない。

それぞれに担当が付いて髪を切るので、隣には居るのに、互いに目が合う事も話す事も無い状況だ。

さっきまで喫茶店で話してたリサと、引き離され個別に髪を切るシュチュエーションに、少し寂しい様な不思議な感覚を受けた。


 いつもの担当の女性に、りさの事を「彼女さんですか?」と聞かれたので、「いえ、友達です」と答えた。

答えた後に、リサに聞こえたか気になった。

別に嘘はついてないけど、リサはどう思うんだろうか?
もっと良い答え方が有ったんだろうか?

なぜか、そんな事が気になった。

一瞬彼女の方を見たけど、後ろ姿しか見えず、彼女は彼女で自分の担当の人と話してる様だった。

ただ、何となく彼女の美容師と話してるトーンや仕草で、聞こえただろうなと感じた。

僕自身も、聞こえて良い様に、はっきりと答えたし、ありのままの事実を答えただけだ。



 美容室を出て、なんとなく繁華街の方に歩きながら、これから何するかを話し合った。

いつもなら直ぐに手を繋いで来るのに、そう言うのも無く、やっぱりいつもと彼女の態度が、何か違う様な気がした。

 妙に早歩きで、目の前の信号が点滅して赤に変わろうとしてるのに突っ切ろうとした彼女の腕を掴み止めた。

人が多く、誰もが急いでるこの街では、自分が青信号になった途端に歩行者が居ようが、けたたましいクラクションを鳴らし一斉に車が走り出す。

するとリサは僕の腕を払い除けて「私は渡れるから進んでるの!」と怒って言った。

僕は黙って彼女の少し後ろを着いて歩いた。

少し彼女との距離を縮めて「何処に向かってるの?」と、尋ねたが何も答えなかった。


 彼女の後を着いて歩きながら僕は街を見て居た。

リサの事は気になって居たし、仲良く話したいとは思ったけど、強引に機嫌を治す方法が思いつかなかった。

それに、いつもより無愛想と言うだけで、彼女といる事に苦痛を感じてなかった。

歩くのも平気だし、街を目的も無く歩く事に退屈を感じてなかった。

彼女が、この後どうするのかにも興味があったし、流れに身を任せて、彼女の後を着いていった。



 ちょうど信号で2人の足が止まったタイミングで、リサに「お腹減らない?」て尋ねた。

彼女が「お腹減ったの?」て聞いてきたので「ちょっと!」と可愛い感じで答えた。

リサが笑顔で何を食べに行こう聞いて来たので、今まで食べきた中で、人生で1番美味しかった小籠包屋か、オムライスの美味しい店なら知ってると答えた。



 小籠包を食べて見たいと言う事で、デパート最上階の中華料理屋に行った。

椅子はゆったりとした大きなソファーで、高いと言えば高いが、そこまで高く無いデートで出せる、ちょっと良い夕食の値段という感じだ。

 店内はチャイナというよりはアジアモダンで、大人デートにぴったりの良い店だ。

 彼女が、どうしてこんな店を知ってるのか聞いてきたので、家族と外で待ち合わせる時は大体デパートだったから家族で入ったと伝えた。

ゼリーの様にプニプニな小籠包を食べて、リサもご機嫌を直してくれた。


 彼女が「ごめんね可愛く無い女で」と言ってきたので、僕は「そんな事ないよ!凄く可愛いよ」と答えた。

彼女は、僕を見つめて「私もそんな風に言える様になりたい」と言ったので、「本当に思った事を言っただけだよ」と伝えた。


 僕は本当に頭に浮かんだ言葉を口に出してるだけだ。

相手を惚れさせようとか、自分が良く思われたいとかでは無く、その瞬間に相手も自分も、幸せになれる言葉を発しただけだ。


 彼女が僕を好きなのは、良く伝わっているし嬉しかった。

本当にリサは小気味良い女性で、話して居て楽しい。

だけど世界で唯一の女性とは思えなかった。

もっと沢山の女性と比べて、もしかしたら最後に彼女を選ぶ事も有るのかもしれないけど、今の時点で彼女にする必要性も、強い気持ちも、僕には無かった。



 リサは、僕の顔が好きだとか、鼻が高くて格好良いとやたら褒めてくれた。

僕は日本人風の丸い鼻が好みなので、その事を有りのまま話して「僕はリサの鼻が可愛くて大好きだよ」と伝えた。

 リサは喜びながら、笑顔で僕に携帯電話の画面を見せてきた。

その画面には、僕が目を半開きにしながら寝てる写真が写って居て、僕は一瞬硬直した。

この女は勝手に僕の寝顔を写真に撮って保存して居たのだ。

しかも、それを喜びながら「この顔が好きでずっと見ちゃう」と喜びながら無邪気に僕に伝えてきた。



 僕は凄く動揺した。

もしも、この寝顔写真がネットに出回ればゴシップ騒動になる事は目に見えてる。

こんな写真を撮って、悪びれる様子も無く僕に見せてくるリサの事が、不可解で恐怖感を感じた。


 今この場で、写真を消せと懇願すれば、小さな男に見られる。

写真を撮られた事を気にしてない素振りで、彼女との関係を続ければ、肝心な所で彼女には逆らえない従属関係の中で付き合う事になる。

どっちにしろ私の威厳は失墜し、彼女に下の人間と評価されるのは、私のプライドが許さない。



 私は完全に、彼女にしてやられたのだ。

どうにかして、彼女のご機嫌を取りつつ、今の関係を維持したまま写真を、消させ無ければならない。

今までは、彼女の事が鬱陶しくなったら、一方的に関係を切れば良いと思ってたけど、それが出来なくなった。

理不尽に関係を絶縁すれば、寝顔画像を流出させる等の報復行動を取る危険も有る。


 僕はどうにか平静を装いながら、彼女の話に合わせ相槌を打ちながら過ごした。

とにかく、今思いつきで行動するべきでは無いと思ったので、何事もなかった様に会話を続けた。

この不安は胸の奥にしまって、今は記憶の中から消そうと、一切考えない様にした。


 杏露酒を飲みながら、このとんでもない悪女の話を聞いてた。

ムカつきで彼女が何を話して居たか覚えて居ないが、自分が如何に愛情深くて、僕を愛しているのかと言う事と、彼女を愛さない僕に対しての不満だった様に思う。


 僕は酒を飲みながら、このクソつまらん話を、脳に入れない様に、精神世界の中で修行僧の様に自分に問いかけて居た。

言葉を左耳から右耳に聞き流そうと努力した。

どうせ、一通り喋ったら勝手に満足するのだから、ちゃんと聞く必要は無い。

奥さんの言葉を聞いてる振りして、新聞を読む旦那の精神が今こそ求められてる。

しかし、まだ若く結婚経験が無い僕には、あまりに苦行過ぎた。


 彼女の僕に対する不満や文句は、僕のお腹の中にドロドロとした原油の様に、ねっとりと絡みついた

ムカつきで「このクソアマ!」と平手打ちしたい気持ちを我慢しながら酒を飲み耐えた。

彼女の言葉はBARで流れてる、好みじゃ無い音楽か、隣に座った煩わしい客の、勘に障る話し声と認識する様に自己洗脳して、酒の味に全神経を集中した。



 顔を引き攣らせながら、うんざりした顔で彼女の話を聞いてた。

意外な事に、彼女は僕の苛つきに全く気付いてないのか、苛つきながらも話を聞いた僕に満足してるのか、ご機嫌な様子だ。

なんだったら、歳上の女性が弟を躾ける様に、僕に女心をしたり顔で語っている。


 僕は少しずつ胃が痛くなるのを感じながら、アルコールを流し込んで、不快感を麻痺させた。

僕に不平不満をぶつけ、僕が不愉快な思いをした分だけ、彼女の顔には笑顔が戻り、元気になった様に感じた。


 私はかなり酒に強いのに、怒りで血の流れが早くなって居たのか、人生で経験した事がないくらい急速に酔いが回った。

顔が真っ赤になり、息苦しさを感じた。


 中華屋を出て、直ぐ目の前に有ったデパートの休憩スペースの椅子に腰をかけたがグッタリした。

リサが水を買ってくると言って席を離れ、自販機で売ってた水を買って僕に手渡してくれた。


 「大丈夫?」と心配する彼女を見て、“そもそも、お前の小言を聞いてたせいだろうが!”と思ったが、口には出さなかった。



 多少は酔いも落ち着いて来たし、外の空気を吸いたくなったので、デパートを出て駅前の広場のベンチに向かった。


 椅子に座り僕は黙って休んでた。
僕の後に着いて来たリサは、横に座った様だ。

酔いの苦しさで、彼女を気にかける余裕なんて無いし、「もう、帰っていいよ」と帰宅を促した。


 機嫌の悪い女に付き合わされ、散々良い物を食わせてやったのに文句を言われ責め立てられる。

しかも、その女は盗撮をする様な倫理観がぶっ壊れた女だ。

僕達が恋人同士だったり、長い時間をかけて信頼関係を築いてるなまだしも、数回一緒に飯食って、寝ただけの関係だ。


 もう、このまま二度と、彼女と会わなくなっても良いと、僕は思った。

それに、こんな酔った姿を彼女に見せたく無いと思った。

格好良くて、洗練された男としての体裁を守りたいて気持ちが強かった。

そして、彼女に看病させて、これ以上嫌な思いを感じて欲しくなかった。

こんな肌寒い夜に、散々文句を言い散らかした男の面倒を見るのは、彼女にとって苦痛だろうと思ったからだ。


 彼女は、僕の顔を見ながら「帰って欲しいなら帰るけど、帰った方が良い?」て聞いて来た。

僕は彼女の眼を見た

その眼は真っ直ぐに、僕を見て居て、何万人もの人々の生活が作り出す大都会の夜景より、遥かに美しく綺麗だった。


 リサの、ただ僕を心配して側に居たいと言う気持ちと、それが迷惑に感じるなら、自分は貴方の望む様に帰ると言う意志。

自分が今後どうするかは、貴方の言葉に従うと言う思いが、視線を通して僕の中に流れ込んで来た。



 長い自分の人生で、好きな様にして良いと誰かから、言われた事が今まで有っただろうか?

親も学校の先生も、誰もが首輪を嵌め、自分の思い通りに操ろうとする。

そんな人間ばかりだし、自分もそうだった。


 自分がやりたい様にやって、利害が一致する人とは共に行動する。

それが当たり前の世界で、彼女は僕の為にどうするか決めると、未来を僕に委ねて来た。


 もう、これで会う事も無いと思っていた彼女が、急にとても優しい天使の様に見えてしまった。

僕を見てる彼女の顔と言うか眼が、綺麗で美しくなんとも言えない安心感を感じた。


 リサの「帰った方が良い?」と言う問いに、僕は眼を閉じて、何と答えようか一瞬下を向いて考えた。

目を閉じた世界は真っ暗で、何も感じなかった。

でも直ぐに、彼女が僕に触れて居る事に気付いて、その暖かさに安らぎを感じた。


 目を開けると彼女が僕を見ていて、眩しいくらいに光輝いてた。

僕は、彼女を見続ける事が出来ず、直ぐに視線を逸らして「側に居て欲しい」と言った。

自分が喋った様な感覚は無くて、勝手に言葉が口から出ていた。

僕は何も考える事も出来なくなって、ただ彼女の体温を感じていた。

彼女は黙って僕の横に居てくれた。
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