身代わり婚のはずが冷徹御曹司は一途愛を注ぎ貫く
第五話 忘れられない相手



あれから毎晩、何度も、香波を抱いた。なぜなのか自分でもよくわからない。

誰かを手に入れたいと思ったのは椎名花純が初めてだった。あの日、パーティーで出会い、エレベーターで彼女に抱きしめられた出来事が忘れられない。

彼女のことはそれまでシーナ製紙の役員として肩書きと名前だけで存在を把握していたが、興味などなかった。社交界を賑わせる美女だという噂を聞かせてくる者もいたが、特別記憶に残ってはいない。

パーティーの最中にたしかに挨拶を交わしたはずだが記憶になく、エレベーターで彼女と乗り合わせたときも気付かなかった。ただの、偶然居合わせた宿泊客のひとりだと思ったのだ。

ガラス張りのエレベーターになど乗りたくなかったが二十二階では乗らざるをえず、息を止め、目を閉じて素数を数えた。
高所恐怖性という弱点を、生まれてこれまで誰にも、家族にすら明かしていない。事前に心の準備をして平静を装って乗り切ってきたのだ。
ハプニングでエレベーターが停止したとき、俺は自分でも想像できないほどに取り乱し、降りてからもまともに歩けず倒れ込むところを彼女に救われた。

〝大丈夫ですよ〟と囁かれた声の響き、抱きとめられた細い腕のしなやかさや柔らかな胸の感触を、今でも覚えている。
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