大正浪漫 斜陽のくちづけ

一章 出会い

「金も権力も手にした男が次に求めるものはなんだろうか。名誉だろうか。それとも女か。相楽氏、九条伯爵家の事業にも着手し急接近」

 次々と事業を買収していく様が、さながら禿鷹のようだと自分をこき下ろす新聞記事を読みながら、相楽遼介は一人考える。今宵出会うことになる女について。
 紙煙草を咥えたまま、手元の懐中時計に目をやった。

 時刻は午後四時。
 出発するにはまだ早い。昨日上がってきた決算書を見ていると、従業員の鈴木がやってきた。

「社長。少し早めに出ますか。大切な夜会と聞いたので」

 まだ少年のようなあどけない顔立ちをした青年は、相楽の前では常に委縮している。お調子者で、抜けているところがあるから自覚して色々気を回しているようだ。

「いや、ぎりぎりでいい」
「自分も朝から緊張しております。よほど偉い人しか入れないんでしょう」
「そんなに畏まらなくていい。見下してくる奴らを鼻で笑ってやるくらいがちょうどいい」

 日本有数の財閥の創始者が開催する夜会。
 一流と認められた人間だけが招かれるとして一部の人間の憧れの場だった。
 単に財力があれば呼ばれるというわけではない。
 社会的に認められた特権階級だけが入ることを許される。

 政治家や財界の大物といった面々の中に、齢三十にしてついに入ることになった。
 貧しい家庭に生まれ、商売の腕一本でここまで成り上がった。
 四年前の大戦景気で持ち金を全て使い、一気に事業を大きくした。

 丈夫な体と失敗から立ち上がる精神力。それからちょっとした運と行動力があれば、大抵のことは乗り切れる。
 だがそれらを持ち合わせていない人間のほうが圧倒的に多いのだ。
 少年時代、自分は恵まれていないと信じていたが、どうやらそうでもないらしい。

 現に同じ幸運を手にした人間の多くは大戦後の反動恐慌で、富のほとんどを失った。
 引き際の肝心さは大切だ。勝負を仕掛けるよりずっと勇気がいる。
 明日は我が身と思う気持ちと、自分だけはあいつらとは違うという強烈な自負──どちらもなくしてはいけない。

 金のもつ魔力に呑まれて、破滅していった人間を数多見てきたからかもしれない。
 妬む者。僻む者。媚びへつらう者。
 寄ってくる有象無象を踏み台にして、勝者として立ち続けるには、それなりの覚悟と精神力が必要だ。
 机の脇に置いてある少し古びた婦人雑誌に目をやる。

『九条伯爵家 次女凛子さま』
 記事には儚げな美少女の写真が載っている。

「今夜、いらっしゃるんですよね。世が世なら、顔すら見れない高嶺の花じゃないすか。こんな人に縁談を申し込むなんて男の夢です。俄然、俺も頑張ろうって気になりますね」

 鈴木がのぞき込んで余計なことべらべらと言う。いつかは自分も成功したいと夢見ているのだろう。
 

 写真の令嬢の父親──九条伯爵と付き合い始めたのは四年前。
 ちょうど投機に失敗し資金繰りに困っている伯爵に、縁故欲しさに手を差し伸べたのが始まりだった。
 貴族院に所属する九条伯爵に後ろ盾になってもらう代わりに自分は政治資金を提供する。

 互いに利のある関係で、汚れ仕事も積極的に引き受けることで信頼を勝ち取った。
 今や九条伯爵にとって、自分はなくてはならない存在だ。
 互いに食えない男と思いながらも蜜月の関係は続いている。

 相楽が財力を盾にのし上がるほどに、力関係は逆転していった。
 今ではもう九条伯爵が、相楽の威光にあやかりたがっているといっても過言ではない。

 さらなる資金提供を求められた時、次女の凛子に会わせてもらえるよう頼んだ。九条伯爵は拒まなかった。
 さんざん金銭的支援をした見返りに、娘を要求したのだ。
 その約束が今宵行われる夜会で果たされる。

 ──売るほうも売るほうだが、買うほうも買うほうだ。
 自らのろくでもなさは誰よりも知っている。とはいえ、今宵の賭けに負けるわけにはいかない。
 洗面台の前で身支度を整え、鏡の中の男に向かって呟く。
 欲しいものは全て手に入れてきた。これからもそれは変わらない。
< 2 / 79 >

この作品をシェア

pagetop