大正浪漫 斜陽のくちづけ
 相楽との会話に息苦しさを感じてきた頃、ちょうど父が戻ってきた。

「凛子、退屈してたようだが」
「お父様」
「凛子、相楽くんだ。以前から世話になっていてね。お前が会うのは初めてかな」

 父に紹介され、相楽が恭しく頭を下げる。

「今自己紹介をしたところです」
「一代で作った会社も今や飛ぶ鳥を落とす勢いのようでな。頼りにしてるよ」
「いや、まだ道半ばというところです」
「なんにせよ、大きな志を持ち続けるのは容易ではないからね」

 相楽の自信に満ちた態度は、事業とやらを身一つで成功させたことによるのだろうか。
 少なくとも周りでこのような男性を見たことがなかった。
 よく言えば豪気、悪く言えば傲慢そうに見える。

「九条伯爵、姫君を少しお借りしてもよろしいでしょうか」
「あぁ。ずっと一人で話し相手もいないようで心配していたんだ。頼むよ」

 慇懃に許可を求められた父は、柔らかく微笑んでその申し出に応じた。
 舞踏室で演奏される軽やかなワルツが流れる中、露台に誘われた。
 夏の終わりの涼やかな風が、場内の熱気で熱くなった頬をかすめる。庭園にある噴水の音が聞こえてくる。


「こういう場はお嫌いで?」
「こういう場にいる人が私を厭うのです」

 人気のない露台でつい本音が出た。

「少なくとも俺は嫌いじゃない」

 それは夜会のことなのか、それとも凛子のことなのか。
 後者だとすれば、ずいぶん思わせぶりなことを言う人だと少し呆れてしまう。
 相楽が先ほどよりくだけた話し方になっているのに気づいた。

「そういうことは迂闊に言わないほうがよろしくてよ。特に世間知らずの小娘には」
「なんだかあなたがつまらなそうに見えたから」

 そう言って欄干に半身をもたれ、煙草に火をつける。

「あなたは自由に生きてらっしゃるのね。きっと」

 実際陰口を言われるとわかっていて、楽しいはずもない。
 よく知りもしない相手だが、少し話しただけで自分とは対極にある人間であることは間違いない。

「深窓のご令嬢と比べれば確かに自由かもしれない。どこへでも行ける。好きな仕事が選べる。どんな相手とも結婚できる──いや、相手が高貴な姫君となるとそう簡単にはいかないかもな」

 たちの悪い冗談は、男が女性に慣れているからこそ出てくるように思える。

「自由であるためには、きっと力も必要なんでしょうね」
「そうだ。金もいる。財は強しだ」

 きっぱりと言い切られ、不快な気持ちになる。
 やはり嫌な男だ。自分にはどちらもあるとでも言いたいのだろうか。

「あなたも異国に嫁げば、自由になれると?」

 先ほどの話題に戻った。

「誰も自分を知らないところに行ったら、どうなるのかなって少し想像しただけよ。そんなことは無理だってわかっています。言ってみただけ」

 時々今の自分とは違う人生を想像する。
 誰かから後ろ指をさされることのない人生を。
 行き場のない罪悪感から解放される日を。
 出会ったばかりの好感すら抱いていない男に、今まで誰にも漏らしたことのない本音を話しているのが我ながら不思議だった。

「籠から出たら生きていけない鳥だって、遠い空を夢見たっていいでしょう。殿方にこんなことを言っても、わからないでしょうけれど」

「籠から出て、自由になれる日も来るやもしれませんよ。空だっていつか飛べるかもしれない」

 相楽は不敵な笑みを浮かべている。
 紫煙が闇にたなびき、風に散って消えていく。
 それは一体どういうことなのか、真意を問うように凛子が相楽を見ると、彼はそのまま凛子を見つめていた。
 その意味を知ったのは、のちのことだった。
 ふいに舞踏室から流れる音楽が途切れ、束の間の静寂の中、しばし二人は見つめ合った。
< 6 / 79 >

この作品をシェア

pagetop