禁断×契約×偽装×策略
一刻も早く、少しでも遠く、ここから離れたい。必死で走り、地下鉄に飛び乗った。
二つ目の駅で目の前の席があいたので座ると、急に全身から力が抜けた。ほっとしたのだ。と同時に、自分がどこに向かっているのかわかっていないことにも気づいた。最寄り駅にやってきて、ちょうど来た電車に飛び乗ったからだ。
車内を見渡し、状況を確認する。日比谷線を銀座方向に進んでいることがわかった。
(どうしよう。どこに行こう)
脳裏に今まで住んでいた豊洲のマンションが浮かんだが、もう入ることはできないだろう。であれば行っても無駄だ。
はあ、とため息をつき、しばらくぼんやりと電車に揺られると、上野というアナウンスが耳に入った。次は上野のようだ。雪乃は鞄の紐をギュッと握りしめた。
上野には美術館や博物館のような芸術文化が多いし、豊かな自然があって心を落ち着かせるのにちょうどいいだろう。駅周辺にはホテルも多い。
電車が減速を始め、間もなく止まった。雪乃は立ち上がって電車を降り、改札口に向かって階段をのぼろうとした。
「え」
前の人が急に左右に分かれたと思ったら、逆走した人が下りてきていて激しく肩にぶつかった。グレーのパーカー、フードをかぶっている姿が視界にあったが、ぶつかった衝撃と落ちるという焦りでそれどころではない。真後ろで「危ない」という声が聞こえて後ろの人が支えてくれた。
「すみません。ありがとうございます」
その男性はへこっと頭を下げて行ってしまった。雪乃も急いで階段をのぼりきる。
それにしても危なかった。当たった反動で落ちていたら大けがをしたどころか、後ろの人も巻き添えくらっていたことだろう。流れを逆行して階段を下りるような人がいることに憤りを覚えるが、過ぎてしまったことだ。気を取り直して出口を目指す。
地上階に上がってしばらく進む。外に出て信号を渡ろうとしてハッとなった。
(あの人)
さっきぶつかったフードをかぶったグレーのパーカーの男が立っている。雪乃はさっきぶつかったのは偶然ではなかったのではないか、そんな気がしたが。
(まさか。だって私がここにいることは誰も知らないんだから狙いようがないし、そもそも誰に狙われてるの?)
脳裏に京香の顔が浮かぶが、雪乃は小さくかぶりを振った。
(貴哉さんはああ言ったけど奥様は親切だわ。心配してくれているし、意地悪をした使用人を叱ると言っていたし。それにクレジットカードを貸してくれたもの。貴哉さんが悪く言う理由がわからない)
考えながら歩き、上野公園の中に入ってからどこに行くか決めようと周囲を見渡した。
(あっ)
さっきのフードの男をまた見つけた。木の陰で電話をしている。フードのおかげで顔は見えないけれど、背格好やグレーのパーカーにジーンズ姿は同じで見間違えはしない。
(やっぱり私を狙って追いかけてる?)
雪乃は早足で先に進んだ。急いで美術館のチケット売り場に向かう。館内で見かけたら、推測はかなり正しいだろう。
(そうよ。そもそもあの人、階段を下りてきたのよ? 私とは方向が逆なら電車に乗る予定だったはず。ここにいるのはおかしいわよ)
気のせいであってほしいと思いつつも疑う気持ちは深くなっていく。チケット売り場の目前まで来た時、肩を掴まれた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
驚いて顔を上げると、サングラスをしたスーツ姿の男がこちらを見下ろしていた。
「や、放し――!」
反対側の肩を掴まれて引き寄せられた瞬間、脇腹にバチンと強烈な衝撃が起こった。あまりの痛みに声も出ず、立っていられずに膝から崩れ落ちそうになるのを男が阻む。いつの間にか背中に手を回されていて服をしっかりと掴まれていた。
「騒ぐな」
耳元で声がする。
(どうして……)
どうしてこうも正確に雪乃の居場所がわかるのか。だが、痛みで意識が集中できない。逃げないと、そう思うのに足が動かない。脇腹が痺れている。
「抵抗するな。でないともう一発ぶちかますぞ」
脇腹に硬いものを押しつけられている。衝撃と痛みの正体はこの硬い物体であり、雪乃はそれがスタンガンであることを理解した。
引きずられるようにして歩かされる。どこへ連れていかれるのか、考えるだけで恐ろしい。
(誰の、命令?)
脇腹が痛くて仕方がない。だが、このまま連行されて無事で済むとも思えない。なんとか抵抗しなければ、そう思って渾身の力で体をねじった。
「抵抗するなと言っただろうが」
硬いものがより強く押しつけられる。またやられる、と思ったが、二撃目は起きなかった。それよりも、大きな声が周囲に響き渡っていた。
「すみません! 僕の連れがご迷惑をかけて」
その声が貴哉であることは、振り向かずともわかった。そしてあまりの大きな声なので、周囲の注目を集めていることも。
「彼女は僕の連れです。調子が悪いのに出かけてしまって。介抱してくださったのですね。すみません、ありがとうございます」
「あ――」
貴哉は男が驚いている隙に素早く雪乃を引っ張って自分の後ろに追いやり、そして自ら男に体を寄せた。
「騒ぐな。ここで貴様を警察に突きだせば、隠しているブツから無罪放免になるまで時間がかかる。その間に埃を叩きだされるんじゃないか?」
貴哉の、声を殺しながらもどすの利いた言葉に男は歯を食いしばり、さっと身を翻して駆けて行った。その先にはあのパーカーの男もいて、同じように逃げていく。
「雪乃、大丈夫か!?」
「……貴哉さん」
「だから家から出るなと言ったんだ」
「でも、でも、どうして私がここにいるのがわかったの? おかしいわよっ」
貴哉は雪乃を上から下まで見ると、手首を掴んで歩きだした。
「貴哉さん?」
貴哉は近くのベンチに雪乃を座らせた。そして雪乃が持っている鞄を奪うように手に取る。
「鞄がどうしたの?」
外側を触り、それからひっくり返す。そこには金具の足がついている。貴哉はそのすべてに触り始めた。すると最後の四つ目がコロリと外れた。
「これだな」
「これって?」
「発信機」
「ええ!?」
「お前を追い詰めて追い出し、跡をつけてさらうつもりだったのだろう」
「でも、この鞄を使うかどうかなんてわからないじゃない」
「数日過ごせるだけの荷物を入れられる鞄なんていくつも置いてないだろう、普通は。一番大きな鞄に仕込めばいいし、複数あっても全部に仕込めばいいだけのことだ。部屋に誰か入れたんだろ?」
問われて雪乃は戸惑いながらもうなずいた。貴哉に湧いた不信感が払拭されたわけではないものの、さらわれてひどい目に遭うかもしれないという時に助けられた安堵から、三浦が京香のイヤリングを探したいとやってきたことを素直に伝えた。
「そうか。続きは場所を移して聞く。でも、ちょっと待っていてくれ」
そう言っていきなり駆け出していく。どこへ行くのかと思っていながら待っていると、手提げ袋を手にして戻ってきた。
「美術館にあるショップで買ってきた。中身を全部移せ」
「え……でも、発信機はもう取ったんじゃ」
「さっきのはトラップかもしれないだろ」
「トラップ」
「仕込んでいるのが一つとは限らないって意味だ。早くしろ」
急かされ、慌てて荷物を移す。終わると貴哉はボストンを傍にあるゴミ箱に捨ててしまった。
「あの、奥様からクレジットカードを貸してもらったのだけど、これはどうかな」
言いつつ、財布から預かったクレジットカードを差し出した。
「さすがにこれには発信機はつけられないな。俺が預かっておく。行こう」
雪乃は素直にうなずいたのだった。
***
二人は上野駅近くの高級ホテル、そのスイートルームにやってきた。
広くて豪華な部屋に驚くが、貴哉は目もくれずカウンターキッチンに行って二脚のグラスにミネラルウォーターを注いでいる。そして窓辺のソファに腰を下ろした。
「雪乃、座れ」
「はい」
置かれたグラスを手に取り、口にする。冷たい水が喉を潤してくれ、心底ほっとする。
「おいしい」
「なにがあったのか、話してくれ」
昼食に行こうとして扉を開けたら三浦がちょうど来ていて、京香のイヤリングが落ちていないか調べさせてほしいと頼まれたこと、昼食から戻ってきたら机の引き出しがあいていて、中に置かれていた袋から多くのゴキブリが出てきたこと、我慢の限界だと家を飛び出したら門扉のあたりで帰宅の京香と鉢合わせし、事情を話したらクレジットカードを貸してくれたことなどを説明する。
その間、貴哉は黙って聞いていた。
「三浦という女は派遣のリストにはない。おそらく今回のためだけに連れてきたんだろう。昼食時を狙って声をかけたのは、お前がいない状態で部屋の中に入りたかったからだ。いたら虫も鞄も置けないからな。派遣会社から派遣されているハウスキーパーが、単なる嫌がらせで自らそんなことを考えて実行するわけがない。母さんに金でも掴まされて引き受けたんだろう。さっきの男たちも同様だろうさ」
「奥様が? だってすごく親切にしてくれるのに?」
「信じるなよ」
「でも、好かれてはいないだろうけど、いくらなんでもそんなことするような感じには思えなかったわ」
貴哉が露骨に、はあ、とため息をついた。その仰々しいまでの様子に、居たたまれなくなって口を閉ざし、視線を落とす。
「でも、じゃないだろ。こんなにわかりやすいのに。信じてどうするんだ」
「…………」
雪乃は奥歯を噛みしめた。
京香とは数日前に会ったばかりだ。どんな人間かなど知らない。先入観があるとすれば、それは貴哉からの話だ。
対し、貴哉とのつきあいは長い。人柄もわかっているつもりだった。信頼し、慕っていた。その貴哉は血がつながっていると知っていながらあんな行為に及び、説明もすると言いながらなにも教えてくれない。もう不信感しかない。
こんな状態で京香を信じるなと言われても受け入れることは難しい。むしろ京香の微笑みのほうが安心できるというのに。
「奥様が私を嫌うことはわかる。誰だって愛人の子なんて顔も見たくないでしょう。うぅん、存在すら許せないはずよ。でも、奥様は私を励ましてくれたし、心配もしてくれた。それを信じるなって言われても困るばかりよ。だって、今の私は、貴哉さんのほうが胡散臭く見える」
雪乃の言葉に貴哉は目を見開いた。唇も少し開いていて、言葉にならないほど驚いているのが伝わってくる。雪乃は畳みかけた。
「半分血のつながった兄妹なのに、あの日、あんなことを! 知っていたのなら、どうして私を振り払わなかったの!? どうして抱いたの!? こんなこと――こんな関係、許されない。信じられないし、汚らわしい」
貴哉「――――」
雪乃「……怖ろしい。穢れているわ。奥様より、貴哉さんの仕打ちのほうがひどいって、私には思える……こんな……」
雪乃は両手で顔を覆った。込み上げてくる嗚咽を止めようとするが、苦しい。
「……お前は父さんに守られていた。子どもだったこともある。だけど、まだ知らないほうが安全だったからだ。この件はきちんと説明すると何度も言っている。もうちょっと待ってくれ」
「その間、私はずっと嫌がらせを受け続けるの? 部屋に戻ったらゴキブリがいっぱい入った袋が置かれていて、散っていったのよ? 気持ち悪くていられないわ」
「お前が俺の言葉を守らず、各務たち三人以外を部屋に入れるからじゃないか」
「私のせいなの!?」
咄嗟に出た怒りの言葉に貴哉はまた驚いたようで、一瞬たじろぎ、だが困ったような眉尻を下げてかぶりを振った。
「母さんのせいだ。決まってるだろ。説明足らずで困惑しているのはわかる。どうしてこんな目に遭わないといけないのかって思うのもわかる」
「だったら!」
言い返そうとしたら鋭く睨まれた。その目の迫力に息をのむ。
「時間をくれと何度も言っている。俺たちの関係だって、気に病むことはない」
「どういうこと? 私たち、血がつながっていないということ? まさか、私、お父さんの子じゃないの!? 装っているとか?」
「いや、お前は宇條実康の娘だ。お前がいなければ宇條家は困るんだ。でもそれは、母さんには逆に作用する。俺がお前を守る。絶対に守るから」
雪乃は激しくかぶりを振った。もう耐えられない、その思いが雪乃を突き動かす。
「あそこにいたくない。家の中だって部屋の中だって、ぜんぜん安全じゃない。もううんざりしているのよ。どうしてもって言うなら、今すぐ事情を話して! じゃないと、従わない!」
はあ、とわざとらしく大きな声とため息が耳に届き、雪乃は目を見開いた。貴哉がさも失望したと言わんばかりの冷たい表情でこちらを見ている。雪乃は心臓が縮むような恐怖にも似た不安に襲われた。
「もういい。なにも言うな。黙って俺に服従しろ」
服従と言われて雪乃は言葉を失い、しばし呆然と貴哉の整った顔を凝視した。それからようやく言葉が浮かんできた。
「……服、従?」
「それが不服なら、互いに利害を得る契約を結ぶ、でもいい。俺たちはお前がいないと困る。だから全力で守る。お前は危険な存在から身を守るために俺たちを利用する、どうだ?」
どうだと聞かれて簡単に答えられるわけがない。そもそも、雪乃には貴哉の言っていることが理解できない。話の筋がまったく見えない。ただただじっと貴哉を見つめるだけだった。
服従、利害を得る契約――その言葉が頭の中でグルグルとめぐるばかりだ。
二つ目の駅で目の前の席があいたので座ると、急に全身から力が抜けた。ほっとしたのだ。と同時に、自分がどこに向かっているのかわかっていないことにも気づいた。最寄り駅にやってきて、ちょうど来た電車に飛び乗ったからだ。
車内を見渡し、状況を確認する。日比谷線を銀座方向に進んでいることがわかった。
(どうしよう。どこに行こう)
脳裏に今まで住んでいた豊洲のマンションが浮かんだが、もう入ることはできないだろう。であれば行っても無駄だ。
はあ、とため息をつき、しばらくぼんやりと電車に揺られると、上野というアナウンスが耳に入った。次は上野のようだ。雪乃は鞄の紐をギュッと握りしめた。
上野には美術館や博物館のような芸術文化が多いし、豊かな自然があって心を落ち着かせるのにちょうどいいだろう。駅周辺にはホテルも多い。
電車が減速を始め、間もなく止まった。雪乃は立ち上がって電車を降り、改札口に向かって階段をのぼろうとした。
「え」
前の人が急に左右に分かれたと思ったら、逆走した人が下りてきていて激しく肩にぶつかった。グレーのパーカー、フードをかぶっている姿が視界にあったが、ぶつかった衝撃と落ちるという焦りでそれどころではない。真後ろで「危ない」という声が聞こえて後ろの人が支えてくれた。
「すみません。ありがとうございます」
その男性はへこっと頭を下げて行ってしまった。雪乃も急いで階段をのぼりきる。
それにしても危なかった。当たった反動で落ちていたら大けがをしたどころか、後ろの人も巻き添えくらっていたことだろう。流れを逆行して階段を下りるような人がいることに憤りを覚えるが、過ぎてしまったことだ。気を取り直して出口を目指す。
地上階に上がってしばらく進む。外に出て信号を渡ろうとしてハッとなった。
(あの人)
さっきぶつかったフードをかぶったグレーのパーカーの男が立っている。雪乃はさっきぶつかったのは偶然ではなかったのではないか、そんな気がしたが。
(まさか。だって私がここにいることは誰も知らないんだから狙いようがないし、そもそも誰に狙われてるの?)
脳裏に京香の顔が浮かぶが、雪乃は小さくかぶりを振った。
(貴哉さんはああ言ったけど奥様は親切だわ。心配してくれているし、意地悪をした使用人を叱ると言っていたし。それにクレジットカードを貸してくれたもの。貴哉さんが悪く言う理由がわからない)
考えながら歩き、上野公園の中に入ってからどこに行くか決めようと周囲を見渡した。
(あっ)
さっきのフードの男をまた見つけた。木の陰で電話をしている。フードのおかげで顔は見えないけれど、背格好やグレーのパーカーにジーンズ姿は同じで見間違えはしない。
(やっぱり私を狙って追いかけてる?)
雪乃は早足で先に進んだ。急いで美術館のチケット売り場に向かう。館内で見かけたら、推測はかなり正しいだろう。
(そうよ。そもそもあの人、階段を下りてきたのよ? 私とは方向が逆なら電車に乗る予定だったはず。ここにいるのはおかしいわよ)
気のせいであってほしいと思いつつも疑う気持ちは深くなっていく。チケット売り場の目前まで来た時、肩を掴まれた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
驚いて顔を上げると、サングラスをしたスーツ姿の男がこちらを見下ろしていた。
「や、放し――!」
反対側の肩を掴まれて引き寄せられた瞬間、脇腹にバチンと強烈な衝撃が起こった。あまりの痛みに声も出ず、立っていられずに膝から崩れ落ちそうになるのを男が阻む。いつの間にか背中に手を回されていて服をしっかりと掴まれていた。
「騒ぐな」
耳元で声がする。
(どうして……)
どうしてこうも正確に雪乃の居場所がわかるのか。だが、痛みで意識が集中できない。逃げないと、そう思うのに足が動かない。脇腹が痺れている。
「抵抗するな。でないともう一発ぶちかますぞ」
脇腹に硬いものを押しつけられている。衝撃と痛みの正体はこの硬い物体であり、雪乃はそれがスタンガンであることを理解した。
引きずられるようにして歩かされる。どこへ連れていかれるのか、考えるだけで恐ろしい。
(誰の、命令?)
脇腹が痛くて仕方がない。だが、このまま連行されて無事で済むとも思えない。なんとか抵抗しなければ、そう思って渾身の力で体をねじった。
「抵抗するなと言っただろうが」
硬いものがより強く押しつけられる。またやられる、と思ったが、二撃目は起きなかった。それよりも、大きな声が周囲に響き渡っていた。
「すみません! 僕の連れがご迷惑をかけて」
その声が貴哉であることは、振り向かずともわかった。そしてあまりの大きな声なので、周囲の注目を集めていることも。
「彼女は僕の連れです。調子が悪いのに出かけてしまって。介抱してくださったのですね。すみません、ありがとうございます」
「あ――」
貴哉は男が驚いている隙に素早く雪乃を引っ張って自分の後ろに追いやり、そして自ら男に体を寄せた。
「騒ぐな。ここで貴様を警察に突きだせば、隠しているブツから無罪放免になるまで時間がかかる。その間に埃を叩きだされるんじゃないか?」
貴哉の、声を殺しながらもどすの利いた言葉に男は歯を食いしばり、さっと身を翻して駆けて行った。その先にはあのパーカーの男もいて、同じように逃げていく。
「雪乃、大丈夫か!?」
「……貴哉さん」
「だから家から出るなと言ったんだ」
「でも、でも、どうして私がここにいるのがわかったの? おかしいわよっ」
貴哉は雪乃を上から下まで見ると、手首を掴んで歩きだした。
「貴哉さん?」
貴哉は近くのベンチに雪乃を座らせた。そして雪乃が持っている鞄を奪うように手に取る。
「鞄がどうしたの?」
外側を触り、それからひっくり返す。そこには金具の足がついている。貴哉はそのすべてに触り始めた。すると最後の四つ目がコロリと外れた。
「これだな」
「これって?」
「発信機」
「ええ!?」
「お前を追い詰めて追い出し、跡をつけてさらうつもりだったのだろう」
「でも、この鞄を使うかどうかなんてわからないじゃない」
「数日過ごせるだけの荷物を入れられる鞄なんていくつも置いてないだろう、普通は。一番大きな鞄に仕込めばいいし、複数あっても全部に仕込めばいいだけのことだ。部屋に誰か入れたんだろ?」
問われて雪乃は戸惑いながらもうなずいた。貴哉に湧いた不信感が払拭されたわけではないものの、さらわれてひどい目に遭うかもしれないという時に助けられた安堵から、三浦が京香のイヤリングを探したいとやってきたことを素直に伝えた。
「そうか。続きは場所を移して聞く。でも、ちょっと待っていてくれ」
そう言っていきなり駆け出していく。どこへ行くのかと思っていながら待っていると、手提げ袋を手にして戻ってきた。
「美術館にあるショップで買ってきた。中身を全部移せ」
「え……でも、発信機はもう取ったんじゃ」
「さっきのはトラップかもしれないだろ」
「トラップ」
「仕込んでいるのが一つとは限らないって意味だ。早くしろ」
急かされ、慌てて荷物を移す。終わると貴哉はボストンを傍にあるゴミ箱に捨ててしまった。
「あの、奥様からクレジットカードを貸してもらったのだけど、これはどうかな」
言いつつ、財布から預かったクレジットカードを差し出した。
「さすがにこれには発信機はつけられないな。俺が預かっておく。行こう」
雪乃は素直にうなずいたのだった。
***
二人は上野駅近くの高級ホテル、そのスイートルームにやってきた。
広くて豪華な部屋に驚くが、貴哉は目もくれずカウンターキッチンに行って二脚のグラスにミネラルウォーターを注いでいる。そして窓辺のソファに腰を下ろした。
「雪乃、座れ」
「はい」
置かれたグラスを手に取り、口にする。冷たい水が喉を潤してくれ、心底ほっとする。
「おいしい」
「なにがあったのか、話してくれ」
昼食に行こうとして扉を開けたら三浦がちょうど来ていて、京香のイヤリングが落ちていないか調べさせてほしいと頼まれたこと、昼食から戻ってきたら机の引き出しがあいていて、中に置かれていた袋から多くのゴキブリが出てきたこと、我慢の限界だと家を飛び出したら門扉のあたりで帰宅の京香と鉢合わせし、事情を話したらクレジットカードを貸してくれたことなどを説明する。
その間、貴哉は黙って聞いていた。
「三浦という女は派遣のリストにはない。おそらく今回のためだけに連れてきたんだろう。昼食時を狙って声をかけたのは、お前がいない状態で部屋の中に入りたかったからだ。いたら虫も鞄も置けないからな。派遣会社から派遣されているハウスキーパーが、単なる嫌がらせで自らそんなことを考えて実行するわけがない。母さんに金でも掴まされて引き受けたんだろう。さっきの男たちも同様だろうさ」
「奥様が? だってすごく親切にしてくれるのに?」
「信じるなよ」
「でも、好かれてはいないだろうけど、いくらなんでもそんなことするような感じには思えなかったわ」
貴哉が露骨に、はあ、とため息をついた。その仰々しいまでの様子に、居たたまれなくなって口を閉ざし、視線を落とす。
「でも、じゃないだろ。こんなにわかりやすいのに。信じてどうするんだ」
「…………」
雪乃は奥歯を噛みしめた。
京香とは数日前に会ったばかりだ。どんな人間かなど知らない。先入観があるとすれば、それは貴哉からの話だ。
対し、貴哉とのつきあいは長い。人柄もわかっているつもりだった。信頼し、慕っていた。その貴哉は血がつながっていると知っていながらあんな行為に及び、説明もすると言いながらなにも教えてくれない。もう不信感しかない。
こんな状態で京香を信じるなと言われても受け入れることは難しい。むしろ京香の微笑みのほうが安心できるというのに。
「奥様が私を嫌うことはわかる。誰だって愛人の子なんて顔も見たくないでしょう。うぅん、存在すら許せないはずよ。でも、奥様は私を励ましてくれたし、心配もしてくれた。それを信じるなって言われても困るばかりよ。だって、今の私は、貴哉さんのほうが胡散臭く見える」
雪乃の言葉に貴哉は目を見開いた。唇も少し開いていて、言葉にならないほど驚いているのが伝わってくる。雪乃は畳みかけた。
「半分血のつながった兄妹なのに、あの日、あんなことを! 知っていたのなら、どうして私を振り払わなかったの!? どうして抱いたの!? こんなこと――こんな関係、許されない。信じられないし、汚らわしい」
貴哉「――――」
雪乃「……怖ろしい。穢れているわ。奥様より、貴哉さんの仕打ちのほうがひどいって、私には思える……こんな……」
雪乃は両手で顔を覆った。込み上げてくる嗚咽を止めようとするが、苦しい。
「……お前は父さんに守られていた。子どもだったこともある。だけど、まだ知らないほうが安全だったからだ。この件はきちんと説明すると何度も言っている。もうちょっと待ってくれ」
「その間、私はずっと嫌がらせを受け続けるの? 部屋に戻ったらゴキブリがいっぱい入った袋が置かれていて、散っていったのよ? 気持ち悪くていられないわ」
「お前が俺の言葉を守らず、各務たち三人以外を部屋に入れるからじゃないか」
「私のせいなの!?」
咄嗟に出た怒りの言葉に貴哉はまた驚いたようで、一瞬たじろぎ、だが困ったような眉尻を下げてかぶりを振った。
「母さんのせいだ。決まってるだろ。説明足らずで困惑しているのはわかる。どうしてこんな目に遭わないといけないのかって思うのもわかる」
「だったら!」
言い返そうとしたら鋭く睨まれた。その目の迫力に息をのむ。
「時間をくれと何度も言っている。俺たちの関係だって、気に病むことはない」
「どういうこと? 私たち、血がつながっていないということ? まさか、私、お父さんの子じゃないの!? 装っているとか?」
「いや、お前は宇條実康の娘だ。お前がいなければ宇條家は困るんだ。でもそれは、母さんには逆に作用する。俺がお前を守る。絶対に守るから」
雪乃は激しくかぶりを振った。もう耐えられない、その思いが雪乃を突き動かす。
「あそこにいたくない。家の中だって部屋の中だって、ぜんぜん安全じゃない。もううんざりしているのよ。どうしてもって言うなら、今すぐ事情を話して! じゃないと、従わない!」
はあ、とわざとらしく大きな声とため息が耳に届き、雪乃は目を見開いた。貴哉がさも失望したと言わんばかりの冷たい表情でこちらを見ている。雪乃は心臓が縮むような恐怖にも似た不安に襲われた。
「もういい。なにも言うな。黙って俺に服従しろ」
服従と言われて雪乃は言葉を失い、しばし呆然と貴哉の整った顔を凝視した。それからようやく言葉が浮かんできた。
「……服、従?」
「それが不服なら、互いに利害を得る契約を結ぶ、でもいい。俺たちはお前がいないと困る。だから全力で守る。お前は危険な存在から身を守るために俺たちを利用する、どうだ?」
どうだと聞かれて簡単に答えられるわけがない。そもそも、雪乃には貴哉の言っていることが理解できない。話の筋がまったく見えない。ただただじっと貴哉を見つめるだけだった。
服従、利害を得る契約――その言葉が頭の中でグルグルとめぐるばかりだ。