禁断×契約×偽装×策略
 葬儀から帰ってきて、まだ着替えてもいないというのに、こんなこと。だが、雪乃には拒否する感情が一ミリもない。むしろ、ようやく自分の気持ちが報われるのだ、早く奪ってほしいとさえ思っている。

(私、なんて不謹慎で、親不孝なのだろう。でも……でも!)

 迷いを振り払うように、雪乃は貴哉の首に両腕を回した。

「あなたが、好き」

 貴哉の目が見開かれ、揺れた。

 貴哉はネクタイの結び目に指を入れて力任せに引き抜いた。そして後方に投げ捨てる。ジャケットも脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを外して開いた。

 雪乃はまるでスローモーションを見ているかのような錯覚に陥りながら、貴哉がスーツを脱いでい
く様子を眺めていた。

「貴哉さん」
「俺も、雪乃が好きだ」

 貴哉の手がズボンに伸び、ベルトを外す様子に雪乃ははっと我に返った。そして自分もと思い、ジャケットを脱いでブラウスのボタンを外そうとした。が、それに気づいた貴哉が雪乃の手を掴んだ。

「貴哉さん?」
「俺がする」
「え?」
「脱がせたいんだ」
「…………」
「ずっとこうしたかった。やっとかなうんだから」

 かぁっと全身が熱くなる。

(うれしい――)

 視界が滲み、鼻の奥がツンと痛む。

 遺影や遺骨を置いたその前で、男と性行為に及ぼうとしていることに激しい背徳感に襲われながらも、貴哉と結ばれると思うとうれしくて泣けてくる。

 触れる指先や肌、そこから伝わる熱、どれもこれも狂おしいほどに愛おしい。
 言葉にできない多幸感が全身を包み込んで、雪乃を感激の濁流にのみこんでいく。

 最初は息をすることも大変なほどの激しい痛みが襲ったが、少しずつ変化をするそれは、やがて甘やかな官能に代わり、雪乃を沸き立つ快感の世界へと導いた。

 気持ちよくて、体の奥底が甘美な歓喜をあげている。もっと欲しいと騒いでいる。

 貴哉の雄が雪乃から正気を奪っていく。敏感な部分は彼の存在を享受し、快楽の極致を目指して大きく膨れ上がる。

 はあはあ、と互いに艶やかな息を吐きつつ、腰を動かして足掻く。

 貴哉に全身をくまなく愛されたことによって、雪乃の体と心は熱く滾った。奥底から湧き出てくる得体のしれぬ欲望に翻弄されながら、最初は痛みを、最後には全身を快感で包み込んで、大きく爆ぜた。

 その後は、ただただ満ち足りた幸福だけが雪乃を包んでいた。

     ***

「……ん」

 甘美に揺蕩う意識の中で、小さく声が出た。

「雪乃? 大丈夫か? キツかった?」

 目を開け、声の主の顔を凝視する。貴哉が心配そうにこちらを見つめている。心配そうにしている顔が愛しい。

「うぅん、平気。その……初めてだったから」

 そう答えると、貴哉はほっと吐息をつき、それからうっすらと笑った。

 貴哉は身を起こし、仏壇の横に置いてあるティッシュボックスを手に取ると、数枚を抜いて雪乃の腹部を拭き始めた。

 なにをしているのかと思った瞬間に悟る。雪乃の顔が赤く染まり、どうしていいのかわからず戸惑う。

「ごめん、こんな時に」
「……いいの」
「俺は……本気だから」
「本気?」
「いずれわかる。近いうちに必ず迎えにくる」

 その言葉に雪乃は目を見開いた。

「迎え?」
「ああ」
「貴哉さんが私を迎えに来てくれるの?」

 大きく力強い手が、ゆっくりと雪乃の頭を撫でる。

「約束する」
「ホントに?」
「ああ。信じて待っていてくれ」
「うれしいっ」

 雪乃が素直に喜ぶと、貴哉も微笑み、額にキスをした。チュッとリップ音がする。その音が雪乃に羞恥心を起こさせた。たった今、肉体的に結ばれたというのに。

 それから互いにごそごそと動き、服を着た。貴哉は喪服だが、雪乃は普段着を身につける。

「コーヒー淹れようか?」

 そう問うが、貴哉はかぶりを振った。

「仕事中に抜けてきたんだ」
「えっ」
「大丈夫。戻る時間までは、まだ余裕だから」
「忙しいのに、ごめんなさい。でも、ありがとう」
「気にしないでくれ。本当は綾子さんに言いたかったんだ」

 雪乃が首を傾げると、貴哉は雪乃に手を取り、甲にキスした。

「雪乃と結婚したいって言いたかった」
「結婚!?」
「ああ。でも、言えなかった。すまないと思ってる。俺は本気だ。信じてほしい。信じて待っていてほしい。頼むよ」
「貴哉さん……大丈夫。誰よりも貴哉さんが好きだから」
「ありがとう。じゃあ、行くよ。戸締まりはちゃんとするんだぞ」
「うん」
「訪問者にはくれぐれも気をつけて」
「大丈夫よ」
「心配なんだ」

 貴哉は雪乃を抱き寄せ、圧の強いキスをすると、名残惜しそうに帰っていった。

 玄関まで行って見送ると再び居間に戻ってきて仏壇の前に座る。広いリビングの半分は和室になっている。障子を閉めると独立した和室になるのだ。綾子の希望でそのような造りにしてもらったのだ。

 遺影を見ると自虐的な笑みが浮かんでくる。と同時に涙が溢れた。

「ごめんね……こんな時に。仏壇の前で、お母さんの前で、不謹慎すぎるよね。親不孝だよね。でも……」

 くっとしゃくりあげ、涙をぬぐう。

「寂しいよ、一人ぼっちだもん。貴哉さんがいてくれなきゃ、寂しくて頭がどうにかなっちゃいそうだよ。どうしてこんなに早く死んじゃったのよ、私を残して……」

 両手で顔を覆い、雪乃は声を殺して泣き続けたのだった。

     **+

 一週間ぶりの大学に雪乃は日常が戻ってきたことを感じた。なにかをしていたわけではないのに、気づけば一週間が経っていた、という感じだった。貴哉からは、相続の手続きなどをしなければならないけれどそれは四十九日か終わってからでいいし、その時は手伝うと言ってもらえたので任せきりになってしまった。部屋にこもってただただ綾子と映した画像を見て過ごしていたのだ。

 情けないが、雪乃には親しい友人もいなければ、大学四年生だというのに就職の内定も取れていなかった。友達にしても就職活動にしても、スタート時の大事な時に綾子が体調を崩して看病に手を取られた。その結果、友達を作り損ね、就職活動時期のピークを逃してしまった。もっとも、就活のことを実康に話すと、心配するなと言ってくれたのだが。

 雪乃は小さく吐息をついた。

 就職の心配がないことはありがたいの一言に尽きる。だがしかし、そこまでされるのはどうなのだろうという気もするのだ。自分が情けなさすぎやしないか、と。

 貴哉に大学を出たら実康の世話にはならないと言ったが、難しそうだと思ってしまう。

(ダメよ。社会人になってまで頼っては。一段落ついたら、ちゃんと就職活動しないと。大丈夫、選り好みさえしなければ、必ずどこかあるわよ)

 そんなことを考えながら歩いていたので、正面に人がいることに気づくのが遅れてしまった。あわやぶつかる、という寸前のところで雪乃は人の気配を感じて咄嗟に右に体をひねって、からくも避けた。

「あっ」

 だが、勢いもあってよろけてしまう。思っていた以上に体が揺れて、バランスが崩れた。

「大丈夫ですか?」

 肩をしっかり掴まれている。おかげで転ばずに済んだ。

「すみません、考え事をしていて」
「いえ、私こそ、もっと早くお声をかけるべきでした。遠山雪乃様でございますね?」

 名前を言われて雪乃の目が丸くなる。

「あの?」
「わたくし、弁護士の飯塚(いいづか)と申します」

 男は胸ポケットから小さな黒い革の四角いケースを取り出し、そこから紙を一枚抜いて雪乃に差し出した。

『弁護士 飯塚由紀夫』とある。

「弁護士……」

 雪乃は名刺を確認してから顔を上げて飯塚と名乗った男を改めて見つめた。

 銀縁メガネをかけた神経質そうな男だ。年は四十代半ばくらいだろうか。細身で背が高く、理知的な顔立ちをしている。細いストライプの入った黒いスーツ姿は、顔立ちと相まって冷たい印象を与える。

「遠山雪乃様で間違いありませんね?」
「あ、えと、はい」
「雪乃様のお父様である宇條(うじょう)実康の代理人です。お迎えに上がりました」
「父? う、じょう?」
「詳しいお話はお屋敷で。まずはこちらへ」

 飯塚と名乗る弁護士は路肩に止めている黒い高級車を示してくる。そして後部座席の扉を開けた。

「あの」
「私は弁護士ですので雪乃様の身を守るのが仕事です。危険な目には遭わせませんのでご安心ください。それにお父様がお待ちかねです」
「…………」

 父はいない――そう言うべきなのだが、喉に引っかかって出てこない。いや、父が待っているとはっきり言われ、雪乃は自分の中に封印していた親への疑問を抑え込むことができなかった。

 気後れしながら後部座席に乗り込むと、飯塚は運転席に座って運転を始める。

 母と実康は『いとこ』だと言った。だからなんとなく、苗字は同じ『遠山』だと思っていた。父ではないかと疑うようになっても、苗字にまでは気が回らなかった。

(うじょうさねやす、って言った。苗字が違うのは予想外だったけど、同じ『さねやす』なのだから、やっぱりあの人がお父さんだったんだ)

 なんの用だろうか――いや、想像できる。今までは『いとこ』と嘘をついて家に来ていた。母が他界した今、父と名乗るのだから引き取ろうとしてくれているのではないか――そんな気がする。

 うれしいような今更のような、複雑な心境だ。しかしながら、堂々と『父』と言って呼び寄せるのだから、覚悟しているのだと察する。

(お母さんが生きている間は許されなかったけど、亡くなった今は、認知した子を迎えると奥さんに伝えたのだと思う。成人はしていても、子どもは子ども、とか言って。でも、もし違っていても失望しない。私は充分援助してもらったし、来年、社会人になったら独り立ちするのが当然のことだから。もし、推測が正しくて、奥さんに反対されたら、私は独立したいと言おう)

 膝の上に置いた手をぎゅっと握り込む。そして帰ったら就職活動をしっかりやろうと改めて決意した。

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