また、君と笑顔で会える日まで。

お泊まり

望月穂波side


 紗希からのLINEが届いていることに気づいていながら、あたしは未読スルーすることに決めた。


 正直、読むのが怖かった。


『今回のことは故意では無いし大事にはならないから安心して。でも、それではない問題があるの。正直に答えて欲しい。望月さん、アルバイトしてる?』


 志歩とこはねが担任に言ったのだろうとすぐにさとった。


 あたしが素直に認めると、先生は困ったようにハァッとため息をついた。


『謹慎処分になると思う。連絡するまで自宅待機してね』


 アルバイトは校則で禁止になっているし、バレれば謹慎処分が下されるということも分かっていたしいつかこうなるということも分かっていた。


『学費は自分のアルバイト代で何とかする』


 と高校入学の際に母と約束したからだ。


 そもそも高校入学に反対だった母のことを押し切るように入学してしまったから、仕方がない。


 必死になって働けば何とかなると中学生のあたしは考えていた。


 でも理想と現実は違う。


 アルバイト代だけで全てを払うのは無理がある。


 それに、母は電気だガスだとあたしに支払いを押し付けた。


 1年の3学期の後半から学費を払うことができず滞納となっている。


 限界だった。働いても働いても母はあたしのお金を湯水のごとく使う。


 空は灰色で覆われていた。今にも雨が降り出して来そうな空模様にため息をつく。


 何もかもが上手くいかない。すべてがあたしの邪魔をする。


 向かった先は銀行のATMだった。15日までに水道代を振り込まなくてはいけない。


 通帳に残っている1万円を引き出し、支払いに当てるつもりだった。


 キャッシュカードと通帳を入れ、暗証番号を押して引き出し金額を押した時違和感を覚えた。


 画面には【残高不足のため引き出しすることが出来ません】の表示。


「なんで……?」


 下ろしたおぼえは無いし、不足しているなんて有り得ないのに。


 通帳を記帳してみてあたしは全てを悟った。


 残高はたったの253円だった。


 1万円は数日前、あたしではない誰かによって引き出されていた。


「なんでよ。あたしが頑張って稼いだお金……なんで勝手に下ろしてんのよ」


 取り出した通帳を握りしめバッグに無造作に放り込む。


 ATMを蹴っ飛ばしたいのを我慢して自動ドアへ歩み寄る。


 扉が開く。


 思わず笑ってしまった。予想通り雨が降り始めた。


 やっぱり何もかもがあたしの邪魔をする。


 いや、違うか。邪魔なのはあたしの存在なのかもしれない。


 あたしがいて困る人はいてもあたしがいなくて困る人は居ないんじゃないか。


 この広い世界の中であたしが消えても、気づいてくれる人はいないんじゃないだろうか。


 必要がなかった人間がこの世に生を受け生まれてしまったことが全ての間違いだったのかもしれない。


『あんたなんて産まなきゃよかった』


 母の冷たい声が蘇る。


「ふざけんなよ……」


 あたしだって生まれたくて生まれてきたんじゃないよ。


 お母さんが勝手に産んだんじゃない。


 それなのに、産まなきゃ良かったなんて言うな。あたしがいつそんなこと頼んだって言うのよ。


 そんな酷いこと娘の前で言う必要なんてないじゃない。


 なんなのよ。マジでなんなの。ふざけんなよ。マジで……──。


「ふざけんな!!」


 銀行の前で絶叫するあたしに冷たい視線が投げかけられる。


 もういやだ。もうすべて、何もかもがいやだ。


 あたしは駆け出した。雨に濡れながら当てもなく走る。


 学校が好きだった。バイトも好きだった。


 朝起きていく場所があることが。学校が終わってから行く場所があることが嬉しかった。


 でも、バイトが終わってから家に帰ることが苦痛だった。


 家にあたしの居場所はないし、帰ってきて喜ばれることもない。


 むしろなぜいるんだという目で見られる。


 今日はどこへ行こうか。


 あたしみたいに帰る家がない子は一体どこで寝泊まりしているんだろう。


 男の子の家?それは無理。母が男に媚びて生きているのを目の当たりにしたせいで、男という生き物を生理的に受け付けない。


 友達の家に行くこともはばかられる。

 
 それに、気軽に『泊めて』と頼める友達もいない。


 もしいたとしても頼めない。だって、そんなの常識に反している。


 こういうとき、あれこれ考えずに『泊めて』と言えたら上手く生きていけたのかもしれない。


 自分のことだけしか考えずに自己中になって、周りに大勢の敵を作っても飄々とした顔で悪びれもなく生きていける母のような人間になればそこそこ上手くやっていけるのかもしれない。


 でも、あたしはそんなの死んでも嫌だ。


 親の背中を見て育ったと思われたくない。


 蛙の子は蛙なんて言わせない。そのために必死に勉強もした。


 我慢もした。この環境から抜け出すためにはどんな苦しいことが起きたって泣きごとなんて言わなかった。


 言ってる暇があるんだったら、ちょっとでも自分が生きやすい道を作って起きたいと思ったから。


 あたしの人生はあたしだけのものだ。他の誰のものでもない。


 そう信じて生きてきたけど、結果はどうだ。あたしに一体何ができた?


 もう16歳だし、なんだって自分で出来ると思ってたけどあたしは無力で。


 家から追い出されてしまえばいくばしょなんてどこにもない。


 公園の土管の中で身を縮こまらせて野宿をしたことだってある。蒸し暑いし、あちこち蚊に刺されてほとんど眠れないまま学校へ行くことになった。


 がむしゃらに生きれば、必死に頑張れば報われるかもしれないと漠然と思っていた。


 いつかは抜け出せる。この暮らしから。


 多くは望まない。心穏やかに暮らせればそれで良かった。


 それで良かったんだ……。


「あぁぁ──────!!」


 大粒の雨の中傘も差さずに大声で叫びながら走るあたしはさぞ異質だろう。


 周りの通行人はギョッとした顔であたしをみる。


 それでもあたしは叫んだ。叫び続けた。


 心はちぎれてしまいそうだった。


 バイトだってやめなければいけないし、学費だってもう払う宛は無い。


 このままでいけばきっと退学だろう。学費を払えず退学なんて前代未聞の生徒だ。


 駆け込んだ先は公園だった。


 紗希と一緒にきた駅近くの公園。夜空を見上げながら「幸せ」と口にしたのが遠い過去のよう。


 あたしの人生はジェットコースターみたいだ。同じ場所にとどまってくれない。


 アップダウンの繰り返しだ。


 ベンチに座ったまま顔を持ち上げる。スコールがシャワーみたいにあたしの顔面に打ち付ける。


 このまま全て雨が洗い流してくれればいいのに。もう消えまい。このまま消えてなくなりたい。


「もう疲れたよ……」


 昨日から食事を摂っていないせいでお腹がぐうっと鳴る。


 こんな時でも体は正直だ。でも、大丈夫。空腹にはなれている。このまま我慢し続ければお腹は鳴らなくなるし空腹も感じられなくなる。


 きっとこの苦しみもあと少しだけの辛抱だ。


 今までだって辛いことや悲しいことは沢山あったし、乗り越えられないと思いながらも何とか乗り越えてきた。


 大丈夫だよ、穂波。今回もきっと大丈夫。


 必死になって自分自身を励ます。


 でも、それとは相反する感情が湧き上がってくる。


もういいんじゃない?と誰かがそっと耳元で囁いた気がする。


 もう頑張るのはやめたら?当これ以上辛い思いはたくないでしょ……?


 ギュッと制服のスカートを握りしめた時、ポケットの中の大切なものに指が触れた。


 濡れてしまったら困る。あたしの大切なお守り。


 ポケットから取り出してバッグの奥底にしまい込む。


「──誰か。誰か助けて……──」


 涙が出そうになり、慌てて顔を持ち上げる。


 ダメだ。こんなことで泣かない。あたしは絶対に泣かないんだ。


「紗希……」


 自然と口からこぼれ落ちたのは紗希の名前だった。


 目をつぶり、グッと唇を噛み締めた時だった。


 ピタリと雨が止んだ。ボタボタっという雨を叩く音はきこえるのに。


 そっと目を開ける。


 傘だ。目の前の傘に驚き、顔を持ち上げた。


 そこにはハァハァと肩で息をする紗希が立っていた。


「え、なんでいんの?」


 驚きと戸惑いで上手く言葉が出ない。


「なんでって、穂波ちゃんがLINE無視するから」


「あぁ、ね」


「ね、じゃなくて。どうしてこんな雨の中傘もささずに公園のベンチに座ってるの?風邪ひいちゃうよ」


「あー、大丈夫。あたし、体は強い方だから」


 へへっと笑うあたしとは対照的に何故か紗希は泣きそうな顔をしている。


 紗希はそっと手を伸ばしてあたしの手のひらを掴んだ。


「あたしに触んないほうがいいよ。びちょびちょだから」


「そんなのどうだっていいよ」


「よくないよ。濡れんのはあたし一人だけで十分だって」


「やだよ」


「へ?」


「だったら、私も濡れるから」


 なぜか紗希は傘を畳んでしまった。


 紗希の体にも容赦なく雨粒が降り注ぐ。


「これでいいの」


「よくないって!!何してんのよ〜!!」


 こんなことをするなんて紗希らしくない。


 目が会った瞬間、紗希は言った。


「穂波ちゃん、17歳のお誕生日おめでとう」


 時が止まったかと思った。ザーッという雨音が消え失せる。


「へっ?」


 自分の口から情けない声がもれた。


 笑おうとしても顔が強ばって上手くいかない。


 胸の奥底から湧き上がってくる感情が目頭を熱くさせる。


「今日、お誕生日だったんだね。ごめんね、知らなくて」


 そういえば今日が誕生日だった。そんなことすらすっかり忘れていた。


 最後にこうやって誕生日のお祝いの言葉を掛けてもらったのはいつだろう。


 小学生の時、引っ越す前祖父母がかけてくれた言葉が最後だ。


 それからもう何年もあたしはだれからも祝われることの無い誕生日というものを考えることはなくなった。


 誕生日プレゼントとか、ローソクが歳の数だけたったケーキとか、ハッピーバースデーの歌とか、お祝いの言葉とか、そんなのもらったことがない。


 当たり前の幸せをあたしは貰えなかった。


『可哀想な子』なんかじゃない。


 自分自身をそう奮い立たせていたけどやっぱりあたしは可哀想な子だ。


 もうその事実から目をそらすことはできない。反らしていたってこの現実はかわらない。


 笑わないと幸せが逃げていくという言葉もまやかしだと気づいていた。


 笑っていたってあたしから幸せはどんどん逃げていってしまう。


 泣かれると面倒臭いから母はあんなことを言ったのだ。


 分かっていた。分かっていたのにあたしは悪魔のような呪文に今までずっと縛られていた。


「穂波ちゃん……?」


 目から大粒の涙が溢れた。


 ダムが決壊したみたいに次から次へと溢れて止まらない。


「うぅ……ぅ……」


 目を拭う。泣いたせいでカラコンがズレて目が痛む。


 自分で思うよりもずっと心はズタズタに切り裂かれて壊れる寸前だったのだとしる。


「穂波ちゃん……」


 あたしの隣に座ると、紗希がギュッとあたしの体を抱きしめた。


「鼻水つくよ?」


「いいよ」


「汚れるよ?」


「いいよ」


 あたしはそっと紗希の体に腕を回して抱き返す。


 紗希の体温が伝わってくる。


 こうやって誰かに抱きしめられるのってこんなにも暖かいんだね。


 こんなにもこんなにも……。


 涙がとめどなく溢れる。


 紗希はあたしの体を何も言わずにギュッと抱きしめ続けてくれた。


 しばらくすると土砂降りの雨は嘘のようにあがった。


「穂波ちゃん、行こう」


 紗希はあたしの手を引っ張った。


 紗希はあたしがなぜ泣いているのか、どうしてこんな所にいるのか聞こうとはしなかった。


 自然とベンチから立ち上がる形になってしまったあたしを紗希は真っ直ぐ見つめた。


 紗希がびしょぬれのあたしをどこに連れて行こうとしてるのか全く見当がつかない。


 ただ、嬉しかった。


 一緒にいてくれる人がいることがただ嬉しくて仕方がなかった。



< 21 / 26 >

この作品をシェア

pagetop