また、君と笑顔で会える日まで。

望月穂波side


「今月電気代厳しいんだけど。なんとかならない?」

 玄関を開けると母のヒールが無造作に脱ぎ捨てられていた。


 溜息をつきたいのを堪えてリビングに向かうと、ソファに横になっていた母が開口一番言った。


 数日ぶりに顔を合わせたと思ったらこれだ。


 ローテーブルの上にはチューハイやビールの空き缶が転がっている。


 あたしが登校した後に家に帰ってきて昼間からお酒を飲んでいたに違いない。

「聞いてる〜?」

 露律の回らない母がまだ何か言っている。


 あたしは感を胸に抱きかかえると流し台へ運び無言のまま中をゆすいだ。

「来週バイトの給料日だから、コンビニで払っておくよ」
「助かる〜。よろしくねー」

 ほっとしたように言うと母は再び目を瞑り気持ちよさそうに寝息を立て始めた。


 今朝までは整理されていたはずの部屋が半日でめちゃくちゃだ。


 食べかけのお弁当がダイニングテーブルの上に置かれ、床にはダイレクトメールや書類のようなものと混じって母の脱ぎ捨てられた洋服が散乱している。


 誰がどう見てもこの部屋はゴミ屋敷だ。


 頭痛がしてきた。こめかみを抑えてその場に座り込む。


 ぎゅっと目を瞑って蘇りそうになる記憶を必死に脳内に押しとどめようとする。


 でも、意に反して嫌な記憶が蘇ってくる。

「やめて、やめて、やめて、やめて……違う。違うよ。あたしは違う」

 ──ネグレクトなんかじゃない。

「あたしはお母さんに愛されてる。愛されてるんだから……」




 あれは雪が降るぐらい寒い日だった。小5の時のことだ。


 最低気温は氷点下でかじかむような寒さの中、電気の止まってしまった部屋の中で毛布をかぶっていた。


 朝から続いたひどい頭痛は夜になっても絶え間なくあたしを苦しめた。


 母はその日も帰りが遅く、市販薬でしのごうとしたものの頭痛はおさまらなかった。


 寒気がし、寝ていることもできずに熱は40度をこえてしまった。


 朦朧とした意識の中で無意識に母の姿を探していた。

「──お母さん!」

 苦しみ何度も母の名前を呼んでいた。その後の記憶は飛んでしまっていた。


 意識が戻った時、私はアパートの廊下に壁を背にして座り込んでいた。


 その時、なにやら話し声が聞こえた。


 顔を持ち上げると、母と隣の部屋に住むおじさんが言い合いをしていた。

『この子、廊下に倒れてたんだぞ!?あんた、この子の母親だろう!?こんな時間まで娘を1人で家に残して一体何をしていたんだ!?』
『あなたには関係のないこのよ。うちのことに口を突っ込まないでいただけます?』
『何を言ってる!!こんなことして……。アンタがしてることはネグレクトだ!!』
『なによ、ネグレクトって』
『育児放棄のことだ!!そんなことも知らないのか!!こんなになってもアンタみたいな母親のことを待ち続けるなんて……かわいそうに!!こんな夜遅くまでほっつき歩いて酒の匂いぷんぷんさせて帰ってくるなんて……!!それでも母親か!?』

 ネグレクト。


 何度か聞いたことがある言葉だった。


 そうか。ネグレクトって……育児放棄のことか。お母さんがあたしにしていることは育児放棄っていうの……?


 でも、ちゃんと家に帰ってきてくれる。だから、きっとあたしは……。


 育児放棄なんてされてない。大丈夫。ちゃんとあたしは愛されてる。

『お母さん、おかえり』

 熱でぼんやりとしながら必死に笑顔を作った。


 幸せがふわりと逃げないように。


 そして何より、隣の家のおじさんから怒られている母を助けるために。

『あっ、穂波!目が覚めたのね。ほら、部屋に入るよ!全くもう。部屋から出ないでって言ったじゃない』

 母の声にはほんのわずかな怒りがこもっていた気がする。


 でもきっとそれも気のせいだ。


 熱にうなされていたせい。


 玄関扉を開け、強く背中を押されて体がよろめく。


 そのとき『可哀想な子だ……』とおじさんが呟いたような気もした。


 だけど、きっとそれも幻聴だったに違いない。




「──お母さん、あたしバイト行ってくるから」

 今日のシフトは18時から22時だ。高校生は22時までしか仕事ができない。もう少し長く働くことができればいいのに。

「わかった。あっ、帰りにビール買ってきてよ」

 まだ飲み足りないのかと呆れながら首を横に振る。

「無理だよ。どこも未成年は売ってくれない」
「バイト先のコンビニで買ってくればいいじゃない」
「やめてよ。そんなことしたらクビになっちゃう」
「じゃあ、いい。もう少ししたらまっくん来るから一緒に買いに行ってくる」
「……え。来るの?」

 唇が小刻みに震えた。

「言わなかったっけ?もうすぐ来るよ」
「へぇ。あたし、もう行くから!」

 動揺しているのを母に気づかれないように慌てて玄関に向かい革靴に足を通す。


 アパートの廊下を走り抜け、階段を駆け下り自転車置き場へ辿り着いた時「よお」と右手を挙げて背の高い男がこちらへ歩み寄ってきた。


 母の言うまっくんとは松田総二郎のことだ。


 50代半ばをすぎたと言うのに定食にもつかず行き当たりばったりの生活を送っている。


 この男と母の付き合いはあたしが中2の頃からだからもうすぐ四年になる。母の内縁の男。


 そして、あたしの世界一大っ嫌いな男。


 最近、あまり顔を出さないから気を抜いていた。

「お母さんなら家にいますから」
「なんだよ、冷てえなぁ。久しぶりに会ったのに」
「あたし、これからバイトなんで」
「おい、待てよ」

 松田の横を通り過ぎようとした時、松田はあたしの右手首をぎゅっと掴んだ。

「痛っ、話してもらえます!?」
「なんだよ、その髪と化粧。中学の時は美少女だったのにもったいねぇなぁ」

 松田はあたしのことを上から下まで舐めるように見つめた後、吐き捨てるように言った。

「あなたにどうこう言われる筋合いはないんで」
「黒髪に戻せよ。その方がかわいいぞ?」
「では、さようなら」

 手を振り払うと、松田はぎろりとあたしを横目に睨みつけて右足を振り上げた。


 右足はあたしの腰に当たり、突然のことに受身を取れなかったあたしはその場に尻もちをついた。

「っ……」

 反射的に手で支えようとしたせいで左手を擦りむいた。細かな砂利が手のひらに食い込み、わずかに血が滲む。

「舐めた真似してんなよ、コラ」

 座り込むあたしに凄み、右足で砂をかけると松田は苛立った様子でアパートの階段を上がって行った。

「いたたっ……」

 パンパンっと手についた砂利を払い落とし立ち上がる。


 どうしてあんな男と母は4年間も付き合っているんだろう。


 シラフでも自分の意にそぐわないことがあるとああやって暴力を振るってくる。


 お酒が入ると、暴言、暴力は酷くなる。


 夜中に母と大喧嘩になり警察沙汰になったこともある。その度に母は「あんな男とはもう別れる!」と啖呵を切るくせに翌日には今までのことが嘘のように「まっくん〜」とあの男にすり寄ろうとする。

「あんな男とはもう別れて!」

 中2の時から何度も今のように暴力を振るわれ、あたしは母に必死に頼み込んだ。


 彼氏を作るなとは言わない。でも、あの暴力男だけは話が別だった。


 あの男は異質だ。何を考えているのかもわからないしいつか何かをしでかすような恐ろしさがあった。


でも、母はあたしの願いを受け入れてくれなかった。


 それどころか「まっくんを怒らせた穂波が悪いのよ。ちゃんとまっくんの言うこと聞きなさい」とたしなめられる。


 握られた手首にはくっきりと松田の親指のあざができている。


 手のひらがヒリヒリと痛む。蹴られた腰はきっと青あざになりしばらく跡が残るだろう。

「マジ痛いんだけど……」

 鼻の奥がツンッと痛んであたしは慌てて唇を噛んだ。


 泣くな、穂波。笑うんだ。こんなことぐらいで泣いて幸せを逃したりなんかしない。


 目の前の歩道を2、3歳ぐらいの女の子と母親が手を繋いで歩いている。


 歌を歌っているようだ。


 その姿が楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうで。


 あぁやって母と手を繋いで歩いた記憶のない人間なんてこの世にあたし以外存在するんだろうか。


 手を繋ごうとして振り払われたりすることは普通の親子ではないんだろうか。


 あたしは普通じゃないんだろうか。あたしの家族は普通じゃないんだろうか。


 そもそも、普通って一体なんだ?それすらわからないなんて終わってる。

「バイト行かなきゃ」

 小さく息を吐き出す。


 仕事をしなければ、あたしはもちろん母だって生きていけない。


 松田にだけは絶対に頼りたくない。


 幸せそうな親子から目を逸らすとあたしは自転車置き場に置いてあるいつ壊れてもおかしくないボロボロの自転車にまたがった。



< 8 / 26 >

この作品をシェア

pagetop