A Box of Chocolates

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はぁぁ、とため息が漏れる。



 南向きの明るいアトリエは自宅一階、居間を兼ねている。

 歩くと軽い音のする白っぽい木板の床で、高原のコテージみたい。築五十年は経っているはずだけれども、どこかしゃれている。

 窓辺の広いテーブルに材料を広げて、凜は一週間前からアルバート建築の二階建てドールハウスを手掛けている。



「お茶になさってくださいな。息抜きしないと」

アイランドスタイルのキッチンカウンターの向こうから、つい三か月前から週に一度、通いで来てくれている家政婦の廸子(ゆずこ)さんが紅茶セットをのせたトレイを手に、丸テーブルのほうに歩いてくる。

 彼女は五十代の半ばくらい、おっとりした見かけによらず仕事ぶりは完璧だ。ハーブティや紅茶の種類にも詳しくて、凜の体調に合わせてお茶をブレンドしたり、お茶菓子までも作ってくれる。

「凜さんの作品は、緻密で丁寧で、ほんとうに美しいですね」

 明るい茶色に染めたセミロングのふわりとした髪を後ろで一つにまとめ、いくぶんふっくら気味の丸顔に温和な笑顔を浮かべて廸子さんは言った。

「ありがとうございます」

 お世辞ではないシンプルな賛辞に凜は少し照れる。



 凜は作業テーブルを離れ、隣接する洗面台で手を洗う。

「さぁさ、どうぞ。今日はうちの嫁のおすすめのお店のチョコレートにしてみました」

 白いお皿の上にのせられた三粒のボンボン・チョコレートを見て凜はわぁ、と小さく声を上げた。

「きれい! 抹茶ですか?」

 黒っぽいのはビターチョコだろう。それよりも薄いいろはミルクチョコレート。そしてきみどりいろのものは。

「ピスタチオです。中身もピスタチオのチョコレートなんですよ」

 オレンジペコをティーカップに注いで凜の前に出し、廸子さんはチョコレートの説明をした。凜はまずビターチョコを手に取って半分かじってみた。

「んー!」

 ふわりと、カカオの香りと風味が口の中に広がり鼻に抜けた。

「おいしいです……」

 凜の幸せそうな表情に、隣に座った廸子さんはふふふと笑った。

「よかった。凜さんが気に入ってくださったって言ったら、嫁もきっと喜びます」

 凜はもう半分も口の中に入れてうんうんと頷く。甘い幸せが口の中で溶けてなくなると、凜は嬉しそうに言う。

「廸子さんが来てくれるようになってから、おやつの時間が楽しみになりました。ご飯もおいしいし、本当に最高です」

「それは良かったです。私も凜さんのようなかわいらしい方の所でお世話ができるなんて、ほんとうに光栄です」

「きぬさんに感謝ですね」

 ふふふ、と二人は微笑みあった。



 この二年、会社勤めを辞めて在宅でミニチュア作家の仕事に精を出す凜を、お隣に住むきぬさんは少し心配していた。

 小学二年生の時、凜は祖父母の家にやってきた。そのころからお隣さんのきぬさんとは、もう二十年の付き合いになる。

 祖父母が亡くなり独り暮らしになってからは、ときどきご飯の差し入れをくれたり、ときどきおしゃべりしたりと、なにかと気を使ってくれていた。しかし最近はきぬさんも八十を超え、だんだんと足腰も弱くなってきた。

 そこで彼女は家政婦協会から通いの家政婦さんを頼むようになった。そして派遣されてきたのが廸子さんだった。

 きぬさんは自分のところと、ついでにお隣の凜の昼間のお世話を廸子さんにお願いした。きぬさんは凜の世話の料金も払ってくれると言ったけれど、それは凜が丁重にお断りし、自分のぶんは自分で払うと言うことをきぬさんに了承してもらった。

 廸子さんは朝はきぬさんのところで掃除洗濯、朝食と昼食と夕食を作る。週に一度はお惣菜の作り置きとお茶の用意に凜のところに来てくれる。

 凜の仕事がない時は、きぬさんと三人で昼食をとることもある。

 あまり人づきあいが得意ではない凜だが、小さなころから親しくしているきぬさんも、あまりひとの領域に踏み込むことのない廸子さんのことも、とても好きだった。



「このお店は、どこにあるんですか?」

 凜は二つ目のミルクチョコレートのボンボンを手に取り、うっとりと眺めながら訊いた。

「うちの近所です。気に入ったならまた買ってきますね。今度は嫁おすすめのほかの種類も、いくつか」

「廸子さんは、お嫁さんと仲良しなんですね」

「どうでしょうね。いつも口げんかしていますよ。まぁ、小さなころから知っているから、娘みたいなものですけどね」

「幼馴染でご結婚されたんですね」

「ご結婚なんて、たいそうな感じではないですけどね。ふふ。いつの間にか嫁になって、いつのまにか家族になっていましたね」

「お嫁さんは、保育士さんでしたっけ」

「そうです。ありがたいことに孫もそのまま職場に連れて行って、一緒に帰ってきますから。私もこうして働きに出られるというわけです」

「でも息子さんは、建築会社の社長さんでしょう? 廸子さんが働かなくても……」

「私の仕事は自分のためですよ。老けないためにね。どうせ外に出るなら、遊び歩くよりもお金を稼いだほうがいいでしょう?」



 茶目っ気たっぷりに笑む廸子さんに、凜も微笑みを向ける。

「あ」

 ブー、ブーとスマホがバイブ音を立てる。凜は画面を見て首を傾げる。

「きぬさんです」

「あら、なんでしょう」

「なんでしょうね。はい—―」

 凜は電話から聞こえてくるはずの元気な老婆の聞きなれた声でない声に驚く。

「もしもし? 『りんさん』?」

 凜は聞きなれない男性の低い声に眉根を寄せる。

「はい……?」

「お孫さんですか? きぬさんていうおばあさん、ご存知ですよね?」

 凜ははっと息をのむ。

「あっ、はい! もちろん! あの、これ、きぬさんの電話……」

 向こう側の声は少し安堵したようだった。

「あ、よかった。実は、通りがかりの者なんですが、桜木町の公園の東の入り口のところで、きぬさんが座り込んでいるのを見かけて。救急車呼びますかって訊いたら、あなたに電話してくれっていうので」

「ええ? あ、はい、ありがとうございます! きぬさん、どうしたんですか?」

「ちょっと息切れがしたみたいですね。けがはないみたいです」

「あ、え、と、い、今、今すぐ行きます!」

 凜は勢いよく立ち上がって電話を切った。


「きぬさんが、どうかなさったんですか?」

 廸子さんも立ち上がる。

「桜木町の公園の入り口のところで、座り込んでしまっているらしいです!」

「あら! 大変! すぐ行きましょう!」

「はい!」

 二人はとりあえずあわただしく家を出た。



 玄関を出た二人は、きぬの家の前を通り過ぎ、ゆるやかな百メートルほどの坂道を小走りに急いだ。

 公園は坂を下りて住宅地を抜けた二百メートルほどのところにある。

「あ」

 二人が坂を下りきった十字路を右折したところで、前から背の高い若い男性に背負われた小柄な老婆が見えて凜はほっとした。

「あら!」

 凜から少し遅れて来た廸子さんも同じ光景を目にしたが、彼女は驚きの声を上げた。


(じん)じゃないの!」

「え?」

 凜は廸子さんの驚き顔を振り返る。

「あれ? 廸子さん?」

 老婆を背負った背の高い男性は、目を丸くする廸子さんに親し気に話しかけた。そうしている間にも、男性は二人の目の前まで大股で歩いてきた。

 凜は男性の背に背負われた老婆を覗き込む。

「きぬさん? 大丈夫?」

 老婆は思ったよりも元気そうだった。彼女は唇をすぼめてうん、と頷いた。

「大丈夫だって言ったんだけどね。このお兄さんが、近所なら運んでやるってさ」

「あ、あの、どうもありがとうございます! ご迷惑をおかけしました」

 凜は男性の脇で彼にぺこぺこと頭を下げた。

「あー、いえ。ちょうどこの近くて仕事してたところだったんで。ばあちゃん、家、坂の上なんだろう? このまま連れて行くよ。てか、廸子さんの知り合いか?」

 廸子さんも凜のすぐ後ろに回り込み、男性の背中の老婆を見てほっとする。そして男性の腕を軽くたたく。

「そうか、あんた、確か今の現場、この近くだったよね。ああ、偶然助かったわ。ありがとうね、仁」

 げんば? と凜は首を傾げる。

 そういえば。きぬさんを背負った男性は、カーキ色の作業服を着ている。首が痛くなるほど見上げると、頭には白いタオルをかぶっている。

 大工さんだ。それに……



 あら?


 凜は首を傾げる。

 どこかで会ったような?

「あ」

 男性が凜を見てやはり首を傾げる。

 そして目が合う。

 はっ。凜は口を開ける。



「あー!」



 二人は同時に声を上げてこくこくと首を縦に振った。


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